スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

永青文庫と肥後細川庭園

2022-06-28 05:56:19 | 旅 ~東京

この地は中世室町幕府の管領家の一門であり

肥後熊本54万石の大名であった細川家の下屋敷跡である。

細川家がここに入ったのは幕末で当時は3,000坪であったが、その後少しずつ拡張し、

肥後細川庭園・永青文庫を含む神田上水から目白通りにおよぶ

約3万8,000坪の広大な敷地であった。

この永青文庫は南北朝時代から現代に至る歴代細川家、約700年の間に蒐集された

細川家の歴史資料や文化財、及び21代護立氏が蒐集した

近代日本画、中国の考古品、陶磁器などを以って昭和25年に設立された。

昭和48年に登録博物館になり、一般に展示公開されている。

行った日は「戦後最強の家老~細川家を支えた重臣松井家とその至宝~」

などの貴重な作品が次々展示されていた。

今後の企画展のご案内。

7月30日~9月25日 こどもと楽しむ永青文庫。

10月8日~12月11日 永青文庫コレクション、輝きの名品。

2023年1月14日~5月7日 揃い踏み細川の名刀たち-永青文庫の国宝登場。

館内資料は撮影禁止。

2階で展示していた書状(?)をたまたま撮ってしまった。

小高い山の上の永青文庫からこの石輪のトンネルをくぐっていくと

広大な広さの肥後細川庭園に入っていく。

さらになだらかな坂道を下っていくとよく整理された庭園にたどり着く。

これまでの当園の名称「新江戸川公園」を

平成29年3月18日より「肥後細川庭園」に変更した。

新名称は肥後熊本藩細川家の庭園として成り立ちを尊重し、

応募総数1,257通の中から選定されている。

前述もしたがこの地は江戸時代中期以来、旗本の邸地となった。

江戸末期には徳川三郷のひとつ・清水家の下屋敷となり、

のちに一橋家の下屋敷に転じ、

幕末に肥後熊本54万石の藩主・細川越中守の下屋敷、挹屋敷となった。

第二次大戦後、数度にわたって所有者が変わり、

その後、昭和36年(1961年)9月に都立公園として開園した。

後に昭和50年(1975年)4月、文京区に移管され現在に至っている。

この庭園の特色は地形の変化を巧みに利用して

台地を山として立体的眺望を持っていること。

池泉回遊式庭園で歩道の一部は踏み分け道のようになっている。

やり水形式(平安貴族の寝殿造りの細流)で、大地の湧き水を池に入れている。

当庭園には門外不出の肥後六花といって江戸時代から品種改良を重ねてきた

熊本独特の色「肥後六花」のうち、肥後椿、肥後芍薬、肥後花菖蒲、

肥後山茶花は庭園で見ることができる。

この美しい花は、その1つの肥後芍薬だ。

肥後花菖蒲も一部見られる。

この庭園には他にも色々な仕掛けが施されている。

この「ししおどし」もその1つ。

ししおどしの由来は、昔イノシシやシカなどを追い払うために用いた仕掛けで、

しばらくすると竹筒の水が満杯になって傾き、戻る際に石を叩く音がする。

こちらは「水琴窟」。

柄杓で水門に水を流し、竹筒に耳を当てて音色を楽しむ。

松聲園から庭園を見た景色は目の前に広がる池、

左手の斜面地の林、灯籠の様子など明治期から変わらぬ風情を留めている。

ここ肥後熊本細川候下御殿の面影を残す池泉回遊式庭園は

季節毎に表情を変える美しい庭園である。

この建物は松聲閣と呼ばれ、旧熊本藩細川家下屋敷のあったこの地で、

細川家の学問所として使用されていたようだ。

大正時代に改修を行い、一時期は細川家の住まいとして使用されていた。

現在の建物は歴史性を活かして保存・修復を行うとともに耐震性を確保し、

平成28年にリニューアルオープンした。

1階休憩室(喫茶)椿の間でしばし呈茶のサービスを受ける。

抹茶アイスに古今伝授の間香梅加勢以多の干菓子をいただく。

ここでは都会の真ん中とは思えない、のんびりした時間が流れている。

松聲閣玄関のところには非常に興味あるユニークなアンケート票が展示されていた。

第1問は「どちらからお越しですか?」

1番は文京区、新宿区、豊島区を除く東京都23区、

2番、3番は、やはり地元の新宿区、豊島区、文京区かな?

5番目はどうやら埼玉県のようだ。

細川家の地元・熊本県が3名、北海道はゼロだった。

第2問は「Where are you from?」

コロナ禍の下で韓国が4名、中国が3名、アメリカが2名、オーストラリアが1名で少ない。

これはアンケートとしては価値ある内容だと思う。

今回は永青文庫の裏口から入ってきたが、神田川に沿った方のこちらが正門だ。

玄関までの車寄せも広々としていて余裕がある。

さすが大名のお屋敷跡は大したものだ。

しっかりリニューアル整備された日本壁の塀の日本瓦の上に、あやめの花が咲いている。

なんと風情のある光景なのだろう。

改めてこちらが肥後細川庭園の周辺案内。

秋になるとこの辺は、もみじの紅葉が美しいようだ。

案内図の随所に紅葉の絵が描かれている。

その一方、桜の絵は講談社野間記念館の1本のみ。

実際は何ともわからないが?

