スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

京都の街あれこれ PARTⅣ

2021-04-30 06:11:36 | 旅 ~京都

夕方近くの木屋町通り。

四条通りを挟んで桜並木がほぼ満開を迎えた。

暗くなるとこの通りは「さくらライトアップ」になる。

では、それまで菊乃井・露庵で夕食タイムだ。

昼間の桜も良いが、ライトアップされた夜桜は人の心をハイにさせる。

高瀬川沿いにあるソメイヨシノ桜並木は神社仏閣とは違った生きた生々しい花に見えてしまう。

日にちが変わって翌朝の早朝散歩。

街で最初に気になったのがこの看板。

「この歩道は自転車の通行できません。13歳未満、70歳以上を除く」。

わかったようなわからないような。

とにかく埼玉県も自転車と高齢者の事故は多い。

「此付近慶長天主堂跡」があった。

住宅街の静かな所だが、安土桃山時代から江戸時代初期はキリスト教の布教(織田信長、徳川家康)と

弾圧(豊臣秀吉、徳川家光)の激しく動いた時代だった。

このエリアはたまたま早朝散歩と日中2回も同じ所に来てしまいました。

ここは堀川通りに面した西陣織会館。

京の伝統産業、西陣織の総合展示館。

西陣織の製造工程や製品、歴史的資料などの展示をはじめ、

きものショーや西陣織国産絹織工房などで和の世界が体感できる。

会館内に貼られていたポスターによると「西陣と呼ばれて550年」だそうだ。

晴明神社から戻り橋を渡ってしばらく行くと普通の住宅街+事務所街に「ホントかいな?」と

疑いたくなるような京都の歴史を凝縮した石碑を見つけた。

そこに書かれているのは「応仁の乱 洛中合戦勃発の地、聚楽城 加藤清正邸跡地伝承地、

近衛堀川屋敷跡、藤原道綱母子 源頼光 一条邸跡、筑前福岡黒田屋敷跡」

この石碑をよく見るとNPO法人理事長の個人が最近、建立している。

楽焼窯元・楽家に隣接して建てられた「楽美術館」。

1978年、楽家14代吉左衛門覚入によって開館。

収蔵作品は楽歴代作品を中心に茶道工芸美術品、関係古文書など、

楽家に伝わった作品を中心に構成されている。

ここにはまさに楽焼450年の伝統のエッセンスが保存されている。

さらに早朝散歩を進めていくとやはり住宅街にとても存在感のある建築物が現れた。

この建物は大正10年、京都中央電話局西陣分局として建設された。

設計者の逓信省技師、岩元禄は日本近代建築の黎明期、大正時代において、

建築の芸術性をひたすら追い求め、わずか3点の作品を残したのみで

天逝した天才的な建築家であります。

早朝散歩も京都ブライトンホテルに近づいた所にまた素敵な数寄屋造の和風町屋が現れた。

この個人の邸宅は登録有形文化財であり京都市の景観重要建造物、

歴史的風致形成建装物に指定されている。

玄関の所になにやら風流な書き物と装色石が置いてあった。

どうやら仁風庵というらしい。

京都ほど地蔵信仰の多い土地はない。

地蔵さんを本尊として祀るお寺や、風変わりなお地蔵さんの俗称で呼ばれる寺も実に多い。

霊験あらかたで、現世ご利益大というありがたいお地蔵さんが洛中には目白押しだ。

町内には唐破風屋根のお厨子や小さなお堂があって「卍」の字を掘った石の土台にのせられ、

町内の回り持ちで燈明や香花が供えられている。

又、京都の政治風土は革新系が強いという土地柄でもある。

1950年(昭和25年)から28年間、京都府知事を務めた有名な蜷川虎三も革新系知事であった。

現在の国会議員は自民党では衆議院議長を務めた伊吹文明、

日本共産党の議員団長の穀田恵二などがいる。

西陣会館の近く、堀川通りに面して金らん卸商の(株)伴戸商店という店がある。

この日はあいにく休業であったが驚いたことに現在NHKの大河ドラマの「青天を衝け」で

徳川家康役(北大路欣也)の衣装に当店の金襴が使われているとの事。

たまたま偶然とは恐ろしいものだ。

 


