スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

ホテル グランヴィア京都

2021-03-31 06:20:43 | ホテル・旅館

京都で一晩お世話になったのが京都駅ビル内にある「ホテル グランヴィア京都」。

このホテルはJR西日本系列で他に大阪、和歌山、岡山、広島があり、

ホテル ヴィスキオブランドでは京都、大阪、尼崎などがある。

当ホテルは駅ビル内にあるため利便性が高く、観光で利用するにはそれだけで価値がある。

その上、内容、サービスとも満足させるものを充分有している。

照度が少し落ちて大人の雰囲気が流れる2階部分のフロント・メインロビー。

本ホテルは1997年9月11日開業した。

当初からグランヴィアとして開業したのは実質的には京都が最初だ。

開業当初のコンセプトは「KYOTOの感性の演出と和のアイデンティティの継承」を踏襲し、

「古都の余情と面影」を表現しているそうだ。

ホテルの玄関は数ヶ所あるが、改札を出て駅中央のアトリウムを下り、

エスカレーターでイーストエリア2Fへ上ると外側にガラス張りで

ロビーラウンジ「グランジュール」が見え、メインロビーに出る。

ロビーラウンジ「グランジュール」は90席あり9:00~21:30まで営業している。

これがホテルの案内図。

2Fフロアーにはカフェレストラン、バー、ラウンジ、ベーカリーショップ、日比谷花壇があり、

M3Fには和食、天婦羅処、ホテルショップ、ジュエリーショップ、

アクセサリー&ウェアショップがある。

3Fは宴会場とプール&フィットネス、4Fはウエディングサロン等々だ。

15Fは眺望が素晴らしい最上階レストランがあるが残念ながら今回は行きはぐってしまった。

客室は7Fから15Fまで537室ある。

廊下の所々には窓があり、京都の風景、特に京都タワーの雄姿が目の前で見ることができる。

1枚目は京都駅の南側の夜景、こちらサイドは山もなく、これといった印象的な風景はない。

それに比べ2枚目の北側は目の前にライトアップされた

京都タワーが迫ってきて素敵な夜景を楽しむことができる。

これが12階の客室セミダブルベッド。

グランヴィア京都の客室ベッドはトップアスリートも使用している

話題のマットレススパット「エアウィーヴ」を導入していて、

まるで空気の上で眠っているような快眠環境を提供している。

朝食会場にもなる2階のカフェレストラン「ル・タン」。

席は164席もある。

グランヴィア京都の室内インテリアは日本の美意識が生みだす「真(京都の格式)」

「行(格式をくずす)」「草(素材でやつす)」を表現しているそうだ。

当ホテルは古都に想いを馳せる心地良い空間を提供している。

巨大な駅ビルは様々な施設がある複合ビルでホテル玄関を出ると

京都劇場(https://www.kyoto-gekijo.com/)、

和食レストラン4店舗が入っている和食小路などにつながっている。

これが当ホテル和食浮橋のやさしく画かれた京の朝ごはんのイラストメニュー。

ホテル グランヴィア京都総料理長が、

八代目儀兵衛の五ツ星お米マイスターと吟味したお米を主役に、

京都の名品や季節の食材を取り入れた京の朝ごはんで

贅沢な一日のスタートを切れる。

祇園辻利の抹茶ジュース、半兵衛麩、京のつけものぎおん川勝、

西京こうじ味噌の味噌汁、京の米老舗八代目儀兵衛の御飯など

京ブランドをちりばめた珍しいレシピだ。

最後に南北自由通路から入るM3Fの玄関口。

新幹線からはここが一番近い。

 

 

 

京都の玄関口として、人と文化と情報、

そして「歴史」と「未来」が交差するステージ、ホテル グランヴィア京都。

伝統がもたらす心地よい時間と新しい感動がここから始まる。


浦和エリア旨い店シリーズ ~番外編336~

2021-03-30 06:03:43 | 食~番外編(京都)

広東料理 芙蓉園

京都市下京区市之町240-1

TEL 075-351-2249

定休日 火曜日、水曜日

昭和30年より変わらぬ味をここ河原町で守り続けて先代から受け継いだ味を大事にしているお店だ。

「当店は手作りなので料理に華やかさはありませんが

やさしい昔ながらの味を召し上がって頂きたい」

との2代目オーナーシェフの言葉。

当店は本格的な中華をリーズナブルな値段で賞味できる京都では隠れた超有名店だ。

ご覧のように店内に入ると造りは普通の中華屋さんだ。

店内はカウンター席は4席、テーブル席は10席、2階には宴会27席ある。

実は当店は以前TVで土井善晴の美食探訪

「美味しいに決まっている店」で取り上げられ、今回予約をした次第。

その番組では京懐石の巨匠・菊ノ井の村田吉弘大将がよく来る店として紹介をしていた。

それ以外に俳優・角野卓造の本「予約一名、角野卓造でございます。」

でも紹介された京都中華の代表的お店であります。

これが芙蓉園のメニュー。

狭い店だけにちょっとビビりながらこの5枚を撮った。

額から汗だ。

メニューを見て一番に感じたことは決して上手な字ではないが

手書きの温もりが伝わってくる人間味。

まず1月2月のおすすめメニュー6種。

京都山黒毛和牛の甘みそ炒め蒸しパン包み(蒸しパン4個 2,200円)は

美食探訪ででてきたメニューだ。

次に前菜、揚げ物、煮物、炒め物、玉子料理、点心と続き、その次がご飯、麺類、デザート。

特に目に止まったのが𢭐麺(ロウメン)990円 (海老 かしわ からしそば)。

茹でた麺にからしを和え、野菜スープのあんかけをかけたもの。

こちらがカウンター越しにチラッと見えるオーナーシェフ。

ところで皆さん、「京都中華」というものを知っていますか?