また、目白台・関口にはゆかりの人々の建物がある。

この野間記念館は野間清治が収集した美術品や貴重な出版文化資料を広く公開している。

野間清治は群馬県桐生市の出身で講談社の創設者。

明治後期から昭和前後の出版界をリードし、雑誌王と呼ばれていた。

この和敬塾は前川製作者創業者である前川喜作(1895-1896)によって創立された学生寮で、

国内外から集まった学生たちが生活をしていた。

蕉雨園は明治30年に当時宮内大臣であった

田中光顕伯(高知県出身の軍人・政治家)により建設された。

蕉雨園は椿山荘に隣接して約6,000坪の敷地を持ち、

湧き水の溢れる大地と回遊式庭園に囲まれた貴重な建物だ。

目白通りから前述した蕉雨園(元・田中光顕伯邸)と永青文庫(旧・細川下屋敷跡)の間を

神田川の駒塚橋に下る急な坂が「胸突坂」別名「水神坂」といわれている。

 

 

 

 


徳川慶喜の足跡と渋沢栄一

2021-10-26 06:17:55 | 旅 ~東京

今日のブログが渋沢栄一の足跡を追った旅の最後になります。(とりあえず)

この旅で渋沢栄一を追っていくと

最後の将軍・徳川慶喜との関係、絆は想像を超えるものと改めて感じた。

その最たるものを今回ご紹介いたしましょう。

徳川慶喜終焉の地が、ここ文京区小日向の地(昔は第六天町といった)

だということを最近TVで知り訪ねてみた。

現在は国際仏教大学院大学の敷地になっている。

ご覧のように南東側の正門の所に「徳川慶喜公屋敷跡」の標柱がある。

敷地右手の坂を150mくらい上がった北門の所には「徳川慶喜終焉の地」の

説明板が立っているそうだが、残念ながら知らなかったので行かなかった。

そこには今でも屋敷大銀杏があるそうだ。

慶喜は大正2年(1913年)急性肺炎のため、この地で没した。

享年76歳。

ここには12年間住んだという。

因みにここに移る前は中仙道に面した巣鴨に住んでいた。

しかしここに豊島線目白-田端間(現在のJR山手線)が敷設されたため、

騒音を嫌って引越されたという。

ここには約4年間居住した。

この鉄道建設には渋沢栄一が深く係わっていたとは歴史の皮肉といえる。

これは小日向周辺の案内地図。

この前の巻石通りの所には江戸で最初に造られた神田上水が通っていた。

ここ高源山随自意院本性寺は東本願寺の末寺で

真宗大谷派に属し夏目漱石(金之助)の菩提時である。

夏目家は代々江戸の名主をつとめた。

明治14年に母、20年に長兄、次兄が本寺に葬られ、漱石もしばしば小日向を訪れた。

ここは徳川慶喜とその一族、一橋家のお墓がある谷中霊園。

そしてここには慶喜に最後まで心の中で仕え続けた

渋沢栄一とその家族のお墓もある。

この一枚は谷中霊園の桜通り。

ここを右に入ると渋沢栄一の墓地、左に入ると徳川慶喜の墓地がある。

こちらが德川慶喜公のご家族の墓所。

左側の墓所は公家出身の妻・美賀君。

そして一族の方々の墓。

大河ドラマ「青天を衝け」の影響であろうか、次から次へと墓参りに来られる人がいた。

従一位 勲一等 公爵 德川慶喜公の墓。

慶喜公の遺言により、葬儀は仏式ではなく神式で執り行われた。

これは明治天皇に対する感謝の表れと言われている。

この慶喜公の墓地に辿り着く前に、俗に言う「墓マイラー」

(有名人の墓を尋ね歩く人のこと)らしい2人の年配男性に

いかにも古い大きなお墓の前(この写真実はここは一橋家のお墓)で質問を受けた。

「ここは宇和島藩の藩主・伊達宗城のお墓でしょうか?」

スミダマンも墓マイラーの端くれだが、わからなかったので

「どうなんでしょうか?」と曖昧な返事をして別れた。

そうしたらしばらくして、もう1人の男性を連れてまた慶喜公の墓の前で会ってしまった。

実はこの男性がすごい方で(おそらく谷中墓地のガイドさんか?)