桜満開の妙顕寺

2021-04-29 06:33:33 | 旅 ~京都

妙顕寺の大門と小門の間で開花を始めた1本の紅しだれ桜。

白い壁と青い空に映えて素晴らしい。

当山は正しくは四海唱導妙顕寺といい、日蓮宗の大本山の一つである。

こちらが立派な大門。

日蓮聖人の孫弟子に当たる月像上人が元亭元年(1321年)に

京都における日蓮宗最初の道場として創建したのが当寺の起こりである。

こちらが大本堂。

建武元年(1334年)には後醍醐天皇から法華宗号と勅願寺の綸旨(詔の趣旨)を受け、

法華宗最初の勅願寺として洛中洛外の宗門の第一位に認められた。

しかし、度々の法難と災禍により寺地を転々とし天正11年(1583年)に秀吉の命により

西洞院二条の旧地から現在地に移された。

その後、天明の大火(1788年)で焼失したが天保5年(1834年)に再建され、今日に至っている。

この概略図が本寺の全体。

この妙顕寺の隣りには茶道の裏千家と表千家の本庵があり、

こちらが本来の目的で来たが、隣りに桜の名所として知る人ぞ知る妙顕寺があったので訪ねてみた。

これが大正解であったのはこの頃はわからなかった。

大本堂の左右には鐘楼、三菩薩堂鬼子母神堂、その両堂をまたぐ橋、

その奥には慶中稲荷御真骨堂などの建物がある。

そして境内の目立つ所にはなぜか不思議な力を感じる幟が青空の中をひらめいていた。

この境内の周りにはソメイヨシノ桜の花が咲きほこり、

あたたかな陽だまりの中、本当に気持ちの良い空気を凛よわせていた。

大本堂の裏手の横にある龍神廟の池。

龍と鯉が絵になっていると思いませんか。

大客殿の勅使門。

門の扉には菊の紋章が付いている。

この一帯の桜がまた美しい。

それでは大客殿、書院、宝物殿につながる玄関を入ってみましょう。

このエリアの展示物は全て撮影OKというえらく開放的でオープンなお寺の姿勢に感動です。

玄関を上がった所の提灯のなんと大きいこと。

この写真ではちょっとわからないのが残念です。

仏殿前の四海唱導の庭の前にある手水花(ちょうずばな)。

つくばいの中に色とりどりの生花を浮かべてある。

仏殿の廊下の太い柱に刀傷が。

妙顕寺は豊臣秀吉が住んでいたお寺らしい。

四海唱導の枯山水の庭の一番奥にまさに満開になって太陽の光をスポットライトに

気持ち良さそうに咲きほこっている紅しだれ桜。

たった一本だが、逆にその圧倒的存在感に

これを見ている人はしばし動きが止まって、ただただウットリするのみ。

まさに桃源郷とはこのことを言うのかと思わせる美しさだ。

こちらはよく整えられた枯山水の石庭。

この時期はどうしてもしだれ桜の借景になってどう頑張っても脇役になってしまう。

ご覧になってください。

参拝者の全員が桜の美しさに目を奪われて動こうとしません。

いつまでも静寂の時が流れていたのが印象的でした。

このお寺の頑張っているすごさをこれからアップします。

和室を芸術の場に変えた庭師ユニマット京亀の「涅槃」。

インスタレーション作家・間瀬拓斗、秋田公立美術大学准教授・唐沢大輔の作品、

「○窓借景プロジェクト」。

こちらの部屋は一枚1,000円の写経会場。

写経用紙は一定期間納経の後に、お火焚供養してくれるようです。

ここでは陶磁器作家・原菜央さんの「Flower of Life」の作品が展示されていた。

そして境内内で今咲いていますヨーと叫んでいるように思えた桜の木。

仏殿と書院の間にある孟宗竹の坪庭。

この坪庭の説明文には次のように書かれていました。

「小さいながらも風情があり、苔と竹の青々しさが清涼感を感じさせてくれるお庭です。

特に文献には記述がなく、記録も定かではありませんが、

妙顕寺の宝物殿にある尾形光琳の松竹梅になぞられて作られたのではないかと言われています。

毎年新しい竹が生えるので毎年場所や形が異なります。

以前ネスカフェのCMの背景にも使われたことがあります。」

孟宗竹の坪庭側から撮った光琳曲水の庭。

特にこの丸窓からの一枚は絵画のようだ。

 

この庭はこの場所から座って眺めながら庭を造ったそうです。

「This is a nice photo spot」と書かれていました。

この書院の間を見て妙顕寺はただのお寺ではないということがヒシヒシと伝わってきた。

まずはこの襖絵。

塩沢文雄画伯の作品で「諸法実相、対極の庭」。

少し大げさに聞こえるかもしれないが、これは衝撃的な絵だ。

頭をガツンと殴られたようなすごさを感じた。

又、床の間の掛軸も「南無妙法蓮華経」だけで書かれた前衛的なもの。

花瓶の松も大王松でセンスが良い。

ここの住職さんは何者ぞ?!

抱一曲水の庭の水琴窟。

水をかけると妙なる音が鳴る。

この女性はいつまでも雅な音を楽しんでいた。

そしてこれも偶然の大発見だ。

妙顕寺の隣りにある泉妙院には江戸時代半ばの芸術家兄弟、

琳派の大成者・尾形光琳と弟の陶工・絵師である尾形乾山の墓所がある。

 

 

 


