スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

記憶に残る2018 BEST5

2018-12-29 07:21:00 | コラム

みなさ~ん

今年も一年間「スミダマンのほのぼの奮戦記」ご愛読

ありがとうございました!

今年はブログ、超頑張っちゃいました。月平均24回アップ、

年間288件アップ目標をとうとうやってしまいました。

ちょっとくたびれたけどネ。皆様は今年はどんな一年でありましたでしょうか?

 

 

さて毎年恒例の2018年1年間の記憶に残ったBEST5を 

振り返ってみたいと思います。

 

第5位

「フレンチの巨匠 次々逝く」

フランス、リヨン近郊にあるレストラン「ポール・ボキューズ」の

オーナー、ポール・ボキューズが1月91歳で死去した。

1965年に得たミシュランの3つ星をなんと50年以上も

維持したフレンチの巨匠だ。

(1月)

一方「フレンチの神様」「フレンチの皇帝」と称され、

日本のフレンチ業界に多大な影響を与えたジェル・ロブションも

8月に73歳で亡くなった。ミシュランガイドで28個の星を

獲得して世界一星を持つシェフとしても知られていた。

(8月)

まさに2つの巨星落つといった感が強くして、一つの時代が終わった。

 

 

第4位

「埼玉県熊谷で41.1度国内最高記録」

 

(9月)

今年の夏は暑かったですネ。気象庁の記者会見で「命の危険が

あるような暑さ」「一つの災害と認識している」というコメントが発表され

これ以降、各種メディアで「災害級の暑さ」という語が新語・流行語大賞のトップテンに

選ばれた程だ。その最高気温が7月23日の熊谷市の41.1度。

過ぎてしまうと人間、記録が記憶になってしまうんですネ。

 

第3位

「大坂なおみと大谷翔平 アメリカで大活躍」

20代前半の若き大大コンビがアメリカで大活躍。本当にワクワク、

ドキドキさせてもらいました。有難う。

なんと20歳で全米オープンテニス決勝戦であのセリーナ・ウイリアムスを破って

日本人初のグランドスラムシングル優勝。アット驚く為五郎だ。(かなり古いかな(笑))

記者会見でのナオミスタイルのトークが又新鮮でユニーク。

記憶と記録に残る大会だった。

投打二刀流でメジャーに乗り込んだエンジェルスの大谷翔平選手。

ピッチングの方は途中ケガをしたが、MLBに大きなインパクトを残したんじゃないかな。

投打二刀流はあのベーブルース以来で、アリーグ新人王に輝いた。

来年は肘の故障を早く治して、今年以上の活躍を見たいものだよネ!

 

 

 

それ以外にも平昌オリンピックで羽生結弦、小平奈緒、高木美帆など

若きアスリートが日本人に大きな感動を与えたのも記憶に残ったことだネ。

 

 

第2位

「米朝首脳 史上初の会談」

(6月)

これもびっくり仰天の政治的出来事というより、事件だよネ。

This is トランプ流といった展開だった。まだ世の中、こんなことが起きるんだと

いった感想をもったヨ。それにしても金正恩は意外にしたたかで

決してバカではなかったことを世界中に印象付けたのでは・・・。

 

 

第1位

「草津白根山 突然の噴火」

個人的な意見で敢えて今年を表す自然災害の代表としてあげてみました。

 

 (1月)

昔、この道はハイキングでよく歩いただけにこの映像を見てショック。

まさか、ここで突然噴火がおきるとはこの世は何が起きても

おかしくない。しばらくして噴火がおさまったものの、

草津の保養所、アドリーム草津はどうなっちゃうのかと心配したものだ。

この動画もたまたま居合わせた人がスマホで撮ったのだろうが、

これからも昔で言う特ダネ映像が、ドンドンメディアに

紹介される時代に成ったのも印象的だ。

これ以外にも西日本集中豪雨水害、大阪・北海道の

地震など災害が多かったことが一番今年記憶に残ったことだネ。

 

 

どうですか、このランキング?これで今年のブログは終わりです 

来年も引き続き「スミダマンのほのぼの奮戦記」のご愛読、よろしくお願いします。

 

ではよいお年を!!

 

 