ここから知らない話、ビックリな話を約30分以上聞くことができた。

それは「この説明板のほとんどの事は皆知っている。

重要なのは真ん中あたりに書かれている4行ほどの内容です。」と言う。

それは「明治31年(1898年)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。

明治35年(1902年)には公爵を受爵。

徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され・・・」

この事が慶喜公の墓所がここにあることの理由ですと。

それでは何かの縁ですからご説明しましょうと言って鞄からこの写真集を取り出した。

本来将軍家は、ここ上野の寛永寺か芝の増上寺に埋葬されます。

しかし最後の将軍、言い方を変えれば徳川250年の歴史を大政奉還という形で

幕を閉じた慶喜には窺い知れない深い深い思いがあった。

それをせめて慶喜の子孫だけでも知ってもらいたいという

遺言みたいな気持ちでこの地を選んだ。

その背景には徳川宗家の16代を継いだ徳川家達から徳川慶喜宛の書簡が昨年発見された。

その書簡には慶喜に静岡から東京に3つの条件付で戻ってくるようにとの趣旨であった。

その最大の理由は宗家の財政的負担問題。

慶喜は家達との同居を除き2つの条件はのんで東京に来た。

慶喜と家達とは明治に入って一種の権力闘争が続いていた。

ここで渋沢栄一が時の桂太郎内閣に働きかけて従一位勲一等公爵の地位を獲得した。

このことは大きな意味があって宗家・家達よりワンランク上の立場になった。

明治天皇に謁見する時は慶喜は家達の1歩前に立つことができるということだ。

そして大正2年薨去した折、渋沢栄一が葬儀委員長になり、

寛永寺側と激しい交渉をした。

葬儀は寛永寺横に空いていた土地(今の上野中学の所)に急遽神社を造り、

そこで神式で葬儀を執り行ったという。

これは渋沢が寛永寺の総代を務めていた為、成せた技という。

上の写真はその時の神式の葬儀風景。

大正2年(1913年)11月30日、自宅の小日向邸を13時に出棺して

竹早町、伝通院前、本郷三丁目、元富士前、岩崎邸、

上野広小路、上野公園内を通って寛永寺内斎場に歩いて到着。

埋棺終了は22時ごろになったという。

慶喜は波乱万丈の人生を最終的に天皇家に捧げたと言ってよい。

これによって日本の内戦大混乱は避けられた。

もう一枚は慶喜がもっとも幸せだった時期、

明治35年(1902年)公爵受爵の年の一族との写真だ。

やはり谷中墓地にある(乙11号1側)渋沢家の墓所。

ここには栄一の孫・敬三ご夫婦の墓もある。

敬三は第16代日本銀行総裁、弊原内閣での大蔵大臣も務めた。

他に文化放送会長、KDD社長・会長、日本モンキーセンター会長も歴任。

昭和38年(1963年)67歳で没。

そして江戸時代末期に農民から武士に取り立てられ、

明治・大正・昭和期にかけて活躍した日本の実業家で、近代日本資本主義の指導者。

正二位 勲一等 子爵 渋沢栄一翁のお墓。

雅号は青淵。

天保11年(1840年)2月13日、日本武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)生まれ、

昭和6年(1931年)11月11日、満91歳没。

お墓は栄一の人生を変えた徳川慶喜の墓所に向かって立っている。

まさに青天を衝いた人生であった。

 