京都御所 御苑の桜

2021-04-28 06:10:37 | 自然

宿泊している京都ブライトンホテルから歩いて約5分。

桜の名所として市民に愛されている京都御所御苑にはこの中立売御門から入った。

この門より一つ南に下った門が幕末・幕府軍と長州軍が武力衝突した

禁門の変の激戦地になった蛤御門がある。

御所内には御所の色々な地図、案内図があったが、

江戸時代(慶応年間)のこの地図が一番興味があったのでアップしました。

この図を見ると天皇が生活していた禁裏、大宮御所、仙洞御所を囲むように

宮家や公家の家があったのがわかる。

桂宮、有栖川宮、嘉陽宮、閑院宮の宮家、近衛殿、一篠殿、九篠殿、鷹司殿の公家などだ。

京都御苑は、京都御所、大宮・仙洞御所を囲む面積約65haの公園で

市民に広く開放された空間です。

東西約700m、南北約1,300mの広大な敷地には、

明治維新まで多くの宮家や公家の邸宅が立ち並んでいました。

京都御所には計6ヶ所の門が設置されている。

上のは宣秋門。

平安宮内裏外郭の西正門にあり、内郭の陰明門と相対する下のは清所門、

ここから御所への入口となっている。

門に立っているのは皇宮警察。

御苑中立売御門の北側に位置するまだ真新しい2019年1月にオープンした中立売休憩所。

御苑の木々に囲まれたまさに森の休憩所で東側のテラス席からは京都御苑が眺められ

京の歴史に思いを馳せながらゆったりした時間を過ごすことができる。

ここはレストラン・売店コーナー・情報発信コーナーが設けられ、無料休憩スペースとして利用できる。

日本ではなかなか見られない広い広い広場というか道路というか、

その中を皇宮警察のパトカーがゆっくり警備していた。

この道路(?)の真ん中に1本道路標識が忽然と立っていた。

こんな光景は他では見られない珍百景だ。

京都御所の敷地を囲む築地塀は5本の筋の入った格式の高いもの。

ここは違うが、鬼門にあたる敷地の北東角では敷地塀がそこだけ凹んでおり、

「猿ヶ辻」と称されている。

この敷地塀の内側が1331年から1869年(明治2年)までの間、

内裏(天皇が居住し儀式・公務を執り行った場所で現在の皇居とほぼ同義)。

京都御苑の最北部に残るかつての五摂家の一つ、

近衛家の屋敷のあった近衛邸跡庭園が桜の名所になっている。

この庭園でのびのびとヨガ体操をやっていた女性グループ。

さぞ桜の下での運動は気持ちが良いだろう。

御苑の桜は最も早く咲き始める桜で有名で約60本ほどある。

又、往時から糸桜の名所としても知られた近衛邸跡のしだれ桜があるが、

行ったこの日は大方、花の盛りは過ぎていたのはちょっと残念であった。

この松の大木の幹を見て下さい。

これだけを見るととても松の木には見えず他の動物、恐竜的な生物に見えてしまったのは自分だけか。

近衛邸からちょっと離れたこの一角のしだれ桜は丁度見頃を迎えていた。

この周りで盛んにシャッターを切っていたカメラマンが

いつまでもファインダーを向けている気持ちはよくわかる。

それ程、日本人には桜は怪しい魔力を持っているような気がする。

平安京内裏の外郭門の1つ、北門にある朔平門(さくへいもん)。

明治2年(1869年)明治天皇の東京遷幸(遷都)に伴って多くの公家達も東京に移住し、

御所周辺は急速に荒廃した。

明治10年(1877年)京都に還幸された天皇は、その荒れた様を深く哀しまれ、

御所保存・旧観維持の御沙汰を下された。

この御沙汰を受けて「大内保存事業」が進められ

皇室苑地として整備されたのが現在の京都御苑の始まりです。

大内保存事業から140年以上の年月が経ち、

約5万本の樹木によって京都御苑は市街地の中の緑ゆたかな空間になっている。

苑内の自然環境が優れていることから、オオタカの餌場、

アオバズクの養殖場となるなど、100種以上の野鳥が見られる。

京都御苑には外郭九門といわれる御門が9つある。

北側から時計回りで今出川御門、石薬師御門、清和院御門、寺町御門、

堺町御門、下立売御門、蛤御門、それから入苑した中立売御門、そしてこの乾御門。

この門から出て、次の桜名所の妙顕寺へ。


晴明神社

2021-04-27 06:26:51 | 旅 ~京都

堀川通りに面してある晴明神社。

鳥居が2重で御神紋が大変印象的かつインパクトがある。

現在神社の大きさはとてもコンパクトだが、平安中期の安倍晴明の邸は

東は堀川、西は黒門、北は元誓願寺、南は中立売の各通りに及ぶ広大なものであった。

その後、度々の戦火によって衰えたままであったものを、

地元を中心とする崇敬者によって徐々に復興され、現在の規模になった。

この石橋は一條戻橋、そして左の石像が武神石像。

一條戻橋の欄干親柱は大正11年から平成7年まで実際に使用されていたものだ。

御祭神・安倍晴明公ともゆかり深い橋ゆえ、境内に復元したとの事。

現在の戻橋は神社から南へ100mの所に架かっている。

詳細は後の方で紹介します。

これが本鳥居。

印象的な御神紋は一筆書きの星型をした桔梗印もしくは五芒星とも呼ばれ、

晴明公の創められた祈祷呪符の一つで魔除の印である

天地五行(木・火・土・金・水)を象とり西洋諸国でも用いられる。

晴明神社の御祭神は安倍晴明御霊神。