下関港

2018-12-28 06:25:34 | 旅 ~国内

関門橋は山口県下関市と北九州市門司区の間の関門海峡を

繋ぐ道路橋で昭和48年(1973年)11月14日に開通した。

開通時点では日本及び東洋最長の橋であった。全長は1068M、

路面幅26M、海面上141M(主塔)、最大支間幅712Mの吊り橋だ。

関門海峡は大型船舶も航行する重要船路であることから

桁下から海面まで61Mの高さを確保している。

昭和48年には土木学会田中賞(作品部門)を受賞している。

関門海峡には周辺約1.6Mの小さな島だが、有名な巌流島(船島)がある。

宮本武蔵と佐々木小次郎がこの島で決闘したのは

慶長17年(1612年)4月13日のことであった。

現在は海沿いの散歩道なども整備され、誰でも気軽に訪れることができる。

ここに行くには唐戸発と門司発で直行便線路があり、所要時間10分で行ける。

みもすそ川公園前に広がる海は関門海峡の一番狭まったところで

「早鞆の瀬戸」と言われ、潮の流れが速く、

潮流の変化が激しい海の難所。壇之浦古戦場を一望出来るこの場所は

「今ぞ知る 身もすそ川の 御ながれ 波の下にもみやこありとは」

(長門平家物語)という二位の辞世の歌から地名が生じたと

言われている。ここにあるのは義経・知盛の像だ。

この公園には幕末の攘夷戦で外国戦に砲撃した砲台跡もある。

武士の時代は明治4年(1871年)の廃藩置県までの約700年間続いたが

その終わりを招いた明治維新は、同じこの海峡で

勃発した馬関戦争を引き金に始まった。

ここでは100円で発射音と煙の演出が楽しめる。

下関市の対岸の門司の街。詳細は2014-1-20付ブログ、

門司、下関、雲仙の旅を是非参照してください。

カモンワーフと唐戸市場の間にある聖フランシスコ・ザビエルの

下関上陸記念碑。ザビエルは1550年、この地に上陸、

大内氏に布教が認められ、1586年に下関に教会堂が

建てられ布教活動の拠点となった。

下関はもちろん、北九州の食のプロも通う卸売市場「唐戸市場」。

小売も行なっており、一般の人も新鮮な食材を安く手に入れることができる。

残念ながら行った時間が午後2時を過ぎていたので

市場特有の賑わいは既に無かった。

こちらは唐戸市場の近くにある「カモンワーフ。」

レストランや関門の海産物、お土産品など多彩なショップが並ぶ

シーサイドモールだ。ボードウォークから関門海峡が一望できる。

下関の名物といったら「ふく」。ふくバーガーは是非一度賞味あれと薦められた。

領事館の建物としては、現存する最古の旧英国領事館。

明治39年に、建てられ平成26年7月にリニューアルオープンした。

この建物は国指定重要文化財になっている。

北九州空港は福岡県北九州市小倉南区と京都郡苅田町に

誇る人工島に位置する空港(海上空港)で平成18年に開港した。

運用時間は24時間でスターフライヤーが本空港を

ハブ空港(本拠地)と位置付けている。

2017年度の年間利用客数は前年度比17.2%増の164万4049人。

周辺には山口宇部空港、大分空港、福岡空港があり、

利用客の獲得競争が起きている。

空港内に大きく張り出されていた「ギラヴァンツ北九州」の横断幕。

当チームは福岡県北九州市をホームタウンとし

J3に所属している。創設は意外に古く昭和22年。

クラブカラーはイエロー。今年のテーマは「喝!克!勝!」だ。


日清講和記念館と春帆楼Ⅱ

2018-12-27 06:56:42 | 旅 ~国内

http://www.shimohaku.jp/

(2014-1-20付ブログ ~その番外編29~を参照してください)