城山熊野神社

2021-01-31 06:45:23 | 旅 ~東京

緊急事態宣言再発令のブログでもアップいたしましたが、

城山熊野神社は別名・志村熊野神社といって板橋区志村の小高い山地にあります。

こちらの神社に当社は30~40年間、毎年工事の安全祈願と商売繫盛で

お参りに来ていることは何回もブログでご紹介させていただきました。

ここで当神社について、より詳しくご紹介をしてみたいと思います。

当神社の鎮座地は古墳上で平安~鎌倉時代初期にかけ豊島氏の庶流で当地を領した

貴族・志村氏が城館(のちに志村城)を築いていました。

1042年(長久3年)、志村将監がその城内に紀州熊野大社を勧請、奉斎したと伝えられています。

天喜年間(1053~1058年)、源頼義・義家は奥州安倍氏追討のおり、

武運長久を祈願し境内に八幡社を祀りました。

降って1456年(康正2年)、下総を追われた千葉自胤が赤塚城へ入城した際、

一族の千葉隠岐守信胤はここ志村城に入り、その後城砦が築から当神社が城内鎮守として

千葉氏より篤く崇敬され社殿の修築などがされました。

現在地は二ノ丸で本丸は現在の区立志村小学校グランド付近に築かれていたとされています。

1872年(明治5年)年社格制定の際、村社に列せられたのち、1924年(大正13年)郷社に昇格し、

志村七ヶ村(志村・小豆沢・根葉・前野・中台・西台・蓮沼)の総鎮守となりました。

戦後間もない1949年(昭和24年)、境内に城山幼稚園を設立し、

現在に至るまで地域の幼児教育の一端を担っています。

尚、当神社の御祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命・事解男命であります。

境内にある立派な神楽殿。

尚、3枚目の写真(本殿)に写っている狛犬は1855年(安政2年)2月に奉納されたもので

頭部が小さくすっきりした流線型の尾流れのものです。

この絵馬殿は江戸時代中期から後期にかけ造営された旧拝殿を

1980年(昭和55年)に移築・改修されたものです。

1795年(寛政7年)に奉納された「伊勢太々神楽奉奏図大絵馬」をはじめ、

殿内に所蔵される絵馬や扁額・寄進札は2010年(平成22年)に

板橋区登録有形民俗文化財となっています。

絵馬殿の脇には境内社8社の合殿がある。

もう一社は社殿に向かって右手に鎮座している招魂社。

昭和32年に旧本殿を移築し、氏子の戦歿英霊が奉祀された。

そして周囲の社叢は板橋区の天然記念物として登録されている。

隣りの城山幼稚園、城山みどり保育園を運営している学校法人・石川キンダー学園は

平成31年に新たに企業主導型保育施設「鎮守の森 城山どんぐり保育園」をスタートした。

自然の緑豊かな神社の森の中にどなたが設計したかわからないが、

木の素材の素晴らしさを最大限取り込んだ2階建の園舎は本当に素敵だ。


染井の里 駒込とその周辺

2020-11-16 06:33:24 | 旅 ~東京

駒込駅を出ると駅前に小さな公園がある。

これが豊島区立・染井吉野桜記念公園だ。

この公園に染井吉野桜発祥之里の記念碑がある。

それによると、駒込の一部は江戸時代「染井」と呼ばれ、巣鴨とともに花卉・植木の一大生産地であった。

この地で江戸時代以後、数多くの優れた園芸品種が誕生したが、

なかでも染井吉野は当地の地名から名付けられ、世界を代表する桜の品種となった。

又、この公園の染井吉野桜はワシントンDCからの里帰りのソメイヨシノが植えられている。

この公園の隣にある豊島区立・駒込地域文化創造館(駒込図書館)がある。

ここの2階にはソメイヨシノ・アーカイブフロアーがある。

ソメイヨシノの基礎知識のコーナー。

染井の地には多くの植木屋さんが生活していた。

その第一人者・染井の伊藤伊兵衛には上々方の御庭木、鉢植など多くの植木が群集していた。

駒込エリアの散策マップ。

このエリアには多くのお寺や、染井霊園を含めて数多くの歴史上の人物のお墓がある。

染井霊園には二葉亭四迷、高村光雲、光太郎智恵子、岡倉天心、弊原喜重郎、若槻礼次郎、水原秋桜子。

慈照寺には芥川龍之介、谷崎潤一郎。

本妙寺には遠山金四郎、千葉周作。

総禅寺には手塚治虫の墓所がある。

平成18年に駅舎改装したJR東日本駒込駅の開設は明治43年と古い。

2005年に発車メロディーを「さくら さくら」にしたのは、ここがソメイヨシノの発祥の地だからだ。

又、駅構内の掘割りの斜面にあるつつじの植栽が有名で関東の駅百選に認定されている。

当駅の1日平均の乗車人数は少なく、山手線の駅としては新大久保駅に次いで2番目に少ない。

駒込駅から本郷通りを渡ると、おばあちゃんの原宿で有名な巣鴨の街で2店舗、

大塚に1店舗ある、知る人ぞ知る定食屋さんが、この「ときわ食堂」だ。

庚申塚店は2020-3-13付ブログにアップした。

六義園・正門の前にあるフレーベル館は明治40年創業の出版をはじめ、教材、遊具の販売など

幼児教育に関する活動・事業を行っている。

特に伝統ある「キンダーブック」そして「アンパンマン」の出版、映画化、TVアニメ化、

又、翻訳絵本ウォーリーシリーズは高い人気を誇っている。

実はこの日(11月1日)の前日に放映された「出没!アド街ック天国」は駒込が特集。

このフレーベル館はじめ、今回の「ブラスミダ」は番組で紹介された所を何ヶ所も訪ねてみた。

このフレーベル館入口の所にあるアンパンマンの像を見て笑顔になった赤ちゃんはナイスな一枚となった。

駒込駅前から六義園・染井門前を通っている本郷通りは、将軍御成道・岩槻街道ともいわれている。

江戸の頃、将軍が日光東照宮にお参りする時に

通る道であることからそういわれ、重要な道路の一つであった。

現在の東大農学部前の本郷追分で旧中山道とわかれ、駒込へ直進し、

王子、岩渕を経て荒川を渡り、岩槻へ向かう。

将軍は江戸城を発ち、岩槻に一泊し、さらに古河城、宇都宮城に泊まって日光に入ったといわれている。

 

 


代官山 ヒルサイドテラスとその周辺

2020-10-19 06:31:24 | 旅 ~東京

渋谷区猿楽町、鉢山町の旧山手通り沿いに集合住宅、店舗、オフィスなどからなる

複合施設のビルが「代官山 ヒルサイドテラス」だ。

本ビルは槇文彦(アネックスは元倉眞琴)により設計されたもので彼の代表作の1つだ。

因みに氏の他の代表作は幕張メッセ、東京体育館、テレビ朝日本社ビル、スパイラルなどがある。

第一期のA・B棟は1969年に竣工、それから1998年までの30年の歳月をかけて第二期 C棟、

第三期 E棟、第四期 アネックスA・B棟、第五期 ヒルサイドプラザ、

第六期 F・G・N棟、第七期 サイドウエストが建てられた。

今回、写真撮影に失敗し、この全容がわかる写真が撮れなかったことが残念だ。

C棟の中に入居しているクリスマスカンパニー。

もうそろそろクリスマスの品物グッズが気に成る時期に成ってきたが、

今年はコロナで一体どんなクリスマスになるのやら?