京都の中華は一種独特のもので古くから花街の芸妓、舞妓さんへの配慮もあり、

ニンニクを使わず出汁で旨みを引き立てる中華だ。

まさに大正時代以降、古都の歴史が育んだ味で京都人の大好物だ。

店内で「店主のこだわり」というすごいメッセージを発見。

ハートマークの中にこだわり7項目が書かれてあった。

・店が使用している麺はすべて自家製です。

・スープは毎日、生の鶏ガラから出汁を取っています。

・店で豚もも肉のミンチを作ってからシュウマイを手作りしています。

・春巻は皮から手作りです。

・京都産のお米です。

・豚もも肉の特にやわらかい部分をやきぶたにしています。

・デザートももちろん手作りです。

最初に出てきたのがいかにも美味しそうなザーサイ。

小皿のデザインもいいですネー。

ザーサイの浅漬けはお通しみたいなもの。

それでは本日のメインイベント、鶏肉入り玉子焼き(鳳凰蛋-ホウオウタン)770円。

この絶品は菊乃井の巨匠・村田大将がTVで絶賛していたもの。

きわめてシンプルだがものすごく奥が深く、食材も鶏肉と玉子だけという究極の料理だ。

まさに料理人の腕の瞬間芸が発揮される緊張の逸品だと思う。

それに比べてこのチャーシュー多めチャーハン990円はホウオウタンの非日常の世界から

日常の世界へ戻ってきたような感覚になってしまったのが残念であった。

期待過剰になりすぎてしまったのか。

満足感に満ち足りて周りを見渡すと熱帯魚の水槽が

みずみずしく爽やかに感じた。

そしてもう一つのしつらえがミッキーとミニー、

ドナルドなどのディズニーキャラクターによる雛飾り人形が

微笑ましくとてもチャーミングに見えた。

これも美味しいものをいただいて満ち足りた気分が何でもハッピーにさせたのでは・・・。

 


建仁寺

2021-03-29 06:12:50 | 旅 ~京都

八坂の塔付近から夕食を予約した河原町方面へブラブラ歩いて行くと建仁寺の境内に出た。

建仁寺は若い時以来だったので良い機会と思い広い境内を歩いてみた。

東山区にある建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山で山号を東山(とうざん)という。

本尊は釈迦由来で開基は鎌倉幕府2代将軍・源頼家、そして開山は栄西だ。

創建年は建仁2年(1202年)になり、京都五山の三位の重要なお寺で京都最古の禅寺だ。

開山堂、開山塔ともいう。

開山栄西禅師の基所で旧名を護国院。

明治17年に再建され、中には入定塔があり栄西禅師の木像が奉安されている。

三門一望けつ楼の別称がある。

浜松市(旧浜名郡雄踏町)の安寧寺から大正12年に移築したもので江戸時代末期の建築である。

三門から見た法堂。

建仁寺の伽藍は栄(中国)の百丈山に擬して造営された。

当寺も応仁の乱に巻き込まれて火災が多く、創建当時の建物は残っていない。

ご開山、茶祖栄西禅師は宋の国(中国)から我国にお茶の種子を持ち帰られた。

茶碑後方の茶園は「茶」将来800年(平成3年)を記念して植樹栽培した平成の覆い下茶園です。

豊臣秀吉を祀る高台寺や八坂の塔のある法観寺は建仁寺の末寺だそうだ。

知らなかったナー。

建仁寺を地元では「けんねんさん」の名で親しまれているそうだ。

ここの法堂は仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(はっとう、講堂にあたる)を兼ねている。

明和2年(1765年)の建立で2002年(平成14年)に創建800年を記念して

天井に小泉淳作により「双龍図」が描かれている。

本坊(庫裏)は文政元年(1818年)に建立された。

方丈と大玄関。

方丈は重要文化財で長享元年(1487年)の建立で、もと安芸国の安国寺にあり、

安国寺恵瓊が慶長4年(1599年)に建仁寺に移築したもの。

東側に設けられた大玄関を介して本坊と連結する。

建仁寺では俵屋宗達作の超有名な風神雷神図(国宝)。

海北友近の襖絵など文化財を豊富に所蔵していることでも知られている。

広い境内の小さな掲示板には次のようなメッセージのポスターが張り出されていた。

「祇園の花街の中にあって、一歩境内に踏み入ればそこはまったくの別世界。

静寂な空気が漂い八百年の歴史と禅のこころを感じさせる。」


浦和エリア旨い店シリーズ ~番外編335~

2021-03-28 18:48:23 | 食~番外編(京都)

京甘味 文の助茶屋本店

京都市東山区八坂上町373

TEL 075-561-1972

定休日 水曜日

https://ecstore.bunnosuke.jp/

八坂の塔から二年坂の方へ坂を上っていく途中に京都ならではの風情ある甘味処があった。

時刻も夕方近くなり午前中から歩きづめで喉が渇き、

甘いものが食べたくなったので、ここで一服することにした。

明治の落語家・甘党の桂文之助が

明治42年に甘酒茶屋を始めたのが当店の始まり。

創業当時の看板商品は「甘酒」。

初代が残した文献には「今は昔、慶長の頃京都東山にて豊臣秀吉の奥方、

北の政所が秀吉の菩堤を弔うため、高台寺を建て高台院湖月尼となり、

尼の好む酒として、甘酒を共に、女人の好む処、殿甲より尼酒が甘酒に」とあり、

甘酒が看板商品となった。

当店のメッセージによると「粋な客が多くお越しいただけるよう努め、

変わっても変わらない、田舎風のよさを残し、

それでいてその時のお客様の憩いの場となれるように・・・

そのような思いで今日までやって参りました。」

「粋様参る無垢な店 ー京に田舎あり」

いいですネー。

八坂神社から清水寺の東山界隈を散策する

旅人や参拝者の疲れを癒してくれる空気が流れているお休み処。

文の助茶屋はまさにそんな甘味処だ。

尚、当店は他に清水店(東山区清水)、名古屋高島屋内にも支店がある。

本わらび粉と和三盆だけで作った本生わらびもち無比2,000円、

名物甘酒600円、わらびもち500円、抹茶わらびもち550円、

そしてぜんざい系、あんみつ系、セットもの、

抹茶、あずき、きな粉ラテ、おうす(お抹茶)600円など

和の甘味がずらりラインアップ。

こんな雰囲気の店で和の甘味。

旅の疲れも本当に癒されます。

おうすとわらびもちのセット850円+税。

京都といえばわらびもち。

わらびもちを世に広めた明治の落語家・桂文之助から100年以上の間、

脈々と引き継いできたわらびもちの味がここにあった。


八坂の塔(法観寺)