日清講和記念館は、明治28年(1895年)春に当地で

行なわれた日清講和会議と、下関条約と呼ばれる講和条約の

歴史的意義を後世に伝えるため、昭和12年(1937年)6月

講和会議の舞台となった料亭春帆楼の隣接地に開館した。

講和会議が行なわれた旧春帆楼は昭和20年(1945年)の

空襲によって焼失したが、鉄筋コンクリート造記念館は戦災を免れた。

平成23年(2011年)1月26日には組物や懸魚など

細部に伝統的な意匠を用いた外観が造形の規模となっているものとして

評価され、国の登録有形文化財に登録された。

又平成27年(2015年)4月1日に、下関市立歴史博物館の分館となった。

高台の記念館。春帆楼からは関門海峡が見渡すことができる。

そして、海峡の向こうには九州、門司が目の前に見ることができる。

館内の中央には講和会議の部屋を再現し、当時の様子を紹介している。

床の間に向かって左側奥から伊藤博文全権弁理大臣

(内閣総理大臣)、陸奥宗光全権弁理大臣(外務大臣)、

伊東巳代治内閣書記官長、右側奥から清国李鴻章全権大使

李経芳全権大臣、馬建忠頭等参賛官が座っていた。

ここで使用された椅子はイギリスのバルーンバックチェアの

フレームに黒漆金蒔絵が施され、皇室や国賓のために

用意された最も格の高いものとの事。

浜離宮、鹿鳴館にも備えられていた。

当記念館はコンパクトな建物だが、講和会議で実際に用いられた

調度品、両国全権の伊藤博文や李鴻章の遺墨などが展示してあり

歴史が凝縮して収められている。尚、当館は入場無料。

ここで日清講和会議について詳しく記してみましょう。

明治27年(1894年)夏、朝鮮半島の権益をめぐって対立していた

日本と清国の間で日清戦争が勃発した。

戦況は日本軍の圧倒的優勢に進み、同年11月頃から

清国は講和を模索し始めた。明治28年(1895年)3月19日に

清国の講和使節団を乗せた汽船が関門海峡に停泊。

翌日から下関の料亭春帆楼で日清講和会議が開催された。

清国側は、まず休戦条約を結ぶことを提案。これに対して

日本側は、休戦によって交渉が長期化することを避けるため

過酷な条件を付きつけて提案を事実上拒否。

ところが24日に李鴻章が狙撃されたため事態が急変した。

清国への同情などを理由とした欧米強烈の干渉や、

対日批判などを恐れた日本側が譲歩して、30日に休戦条約が締結された。

講和条約は下関条約とも呼ばれ、清国は日本に朝鮮の

独立承認・領土(遼東半島・台湾・澎湖諸島等)の割譲・

賠償金2億両の支払い等を約束した。尚、遼東半島は直後の

ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉によって清国に返還されることになった。

入館したら、たまたま中国からのグループに出会った。その真剣な

表情に近寄りがたい空気があったので、聞いてみたら

中国本土からの大学の研究者の一行らしい。

確かに日中の歴史の中で日清講和、下関条約は重要な出来事。

偏見のない真実を学んで国内で伝えてほしいものだ。

日清講和会議の会場となった旧春帆楼。明治時代初期、

医師の藤野玄洋が開業した月波楼医院を、のちに妻のミチが

改装して料亭兼旅館としたもの。

記念館の隣には赤間神宮があり、ここから入れる。

赤間神宮は源平壇の浦合戦に敗れ、わずか8歳で

関門海峡に入水させた平清盛の孫である安徳天皇を祀っている。

明治28年3月24日、第3回の会議を終えた李鴻章は、宿舎である

引接寺への帰途、小山豊太郎という青年に狙撃された。

負傷した李鴻章には、明治天皇や下関に派遣された陸軍軍医総監

佐藤進による治療のかいもあり、まもなく李鴻章は快復し

4月10日に会議に復帰した。事件後、李鴻章は大通りを避けて

山沿いの小径を往復した。この写真の小径はのちに

「李鴻章道」と呼ばれるようになった。

日清講和記念館の隣りにある史蹟である割烹旅館ふく料理、

ブライダルの下関春帆楼本店(TEL 083-223-7181)。

明治21年にふく料理の公許第1号を取った由緒ある店だ。

今年はご当地の信用金庫の出迎えが無いナーと思っていたら

春帆楼で一挙に熱烈歓迎の歓待を受けた。

西中国信用金庫、萩山口信用金庫、東山口信用金庫に

プラス下関市役所の幹部の方の歓迎エールだ。

地元信用金庫を代表して西中国信用金庫の理事長の

歓迎ご挨拶までいただいた。又、下関市は巌流島のある地で有名で

マスコットキャラクターの「しものせき武蔵くん」と「がんりゅう小次郎くん」の

ウェルカムパフォーマンスまで受けた。

 

それでは昼食の春帆楼ふくコースを写真でご紹介いたします。

ランチとしてはなんと贅沢な食事だろう!

そしてさらに贅沢に昼からふくのひれ酒。熱燗にふくの

あぶり焼きひれが入ると強い香りと独特のコクが出る。

フタを取って火をつけるとボワァーと炎が燃える。

これが会場の風景だ。

屋外には「ふく」のおかげで春帆楼が100周年を迎えることが

できた感謝の心をこめて平成元年9月29日にふくの碑が建立されていた。


元乃隅神社と角島大橋

2018-12-26 06:37:58 | 旅 ~国内

世界が注目する絶景スポットにある元乃隅神社。アメリカのニュース

専門放送局CNNで「日本で最も美しい場所31選」に選ばれ

一躍脚光を浴びている。

長門市観光協会の紹介によると、1955年(昭和35年)に地元の

綱元であった岡村斉の枕元に白狐が現れ

「吾をこの地に鎮祭せよ」というお告げがあったことを元に

太鼓谷稲成神社(津和野町)から分霊されて建立されたという。

全国の稲荷神社を祀る神社が「稲荷神社」と記すのに対し

「稲成神社」の字を充てているのはこのためである。

1987年(昭和62年)から10年かけて奉納された123基の

朱色の鳥居が100M以上にわたって並ぶ景色は圧巻だ。

尚、2019年1月から社名を元乃隅稲成神社からただの

元乃隅神社に改名することが予定されている。

これも神のお告げだそうだ。神社本庁によれば神社の改名は基本的には無いという。

但し、ここの神社は個人の所有のため改名が可能とか。

裏参道出口付近にある大鳥居の中央上部(高さ4M)に

設置された「日本一入れずらい」とも言われる賽銭箱は、

見事賽銭を投げ入れることが出来れば願いが叶うと言われている。

何度トライしてもとうとう一回も入れることができなかった。

 