ヒルサイドテラスA・B・C棟の前にも今風の洒落た建物が並んでいて一つの街のイメージを創り上げている。

ヒルサイドテラスの向かい側で大型リフォーム工事をやっているビルの

屋上のデザインがとても目立ったのでパチリしました。

猿楽町南西斜面を利用して東京府議会議長を務めた朝倉虎次郎によって大正8年に建てられた旧朝倉家住宅。

朝倉家の祖先は元は甲州武田家に仕えた武士。

朝倉徳次郎は明治に入ると渋谷付近の土地を買い集めて大地主になり精米業を営んだ。

この代官山ヒルサイド住宅計画はその子孫が経営する朝倉不動産が事業主体となって実現した。

代官山駅近くの商店街にはこのような古い建物のお店があり、街の中で目に付いた。

旧山手通りに面してあるモダンな校舎の東京都立第一商業高校。

ここは天下の一商と呼ばれ、1918年に設立された東京で初期の公立商業高校。

やはり旧山手通り沿いにある結婚式場のゲストハウス「アーカンジェル代官山」。

この建物はトレンドを発信する代官山らしいクラシカルな迎賓館だ。

1958年に設立された東京バプテスト教会。

国際的なプロテスタントのキリスト教会だ。

代官山一Tサイトガーデンの中心テナントの蔦屋書店。

ここは単なる書店があるのではなく他の業態テナントとコラボして新しい文化の発信基地になっている。

このエリアは緑もありとてもファッショナブルな所で、お洒落な若者が休日を謳歌していた。

この建物の全体で使用されていた白い網目模様のPC外壁材。

ここまで統一されると街の景観に大きく影響を与えるのもになる。

TSUTAYAとコラボしているスターバックスコーヒー。

ここも単なるカフェではなく、休日の雰囲気を楽しみながら寛ぐ、そんな場所になっている。

ウッディな内装の解放感がある空間。

様々な国の料理をクラフトビールやワインに合わせて楽しめるカフェ&ダイニングバー「IVY PLACE」。

テラス席もあり大変人気のある店のようで30分のウエイティングとか。

ここは森の図書館をイメージした敷地に古くから佇むような懐かしさを感じる家のようなレストランだ。

この建物はヒルサイドテラス6期目に建設されたF・G・N棟。

その中に入居している1919年創業で宮内庁御用達の漆器専門店の「漆器 山田平安堂」。

街角で見かけて気に成った光景を写真で切り取ってみた。

1枚は代官山の街を闊歩していた黒白ファッショナブルなカップル。

代官山の街を歩いて気がついたが、女性の着ている純白のロングドレスは今の流行のファッションみたいだ。

もう一枚は犬と散歩中の若者。

あまり見たことのない大型犬だったので思わずパチリしてしまった。

旧朝倉邸住宅の前にできていた長蛇の列。

若い女性が多い列は古式精米法で精米したお米を羽釜で炊き上げ提供している

純和食店の「一芯」のウエイティング客の列。

久し振りにこんな長いウエイティングを見たが、これもSNSの為せる技か?

旧山手通りは珍しく路上駐車ができる。

昔はかなり路駐の場所があったが今はとても新鮮。

従ってパーキングチケットの機械を見るのも新鮮に映る。

因みにここは60分300円と意外に安い。

旧山手通り沿いにある丸太造りの山小屋風展示場「Locway」。

あまり展示場らしくなくビルの間で平屋のホッとする空間を作っている。

赤レンガ造りで大正ロマンの香り溢れる「代官山鳳鳴館」は貴族の邸宅をイメージして

大正浪漫というコンセプトの下、5年前に創られた結婚式場、クラシカルゲストハウス。

2階建ての低層建物は代官山によく似合う。

旧山手通りから超高級住宅街、青葉台の邸宅巡りを終えて坂を下っていくと桜の名所で有名な目黒川に出る。

水源地は世田谷区三宿の武蔵野台地で南東に流れていて品川区の天王洲アイル駅付近で東京湾に注いでいる。

目黒川の橋のたもとに最近オープンしたのか今まで見ているのとは

イメージが違うスターバックスがある。

周辺は人だかりで人気店のようだ。

この店は「スターバックス リザーブ ロースタリー トウキョウ」といって

世界に6店舗しかない珈琲豆の焙煎工場を併設しているとか。

隣のビルで当店の入場整理券を発行しているのを見て驚いた。

https://www.starbucks.co.jp/

2019年2月28日オープン。

最後に代官山周辺の地図を参考に載せてみました。

 