2021-03-26 06:28:37 | 旅 ~京都

よくTVなどで京都といったらこの八坂の塔とその街並の映像が紹介される。

それほど街中にそびえ立つこの五重塔は京都のランドマークとなっている。

京都には四大五重塔といわれている有名な塔がある。

その一つがこの塔で高さ46m、京都祇園には欠かせない。

京都で一番高い塔は東寺(教王護国寺)の高さ55m。

京都最古の塔は38mの醍醐寺の五重塔。

高さ33mの仁和寺の塔は屋根の大きさが各層同一の安定して見える塔だ。

八坂の塔の近くに小ぶりなお寺がある。

ここはインスタ映えで話題の「八坂庚申堂」だ。

創建はとても古く平安時代の960年で天台宗大黒山金剛寺という。

開基は浄蔵貴所といわれ日本最古の庚申堂で日本三大庚申の1つだ。

他には大阪四天王寺庚申堂、東京入谷庚申堂(現存せず)だ。

現在のお堂は1679年の再建。

庚申とは干支の庚(かのえ)申(さる)の日をいい、

地元では「八坂の庚申さん」の愛称で親しまれている。

ここでは欲をコントロールすることが願い事を叶える秘訣といわれ、

手足をくくられて動けなくなった猿の姿のお守り「くくり猿」大500円。

祈祷済を本堂、融通尊のいるお堂におびただしい数のくくり猿が吊るされている。

他のお寺では見られない何ともカラフルな光景だ。

本堂の前には庚申の使い「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿の像もあった。

八坂の塔の下に人力車が客待ちをしていた。

なんとも八坂の街にえびす屋の人力車は溶け込んでいて絵になる。

一瞬今は令和の時代からタイムトリップして昔の日本に戻ったようだ。

この法観寺は592年崇峻天皇が創建。

開基は聖徳太子と伝えられている。

臨済宗建仁寺派の寺で少なくとも平安京遷都以前から存在した

古い寺院であることは確かだそうだ。

この五重塔は永享12年(1440年)に再建されたもので重要文化財だ。

この寺の境内は狭く、塔以外に目立った建物がないことから、

八坂の塔は寺自体を指す通称となっている。

「そうだ京都行こう」の有名なキャッチコピーと同時に

あの音楽が聞こえてくるような「This is KYOTO」の写真です。

本当に絵になりますネー!