神社から日本海側に見下ろした先には断崖下の海蝕洞に荒波が

打ち付ける度に海水が中の空気と一緒に吹き上がる現象が見られる

「龍宮の潮吹」がある。この日は比較的海が静かだったので

一回だけしか潮吹が見られなかった。

一番下の鳥居が始まる所から先端にかけて、一種独特の

不毛な砂漠の様な場所があり、印象的であった。

海土ヶ瀬公園は角島の入口に位置し、角島大島を一望できる

絶好のビュウポイントだ。角島大橋は平成5年9月に着工し

平成12年11月に開通した無料で渡れる一般道路としては

日本屈指の長さ(1780M)だ。総工費は149億円。

北長門海岸国定公園内に位置することから、橋脚の高さを押え

周囲の景観に配慮した構造となっている。また架橋ルートの選定にあたっても

自然景観保護の観点から島を迂回する現在のルートが採用された。

このような取り組みが評価され平成15年(2003年)には

「土木学会デザイン賞」を受賞している。

完成後はその景観から山口県の新たな観光名所となっている。

又テレビCM、特に自動車の2015年旅行サイト

「トリップアドバイザー」の「口コミで選ぶ日本の橋ランキング」で1位に選出された。

CM(レクサス、GS450n、三菱ギャランフォスティス、スズキ・スイフトなど)の

ロケ地として多く採用されている。

角島大橋周辺の海は貝殻が砕け散った残骸が海底に堆積した

白い砂で、その上海水が澄み切っているため、太陽光の加減で

エメラルドグリーンから紺碧色まで微妙に色合いが変化していく。

道の駅、北浦街道豊北。ここは開駅して6周年、

トリップアドバイザーの旅好きの口コミで選ぶ道の駅ランキング2018で

なぜか全国1位になっている。ここのキャッチコピーは「海と夕日に出会う丘」

展望台からは遠くに角島大橋の全容が見える。

眼下には和久漁港があり、下関市豊北町をはじめ、北浦エリアで

水揚げされたばかりの豊富で新鮮な魚介、採れたての果物や野菜など

四季折々の海の幸、山の幸が楽しめる。


湯本温泉 大谷山荘

2018-12-24 06:50:43 | ホテル・旅館

https://otanisanso.co.jp/

山口県長門市の湯本温泉にある大谷山荘は明治14創業

137年の歴史を誇る老舗高級旅館だ。

1960年に大修理建替えらえ、収容人数550人和室数86室

ツイン20室、露店風呂付客室8室の大型旅館で3つ星ホテルだ。

当荘は音信川の川沿いに静かに佇む、風情豊かなモダン湯治宿で、

その川には橋の上から見ても分かる程の大きな鯉が

数十匹もゆったりと泳いでいるのが見えた。

ここは心休まる自然と出逢うことがでる場所だ。

玄関アプローチは入って広々としたロビーラウンジに比べると

グッと押えられた空間の廊下スタイルに成っている。

おそらくこの空間発想はそうとう議論した上での結論なのではと個人的に感じた。

エントランを抜けるとこの様な素晴らしいロビーラウンジが待っていた。

庭園と滝を臨む吹き抜けのロビーは上品で穏やかな

雰囲気がゆったりと流れている。まさにここは癒しと寛ぎの時間がある。

一昨年(平成28年)の12月15日にここで日露首脳会議が行なわれた。

この屏風の前で安倍首と昭恵夫人がプーチン大統領を

出迎えらえた。その後、階段の中でプーチン大領領は

「有名な温泉を訪れる機会を頂きありがとうございます。

温泉は疲れが取れるが、一番いいのは疲れないことだ。

楽しみにしている。」と言ったとか。

上階から吹き抜けを通じてロビーを撮った2枚。

ロビーの周囲を取り囲む池がとても生きている。

当荘には今上天皇をはじめ、小泉純一郎や安倍晋三はじめとする

歴代総理も宿泊したとか。

お土産処山茶花と、萩焼&みすずコーナー。ここの土産処は

売られている商品の質、レベルが高くさすがという印象を持った。

又、地元仙崎出身の女流詩人金子みすずコーナーも充実していた。

ここにはベーカリーショップまである。まるでシティホテルの様だ。

ちょっと考えてみれば、温泉旅行でも最近は朝食にパンが

出てくるからベーカリーショップがあってもおかしくないか。

湯本温泉は約600年前に発見され、江戸時代は長州藩主も

湯あみしたとか。この温泉は山口県で最古の歴史を持つ温泉だ。

それにしてもこの大浴場へ行く通路を見ても

館内は日本文化を感じられる内装でしつらえられている。

本当に高感度の素晴らしい旅館だった。

ある意味、我々にとってこの旅の一番イベント、夜の宴会の会場を

段取り確認もあって下見に行く。開場は想像していたより

ずっと広く格調高い雰囲気であって、段々ヤル気が高まってきた。

舞台の袖には宴会芸用のグッズが段ボールの中に山積みにされていた。

我々は27班なので前の班まで26回これが使われてきたのだろう。

これが宴会の料理と献立表。大体、温泉旅館には団体で行くことが多いので

宴会料理は団体料理が多く、いっぺんに出す為、作り置きされて

冷めた料理が出てくることが多い。しかしご覧の様に大谷山荘はちがう。

一つ一つの料理に心の思いが伝わってくるものが出されていた。

00002

3年前知床で支店長から、他支店(2号車)が宴会余興で

何かやりそうだから浦和支店(1号車)の方も何かやってくれないかと

我々の仲間グループに相談があって、ぶっつけ本番で

シャネルズの「ランナウェー」を仮装してやったところバカ受け。

つい乗りすぎて、昨年の琴平の「ランナウェー完成版」

そして今年の大谷山荘でも披露したのが、西田佐知子の

「コーヒールンバ」。この日着たアラブの衣装は約一年前に

業界の視察研修でドバイで買ってきた高価なもの

(航空運賃がかかっている為)人間おだてられれば木に登るというが

調子こいて今年もやってしまった。皆、会社に戻ればもっともらしく

社長業を務めている人ばかりのグループなのですが。ストレス爆発。

00005

今やいきがい大学の宴会で恒例に成ってしまった我々の芸。

順番も大トリとあってテープはあるだけ飛んでくるは

おひねりが出るわの盛り上がり。あちこちからアンコール!アンコール!