その安倍晴明公は孝元帝の御後胤で幼時より聡明で陰陽の道を極められ、

長じて陰陽寮天文博士として朱雀、村上、冷泉、円融、花山、一条の六代天皇に仕え、

幾多の御功績をたてられた朝延の祭政、生活の基礎を陰陽の理を以て定められ、

今日の我々の年中行事・占法等々に多く影響を与えられている。

晴明は一条帝の御代寛弘2年(1005年)9月26日御年85歳にて亡くなると

帝の御鎮霊の勅旨をもって晴明公邸趾に寛弘4年(1007年)に神社としてまつられ現在に至っている。

本殿の隣りに斎稲荷社、天満社、地主者の末社がある。

斎稲荷社(いつき いなりしゃ)は倉稲魂命他二社を祀る。

本殿御祭神・晴明公は稲荷神の分霊との伝えからもと斎院御所より遷座された。

産業振興・食品安全の御神徳があると言われている。

古事記・日本書紀・桃太郎伝説にあるように古来陰陽道では桃は魔除厄除の果物とされている。

厄年の方に限らず自身の厄をこの桃に撫でつけると厄除になるらしい。

実は当神社には早朝散歩で来た。

朝7時頃にはたぶん地元の方でしょう、

2~3人の中年女性が見ていると感動するほど熱心にお参りに来ていた。

人それぞれ色々な悩みがあるのだナー?と拝察してしまう程の敬虔な祈りに胸を打たれた。

御神木の楠。樹齢推定300年。

楠はかつて虫除けの樟脳の原料としていた樹皮に触れると独特の感覚がある。

両手で当てて大樹の力を感じ取る。

ここにも本殿、末社、銅像、厄桃、そして神木と全てにお参りしていた女性が写っている。

本殿の横の擁壁には御祭神・安倍晴明公の伝説の一部を神前に掲げて絵と文章で顕彰している。

陰陽道(おんみょうどう)は陰陽寮で教えられていた天文道、歴道といったものの一つで、

古代の中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行説を起源として

日本で独自の発展を遂げた呪術や占術の技術体系だ。

そして陰陽道に携わる者を陰陽師と呼んだ。

狭い境内の中にある絵馬舎。

ここでは御朱印帳をはじめ各御札、お守り、エコバッグまで販売されている。

それより注目すべくは絵馬だ。

壁に掛けられた絵馬には羽生結弦、荒俣宏、中村萬斎、夢枕獏、檀れい、

安田美沙子、中村雅俊、きたろう、大谷直子、等々

なんとなく陰陽道とつながりそうな有名人の名が沢山連なっていた。

平成以降、漫画化・映画化もされた夢枕獏の小説のヒットにより

主人公である安倍晴明のブームが起こり、全国から参拝者が訪れるようになった。

この晴明神社に隣接して千利休の屋敷が設けられていたとは知らなかった。

改めて京都は歴史の塊の地だと感じ入ってしまう。

又、この井戸は晴明井といって古より湧き出ていた洛中名水のひとつで

諸病平癒の信仰が篤い流水口が本来の恵方を向いており吉祥水が得られる。

尚、此処は茶道・三千家の祖、千利休終焉の地で太閣秀吉に振る舞ったり

最期に自服した茶もこの聖水で点てたものといわれている。

この日本瓦が乗った屋根の日本家屋調のバス停で、バス停名もズバリ「晴明神社」。

何気ない事だが、自分的には響いてきた。

「京都やるナー」といった感じ。

この橋が前述した戻橋。

延喜18年(918年)文章博士・三善清行が亡くなった時、

父の死を聞いた子の浄蔵が紀州熊野から京都に馳せ帰ってみると、

その葬列は丁度この橋の上を通っていた。

浄蔵は柩にすがって泣き悲しみ、神仏に熱意をこめて祈願したところ、

不思議にも父・清行は一時蘇生して父子物語を交わしたという伝説から戻橋と名付けたという。

京都市の主要な南北の通りのひとつの堀川通り。河川としての堀川は

ご覧のように水辺公園として整備され市民の憩いの場となっている。

現在は流量が少ないが、かつては京友禅の染色に利用された。


京都ブライトンホテル

2021-04-24 06:30:31 | ホテル・旅館

http://kyoto.brightonhotels.co.jp/index.html

最も京都らしさの真ん中、京都御所より歩いて約5分ほどの町小路に

くつろぎとゆとりを綾なす京都ブライトンホテルがある。

このホテルの運営会社は浦安ブライトンホテル、東京ベイ、

東京ディズニー・セレブレーションホテル、シティ大阪北浜なども経営している。

尚、このホテルの建物は設計は日建設計、施工は熊谷組で

昭和63年6月15日付で建築業協会賞を受賞している。

ホテル玄関の横に別棟でチャペルがある。

「大切な人に 大切な日に その日のためのブライトン」。

知恩院の夜桜を見物して夜8時半頃チェックイン。

当ホテルには一昔前のお正月にお世話になって、とても良い印象があった。

特に正月のおせち料理が素晴らしく、今回2日間お世話になることにした。

エントランスを入ると広々としたアトリウムの大空間の中で開放的なロビー。

その一番目立つ所にしだれ桜のオブジェが目に飛び込んできた。

京都ブライトンホテルのキャッチコピーがまた凄い。

「京都時間へお帰りなさいませ」

「京都人さえもが恋するホテル」

京都時間、京都人とはすごく奥の深い言葉だ。

客室廊下から見た広さ約700㎡(212坪)、高さ約23mのアトリウム大空間。

そして2基のシースルーエレベーター。