八坂の塔から二年坂に向かう途中に、

板塀の上になんとも芸術的な顔のお面がディスプレイしてある蔵の家がある。

帰って来てこの写真をよく見たら、

この面の写真を撮った人は代金を払って下さいと書いてあった。

知りませんでどうもすいません。

この素敵な通りにはやはり和装、着物がよく似合う。

ここで古風な結婚式を挙げていたカップル。

着物を着た若い女性など絵になる光景が続いていた。

やはりこの塔と坂道と家々は不思議な力を人々に発信している。

こちらはやはり人気の二年坂の風景。

通常だったらこの通りは大変な賑わいなのに、

ご覧の通り、コロナのせいで人気がほとんど消えていた。

八坂の塔周辺の味のある地図と東大路から見た

うっとりするような八坂の塔を今一度堪能してください。


同志社大学

2021-03-25 06:21:34 | 旅 ~京都

相国寺を出るとすぐレンガ造りの瀟洒な西洋館が現れて来る。

そうです、相国寺の隣には関西の私大の雄・同志社大学の今出川キャンパスがありました。

同志社大学といったら昔、学生時代に学生運動の理論武装で

数日間合宿をしたことを思い出し懐かしさでキャンパス内を散策することにした。

こちらが正門です。

こちらが今出川校地のキャンパスマップ。

近くには室町キャンパス、新町キャンパス、烏丸キャンパスがある。

同志社大学(略称:同大)にはキャンパスが7ヶ所、現在14学部、16研究科(大学院)、

学生は約3万を擁する大規模大学だ。

正門を入るとすぐの所に同志社大学の創設者・新島襄の言葉が

直筆の文字で刻まれている「良心碑」がある。

「良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ」

新島襄永眠50年を記念して1940年(昭和15年)に建てられた。

日米各地に8本あるそうです。

校内には他の新島襄の言葉が表示されていた。

同志社の建学精神はキリスト教精神に基づく「良心教育」。

知識教育に偏ることないようキリスト教に基づく「徳育」を並行して進め、

良心の全身に充満した人々を輩出した。

1887年(明治20年)同志社最初の図書館「書籍館」として竣工した「有終館」。

重要文化財である。

D.C.グリーンによる設計のレンガ造の建物で、当時は日本最大の図書館であった。

天を突く尖塔が同志社のシンボル的存在の「クラーク記念館」(重要文化財)。

1893年(明治26年)の竣工で、アメリカのB.W.クラーク夫妻が

亡くなった子息のメモリアルホールを造ってほしいと申し出たことで寄付を得てできた。

設計は東京の官庁街の設計に携わっていたリヒャルト・ゼールで

ドイツのネオゴシックを基調とする重厚な建物だ。

いかにも大学のキャンパスらしい風景だ。

この日は土曜日、コロナの緊急事態宣言下ということもあってか、

キャンパス内はほとんど人気が無かった。

同志社の創立は明治8年(1875年)、京都山城の地に開かれた私塾がスタートだ。

明治六大教育者の1人、キリスト新教改革協会組合派の清教徒・新島襄が創設した。

この広大な敷地は旧薩摩藩邸跡で隣接して冷泉家、

南に京都御所、北に相国寺というロケーションにある。

この建物は「至誠館」という校舎。

1980年(明治23年)竣工の「ハリス理化学館」。

理科教育をめざした新島襄の情熱に応えたアメリカの実業家J.N.ハリスから

10万ドルの寄付を得てハリス理化学学校(理工学部の前身)として建築。

英国王立建築士会所属のA.N.ハンセンの設計で正規のイギリス積みの煉瓦建築。

これも重要文化財の建物です。

1886年(明治19年)竣工で重要文化財の同志社礼拝堂(チャペル)。

日本にあるプロテスタント派の煉瓦造りの礼拝堂では最古のもの。

外観はアメリカ・ゴシック調の鉄板葺き。

急勾配の切妻屋根が美しい建物。

設計はD.C.グリーンで同志社の歴史とキリスト教精神を象徴している。

この建物は同志社大学図書館とEU情報センター。

同志社大学は西日本の私立大学で初めて大学令に基づいて1920年設置された旧制大学だ。

教育理念は「キリスト教主義」「自由主義」「国際主義」で国際化を積極的に推進し、

アメリカ、ドイツの大学と提携している。

校歌も同志社カレッジソングとしてアイビリーブのイエール大学の校歌、

ブライト・カレッジ・イエールと施律が同じだとか。

因みに日本語の校歌は北原白秋作詞、山田耕筰作曲の大学歌だ。

1884年(明治17年)竣工の「彰栄館」これも重要文化財。

アメリカンボードから7,500ドルの寄付を得て建築。

同志社教員の宣教師D.C.グリーンが設計し、施工は大工の棟梁・尾瀧菊太郎。

そのため外観はアメリカンゴシック調だが、内部は小屋組などの技法が純和風になっている。

相国寺から歩いてきたら同志社大の裏側の東門、神学館、待辰館を通った。

初めはここが同志社ということがわからず、洒落た建物だナとパチリパチリした。

大学の校舎施設は今までご紹介したように洋風で統一感のある校舎群が美しい。

又、逆に建物に古風な名前を付けているのもインパクトを感じた。

手前が2012年10月、同志社中学校移転跡に完成した「良心館」。

地下2階、地上5階の校舎だ。

そして左奥に小さく見えるのが2004年に竣工した寒梅館。

新島襄が詠んだ寒梅の詩にちなんで命名された。

こちらは烏丸通りに面した校門と北面の擁壁。

一見するとこちらの方が正門のように思えてしまう。

同志社の徽章は正三角を3つ寄せたもので

国あるいは上を意味するアッシリア文字で「ムツウ」を図案化されたもの。

知徳体の三位一体と調和を目指す教育理念を顕するものだ。

又、スクールカラーはロイヤルパープル(古代紫と江戸紫の中間色)と白の2色だ。

外に出て今出川通りを歩くとある一角が古い和の門構えがあらわれた。

ここは藤原定家という歌人の子孫の冷泉家の邸宅らしい。

本当に京都は文化と歴史のかたまりの街だ。

同志社の構内で建築現場があり、その許認可の表示を見ると

関東地方では見たことのない規制がかかっていた。

それは「京都市風致地区条例による許可」で京都市建築物環境配慮性能表示の中で

この現場は標準システムによる評価がA(4つ星)重点項目・大切に使う4つ、

ともに住まうが4つ、自然からつくるが3つマーク。

マークには「DO YOU KYOTO」と書かれてある。

そしてこれはCASBEE京都による自己評価結果と記されている。

これを見るとこの意味を詳しく聞きたくなる。


相国寺

2021-03-24 06:36:13 | 旅 ~京都

京都市上京区にある臨済宗相国寺(しょうこくじ)派の大本山。

山号は萬年山(まんねんざん)で京都五山第二位に列せられる名刹だ。

ここは日常の門である総門、現在のは寛政9年(1797年)第113世梅荘和尚により復興した。

大本山相国寺の全景図。

相国寺の創建は永徳2年(1382年)室町幕府3代将軍・足利義満が花の御所の隣接地に

一大禅宗伽藍を建立することを発願し、夢窓疎石を開山とした。

応仁元年(1467年)応仁の乱の細川方の陣地となり都合4回も焼失し、

さらに1788年の天明の大火で法堂以外はほとんど焼失。

現在の伽藍の大部分は19世紀はじめの文化年間に再建されたものである。

当寺に入って境内を歩いてみるとなんとなく皆新しく見えたのは

そのような背景によるものだということがわかった。

放生池に架かる天界橋。

天界とは当寺と栞裏御所との中間に境界線の役目をはたしているところから名付けられた。

天文二十年(1551年)に相国寺が焼失した天文の乱は、この橋をはさんで始まった。

現在の橋材はその当時の旧材です。

三門跡には数個の礎石が今なお残されており、

天明8年(1788年)大火の後再建されていない。

光源院は相国寺二十八世元容和尚の塔所で

応永二十八年(1421年)に再建され広徳軒と称していた。

永禄八年(1565年)足利義輝が死去してその菩堤寺となり、

義輝の院号により光源院と改称した。

相国寺の参道は大変長くとてもよく整備されていて気持ちが良い。

その相国寺は足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺で、

しかも五山文学の中心地、画僧周文や雪舟も当寺の出身だそうだ。

又、意外に知られていないのが京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)