のリクエスト(事前に声掛けをお願いしていたのもありますが)に

答えて今年初めての色直ししてでの「ランナウェー」熱唱したのがこの動画です。

朝食会場は前日の和のテイストから一変してシンプルモダンの

洋の雰囲気でとてもお洒落。このインテリアはタイプで気に入った。

前泊の湯田温泉が場末感が漂っていた分、すごく気持ちよく過ごせた。

ビュッフェの各朝食料理もしっかりと素材を吟味して調理されているのが

旨みを通じて伝わってきた。一泊大谷山荘にお世話になって、

さすが安倍総理がプーチン大統領を招いた事情が

分かったような気がする。又来たい温泉旅館が一つ増えた。

朝見送りのため、黒いシックでお洒落な洋装で出て来た大谷山荘の女将。

何か緊張してシャッターが合わず、3枚撮って全てボケてしまった。

 


萩の明倫学舎と萩の街Ⅱ

2018-12-22 06:52:29 | 旅 ~国内

是非2017-2-20付~2017-2-22付ブログ(城下町萩を歩く

~その1~から~その3~)を参照してみて下さい。

明倫館は長州藩校で日本三大学府(水戸の弘道館、岡山の閑谷学校)の

一つと言われている。1718年(享保3年)、萩藩五代藩主

毛利吉元が萩城三の丸に創建したものだ。

この門は正門として建てられた南門。

その後敷地内に明倫小学校が建設され、昭和4年(1929年)に

国の史跡に指定された。明倫小学校の木造校舎は

平成26年(2014年)まで使用された。萩明倫学舎は

本館と2号館から成り2号館は有料となっている。

2017年(平成29年)3月に敷地一帯が明治維新150周年記念事業として

設置された萩市の観光拠点施設「萩明倫学舎」となった。

藩校跡に建つ日本最大の木造校舎が

まさに萩の新たな観光起点に生まれ変わった。

この中庭庭園の設計テーマは「つなぐ」。

庭の骨格を成す石材、石造品の多くは、かつて長府藩の陣屋として

幕末時に居城された「勝山御殿」(現下関市)にあったものだ。

これに吉田松陰誕生地(萩市椿東)付近の山裾から選び出した崖石、

飛石などを合わせて用いている。

萩物語。伝えたい物語がここにある。当学舎では無料で

館内ガイドをお願いすることが出来る。所要時間は40分~1時間。

ガイドさんは皆、萩に対する愛情がいっぱいの人達だ。

学舎は幕末、維新期の歴史、科学技術史の貴重な実物資料展示の

幕末ミュージアムと日本の産業革命の夜明けは

萩から始まったとする明治日本の産業革命遺産を紹介する

世界遺産ビジターセンターに分かれている。

「西の雅常盤の女将劇場」でも紹介したが明治の工業化政策を

索引した長州ファイブの詳しいコーナーがあった。

彼らは「生きた器械」になって帰国するとの決意を抱き

ジャーディン・マイセン商会の仲介で横浜港から

4ヶ月以上かけて現地に渡った。彼らはロンドン大学の

聴講生と成って分析化学を中心とする自然科学系の授業や実験に参加し

又、工業国の実状を見聞した。伊藤博文、井上馨が

自然化学系の勉強をしたとは知らなかったナー。

世界遺産ビジターセンターには吉田松陰が開いた

松下村塾の再現コーナーもある。意外に知られていないが

吉田松陰は我が国の工学教育に果たした役割は大きく

映像やパネルアニメーションなどを使って工学教育の先駆者

吉田松陰を分かり易く楽しく紹介している。

学舎の窓からは、槍・剣道場として藩士の練武のほか、

他国からの修業者との試合場でもあった有備館が見える。

坂本竜馬もここで試合をしたと言われている。

他に敷地内には水練池、聖賢堂などの遺構が残っている。

幕末ニュージアムでは、従来史実で語られてきた在来技術から

近代技術への発展の歩みを実物資料(器物、大砲、鉄砲、軍装など)

で紹介している。・・・・おがわ是苦集=小川コレクション。

明倫学舎の隣に新校舎を建設した萩市立明倫小学校の校舎。

意匠も旧校舎に馴染む様なデザインにしているような気がする。

阿武川デルタの北西端に突き出た標高143Mの指月山(しづきやま)。

天然の要塞と呼ばれるこの山には萩城の詰丸が

築かれ城内と海を監視していた。山頂まで登山道があり、

徒歩20~30分ほどで登れる。城内林は温暖帯照葉樹林として

国の天然記念物に指定されている。

萩城は慶長9年(1604年)に毛利輝元が指月山麓に築したことから

別名指月城と呼ばれ、山麓の平城と三朝の山城とを合わせた

平山城で、本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなっている。

本丸には五層の天守閣があったが、

明治7年に建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿にとどめ

ここ一帯は国の史跡に指定されている。

又城址は春、500本のソメイヨシノが咲き誇る桜の名所となっている。

高杉晋作誕生地の近くにある「晋作広場」に平成22年10月建立された

「高杉晋作立志像」。晋作20歳をイメージして創られたと言われている。

周りの雰囲気も古風で明治の日本に迷い込んでしまった様な感覚になる。

伊藤博文は高杉の一の子分で、伊藤曰く「動けば雷電の如く

発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するもの莫し。

これ我が東行高杉君に非ずや」と。

高杉晋作は幕末最高の変人とも言われている。

萩の夏みかんは明治9年に小藩高政(おばたたかまさ)によって

生活の術を失った士族たちを救うために、広く栽培された。

園地は主に空き地となった武家屋敷でした。その結果

武家屋敷の敷地割がほぼ江戸時代のまま保たれ、

城下町絵図を手に現在の萩の町を歩くことができ

観光面において、「夏みかんと土塀」は萩の代表的シンボルとなっている。

萩の街では到る所に萩焼のお店がある。こちらは武家屋敷の

路地の空き地の中でテントを張って萩焼陶器の販売をやっていた。

窯元直の店のようでおそらく安く売っているのだろう。

さすがさいしんいきがい大学、松下村塾の部屋に上がり

松陰神社宮司さんの講和を聞く機会を得た。

松下村塾に上がるだけでも特別なのにそこで宮司さんの話を聞けるとはスミダマン感激!!