この2枚の写真を見れば当ホテルの全貌が伝わると思います。

フロントデスクエリアもちょっと抑えめのお洒落さがあっていい感じ。

当ホテルは「JTBが選ぶサービス優秀旅館ホテル2019」、

「じゃらんアワード2019 BEST1(近畿・北陸ブロック)」、

「トリップアドバイザー9年連続エクセレント認証」など

数々の賞に輝いたハートのあるホテルだ。

海外のホテルではたまに見かけるロビーの中にあるラウンジ・バー「クー・オ・ミディ」。

このエリアはお客様同士の視線が交わり合うことのない、

話し声を響かせることのない空間に柔らかな自然光がそそぐ、

高瀬川を模した水流の優しい音に和み、そして憩うという表現になる空間だ。

これが当ホテルのインフォメーション板。

玄関エントランスの上に大きな壁面に暖色系の壁画が。

あるお客がこの絵を見て「○○さんの絵だ」と言っていたが誰だかわからない。

アトリウムをぐるりと囲むゆったりした廊下。

片壁がオープンの為ほんのり明るい。

手すりの横には造花とはいえ全フロア―にぐるりとアイビ系の緑が優しい雰囲気を作っている。

当ホテルは客数総数が182室ある。

今回はエグゼクティブツイン42m(12.73坪)の部屋を予約。

ドアを開けるとそこは京の町屋をイメージした奥行きのあるゆったりとした部屋で

左側奥にはカウチベッド的なものも置いてあった。

バスルームもトイレと分離されてゆったり。

出入口のニッチコーナーには和紙でできた「まったり」のしつらえ。

ルームサービスには京都のホテルらしく抹茶セットという徹底さ。

確かに「さりげなくも京の風情をただよわせ、

思い思いの京都時間を愉しめるしつらえ」というフレーズに納得だ。

ここが朝食(洋食)会場のテラスレストラン「フェリエ」。

手前の水路が高瀬川を模したもの。

まだ早朝なので人気がない。

これがフェリエでの朝食メニュー(7:00~10:30)。

これだけを食べに来ると3,300円もする。

どうやらここのシェフは料理のオリンピックのアート部門で表彰されたようだ。

当ホテルの朝食はメディアランキングで西日本第1位だそうだ。

これがテラスレストラン「フェリエ」の店内風景。

あえて和洋の朝食をとらず2日間ここの同じ洋食を選択してしまった。

それは・・・

ここはコロナ禍でほとんどのホテル・旅館がやめたビュッフェスタイルを

徹底した感染防止策をとって続けていた。

まずこのこだわりのすごさに感服。

小さなコップ状の中に入っている冷製オードブル9種とフルーツ9種。

これが第一にすごかった。

特にオードブルの味はほとんどのものが、翌日も来させる旨さだった。

かなりシンプルなのに素材の良さとちょっとした味付けがそうさせたのか。

ビュッフェ式のパンとフレンチトースト。

このフレンチトーストがすごかった。

パンは焼きたてのもの2個はウエイトレスが席に持ってきてくれる。

的鯛のエダムチーズ焼き、香草ソーセージ粗挽き・ソーセージのアニス風味、

お野菜とペンネパスタのバジル風味、ベーコンとリヨネーズポテト。

これが選んだ朝食の全部。

旅先の温泉、ホテルの朝食でまた悪い癖が出てしまった。

昨年体調を崩し、カロリーコントロールをしなくてはならないのに

グルメの魔力に今回は完全に負けてしまった。

これが冷製オードブルとコーンスープと最近朝食に登場するようになったビーフカレーライス。

このカレーがすごく美味しくて2日目の和食を放棄させた元凶でした。

朝食のカレーライスってこんなに旨かったのかナー。

徹底したコロナ感染防止の一つがこのビニール手袋の着用とその都度の処分。

ビュッフェスタイルだからわかるが、その徹底たるや脱帽です。

こちらが朝食和食会場の京懐石「螢」と朝食メニュー。

ひと通りメニューに目を通したが、今回は訴えてくるものが弱かった。

コースは、あさげと朝粥を選べてきっと美味しいのはわかっているが、

ビーフカレーに負けてしまった。

ホテルの部屋の眼下に見えた満開のソメイヨシノ桜と純和風の大邸宅と隣の京町屋の長屋。

この大邸宅は事業で大成功したオーナーの自宅だとか。

名を聞けば「あー、あの人」とわかるような大物経済人だそうだ。

 

 

 

 

 


知恩院の夜桜

2021-04-23 06:19:35 | 自然

浄土宗総本山・知恩院では3月26日(金)~4月4日(日)春のライトアップ2021を開催していた。

時間は17:45~21:30、料金は大人600円。

ライトアップ期間中は国法御影堂にて毎夜「聞いてみよう お坊さんのはなし」も開催していたが、

さすがに足が棒のようになり、夜桜拝観を終えたら一目散でホテルへチェックインしてしまった。

昼間の知恩院の三門。

国宝のこの三門は元和7年(1621年)徳川二代将軍・秀忠が寄進して建立された日本三大門の一つだ。

知恩院は浄土宗の開祖、法然上人(1133~1212年)が

お念仏のみ教え、広め、入寂された遺跡に建つ由緒ある寺院。

正式名称は華頂山知恩教院大谷寺という浄土宗の総本山です。

江戸時代・浄土宗を信仰した徳川家康公が、

当寺を京都における菩提所と定めたことから寺領が拡大され、

現在の大伽蓋が築かれた。(2019-9-2付ブログ参照)