慈照寺(銀閣寺)は相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)だ。

これは知らなかったなー。

この鐘楼は一名「洪音楼」といって天明の火災で焼け、

寛政元年(1789年)4月、古鐘を買って仮楼にかけ、天保14年(1843年)現在の層楼を築成した。

袴腰付鐘楼ともいわれ、大型のものでは現在有数のものだ。

禅院の庫裏(くり)に多い切妻妻入で、大きい破風や壁面が特に印象的だ。

方丈と接続しており、香積院と号し文化4年(1807年)の建立と伝わっている。

バランスの良い立面を持つ相国寺の庫裏は

五山の大型庫裏の遺構として歴史にも貴重なものだそうだ。

この法堂(ハットウ)は慶長10年(1605年)豊臣秀頼の寄進により、

5回目の再建になり我が国法堂建築の最古のもの。

法堂は無畏堂と称して本来畏れることなく法を説くためのお堂であり、

又、説法によって衆生が煩悩の苦しみから離れて生き返り蘇生する願を含まれ、

講堂的役割を果たしている。

昭和25年に文化財保護法によって重要文化財に指定された。

この天響楼は珍しくつい最近の平成22年(2011年)夏に建立し

落慶法要が行われた本当に新しい鐘楼だ。

この鐘は中国開封大相国寺により二つ鋳造され、

その一つが日中佛法興隆・両寺友好の記念として寄進されたもので

友好記念鐘の銘が刻されている。

この経蔵は天明の大火によって焼失した宝塔の跡地に万延元年(1860年)に建立された。

第120代世和尚の寄進により宝塔が再興される折に、蔵経置場を兼用することになり、

以来、経蔵を兼ねた宝塔として機能してきた。

本堂の裏手、承天閣美術館へ行くアプローチは素晴らしく整備されていて

清々しい気持ちになれる空間だ。

京に春を告げる梅の花も咲き始めて本当に気持ちが良かった。

承天閣美術館は昭和59年4月、相国寺創建600周年記念事業の一環として

本山相国寺、鹿苑寺(金閣)、慈照寺(銀閣)、他塔頭寺院に伝わる美術品を受託し、

保存及び展示公開、修理、研究調査、禅文化の普及を目的として建設された。

現在当館では国宝5点、重要文化財145点を含む

多くの優れた文化財が収蔵されており、様々な展開を行っている。

伊藤若冲筆「中鶏左右梅図」。

当寺と近世京都画壇の奇才、伊藤若冲とは深いつながりがある。

墓地も当寺にある。

水墨画の傑作である重要文化財「鹿苑寺大書院障壁画」の一部も移設してある。

狩野探幽筆の「探幽縮図」。

江戸時代、寛文年間(1661年~73年)頃の作品で重要美術品。

展示室への移動の中途に明るく開放的な休憩できる廊下があり、

オープンなガラス越しに見渡せる庭園が素敵だった。

相国寺は地理的にも文化的にも京都の中心で在り続けていたことはあまり知られていない。

室町時代15世紀に飛鳥井雅縁賛が画いた「足利義満像」。重要文化財。

本肖像が伝来した鹿苑寺は義満の山荘、北山殿を前身としている。

伊藤若冲筆の「群鶏蔬菜図押絵貼屏風」。

江戸時代に描かれた六曲一双の神本墨画。

鶏図は若冲の最も得意とする画題であり、水墨、色彩共あらゆる姿態で描かれている。

一部前述したが相国寺瑞春院(雁の寺)には伊藤若冲をはじめ、

足利義政、藤原定家、藤原頼長、長州藩士の墓がある。

この頃は歩き疲れ、頭がボーッとしていたのでこのことを知らず、

前を通ったが中に入らなかった。

実に残念なことをしてしまった。

また訪問する機会があったら是非立ち寄るよう、頭にインプットしておこう。

 


浦和エリア旨い店シリーズ ~番外編334~

2021-03-23 06:16:33 | 食~番外編(京都)

大國屋鰻兵衛(おおくにやまんべい)

京都市中京区堺町通錦小路上る菊屋町534

TEL 075-255-2590

定休日 水曜日、第4火曜日

営業時間 11:00~15:00(LO 14:30)

※売り切れ次第終了

https://manbei.bubu-unagi.com/

錦小路から堺町通りを上って数軒の所の京町屋に数年前に開店した

炭焼きうなぎと土釜ご飯専門の話題のお店が大國屋鰻兵衛さんだ。

今浦和でお世話になっている京都の大学出身の

スーパーレディの方の推薦で予約を取って来店した。

今回の京都に来たキッカケはTVで見た

錦市場の歴史と現状に感動を受けて(特に伊藤若冲の生き様)

久し振りに錦市場の空気を肌で触れたかったからであります。

玄関を入ると目の前に小さな床の間的スペースがあり、この空間にも京の雅を感じてしまう。

その中に祇園祭の名物のひとつ「ちまき」があった。

このちまきは笹の葉で作られた疫病・災難除けのお守りで毎年祇園祭のときだけ

各山鉾のお会所や八坂神社で販売されている。

京都では多くの人がこれを買い求め一年間玄関先に飾っています。

店内はこじんまりしていてテーブル席のみ12席。

お店の一番奥にはいかにも京都らしい坪庭が店内の空間を豊かにしてくれる。

ソファー席の後の京壁には大きな2つの書がよい雰囲気作りに一役買っている。

この暖簾の奥が厨房になっていて、

内側の壁には沢山の著名人の色紙が貼ってあった。

奥に飾ってある所などいかにも京都らしく奥ゆかしい。

当店の昼のシステムは11時、12時半、14時の3回転制。

お店の人気度と席数から事前予約は必須だ。

尚、当店は2019年ウエストエリアのうなぎ部門で百名店に選ばれている。

お品書きはただ一つ。

炭焼うなぎと土釜ご飯のみ。6,600円(税込)。

最初に出てきたのが、ちりめんじゃこ、京漬物などのお通し。

喉が渇いてビールをオーダーしたので酒のつまみに丁度よいものが出てきた。

これが大國屋さんの逸品だ。

うなぎを焼いたり土釜でご飯を炊いたりして約30分。

当店は飲み屋さんではないので酒は二合、ビールは2本までとしている。

とても良くわかります。

うなぎの街、浦和出身の自分としては是非本格的な関西風の蒲焼きを賞味したくて

今回大國屋さんを予約してきた。

うなぎを腹から裂いて頭を付けたまま香ばしく焼き上げるのが関西風。

関東の方はこれに蒸し工程が入る。

当店でも強く感じたが蒸したものより歯応えがある。

悪く言えば硬い。

やはりこれは好き好きの差があるが、

永年久しんだ関東風の方がやはり個人的には好きだナー。

因みに関東では背開きで、腹開きは切腹をイメージし忌み嫌っている。

(江戸の武士文化故に)