萩焼と瓦そば

2018-12-21 06:47:22 | 地元企業

ここ萩焼会館は窯元、萩焼直売をはじめろくろの実演、

陶芸体験、お食事などを通じて400年の伝統を誇る萩焼を

見て、触れて、楽しむことができる所だ。

萩城窯陶焰工房(新川工房)の1階では実際に陶工が

ろくろ作業をしている様子が見られる。

形成や高台削りなど職人の技を間近で見て感じることができる。

2階は陶芸体験コーナー。ご覧の様に大勢の生徒さんが

生きがい大学の名の通り、真剣に絵付けに取り組んでいた。

手元に置いてあったサンプル絵が参考になったが、

いきなりの筆使いが難しい。2~3ヵ月後に焼かれて

オンリーワンの茶碗が送られてくるとか。

楽しみのようなガックリくるような、今から複雑な気持ちだ。

同じテーブルの4人の作品。はたして私の作品はどれでしょう?失敗作です。

壁には注意書きが貼られていた。それによると本焼きした作品は

20%縮むそうだ。萩焼はざっくりした焼き編りの少ない陶土を

用いた独特の柔らかな風合いが特徴で、土が粗い為浸透性、

保水性、保湿性が高く土と釉薬(うわぐすり)の収縮率の

違いによりできる表面の細かいヒビ、が使い込む程に器の

色合いが変化する。これを貫入と言うらしいが、水分が浸透し

器の中から表面まで至るという。これを「萩の七化け」と言うとか。

又、塗ってはいけない所は口元、絵付け全体底(高台部分)だ。

陶芸体験教室の天井になんとも大胆でインパクトのある

草花の絵が描かれていた。この様な発想はさすが芸術を

発信している場所に相応しい。

萩焼ギャラリー&ショップでは水指し、茶碗、茶道具、湯呑

マグカップなどすごい数の直売品があった。

萩焼は江戸時代に藩の御用窯として発展した。

味わい深い「侘び・寂び」の風情や萩焼ならではの

やさしい風合いは使い込むほど味わいが深まる。

その起源は400年以上の前の文禄元年(1592年)

