Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「抱く吾子を梅雨の重みといふべしや」(飯田龍太)

2017年06月22日 22時33分32秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★抱く吾子も梅雨の重みといふべしや    飯田龍太

 20代の始めにこの句をはじめて知った。まだ子どもが生まれていなかったこともあり、よく理解できなかったと思う。実感として了解できなかったのだろう。
 しかし子どもが生まれた直後はあたふたと子どもの成長に目を見開いているうちに、時間がどんどん過ぎていったと思う。子どもが小学生くらいになったとき、この句を思い出して、子どもの成長を見ながら、そんな親としての自分を客観視することの困難さなどを実感した。
 あとから思うと、子育てというのはなるほどそういうことだったのか、と思い出されるばかりである。特にこの句の「重み」というものの実感を、ずっと後から思い出した。
 私が特に惹かれるのは、赤子の「重み」を「梅雨」の重みと重ねたところである。梅雨というイメージは、明るさや、希望や、温もり、そんな意味合いとはズレがある。どちらかというと梅雨は重苦しく、鬱陶しい。一年の季節の中でもマイナスイメージが強い。
 しかし一方で水気が多くて、木々の葉やアジサイの花を見るにつけ、水分を豊富に貯め込んだ美しさというイメージもある。しかしそれは赤子の赤などのイメージではなく、青いイメージである。そして梅雨明けから一斉に枝を伸ばし、青葉を一挙に増やし、幹を太らせる生命体の準備期間を見つめたのだろうか。
 一方で作者は抱いた「吾子」からどのようなイメージ、あるいはメッセージを受け取ったのだろうか。
 いろいろと堂々巡りのように、梅雨のイメージと抱いた子どもから受け取るイメージ、この差を自分の体験を見つめながら、いつも迷路の中を行ったり来たりしてしまう。
 子ども、というものの存在にどちらかというと圧倒され、そして戸惑っている男親の像を思い浮かべる。それが私が惹かれる根拠なのかもしれない。

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