蛇足だが、この鰻は三河一色産の国産うなぎを使っているらしい。

そして粉山椒はお店の方針で置いていない。

当店は鰻だけではなく釜炊きのご飯にも非常にこだわっている。

ちょこっと舞台裏の調理場を覗いたが、

この陶器のお釜が並んだ風景はとても圧観であった。

そして銀シャリの上に乗った蒲焼の色艶はあくまで美しい。

そして〆は名物「ぶぶうなぎ」だ。

汁ものはハマグリのお吸い物で洗練された上品な味でサスガだ。

こちらの人が当店大将の大旦那さん。

京都での大学生活で大変可愛がってもらったという

スーパーレディの話をしたら、とても懐かしがっていた。

こちらは錦市場にある明治45年創業のうなぎで名高い川魚の店「大國屋」さん。

そうです、大國屋鰻兵衛の母店になるお店で

現在は大将の息子さんが4代目として頑固に作り方を守っている。

鮎、モロコ、うなぎなどは店の奥の水槽に生きたまま泳がせており、

新鮮なものをここから出して焼いたり煮たり佃煮にしたりしている。

うなぎは愛知県産の国産うなぎ、岡山県児島湾で獲れた瀬戸内の天然うなぎにこだわっている。

当店は小さな間口の店だが、その評価は広く響き渡っている。

この日もいかにも常連客のような雰囲気の年配者女性達が

店頭で井戸端会議で盛り上がっていた。

こちらは大國屋鰻兵衛の大将の奥さん。

ここでもスーパーレディの話をしたら、

彼女、元気でしっかり仕事してるかしら!彼女は人一倍頑張り屋さんだったから。

と、気にしていた。


錦小路通-Ⅱ

2021-03-20 06:51:07 | 旅 ~京都

江戸時代中期に京都で活躍した絵師・伊藤若冲(1716年~1800年)は

錦市場の青物問屋の生まれです。

錦市場の西の入り口、高倉通の所に生家跡を示すモニュメントがある。

「野菜湟槃図」をはじめ若冲の描く絵画のなかには青物問屋の息子の為か、

蕪、大根、レンコン、茄子、カボチャ、柘榴、密柑、桃といった果物までが題材として登場します。

錦小路のアーケードの出入口の所には

ご覧のような若沖の作品の垂れ幕が何ヶ所もぶら下がっていた。

伊藤若冲は写実と想像を融合させた独自の作風から”奇想の画家”などとも称されている。

ドギツイまでの濃彩、極小の細部にまでこだわった緻密な描写。

空前絶後と言ってもよい独創的な表現で他の絵師には見られない独自の世界を生み出しました。

自らの表現を追求し続けた結果、個性的で魅力的な作品を数々残しています。

奇抜な構図、卓越した技巧、見る人の心を射抜くような色彩の作品で知られる伊藤若冲。

近年、日本にとどまらず欧米でも知名度と人気を高めています。

錦市場では店のシャッターをはじめ各所でその絵を見ることができます。

パートⅡは西端の若冲誕生の地から寺町通りに向かって紹介いたします。

錦市場を西の入口から入るとすぐの煎餅と団子の店「寺子屋本舗 錦店」。

豆腐の販売と豆腐料理のレストランを営んでいる「錦そや」。

オリジナルのごくうま豆腐(絹)はコクがあって豆の味が強い焦がし豆腐です。

レストランの一押しは豆乳鍋セットだそうだ。

大正10年の創業ですから約100年になる生牡蠣の専門店「錦・だいやす」。

生牡蠣の他に新鮮な魚介のお造り、おばんざい、天ぷらなどのメニューもある。

築200年の建物の奥に進むと飲食スペースがあり、そこからの裏庭の眺めが素敵です。

現在の錦市場の地で創業し、現在も営業を続ける錦市場内店舗のうち、

(すし)伊豫又、鮮魚木村、(鮮魚)津乃利、津之喜酒舗、

湯波吉(創業順)に続き6番目に古い「田辺屋商店」。

1830年創業の京都老舗乾物店です。

昭和25年に先代が開業した鮮魚店「錦 大丸」。

ブリ、鯛、鰆・・・季節ごとに変わる旬の鮮魚は

50年間市場に通ってきたご主人の目利きで選んだ新鮮なものばかり。

イワシ、サジは生姜で炊き、白身魚は程よく味付けをし、店の奥で調理している。

大正元年(1912年)創業の100年以上続く和菓子屋さん「畑野軒老舗」。

京都の生菓子は庶民のお菓子なので、

”この季節になるとあれがあるかなぁ”と思ってもらえるよう、

季節を感じるような商品をいろいろつくっている。

カウンターのみ店員5人という肉寿司の立ち食い店「牛兵衛」。

肉は近江牛、しかもA5ランク(最上位)のものを使用。

とろけるような美味しさにタメ息が漏れる。

錦市場に店を構えて約90年。

親子ふたりで切り盛りする家庭的なお店の「鳥豊」。

鶏肉と川魚を中心に扱うお店。

鮎の甘露煮、モコロ醤油煮などの自家製のものと合鴨が人気商品。

辛い物好きにはたまらない唐辛子の専門店「おちゃのこさいさい錦店」。

なかでも激辛好きを虜にしているのが「舞妓はんひぃ~ひぃ~」シリーズ。

その他にも風味にこだわった「柚子七味」や「黒七味」、