豊臣秀吉の朝鮮出兵まで遡るそうだ。萩焼は私の好きなタイプの

焼物で思わず湯呑茶碗を買ってしまった。

2階の食事処「竹庭萩野」で山口名物の瓦そばセットを頂いた。

瓦そば以外に揚げ物(ふく?)、煮物、白和え、茶碗蒸し、

そして菓子に吉田松陰が付いていた。明治10年西南の役において

兵士たちが長い野戦の合間に瓦を用いて野草や肉などを

焼いて食べたという古老の話にヒントを得て、日本瓦を用いて

考案されたのが「瓦そば」だ。風味豊かな茶そばに牛肉、錦糸玉子

レモン、もみじおろしを乗せ、温かいつゆにつけて食べる独特のスタイル。

はじめは山口県でも川棚地方のみで食べられていたが

だんだんと広まり現在はテレビや雑誌にも取り上げられる山口名物となった。

山口のご当地グルメは瓦そば以外に「見蘭牛」「萩むつみ豚」

「長州どり」などがある。又、魚介として真鯛、ひらそ(ひらまさ)、

めじ(ぶり若魚)、鯵、イサキなどが多く採れる。


秋の津和野

2018-12-20 06:40:13 | 旅 ~国内

2017-2-17付ブログ(山陰の小京都 津和野)参照して下さい。

殿町通りに沿って流れる白壁に面した用水。そして真黄色に色ずいたいちょう並木。

山陰の小京都と言われる静かな津和野の秋がここにあった。

津和野は通りの堀割に錦鯉が泳ぐ城下町として有名だ。

鯉の数は1000匹以上、観光客がエサをやるせいか、

皆丸々と太っていて、狭い堀割の中を泳いでる。街並みとマッチして本当に美しい。

庭園の池で泳ぐ錦鯉とは全く違った良さを見ることが出来る。

なんとなく物思いにふけっているように見える支店長と女子行員さん。

実はエサを食べている鯉を見ているだけなのかもしれない。

2人の背中にちょとしたポエムを感じた一枚です。

それにしてもこの赤いハッピはすごく目立った。

平成6年11月3日に建立された国指定重要無形民俗文化財の

「鷺舞の像」。古式豊かな鷺舞は神事舞として京都より山口を

経過して天文11年(1542年)津和野城主吉見11代大蔵正頼が

五穀豊穣、災厄防除の為、移したことに起源する。

その後、坂崎出羽守の時代に中絶したが、二代藩主亀井茲政に至り

寛永20年(1643年)京都より伝授され復興し、弥栄神社の例祭に

供奉今日に致たる。ここでの紅葉したもみじのグラデーションが美しい。

津和野川にかかる大橋と赤と黄に紅葉したもみじ。心和む風情があった。

標高367Mの霊亀山に1295年(永仁3年)築城された山城の津和野城。

三本松城もしくは一本松城と呼ばれている。

主な城主は吉見氏(築城主は吉見頼行)坂崎氏、亀井氏と続き

明治4年廃城に成った。城跡は国の史跡となっており、

平成18年日本100名城(66番)に選定された。

藩主座敷は現在県立津和野高校に成っている。

城下町の趣きをさらに高めているなまこ壁の堀。

なまこ壁、生子壁、海鼠壁とは土蔵などに用いられる日本伝統の

壁塗りの様式の一つ。壁面に平瓦を並べて貼り、

瓦の目地に漆喰を蒲鉾形に盛り付けて塗る工法で目地の

盛り上がった形がナマコに似ていることからその名がある。

堀割の所に咲いていた「つわぶき」(石蕗)の花。

10~12月に咲き、キャラブキや九州名産佃煮キャラブキは

このつわぶきの葉っぱで作られている。

津和野は「つわぶきの生い茂る野」をその名のルーツに持つと言われている。

遠い昔、山紫水明のこの地に住みついた人々は、群生する

「つわぶき」の可憐な花に目をとどめ、その清楚で高雅な風情に魅せられ

自分たちの住む里を「つわぶきの野」・・・「つわの」と

呼ぶようになったという伝説がある。

旧津和野藩家老多湖家表門(重要文化財)をじっと見つめている一人の旅人。

津和野は明治の文豪、軍医であった森鴎外(1862年(文久2年~

1922年(大正11年)の誕生地である。

本名林太郎は幼少期を津和野で過ごし途中藩校養老館に学んだ。

旧宅に隣接した記念館では遺品や直筆原稿などを見ることが出来る。

森鴎外は亡くなる時、石見の森林太郎として臨終を迎えたいと

伝えたそうだ。尚親戚に日本初の西洋哲学者西周がいる。


西の雅常盤の女将劇場

2018-12-19 06:37:29 | イベント

http://www.n-tokiwa.co.jp/

山口市にある湯田温泉は白狐に導かれた旅人によって

発見された湯田の名泉と言われている。

当旅館「西の雅常盤」は2018年8月リニューアルオープンしたばかりだ。

ひょっとしてさいしん生きがい大学来訪が決まってリニューアルしたのかも。

なぜなら9/初から11/中まで29班約2300名が

宿泊するというビック企画だからだ。また当館の多彩なお風呂、

とりわけ露天岩風呂は農協の寮だったという旧建物を改装して

「維新黎明の湯」としている。

この方が名物大女将の宮川高美さん。当館最大の売り

「女将劇場」の主人公だ。この劇場が始まった背景には

切実な訳があった。20年程前、バブルがはじけ、湯田温泉の

観光客が激減し、経営危機に迫られたことをきっかけに、

なんとかこの窮地を脱しなければ・・・と他の旅館や

一般客の観光客も無料で解放し、お客様を楽しませたいという思いが

決断させた。当館のテーマは「総合エンターテイメント旅館」だそうだ。

雑誌、TVでおなじみの女将劇場のポスター。大女将は

100種類以上の持ち芸があり、女将劇場を続ける意義は

暗い世の中、今迄の芸を真面目にやっていてはダメ。

暗い世の中だからこそ徹底的に明るく面白くしなければという思いが

続けさせているモチベーションとか。とにかくすごいの一語だった。

これが開宴前のステージだが、なんとなく場末感が漂っている。

ステージにはあやしげな道具にたくさんの穴、ほころび、

つぎはぎの跡が。これから90分間、無料の大女将の「毎日が

真剣勝負」と言っている劇場が始まる。

実はこの大女将のファンが全国的に多いという話を聞いた。

その徹底ぶりにわかるような気がする。

尚、当館は良い意味でこの劇場を代表として

あらゆる所に哀愁的な場末感を感じた。

後程紹介するが今年は明治維新150周年、長州フィイブと

言われている伊藤博文、井上馨、井上勝、山尾庸三、

遠藤謹助の長州5太鼓。出演者は全員ホテルの従業員

(陰では、山口大学学生の部活動の一環とも聞いた。)

