
「朝顔図屏風」では、花と葉と蔓が描かれているが、花は様々な方角からの視点で描かれている。また蕾から満開までの形を描いている。一見すると花の色合いからするといわゆる西洋朝顔と呼ばれるひるがおの一種のようだという指摘に私は同感である。【https://tabelog.com/rvwr/000183099/diarydtl/144044/】。しかし葉の形は違うらしい。其一の時代にこの「西洋朝顔」が日本にもたらされていたのかわからないが、江戸時代に盛んに栽培され、さまざまな品種が生まれている。しかしこれほどの濃い藍色のものがあるのだろうか。其一の理想の朝顔なのだろうか。
そして微妙に花の色に変化を持たせている。それも花の配置に沿って変化があるように見える。其一の繊細なこだわりを見た思いがする。例えば右双り左の花はまとめてとても濃く描いてある。しかし中央の花は少し明るく、薄めの藍である。そして右端の方はまた濃い色になっている。屏風の折り曲げによる効果と、この明暗の違いによる効果で遠近表現を企てたのだろうか。もう一度見る機会があれば確かめたいのだが。
そして葉はどの葉も正面から見た形である。上下が反転しているものもあるが、正面からの視点に変わりはない。しかし色が微妙に違う。右双に着目すると、花の色が濃い部分は葉の緑も濃い上に葉の葉脈にように向ってグラデーションが強い。花の色が明るい中央部は葉の色も明るい。そして葉脈がどの葉にも丁寧に明確に金色で描かれている。実に丁寧である。これが葉に生気を与えているように見えた。
蔓もまた特徴的である。若冲の「池辺群虫図」を思い浮かべる人は多いと思う。わたしも思い浮かべた。この蔓に生命力を感じることも確かだ。画面いっぱいに花や葉で埋め尽くしたらこんなにも人気は出なかったと思う。この蔓が花と葉のない空間を埋めることでリズムが出ている。さて私は先日会場でこの作品を見た時、とても妖しい雰囲気を感じた。
自分の皮膚を這い回る感覚、それは快感というのとは違う。この蔓の伸びるさまは、生命力の奔走さと、自由な成長へのあこがれとも受けとれないか。何か江戸時代の末期の町人階層だけでなく社会全体のエネルギーの胎動すら感じる。其一はきっとそんなことなどは考えもしなかったかもしれないとは思うが‥。
また蔓にも花や葉と同様にわずかに色の違いがある。この変化を追ってみるのも楽しい。
もうひとつ、コメントをいただいたコロコロ様の指摘にあって初めて気がついたが、右双の中央から右端の下部に種子が4つから5つ描かれている。左双には見当たらない(と思う)。この蕾によって、根と茎以外の要素はそろったことになる。しぼんだ花と枯れた葉は別として。この種子に気がつくことで私たちは何を感じたらいいのだろうか。
これを先ほどから考えていたがわからない。敢えて言えば「時間」だろうか。生命力の帰結だろうか。それにしてはわずか数粒である。
この朝顔の作品は図録の解説にあるとおり、光琳の伊勢物語に基づく「燕子花図屏風」や「八橋図屏風」を意識したものであると私も思う。しかしこの朝顔はそのような物語的背景はない。同時に琳派の伝統的な「風神雷神図」のような左右で拮抗しあう作品でもある。コロコロ様の指摘のように私は宗達や光琳や抱一を超えた其一という指摘におおいに惹かれた。
眺めているといろいろと考えさせられることのある作品である。

もうひとつ先日も触れたけれど、「富士千鳥筑波白鷺図屏風」を眺めていた。会場で見た時に持った違和感は白鷺である。これはこれまで記していないが、鷺はこんな風に首を畳んだまま飛翔するだろうか。細部にこだわった其一らしくないと思った。私が間違っていたらゴメンナサイということになるが、首をなんな風にしていたら飛べないのではないだろうか。こんど鳥の専門家に聞いてみたい。



そして千鳥が群れで飛翔する姿の組み合わせに私は、エッシャーの「昼と夜」を連想した。俵屋宗達の「鶴図下絵和歌巻」とも相まって、時代からするとエッシャーはどこかでこれらをヒントにしたのかと思った。何もエッシャーが真似をしたと言い張るのではない。影響しあって独自の世界に生かし合うのは当然のことである。エッシャーの作品が単なる紋様の世界で終わることなく、私たちをひきつけるのは、現実を引きずった美意識によるものである。現実の世界から其一なりの美意識で現実を再構成しているその構成の仕方に私たちは共感している。其一の作品にもどこか共通の美意識を感じた。
>しかしこれほどの濃い藍色のものがあるのだろうか
の一言に、ヒントを得ました。当時の変化朝顔の改良の方向性は、色の鮮やかさを追究はしていなかったはずなんです。それを直観的に感じる方もいらっしゃるんだと。
そして、
>この蔓の伸びるさまが、蔦が老木を覆いつくして樹を結局は枯らしてしまうような強い生命力とその自滅
という部分で、ここには強靭な生命力が宿っています。でも変化朝顔にここまで強い生命力はやはりないと思うのです。
ということで、3回目を見た感想を、上記を引用させていただきつつ、まとめました。https://tabelog.com/rvwr/000183099/diarydtl/144348/
ツルや花の向きなど、同じ感想です。ただ、図録で確認するのと実物は全然違います。ぜひ、もう一度ご覧になられて、新たな発見もご紹介していただけたらと思います。
仰るとおりですね。まずい表現ですね。表現を変えようと思います。
ご指摘感謝です。
後期展示には行きたいと思っていますので、朝顔図屏風はその時にもう一度味わいたいと思います。
今度は近寄って見る・遠くから見るの外に右から左に歩きながら、左に右に歩きながら、あるいはしゃがんで、正座した場合の視点で眺めてみたいです。
ぜひ、坐位でみた高さの朝顔図屏風の観察をお願い致します。脚力がなくてその体勢を維持することができず、ものの10秒ほどでギブアップ、細かな観察ができませんでした(笑) 今こそ、ウォーキングの成果を!
いつも掛け軸や屏風の展示の時に感じるのですが、畳に座って鑑賞する高さに作品が展示されていないことに違和感を感じます。
確かに掛け軸などの場合、立って会場を回る見学者の目の位置が、座った位置を想定して展示をすると、とても高い位置に掲げなくてはいけなくなります。すると上部が見にくいということになってしまいます。それは展示する側としては避けたい気持ちはわかります。しかし掛け軸の場合、下から4分の1位のところに構図の中心というか、鑑賞者の視線を集めようとしています。
膝を曲げて鑑賞するのはとてもつらいですが、椅子でも置いてあると楽ですね。そしてその視点で見ると見え方が変わります。
山の頂をとおして月を見る視点になり、山が高く見えます。そして目の前に人物が描かれていて、人物が迫って見えることがあります。
立って見下ろしてしまうと平面的な作品が、下から見上げると奥行きのある作品に見えます。10秒でも是非しゃがんで見てください。
実は私もしゃがむのはつらいので10秒以内の鑑賞を繰り返しています。