この三門の隣に友禅染の祖、宮崎友禅斎の誕生300年を記念して造園された「友禅苑」。

池泉式庭園と枯山水で構成された華やかな昭和の名庭です。

この枯山水の砂紋の上ではライトアップのプロジェクトマッピングが人工的な美を描き上げていた。

一方こちらは「美幸」というしだれ桜のライトアップ。

2本ある友禅苑のシンボルツリー的しだれ桜が満開を迎え、

怪しげなピンク色のライトに照らしだされ、

この世のものとは思えない妖艶な姿に見とれ言葉を失ってしまう。

補陀落池に立つ有名な高村光雲作の聖観音菩薩像がライトアップされ、

闇夜の中でぼんやりと浮き上がり不思議な空間になっている。

宮崎友禅斎の像。

宮崎友禅は江戸時代の元禄年間を中心に京都で活躍した扇絵師。

着物の友禅模様という名称の基になった扇絵や小袖の雛形を描いた。

来歴不明で出家であったことぐらいしか分かっていない。

友禅苑の一番高く奥まった所にある白寿庵では

ご覧のような一輪挿しのイベント展示が静かに行われていた。

友禅苑を出て知恩院の境内、三門周辺と女坂のライトアップされた夜桜がまた素晴らしい。

本当に京都には多くの桜の名所があり、

約1ヶ月間もの間、種々の花見が近くでできて京都の人が羨ましい限りだ。


浦和エリア旨い店シリーズ ~番外編338~

2021-04-22 06:27:08 | 食~番外編(京都)

露庵 菊乃井 木屋町店

京都市下京区木屋町四条下る斎藤町118

TEL 075-361-5580

定休日 水曜日

https://kikunoi.jp/kikunoiweb/Roan/index

当店は京都の料亭のリーダー「菊乃井」の姉妹店で、料理界の有名人

田村吉弘店主の弟さんがやっている。

そして、ミシュランガイド関西2020で2つ星を獲得している。

(2016-12-24付・赤坂菊乃井、2019-10-26付・菊乃井本店 参照)

四条木屋町を少し下がる高瀬川の風情が漂う京都の繁華街。

コンクリートで造られた建物の暖簾をくぐると、

そこには都会とは思えない静かな和の空間が広がっていた。

外に出されていた献立。

昼は7,000円と10,000円の懐石コース2種のみ。

夜は13,000円、16,000円、20,000円、25,000円の懐石コース4種。

内容はわからないがとてもシンプルなメニューコースだ。

当店は本店と違いカウンターの目の前で料理人の仕事を見ながら

気軽に料理を楽しめる割烹スタイルを採っている。

カウンター席10席、小上り2卓、お座敷(お茶室を含む)3室で35席のお店だ。

コンパクトな空間を活かし、出来るだけ近い距離で熱いものはできるだけ熱く、

冷たいものはできるだけ冷たく料理とサービスを提供したいというのが当店の考え方だという。

右手の方が田村総大将の弟さんで風格を感じる村田大将。

「兄は週1くらいで菊乃井の世界でしっかりやっているか、チェックがてら見に来ますヨ。」と

笑顔で話していたのが印象的だった。

その菊乃井のコンセプトは

「料亭の基本は飯屋。普通の人が普通に働いて人生の節目の日に少しだけ贅沢な気分を味わえる。」

お近づきの一杯 食前酒の桜酒

この鉄器の急須、漆塗りの盃。

特に金で描かれた柄が素敵だ。

 

 

卯月の13,000円のコースを事前予約。

他のカウンター席の2組の客は上のランクをオーダーしているのを見て

途中で何か気後れを感じてしまった。

諸口 鯛の寄せ白子 生このこ たらの芽

八寸 アボカド味噌漬 車海老 鮪松風 常節 一寸豆 蕨烏賊 蝶々長芋

鯛木の芽寿司 蛍烏賊香酒漬 花弁百合根 花弁独活

向付 明石鯛 金目鯛 ポン酢ゼリー 海苔 山葵

蓋物 桜蒸し 甘鯛 道明寺 桜葉 桜花 蕨 ぶぶあられ 露生姜

焼物 桜鱒燻し焼き 山椒酢

強肴 若竹鍋 筍 若布 菜種 木の芽

御飯物 筍御飯 木の芽

後吸物 うすいえんどう豆すり流し 桜麩

香の物 盛り合せ

水物 杏仁豆腐・レモンカードか、冷たいおしるこ・牛乳アイスクリーム・白木耳・白玉団子

後者を選択した。

当店は持ち帰りもやっている。

露庵弁当 3,990円(三日前までの注文)

鯖寿司、穴子寿司 8切2,160円。

ピンボケして申し訳ありません。

美味しいのもを食べてほろ酔い気分で外に出ると木屋町通りは妖艶で華やかな夜桜の夢の世界。

今日も常連客が多かったのだろう。

一段落ついて村田の大将もいつまでもお客のお見送りだ。

やはり京都は素晴らしい。

 

 

 


京都の街あれこれ PARTⅢ

2021-04-21 06:12:45 | 旅 ~京都

梅の時期の京都の街あれこれ(PARTⅠ・PARTⅡ)に引き続き

今回の桜の時期の京都の街あれこれを綴っていきたいと思います。

駅ピアノ①

駅ピアノ②

前回、京都駅の駅ピアノには2回来たが1人も出会うことができなかったが、

今回は運良く中年の男性と女子高校生(?)の2人もピアノ演奏を聞くことができ

旅のスタートとしてすごくラッキーな気分になった。

特に女子高生が弾いた久石譲の曲は上手で心地よい気分にさせてくれた。

(2021-3-17付ブログ参照)

