Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「伝説の洋画家たち-二科100年展-」(東京都美術館) その2

2015年08月26日 14時48分07秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 坂本繁二郎の作品以外で目当てにしていたのは、佐伯祐三の作品「リュ・ブランシオン」と「新聞屋」。前者は以前にどこかで見たことはあるが、後者は私はまだ見たことがなかった。1927年の作品。翌年に亡くなっており、二科展では死後20日後に遺作として紹介された、と解説に書いてあった。
 見てのとおり佐伯祐三らしいパリのなんでもない一角を描いている。私は猥雑な街並みのごくありふれた一角を切り取って「美」として仕上げて呈示する姿勢が気に入っている。当然描かなかったもの、描き加えたもの、視点による取捨選択、強調‥画家の脳内でさまざまな転換や操作をした上での呈示である。この過程を逆にたどるのもまた楽しい鑑賞の仕方であろう。
 乱雑に置かれた新聞、フランス語なので何と書いてあるのかはまったくわからないものの、いづれゴミとして捨てられるだけの紙にあたかも大事件のようにセンセーショナルにかかれたトップ記事の見出し。しかしそれを置いてある店先には人はいない。センセーショナルな事件は都会に住む人とはどこか無縁なところで、そして画家はそんな事件にはまったく心を動かされずに、その街角の造形としてしか興味を惹いていない。
 佐伯祐三の私の知っている作品には人は出てこない。私の知っている例外は晩年では「郵便配達夫」だけだ。人が登場している作品でも点景としてしか人は存在していないのではないか。私はそこが気に入っている。都会の一角であるから、当然人間が省略されている。しかしいかにも人がいそうな雰囲気も漂ってくる。あるいは人の不在こそが鑑賞のポイントなのかもしれない。



 松本俊介の「画家の像」は1941年の作品。今の感覚からすると「女性は守られる立場」という批判も出てきそうだが、生身で立ちはだかろうとする意気は感じる。それが構図や描き方の観点から画業上のエポックとしてどう位置づけられるのか、興味のあるところである。他の展示されている作品と比べると完成度は高い方の作品であると私は思う。
 左下の子供の背中から右上の画家の頭までの画面を斜めに切る線と、女性の座る木箱の横の線がつくる三角形が、強い緊張感を画面にもたらしている。ちょっと生意気な雰囲気を持った、世間ずれしていない向こう見ずな若い青年に見える。サンダル履きというのが、日常生活に押し寄せる不条理に素手で対抗する不羈を感じる。そんな若さが羨ましく感じる年に私はなってしまった。



 この絵はとても懐かしい。萬鉄五郎の「もたれて立つ人」(1917)である。この絵はいまから18年前の1997年に東京国立近代美術館で開催された没後70年の追悼展である「萬鉄五郎展」のチラシの面を飾った作品である。このチラシは今でも鮮明に覚えていて、購入した図録の間に挟んである。当時はブログに感想を書くわけでもなく、図録などもそのまま本棚にしまうだけの鑑賞であった。だからすぐに忘れてしまうのだが、余程気に入ったのだろう。このチラシの記憶だけは新鮮である。
 実は隣りに展示してある「筆立てのある静物」もこの時の追悼展の図録に載っている。同じ年に二科展に出品されたものである。
 追悼展の図録の解説では発表当時は「静物」の方が評判がよかったと記載してあり、今回解説では「静物」の方が注目度が低かった、と反対のことが記載されている。
 私の好みで云えば「静物」の方は以下にもセザンヌ然としている。こちらの「もたれて立つ人」の方が人体が押しつぶされたようなデフォルメなど構図上もさんざん苦労した跡がそれとなくわかる。また「静物」と同じような色調ながら、色が散漫な感じの「静物」よりもこちらの方が赤に焦点があたり、存在感がある。緑の髪、黒い椅子と赤い人体、描く対象も整理されている。私はこちらがとても気に入っている。



 この向井潤吉の「争へる鹿」(1934)は初めて見た。画家が1995年に94歳で亡くなった2年後の1997年に追悼展として横浜高島屋で開催された「向井潤吉展-心に残る絵筆の旅」では見ていない。購入した図録にも掲載されていない。
 この時に展示された向井潤吉のいわゆる戦争画は3点とも、街の上空を飛ぶ飛行機の不気味な大きな影、飛行機の編隊に圧し掛かる白雨、暗い地底の鉱夫などを描くことで、戦争という影が人々の生活に重くのしかかる現実を描いていた。見方によっては戦争に対する挑戦のような作品だと感じていた。戦後すぐに描いた「漂人」などこの時期の向井潤吉について私はもっと大きな再評価があっていいのではないかと思っている。
 向井潤吉は習作時代を終えて画風を確立するや否や従軍させられている。とても大きな影響を受けたと思う。この「争へる鹿」に描かれているササなどの下草の描き方が不思議であった。戦後に描いた民家などの周囲の植物描き方と随分違う。日本画のような丁寧な描き方である。この描き方がどのように変化したのか、不思議な思いがした。
 まだまだいろいろな画家の変遷について知らないことばかりである。

   

 私はどうも岸田劉生という画家はあまり見る機会のないままに来ている。あの「麗子像」などの一連の作品が私にはとても違和感があり、敬遠してきた。
 今回この「初夏の小路」(1917)には惹かれた。まだ若い26歳の時の作品である。こんな明るい絵もかいていたのか、と再認識した。
 同じように道を描いても、岸田劉生の4歳年下の中川一政の「春光」(1915)とはまるで違う。中川一政の方がさらに若い24歳の作品である。
 色彩も明るさもかなり強調し、細部に拘らない中川一政の描く風景と、岸田劉生の細部にこだわった描き方、空の占める割合の違いからくる指向性の違いなど面白く比べてみた。
 岸田劉生の方が空の割合が小さく、道の先にある何かしらに明るい期待を持たせるようだ。中川一政の作品は空が大きく明るさの対比が強調されているが、道の先よりも道の手前、画家の立ち位置の方に風景が吸い寄せられるようだ。
 画家の吸引力が後者の方が強いのだろうか。



 私は時々放浪の人といわれたり、自己破滅型の人にえらく惹かれることがある。そんな思いはある日突然に訪れる。特に芸術家と云われる人の生き方に憧れに近い何かを感じる。
 この長谷川利行も当時の東京市の養育院でなくなり、スケッチなどもすべて焼却処分されてしまった画家である。それを惜しむ、というのではなく、それこそがこの画家の生き様なのである。
 死ねば死に切り、という自分の生涯をあっさりと突き放すことはなかなかできることではない。あるいは自己に対する執着は人一倍強かったことの反動なのだろうか。
 そんな長谷川利行の作品は、似たようなタッチの絵ではあるが、人に作品ごとに好き嫌いもはっきりしている。私もこの絵は好みであるが、別の部屋に展示されている「女」には惹かれない。
 きっとまた別の気分の時に作品と接すると好みもガラッと変わるかもしれない。他人からみると近寄ろうとするとさっと身をかわして逃げていく、そんな感じをいつも持たされる。

 このほか、伊藤久三郎「流れの部分」(1933)、硲伊之助「室より(南仏のパルコン)」、古賀春江「二階より」(1922)、林倭衛「出獄の日のО氏」(1919)などに眼をとめた。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。