ごはんが止まらなくなる「京らー油ふりかけ」など唐辛子専門店のこだわり商品がいっぱいです。

「誠実」「信頼」「信用」江戸中期に西京極で営んでいた酒造業の屋号を

今に受け継いでいる京漬物「桝俉本店」。

今の漬物屋さんになったのは昭和5年。

錦市場の中に3店舗を構えている。

毎日店の奥の作業場で漬け込んでいる。

店主は京都市伝総産業「未来の巨匠」に認定。

たゆまぬ研究と創意工夫に励み、新商品の開発に余念がない。

当店で買ったべったら漬けと千枚漬は絶品でした。

長いアーケードの天井のステンドグラス。

絵の内容は何を物語っているのだろう。

ここで錦市場での伊藤若冲のエピソードについて記してみよう。

明和8年(1771年)から安永3年(1774年)までの錦市場の動向を伝える「京都錦小路青物市場」によると

じつは若冲が錦市場の存続に関して積極的な活動をおこなっている。

そのころ錦市場の営業をめぐる争議が起こり、若冲は画業を中断して町年奇として解決に尽力。

その結果、錦市場は窮状を脱することになった。

若冲は錦市場の恩人であり、錦市場の「中興の祖」といっても過言ではないのです。

昼時にいつも行列ができている70年以上続くうどん屋さん。

長年地元のお客さまに支持をされてきたのは材料と手間を惜しまない姿勢で、

良い材料をふんだんに使って美味しいものを作り続けてきたから、

特に京都のうどんには良いおだしが大事。

店頭に並ぶ串焼きに思わず目が行きます。

こちらは昭和25年に先代が開業した鮮魚店「山庄」。

串焼きは子持ちヤリイカ、貝柱照り焼き、バター焼きなど。

やはり京都ですからくじ(甘鯛)が一押しで年中ある。

創業75年、現代では3代目の鮮魚塩干「畠中商店」。

「100年以上の店が多い錦市場では、まだまだ中堅です」と謙遜して語る。

現在は持ち帰りのできる加工品にチカラを入れている。

四季折々のお惣菜を毎朝一つひとつ丁寧に作り続けている創業100年を超える錦市場のお惣菜屋さん。

特に店頭で実演している鰹と昆布で煮だした出汁を使って

優しくて飽きのこない味に仕上げただし巻が当店の一番人気。

「漬物は生きています」昭和15年、京都・島原にて開業した「打田漬物 錦小路店」。

厳選された野菜を熟練の職人達が季節ごとに重石や塩を加減し漬け込んだ京つけもの。

看板商品は「京の里」の胡瓜のしば漬け、「おんぶ漬け」の大根の酢漬け。

SNOOPYファンの間ではもはや知らない人はいないほどの有名なお店。

SNOOPYファンにはまるでパラダイスなお店だ。

古い都の町家を改造したお店の1階にはさまざまなSNOOPYグッズが売られている。

2階はレストランでどら焼きやソフトクリームが人気。

柳馬場通りと錦小路の十字路角にある京錦箸や万作「猫まっしぐら」。

半分が箸の店で半分が猫の店という不思議な組合せ。

「箸や万作」という箸の店と「猫まっしぐら」という猫をテーマにした和雑貨の店。

「日本のカルチャーを世界へ」。

そんな願いを込めて、かの北斎に名を借りたという傘の専門店「京錦 北斎グラフィック」。

オリジナルなデザインや仕様の傘が店内を飾ります。

その数はなんと約200種類以上。

私にとっては傘は嗜好品。

目移りする程素敵な傘が並んで、その誘惑に負けて雨も降っていないのに1本買ってしまいました

 

昭和22年創業の「丸常蒲鉾店」。

すり身は今でも頑なに石臼を使っている。

かつて錦市場に数件あったという練り物と揚げ物の製造販売店もいまはこの店だけとなった。

おでん種や本格蒲鉾だけでなく創作揚げ物まで揃います。

錦市場の長い長い歴史の中では幾多の危機があった。

前述した1771年の奉行所からの営業停止命令、1883年の三店魚問屋の特権廃止、

1927年全国初の京都中央卸売市場開設、一時錦の命、錦の水地下水が枯れかけたこと。

錦市場の隣に大手デベが地上げをし組合で即買い取ったことなど。

このように多くの苦難を乗り越えて今日の錦市場があり、

その結束力はただものではないものがある。

今回の新型コロナの危機もおそらく錦市場は乗り越えていくにちがいない。

錦市場、いや京都にはそのパワーと歴史がある。

 

 


錦小路通-Ⅰ

2021-03-19 06:21:59 | 旅 ~京都

京都市中京区のほぼ中央に位置する錦小路通のうら

「寺町通・高倉通」間に存在する食品販売中心の商店街が錦市場である。

今回は理由があって錦天満宮のある寺町通の方から一軒一軒ほぼ全店、写真に納めてきた。

その中から気になったお店、主だったお店を紹介しましょう。

錦天満宮から寺町通を下り、すぐ右に折れると錦市場に入るが、その手前に奇妙な石の鳥居がある。

この鳥居は昭和10年に建てられたものであるが、その後に設計ミスがわかり

(鳥居上部の両端を考慮せず柱の位置だけで道路幅を決めてしまった)