タクシーに乗ろうと京都駅南口に出たら、タクシー乗り場がいくつかに分かれ、

外国人の方・多荷物・車いす等の方などの優先タクシー乗り場があった。

さすが国際観光都市の京都、おもてなしの発想は素晴らしいが、

今はインバウンド客は開店休業状態だろう。

街の景観をとても重視している京都。

祇園白川に架かる橋の所で竹で組まれたコーンを見かけた。

コーンとコーンを結ぶ棒までも竹で包むという徹底ぶり。

改めてこの街はすごい。

巽橋を渡った狭い路地の黒塀にすごいお知らせを見つけた。

「祇園新橋・白川界隈の町式目(決まり事)」だ。

この界隈のよき事をより継承発展させる為の12の決まり事が書かれてある。

これを掲載しているのは祇園新橋景観づくり協議会という所だ。

(https://gion-shinbashi.jp/)

さらに切通しを進んでいくと祇園の花街の香りが漂う「八坂女紅場学園」を通る。

八坂女紅場学園(やさかにょこうばがくえん)とは1872年に設立された

舞妓・芸妓のための教育施設で、通称「にょこば」と呼ばれ、

生徒は祇園の舞・芸妓全員で年齢は15歳から80歳過ぎまでと幅広い。

この授業日割表を見ると舞踊科から絵画・書道科まで14科目もあり、

先生も12名の名が連なっている。

その中でも舞踊科の5世家元五代目・井上八千代はこの世界では超有名人だ。

因みに井上八千代は京舞井上流の家元の名跡だ。

そして部屋の壁3面には所狭しとばかり、

舞妓さん・芸妓さんの様々な時の写真が華やかに飾られていた。

これは祇園町のいまの思いを伝える「春の雅」のポスター。

4月12日から一週間、ギオンコーナーで芸妓舞妓の舞、

八坂倶楽部でお庭公開の中で小唄上演が行われた。

3月に京都四条の南座で行われた花形歌舞伎のポスター。

AプロとBプロの昼夜2部制だ。

以前にもスミダマンで度々アップしましたが、

京都の街は着物、浴衣で歩いている人、特に若い女性が多い。

コロナ前はそのほとんどが中国人などアジア系の観光客と聞いていたが、

コロナ禍の中でも日本人の女性・カップルを今回も沢山見かけた。

そのような人達を対象にビジネスをしているのが、このレンタル着物店だ。

ここのは草履、バッグ、着物の浴衣で2,000円(税別)からある。

価格帯は2,000円から25,000円まで。

それを英語・韓国語・中国語で書いてある。

ここは舞妓さんに長年愛されている「切通し進々堂」という喫茶店。

色鮮やかなゼリーやランチにぴったりのサンドイッチなど見逃せないメニューが揃っている。

写真に写っている舞・芸妓さんが持っている紅白の玉は福玉といって

当店で年末販売される恒例の縁起物で一年の褒美として年始までつるしておき、

年が明けてから割って中身を取り出すそうだ。

四条通りの交差点でたまたま見た仕事前の舞妓さん。

着物の着付けか髪結いの帰りかも?

こちらは着物でも地味な柄の着物を着た女性のペア。

足元をよく見るとブーツを履いているではないか。

こんな女性を今回の旅でも多勢見た。

これが流行のファッションなのかもしれない?

祇園白川から円山公園のしだれ桜を見に行くのにどうしても八坂神社を通ってしまう。

上の門がよく出てくるので正門と思うが、これは西楼門。

下の門が正門の南楼門。

その前に咲く1本の桜が日に映えてとても美しかった。

2月に続いてまた京寿司「いづ重」さんに来てしまった。

今回は約45分のウエイティング。

意地でも違うものを食べたいと気長に並んで蒸しずし1,800円、

相方は上箱寿し1,700円をしみじみといただいた。(2021-4-6付 番外編337参照)

白沙村荘前で見つけた舞妓さんの後ろ姿と錦鯉のデザインされた自動販売機。

よく見ると商品にいくつかコメントが書かれてある。

「100%リサイクルペットへ」「イチオシ商品」「WEBで当たる」

「脂肪と糖が気になる方」「日本初 記憶力、血圧…はたらく」

「ワンコインコーナー」「お試し価格」

こんな自販機初めて見た。

哲学の道をしばらく歩いていくと法然寺の近くで「サルに注意!」の注意看板。

しかも英語と中国語表示も。

京都にはまだまだ自然たっぷりの環境が残っている。

熊野若王子神社の手前、眼下に住宅街が広がっているエリアに

猫が沢山出没している所があった。

この場所をこの女性達は知っているようで餌をあげながらパチリパチリに夢中になっていた。

どうやらこの近くにある喫茶店を廃業した所に多くの猫が住み込んでいる為とか?