神楽坂の街角・路地

2020-09-25 06:17:28 | 旅 ~東京

これが神楽坂の案内地図。

ちょっと小さくてわかりづらいかもしれないが、

外堀通りから坂を上がって大久保通りまでの商店街が神楽坂通り商店会で

「粋なお江戸の坂の街」をキャッチフレーズにしている。

神楽坂の街のおもしろさはこの大通りから不規則に延びている

横丁や路地が多くあり、その雰囲気がしっとりした

江戸風情を醸し出している所にある。

この街角・路地を今日は紹介しましょう。

この写真を見てわかることは、路地は極端に狭く、

人が通るのがちょうど良く、車のすれ違いはかなり厳しい。

道路面は細かい扇状になった石畳が多く、とても情緒がある。

建物は高いビルは無く、一枚目の写真の様に粋な黒塀が続いている所があり、

料亭街的な雰囲気を作っている。

お座敷天ぷらで有名な「天孝」さん。

昭和52年創業で個室で目の前で天ぷらを揚げてくれる。

座席は全部で18席で、そのうちカウンター席が7席ある。

神楽坂で最大の横丁の本多横丁。

飲食店を中心に50軒以上の店舗が軒を連ねている。

どの店も個性的で魅力的な飲食店を中心に商店街を形成している。

その名の由来は明日アップします。

風情ある神楽坂の小路に佇む一軒の和食屋。

左側の黒塀の店が神楽坂の大人が集う「こんぶや」さん。

羅臼産昆布出汁の自家製おでんが売りのお店らしい。

新宿という大都会にありながら、ひとつ細い路地に入ると

江戸時代の面影を今に残す街。

そんな和の情緒の街並にワインだとか、パスタだとか、

フレンチ、イタリアンの洋の店が同居しているのが神楽坂の一つの魅力だ。

今回はあてずっぽうの散策でしたので神楽坂の名だたる横丁を

網羅できなかったが、その幾つかを紹介しましょう。

最も神楽坂の路地らしい趣のある場所が「兵庫横丁」。

戦国時代に武器商人が住み兵庫(武器を入れておく倉庫)が

あったことからそのように言われた。

もう一つ、芸者さんが料亭から別の料亭に移動する際に

抜け道として利用していたことから「芸者小道」と名付けられた通り。

その隣りには「かくれんぼ横丁」。

かくれんぼの名前の通り、道は複雑に入り組み、

行き止まりもあったりして本当に迷ってしまうことから付けられた。

又、花街にお忍びで来た要人のあとをつけても

ひとつ路地に入るとわからなくなるという意味もあるとか。

本多横丁から更に路地に入った所には

創業60年の老舗寿司屋の「新富寿司」がある。

手前にはスナック、奥にはイタリア国旗が見える。

ということはイタリアン料理店。

正に散歩が面白い街が神楽坂だ。

前述の横丁以外にも「見番横丁」「寺田横丁」「小栗通り」

「熱海黒塀湯階段」など数多くの路地、横丁がある。

もう一度表通りの神楽坂通りへ。

かつては芸者の集まる街(花街)として発展し、

その風情を今に残しながらも

最近ではお洒落な雑貨店やカフェも数多く集まっている。

メインストリートでオリジナル・デザインの履物、袋物、

和様傘等を豊富に取り揃えている「助六」さん。

明治43年に創業し、多くの有名人が買い物に見えた。

作家・菊池寛、歌人・与謝野晶子は夫・鉄幹と共に、詩人・西条ハナ等々だ。

又、芸者衆もよく買い求めたという。

因みに今でも神楽坂には芸者が20名位いるという。

最初は昼食をここ、海鮮丼の「つじ半」でと思ってきたが、

さすが人気店、ウエイティングの行列が並び約30分待つとかで

暑いこともあって諦めた。

 

毎年ミシュランに載っている会席・懐石料理店の「石かわ」の隣りで、

新店舗(リノベかもしれない)の内装工事が施工中で、

そのバースのスケッチが外に出ていたので興味津々で思わずパチリ。

いったい何屋さんができるのだろう。

大久保通りを過ぎた所にも肉まん・中華まんで有名な

元祖「五十番 神楽坂本店」が。

昭和32年創業、五十番の肉まん発祥のお店だ。

自家製の手打ち麺が特徴の名代うどんすきをはじめ、

旬の食材を使った会席を提供している「鳥茶屋本店」。

以前には鳥茶屋別亭もスミダマンでアップした。

当店の外の飾りつけも赤い提灯、ほうずきの植木鉢など

これを見れも花街文化が息づいているのを感じられる。

最近オープンしたというChicalicious NY amarige

(チカリチャス ニューヨーク アマリージェ)というケーキ屋さん。

NYからデザートバーという新しい提案を持ち込んでの進出だ。

それにしても木を使った照明器具は存在感があったナー。

この洋菓子屋さんの前にある、いかにも老舗の香りがする

鰻屋さんの「たつみや」(本多横丁)。

創業は昭和23年で神楽坂の顔と言って良い程の有名店らしい。

一見何処にでもある鰻屋さんのようですが、

ジョンレノンとオノヨーコが来店したという事で有名だ。

神楽坂には春の海の作曲で有名な作曲家・箏曲家の

宮城道雄記念館がある。

宮城道雄の偉業を顕彰するとともに今後の日本音楽の発展に寄与するため、

昭和53年12月6日に故人が晩年まで住んでいた敷地に建設された、

日本で最初の音楽家の記念館だ。

 


有栖川宮記念公園

2020-04-06 06:39:39 | 旅 ~東京

かつての有栖川宮の御用地に造られた公園で大正2年高松宮に継承され

その後御用地1万1,000坪を公園地として東京市に下賜され昭和9年11月に開園した。

現在は麻布野球場と庭球場を編入し、本園の総面積は2万343坪もある。

ここは公園の西南側の入口、広尾口。

最寄駅は東京メトロ日比谷線の広尾駅。

この公園エリアは都心には稀な閑静な地で園内は起状に富み、

東側の高台からここ西南側の低地に向けて大きく傾斜した地形となっている。

この地の歴史は江戸時代は陸奥盛岡藩の下屋敷だった。

明治29年に有栖川宮威仁親王が霞ヶ関から移動し、御用地となった。

その後、高松宮が継承し昭和9年に東京市に下賜された。

又、地形として丘陵より渓谷を下って大小2つの流れる水は

公園西側にある池に流れ込んでいる。

周辺に茂る樹木は日本古来の林泉式の修景による高雅な自然趣味の庭を呈している。

この公園の周囲は多くの外国大使館、外国人住居があり、

この日も外国人家族が楽しそうに遊びながらくつろいでいたのが印象的だった。

公園の高台にある広場の一角に造られた有栖川熾仁親王の銅像。

親王(1835~1895)は有栖川宮家9代目の親王で

明治維新、西南の役、日清戦役ですぐれた勲功をたてられた。

その間、福岡藩知事や元老院議長、左大臣、近衛都督、参謀総長などを歴任され、

明治28年1月に亡くなられた。

この銅像は大熊氏広作で明治時代の代表的作品の一つとして

極めて価値の高い芸術品だ。

明治36年に三宅坂の旧参謀本部構内に建立したものを

昭和37年にゆかりの深いこの公園に移設した。

公園の高台の所はかなり広い広場に成っている。

その東側には都立中央図書館が併設されている。

 

 

 

東京の坂は東京都の中心部や山の手地域の傾斜地を

特徴づけるファクターになっている。

岸(擁壁)、階段、斜面樹木などだ。

東京の坂は名前が付いているものだけでも800以上もあり、

なかでも江戸時代に武家屋敷の多かった

文京区・港区・新宿区・千代田区あたりに多い。

今回のブラリ散歩でも8つの坂と遭遇してしまい、その多さにビックリした。

なぜこんなに多いのか?