大女将は4代目で幼少の頃から女将として教育を受けてきた筋金入りの素人芸人。

舞台は暗転、恐怖の怨霊、貞子のショー。異常なまでの

執念を感じる全身全霊を捧げたショーが続く。

いったいどこにこんなエネルギーがあるのだろう、70歳代だというのに。

出しネタは、日本舞踊に水芸、中国伝統芸能劇「変顔」、

マジックショー、琴太鼓、トランプ大統領と安倍首相などの

ラインダンス、大村益次郎作曲品川弥二郎作詞の

日本で初めてのマーチ「トコトンヤレ節(宮さん宮さん・・・)」

吉田松陰の曲にのせ、自髪で書く書道などなど。

奇想天外でハチャメチャな芸が次々と続く。

途中からは網タイツ姿になり惜しげもなくめくるめく芸を披露。

息を切らしながら、必死の表情で次々とこなしていく。

そのド迫力に圧倒され、シャッターを押すのを忘れてしまう程だった。

今思うと一つ一つの芸をカメラに納めておけばよかったと後悔している。

大女将もビニールシートもびしょぬれ水浸しになった水芸。

もうやりすぎといった感じだ。あれもしたい、これもしたいと

ショーのネタが今でも次々浮かんでくるという。

00000

琴をエレキに変えてしまう発想。なんでもありの場末エンターテイメントの極地だ。

長洲ファイブの貴重な写真。開国か攮夷か倒幕か、

国内が分裂していた激動の時代、長洲藩の命令を受けてロンドン大学に

留学した山口県生まれの若者5人がいた。わずかな年月であったが

英国で学んだ彼らは明日の日本を方向付け

日本の近代化のために尽くした。ロンドン大学では彼らを

長州五傑と呼んだ。後列左より造幣の父、遠藤謹助、

鉄道の父井上勝、内閣の父伊藤博文、前列左より

外交の父井上馨、工学の父山尾庸三。

この写真はこの旅でその後何回も現れた。

明治維新150周年、今年は世の中、NHK大河ドラマで「西郷どん」の

薩摩だが、当然ご当地は長州一色であった。


瑠璃光寺

2018-12-18 06:20:55 | 旅 ~国内

曹洞宗瑠璃光寺は陶6代弘房の菩薩寺で本尊は薬師如来

(瑠璃光如来とも言う。)陶弘房は(大内氏第一の重臣)応仁2年(1468年)

応仁の乱で京都の相国寺で戦死したので、その夫人

「妙栄大姉」が夫の菩堤を弔うため弘房念持佛の薬師如来をもって

本尊とし、山口の奥地仁保に文明3年(1471年)に瑠璃光寺を建立した。

当寺は福井の永平寺と横浜鶴見の総持寺が本山です。

開山は石屋門派の知恵大庵須益大和尚、中国の三山の一つと言われ

江戸末期まで僧禄司の要職を務め、常恒会16ヶ寺の中に入る格式を

与えられた、1586年(天正14年)毛利元就次男

吉川元春(岩国城主)が小倉で逝去した時、瑠璃光寺11代

華翁和尚が、その導師となり寺を霊牌所とした。

のち藩の了解を得、瑠璃光寺に復号した。

現在末寺県内22ヶ寺、県外11ヶ寺ある。

国宝五重塔は足利義満と戦った応仁の乱で戦死した大内義弘の

霊を弔うために、地元を護っていた。26代大内盛見が建てた。

故に塔は一種のお墓なのだ。創建は嘉吉2年(1442年)、

今から570年以上も前のもの。関ヶ原の戦いで、毛利輝元が破れ、

この時、五重塔も解体されそうになったので山口町民が

奉公所に嘆願書を提出、これが了承さえ、塔は残された。

塔の高さは31.2mで中心柱が五層目まで届いている。

ここの五重塔は全国で10番目に古く、国宝だ。

国宝の五重塔は9基あり、奈良の法隆寺と京都の醍醐寺と

瑠璃光寺の塔が日本三名塔と言われている。

この塔の屋根は桧皮葦で屋根が滑らかに葺かれ美しいと

言われている。五重塔が桧皮葦は奈良の室生寺・長谷寺・

宮島の厳島神社の4基で後はほとんど瓦葺だ。

一層の屋根と五層の屋根の低減は70%で塔の姿を美しく見せている。

勾欄が二層目しかないのはここの塔の特色だ。

五重塔は地震台風に強い柔構造建築になっていて

今日の高層ビル建築と同じ手法と言われ

改めて古い時代の技術には驚かされる。

大内氏24代弘世像 山口開府の祖、弘世は防長二州を制して

1360年頃あこがれの京都を模して都市計画をした人だ。

五重塔の前の広々した芝生の緑地にまるでまんまるな

ゴルフのバンカーの様なものがある。これが満月の庭だ。

本堂、そして薬師如来が本尊で拝み方は「オンコロコロ

センダリ マトウギ ソワカ」を3度唱えるとの事。

境内には多くのものが祀られて信仰を集めている。

びんずる尊者、一畑薬師山口分院、金毘羅様長寿薬師如来、

慈母観音、身代わり地蔵、佛足石 等々。

山口市指定文化財の梵鐘。この梵鐘は中世の防長の歴史、

金工資料として貴重なものだ。

ぼけない五ヶ条なるものを発見。写真を撮った後よく見ると

「撮影はご遠慮ください」と小さくステッカーが張ってあった。

外部の廊下にあって、誰でも撮ってしまいそうなもの。

撮影禁止の理由がいまいち理解できない。

司馬遼太郎の代表作「街道をゆく」の長州路から五重塔を見た

感想の一節が次のように刻まれている。

「長州は、いい塔をもっていると、惚れ惚れする思いであった。

長州人の優しさというものは(中略)

大内文化を知らねば分からないような気がする。」

瑠璃光寺を取り囲むような山並。本当に自然豊かで、静寂の中に佇んでいた。

駐車場、お土産物屋さんの前に気に成るお店が。

「西京山口の味 全国唯一のそば寿し 長州生蕎麦 東京庵」

「山口市は明治維新策源地」ののぼり

今年は明治維新150年の年の為、ここ長州では色々なイベントが行われていた。

この策源地とはどんな意か?

山口市は山口県の県庁所在地。行政の中心地が緑の多くの中に

ポツンポツンとあり、とても印象深い街になっている。

下の写真が県庁なんて!