永観堂から南禅寺に向かう静かな街並の中に野村美術館がある。

当美術館は野村證券、旧大和銀行などの創業者である野村徳七(号得庵)(1878~1945年)の

コレクションをもとに1984年に開館した。

哲学の道散策も熊野若王子神社までと思っていたが、夕食の都合もあり、

思い切って桜の名所インクラインまで足を延ばすことにした。

ここ南禅寺には今まで何度来たことか。

京都で有名な桜並木の観光スポット(フォトジェニックポイント)「蹴上インクライン」。

こちらはソメイヨシノ桜が満開の真っ盛り。

頭の中ではインクラインの上を歩きたかったが、足が言うことを聞かず、

下から見上げるだけの花見となってしまった。

インクラインとは京都と大津間の船の輸送の用途の一つで全長582mの世界最長のインクライン。

落差の大きい場所は船が運行できないので

台車に船を載せて上下させるインクライン(傾斜鉄道)で運行していた。

明治24年から昭和23年まで実用に供され、1996年に国の史跡に指定された。

長い間、改修工事を行っていたTHE WESTIN MIYAKO 京都(2019-8-24付ブログ参照)が

工事を終え新しい1階ロビーフロントを訪問してみた。

シンプルモダンのなかなか良い感じのデザインに仕上がっていた。

THE WESTIN MIYAKOから撮ったポエムな一枚。

「月はおぼろに東山 霞(かす)む夜毎のかがり火に 夢もいざよう紅桜

しのぶ思いを振袖に 祇園恋しや だらりの帯よ」

祇園小唄の一節が流れてくるようだ。

 

 


熊野若王子神社

2021-04-20 06:14:45 | 旅 ~京都

哲学の道の終点、若王子橋のすぐ近くに佇んでいるのが熊野若王子(くまのにゃくおうじ)神社だ。

当社は熊野神社、新熊野神社と並んで京都三熊野神社のひとつだ。

永暦元年(1160年)後白河上皇が紀州熊野権現を勧請して創祀した

永観堂の守護神としてできた神社で

国常立神、伊佐那岐神、伊佐那美神、天照大神を祭神として祀っている。

応仁の乱により社殿は荒廃してしまいましたが、豊臣秀吉により再興。

明治期には本宮、新宮、那智若宮4社殿を修築したが昭和53年に一社相殿に改築された。

ご神木の梛(ナギ)は禊(みそぎ)の木で、あらゆる苦難をなぎ倒す信仰がある。

又、サッカー日本代表のユニフォームでおなじみの八咫烏(やたがらす)が

梛の葉をくわえているマークはこの神社のシンボルだ。

又、道中安全祈願、進学、縁結びの神様として若い人にも当社は人気があるそうだ。

神社の境内の外に建っていた東方斎・荒尾精の碑。

荒尾精は19世紀中より始まった西欧列強の中国侵略を阻止し東亜の保全を図るため、

日中の強力団結、特に通商貿易の振興による両国の繁栄を唱導し、

これに必要なる人材養成のため、盟友根津一と共に

上海に日清貿易研究所を設立経営した明治の先覚者である。

御花園天皇は日本の第102代天皇で、本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、

三従兄弟にあたる称光天皇が嗣子を残さず崩御したため皇位を継いだ。

8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代658年ぶりで、

現在でも最後であり、以後この皇統が今日の皇室に連なっている。

この神社の入口近くにまたまた立派な和風邸宅を発見。

3台駐車している車が皆同じナンバーですごいナーと思いパチリしてしまった。

こちらは何か由緒ある家にちがいない。

当社の背後の若王子山頂には同志社創立者の新島襄とその妻の八重のお墓があるという。

徒歩で約20分、山を登るそうだ。

妻の八重はNHK大河ドラマ「八重の桜」で綾瀬はるかが演じた新島八重だ。

新島襄の墓がこの地になったのは色々な紆余曲折があったようだ。

 


法然院

2021-04-19 06:22:51 | 旅 ~京都

哲学の道を南に下っていく途中に法然院入口の看板が出てきた。

この様な小さなお寺にはなかなか来る機会がないと思い、

息が切れるほど急な坂道を登って参拝した。(裏の入り口)

この写真は帰路に撮った山の中の長い参道の風景。

とても雰囲気がありますよネ。

この地はもともと法然上人が弟子の住蓮、安楽と六時礼讃を務めた旧跡。

寛永年間(1624~1644年)ほとんど廃絶していたのを

延宝8年(1680年)知恩院第38代世万無心阿上人と弟子の忍澂が中興したお寺だ。

当院は善気山万無教寺と号し、浄土宗系単立寺院で、別称を本山獅子谷法然院という。

この山門は茅葺で数寄屋造りで

自然の山林の中ですっかり溶け込んでとても良い空気が流れている。

山門を入ると参道の両脇に白い盛り砂の白砂壇(びゃくさだん)が目に付く。

これは水を表し砂壇の間を通ることは心身を清めて浄域に入ることを意味しているそうだ。

この経蔵は元文2年(1737年)の建立で、中央に釈迦如来像、

両脇に毘沙門天像と韋駄天像を安置している。

又、多数の経典の版木を所蔵している。

この講堂はもとは元禄7年(1694年)建立の大浴室であったが、昭和52年(1977年)に内部を改装し、

現在は講堂として講演会・個展・コンサートなどに利用されている。

延宝9年(1681年)5月に客殿造りの堂宇がまず完成し、

貞享5年(1688年)再建の時、仏殿と拝殿を別設した。

本堂内には、本尊阿弥陀如来坐像の他、

観音・勢至両菩薩像、法然上人立像、萬無和尚坐像を安置している。

本尊前の須弥檀(直壇)上には、二十五菩薩を象徴する二十五の生花を散華している。

ここからはバイオリンの音色が流れてきて本堂の雰囲気とのミスマッチがとても印象的であった。

尚、法然院は拝観無料で6:00から16:00まで自由に境内を参観できる。

そして当院に谷崎潤一郎のお墓があるとは全く知らず驚いた。