区画割りを基に両側にビルが建てられたためビルの中に一部めり込んでしまった。

京つけもの処の「錦・高倉屋」。

当店は錦市場の東の端。

通りに建ち籠めるヌカの香りと店頭に並んだヌカ漬の木樽が目印。

丹波の黒豆の専門店の「豆招福」。

ここの豆菓子は味もよく、京土産の優れものの一つ。

抹茶豆、黒胡麻とうふ豆、きなこ豆、そして黒豆茶など。

錦市場は寺町通りと高倉通りの間390mの長い商店街でその間に約130軒の店が軒を連ねている。

道幅は3.3メートルから5メートルと狭く、

赤・黄色・緑のアーケードは錦市場の象徴のようになっており、雨の日も散策が楽しめる。

「四寅」は京野菜を中心に野菜や果物を扱い続けて約110年。

明治43年の創業です。

料亭や料理屋さんへの卸しがメインですが、

店頭での小売りやネット販売にもチカラを注いでいる。

千本三条でお肉の名店として名高い「弘(ひろ)」が展開する

精肉店、飲食店、イートインが一体となったお店です。

錦市場限定の「牛トロ炙り寿司」、弁当、総菜はテイクアウトにおススメ。

京都市内でも数は少なく錦市場でも3軒しかないという川魚の専門店「川魚のとよ」。

店頭に並ぶ商品は店の奥でお客が滅多に目にしないような作業所で加工。

店の奥とは「奥の商売」と称され、懐石料理店への納品準備もしている。

この店「櫂 KAI」の店頭は他のお店とは様子が違い、

カウンターのような構えになっていて、そこに商品がずらりと並んでいます。

それもそのはず、ほぼすべてが試食ができます。

ここは、ふりかけ、珍味、おつまみの専門店です。

特に人気商品は飯蛸の頭にうずらの卵を入れた「たこたまご」だ。

錦市場で唯一のゆば製造販売店「湯波吉」。

店の入口に立つ札には錦市場に店を構えたのは江戸時代(寛政2年/1790年)とある。

ここで湯葉を作り続けているのは錦の地下水があってのことと言う。

現在の店主は創業から9代目だそうだ。

ミシュランガイドに掲載されるようなレストラン、老舗旅館、

有名料亭などを顧客に持つ鮮魚の「丸弥太」。

店奥にある水槽に泳ぐ活けの魚がメイン。

歴史を大切にしているお店で100年以上、京料理に育てられてきた魚文化を安売りしたくない、

錦市場らしい品格を保つことがストロングポイントだと言い切る若き店主です。

大正8年から続く焼魚の専門店「錦魚刀」。

店内には香ばしく焼き上がっていく魚の良い香りが漂っている。

この店ではとくに鯛と鱧にこだわっている。

中でも店内で食べることができる鱧天と鱧カツは絶対のオススメだそうです。

祝い鯛は地方からの注文にもお応えして発送している。

店頭の実演販売に思わず足が止まる。

焼き栗を中心に丹波の物産品などを販売している「京丹波」。

このお店の看板商品「焼きポン」は厳選された特選栗のみを使用し、

香ばしくホッコリと焼き上げている。

創業約100年、錦市場に出店して70年。

「ええもん仕入れて、ええもんだけ売る」。

そのことを常にモットーとしている「かね秀」。

朝早い時間からの営業なので、他店がオープンするころにはもう店頭に魚の姿は少なくなっている。

高級料理店への卸しが中心。

写真のようにタイ中骨20円、タイ頭300円などプロっぽいラインアップだ。

明治30年創業の鮮魚、魚類加工品、総菜の「渡半」。

この店は120年を超える歴史があり現店主は4代目。

今は河豚、鱧、牡蠣などの調理・加工・販売が中心。

京都でないと味わえない食材を揃えて観光客にも喜んでもらえるよう、

お造り、唐揚げ、湯引きした旬の食材が味わえる。

市場としての起こりは古く平安時代のころ、

すでにこのあたりに市が立っていたと推測されている。

時は経ち1615年、江戸幕府が京都に公認した上の店(かみのたな)、錦の店、

六条の店の三店魚問屋の一つが錦市場でした。

それが本格的な魚市場としての錦市場の始まり。

この地は質の良い地下水に恵まれ、人口の多い中心部にあったこと、

位置的に御所への納入に便利であったことが発展の理由と考えられている。

常に最高の状態の魚を仕入れることをモットーとした

鮮魚、塩干、魚類加工品、珍味の「津乃弥」。

昭和3年創業で現代は3代目。

主力商品は縮緬雑魚、ぐじ、カレイやカマスの一夜干しなど。

中でもへしこ、若狭カレイなど若狭物にこだわっている。

「丹後テーブル」は店名から想像できるように、

京都府丹後地方の食を通じて丹後地方を中心に

京都府各地の観光や物産をPRとするアンテナショップ。

ここでは1人ワンオーダーしてくれると錦市場で購入した商品を持ち込むことができる。

因みに錦小路内での飲食は禁止されているので素晴らしいシステムだと思う。

店の位置もちょうど真ん中らへんというのは素晴らしい。

湯葉・麩・豆腐の「近喜商店」。

店頭の看板の文字や商品の置台の経年具合の絵になる豆腐屋さんです。

木屋町にあった「賀茂とうふ近喜」の分家として

明治34年の創業というからもう120年近く続く店だ。

手作りをモットーに錦の地下水につけて豆をもどし、機械を使わずに昔ながらの味を大切に。

水道がないという。

「京の台所」と称されることの多い錦市場。

京野菜、琵琶湖の川魚、鱧、ぐじ、笹カレイ、湯葉、生麩など・・・。

京料理の料亭や割烹だけでなく、おばんざいといわれる京都の家庭料理にも使われる

新鮮な野菜、魚など旬の食材が一堂に集まってくる。

京都独特の食文化に触れるのは他の場所では味わえない魅力です。

このお店の人から専門的な知識や食べ方などを聞くのも楽しみの一つです。

錦市場に八百屋として創業した数年後の大正11年に「川政」の屋号になったという。

有名旅館や料亭から一般のお客まで幅広い層に日々新鮮な野菜、果物を提供している。

創業87年、総菜、出汁巻の「田中鶏卵」。

その間、出汁巻一本で毎日ずっと焼いてきた。

ひと口含んで軽く噛むと、ジワーッと旨い出汁が染み出る。

「京都に来たら美味しいものを食べてほしい」。

だからこの店以外に出店はしないというこだわりぶりです。

鮮魚の「近新」。この店の朝は早い。

朝5時頃にはもう活動が始まる。

小売りは一斉せず、プロのためだけのお店です。

今の社長の祖父が錦で創業して約70年、

専門店の集合体だったころの錦市場の色をいまも濃く残す店です。

いったい何本あるのでしょう。

ここはお箸と箸置きの専門店、京錦箸や「万作 本店」。

京料理のイメージからでしょうか、お箸には京都らしさを感じます。

ここは竹の産地の長岡を控える京都だけに、京竹箸シリーズなどが充実している。

今話題の京風たこ焼のお店「カリカリ博士」。

いつ前を通っても多くの人が列をなしている人気店。

なぜかカップルが多いのは若くて明るいスタッフのせいか、

又は美味しくてリーズナブルなお値段(ワンパック190円)も理由かもしれない。

カリカリのたこ焼です。

長い歴史を持つお店です。

なんと江戸時代の後期に仕出し屋さんとして創業。

戦後に鮮魚商に転じ、今が9代目という鮮魚と炭火焼の「津乃利」。

刺身や切り身はもちろん、仕出し屋のころの設備を活かした炭火焼が人気です。

夏場は京都はやっぱり鱧、チカラを入れている。

日本三大祭りの一つに数えられる祇園祭。

869年(貞観11年)、悪霊・疫病退散を祈って当時の国の数に合わせた66本の鉾を立て、

牛頭天皇を神興に祀り神泉苑に送ったのがその起源です。

山鉾巡行があまりに有名ですが、八坂神社の祭神を奉じた

三基の神興渡御(神幸祭・還幸祭)こそ祇園祭のメインイベント。

この神事に錦市場は大切な役割を担っている。