それは江戸川幕府が山の手台地を武家屋敷、

低湿地を町人の下町として江戸の町を築き、

江戸の発展に伴い道路網を整備していったため、

多くの坂道が生まれたといわれている。

南部坂

新富士見坂

青木坂

新坂

木下坂

北条坂


とげぬき地蔵の街 巣鴨

2020-03-14 06:12:04 | 旅 ~東京

巣鴨地蔵通り商店街は旧中山道にある。

江戸の中期から現在に至るまで商業や信仰の場として発展してきた。

全長約780m、店舗数は約200ある。(2018年時点)

実は前々からこの地に来たいと思っていたが

初めて今回仕事の関係で奥の庚申塚の方から商店街を歩くことができた。

すがも史跡まっぷによるとこの周辺には多くのお寺があり有名人の墓がある。

本妙寺には遠山金四郎、千葉周作、歴代の本因坊の墓が。

慈眼寺には司馬江漢、小林平八郎、芥川龍之介、谷崎潤一郎の墓、

勝林寺には田沼意次、意知父子の墓がある。

又、この一帯は染井の地名で桜の染井吉野の発祥の地でもある。

この通り、街は「おばあちゃんの原宿」と言われ、

やすらぎと生活空間が同居する活気にあふれた街だが、

今、新型コロナウイルスの為、この通り、とげぬき地蔵尊はガラガラであった。

曹洞宗の高岩寺(通称とげぬき地蔵)の創建は1596年(慶長元年)、

扶岳太郎が江戸神田湯島に開いた。

1891年(明治24年)に現在の地、巣鴨に移転。

1945年(昭和20年)東京大空襲で建物を全焼し、

現本堂は1957年(昭和32年)に再建されたものである。

本尊は地蔵菩薩(延命地蔵)で秘仏につき非公開となっている。

とげぬき地蔵の由来は江戸時代、

武士の田付又四郎の妻が病に苦しみ、死に瀕していた。

又四郎が夢地に立った地蔵菩薩のお告げに従い

地蔵の姿を印じた紙一万枚を川に流すと、

その効験あってか妻の病が回復したという。

これが寺で配布している「御影」の始まりであるとされる。

その後、毛利家の女中が針を誤飲した際、地蔵菩薩の御影を飲み込んだ所、

針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあり

「とげぬき地蔵」の通称はこれに由来する。

そこから他の病気の治癒改善にもご利益(りやく)があるとされ、

現在に至るまでそのご利益を求めて高齢者を中心に参拝者が絶えない。

境内に立つ石造の聖観音像で「洗い観音」と通称される。

自身の治癒したい部分に相応する観音像の部分を洗う、

または濡れタオルで拭くとご利益があるという。

かつては像の表面をたわしで擦っていたため摩擦が激しく、

2代目の像が製作された。

現在の像は平成4年に奉納されたものである。

この観音像の前にはステンレス製のウエイティング用の柵が設けられているが、

ひょっとしてこの像をとげぬき地蔵と勘違いしている人が多いのではないか?

