

昨日17日(火)に東京国立博物館で「始皇帝と大兵馬俑展」を見てきた。
始皇帝陵の近くで発掘された兵馬俑については多くの方が既に知っている。詳しい「薀蓄」は省略をしていくつかの感想だけを記してみたい。
始皇帝陵の広大な墳丘の周囲のごく限られた一部分からこの兵馬俑などの膨大な埋蔵遺物が掘り出されている。兵馬俑などが出土した広範囲な発掘が必要であろうが、そこら辺の見通しが気になるところである。無論現に人が居住し、社会生活、生産活動が行われている上に、すべての精力をここに費やすことは不可能であることは承知をしつつ、やはり全体の構造解明の見通しは気になるところである。
もうひとつ、兵馬俑の表情の特徴はほぼ全員の髭である。実に多様な髭の蓄え方をしている。統一と云えば統一をしているのかもしれないが、個性的と云えば個性的ともいえる。古代中国では髭は一般的だったのか、あるいは軍という職業の象徴だったのか、気になった。
さらにこの鬚を蓄えた顔は果たして当時中原を支配し、のちに「漢民族」といわれる人々の顔なのか、という疑問がある。兵馬俑の兵士の顔は髭を除いても現代中国の人々の顔と少しズレがあるように感じるのは私だけだろうか。どこか西アジア系の人びとの相に近くないだろうか。
唐という時代にはソグド系やペルシャ系の人びとが建国の時から大いに関与し、当時の経済・社会・文化におおきな影響を与えていたと教わったばかりである。
春秋戦国期から秦・漢時代初期の時代にかけても北・西・南からの諸民族との「交流」の観点から兵馬俑の人物の分析も気になったところである。むろん「漢民族」という統一観念よりは、長江流域、黄河流域等々の地域ごとの人々の習俗の違いの方が大きかったかもしれない。北方からの軍事的脅威が中原の統一への内的な圧力・根拠であったという視点も確かにある。
始皇帝の評価をプラス、マイナスどちらにするとしても、中原域の各地域的な社会や経済や文化を力で統一的な水準にした始皇帝という人物の影響力の大きさは、おそらく「漢民族」を作り上げたという点で計り知れないものがある。始皇帝自信がそのことに自覚的であったかどうかはうかがい知れないが、力による統一と維持のために必要にかられて推し進めた経済・文化・政治の均質性・統一性は中国社会をどのように変質させたのか、外からはなかなかわかりにくい。
それは無論、倭→日本という国家、社会、文化に対する評価の仕方にもかかわる。「統一」というものが忘却したがる、消したがる、そこから排除したがることへの注目は単に私だけの趣味の問題ではないと思う。