山門の横にはちょっとしたポケットパーク的休憩エリアがある。

年配者の参拝者が多いので休む場として普段は混むのだろうが、

コロナウイルスの影響のせいか、ベンチもほとんど空いていた。

線香、お札販売の所に売られていた「健康十訓」手ぬぐい。

少と多を使った4文字熟語十訓。

ちょっと気に成ったのが

「少言多行」べらべらしゃべっている間に行動を開始せよ。

「少欲多施」自分の欲望のために走らず他人のために走れ。

「少憂多眠」くよくよしたって同じ、とっとと寝てしまおう。

昨日アップしたときわ食堂庚申塚店の姉妹店の巣鴨地蔵通り店。

この時期売りのかきフライののぼりに書かかれた2文字がすごい。

「最幸」又「魚、足りてますか!?」の文字、意味不明。

大学いもで有名な「おいもやさん興伸」。

当店は明治9年の創業でなんと140年の歴史を持つ。

その間、関東大震災、第二次世界大戦の艱難辛苦はわかるが

昭和45年ファーストフード元年が大学いもにとって逆風とは

随分業界によってちがうものだ。

当店の大学いもは当店おすすめの「さつま」と

ほくほくした甘みの「あずま」がある。

いかにも3時のおやつで食べたくなったので会社へのお土産として買ってしまった。

生活衣料のマルジさんは創業1952年。

巣鴨に来るおばあちゃんに元気な素敵生活を提案。

靴下コレクションは日本一と書かれてある。

この大型店の前には日本一の赤パンツで有名な女性用と男性用の店がある。

数多く売られているパンツの色はすべて真っ赤だ。

他にも昔懐かしいはんてんの店。

還暦3点セットなどを売っている店。

杖専門に売っている店など高齢者向けの

他の商店街にはない独特の店が並んでいた。


ハイソな街 成城

2020-01-22 06:38:40 | 旅 ~東京

成城学園前駅北口を出ると駅前にスーパー成城石井がある。

ここは成城石井の第一号店で、ある意味歴史的な店舗だ。

成城石井の創業は1927年(昭和2年)2月、1950年(昭和25年)に

石井食料品店として設立され、現在は95店舗、

フランチャイズ15店舗(2013年時点)ある。

浦和アトレにも出店した。

2014年以降はローソンの傘下に入っている。

当店は日本有数の高級住宅街の厳しいマダムの目にさらされて、

ワイン・チーズ・総菜・スイーツなど高品質な食料品、輸入食品を多く扱い、

高級ブランドのスーパーマーケットとして消費者に評価を得ている。

成城 風月堂 成城学園前駅本店は大正7年創業の老舗和洋菓子店で、

他に世田谷区に4店チェーン展開している。

1Fが店舗、2Fが喫茶店になっていて、トアルコトラジャ使用の

贅沢なブレンドコーヒー530円やケーキセット730円、あんみつ660円などの他に、

ランチタイムにはキッシュプレートのランチ1,130円や

オムライスとケーキのランチ1,130円など軽食も食べることができる。

歴史あるお菓子屋さんとして地元の方々に深く愛されている名店だ。

毎日焼きたてのフレッシュなパン、サンドイッチを提供している

キリーズフレッシュ成城店では1階にイートイン席があり、

2階はハンバーガーレストランになっている。

手づくりで新鮮な素材を活かした出来立ての商品は地元の人々に人気がある有名店だ。

他に広尾店もある。

http://kiriys-fresh.com/

成城学園の斜め前に意匠がすごく目立つクリニック病院あった。

産婦人科を中心に小児科、内科などを取り扱っている木下病院だ。

この病院は半世紀に渡って地域住民に愛され続けていて

3年前に木と緑の多い病院としてリニューアルされた。

この斬新なデザインは今話題の隈研吾氏の設計によるものだ。

木をふんだんに使った外観は周囲の街並みにスッと溶け込んで、

癒しと洗練にあふれた空間を形作っている。

駅名になっている成城学園は大正6年、澤柳政太郎氏によって作られた。

日本の初等教育改造を志し、実験的教育の場として

成城学校内に併設した成城小学校が始まりだ。

1925年(昭和元年)に現在地に移転した。(府下北多摩郡砧村喜多見)。

現在は幼稚園、初等学校、中・高等学校、大学と一貫教育を行っている。

教育理念は

1、個性尊重の教育(附 能率の高い教育)

2、自然と親しむ教育(附 剛健不撓の意志の教育)

3、心情の教育(附 鑑賞の教育)

4、科学的研究を基とする教育

丁度行った時は学園祭が行われていて学生もフェスティバルをエンジョイしていた。

成城学園界隈は学園前のいちょう並木、成城の桜並木、成城学園の池などで

「せたがや界隈賞」を受賞している。

閑静な住宅街の中に隠れ家的にある懐石料理 和食の「一宮庵」。

ここは昭和44年に料理教室が開かれ、

二代目斎藤宗厚を中心に基本の出汁の取り方から魚のさばき方、

本格的懐石料理まで教えている。

又、茶道体験教室もある。

和の趣が溢れる雰囲気の中で夜は一組のみ(一客一亭の貸切席)しか予約を取らない。

又、入口の所には昭和20年代のホーム、

昭和9年頃の銀杏並木の古き写真が展示されてあり、

成城の街にこだわっていることが伝わってくる。

この街はあくまで閑静でゆったりと時間が流れている。

桜並木をのんびり歩いている女性の姿は皆、成城マダムに見えてしまう。

うっそうとした木々の空き家の前に放置されてある車もさすが成城!

なんとセルシオだ。

街の樹木も世田谷区みどりの基本条例によって保存樹木に指定されている。

このクスノキ2本は邸宅内に生えているものだ。

ここ成城みつ池緑地は国分寺崖線上に位置していて湧水が4ヶ所ある。

神明の森みつ池とも呼ばれ水神の祠を祭ってある所だ。

東京都内23区内で2ヶ所しか自生していないゲンジボタルもおり、

貴重な自然の特別保護区になっている。

成城学園前北口を出て、気ままなブラリ歩きの成城散策をして2時間半。

成城学園前南口に到着。

心地よい疲れで一路帰路についた。

 

 

 


地下鉄駅と下町の風景

2019-07-12 05:31:06 | 旅 ~東京

清澄庭園へ行くのに地下鉄銀座線・三越前駅から

大江戸線へ乗り換える為、長い距離の地下道を歩いて行く。

途中三越デパート日本橋本店の地階の前を9時55分に通過。

そうすると10時の開店を待つ多くの人達が待っていた。

そこへリーダーらしき女性職員の凛々しい挨拶が始まった。

そんな光景の一枚です。

この出入口の隣の壁には「照代勝覧」という絵巻が

平成11年に展示された。

これは地域の団体が主体的に行う情緒ある

街並み整備の取り組みを促進する

「江戸東京・まちなみ情緒の回生事業」の一環として

東京都・中央区の支援を受けて実施されたものである。

これを見ると今から200年ほど前の江戸一番の

にぎわいを堪能できる。

清澄白河駅の地下通路にまたおもしろいものを見つけた。

深川周辺に位置する清澄・白河には江戸情緒を

今に伝える緑豊かな日本人の細かな感情を育んで

四季の豊かな移ろいを江戸時代の伝統工芸である

江戸小紋の文様を用いて趣のあるデザインテーマとしたもの。

アートウォール・椅子などは水景都市である

深川地域に因んで水面を表現している。

この深川江戸資料館も清澄白河駅から徒歩3分の所にある。

江戸深川の長屋、路地、火の見櫓などの町並が

実物大で想定復元されている。

ここでは現代に続く庶民の暮らしぶりが体感できるようだ。

清澄庭園の入口の斜め前には、江戸時代中期の国学者で

歌人の村田春海の墓がある。

氏は賀茂真淵の門人で仮名遣いや五十音の研究に造詣が深く、

歌人としての古今調の流麗な一派を立て江戸派と称された。

この周辺は深川芭蕉庵の散歩コースになっている。

そしてお寺、神社が多くあり、著名な人のお墓もある。

(たとえば、寛政の改革を行った大名、老中の松平定信など)。

それにしてもステンレス製の案内板は見やすくて良いですネ。

あまり乗る機会が少ない都営大江戸線は

新宿西口から光ヶ丘まで38駅あり、駅数が最も多い地下鉄路線だ。

しかも日本の地下鉄では最深部を走行しており、耐震性に富み、

災害時には救助作業の大動脈として利用されることになっている。

尚、車体、路線図のラインカラーはマゼンタ色。