Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「熊谷守一展」 感想その1

2018年02月15日 21時26分34秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 熊谷守一展は来月3月21日まで。行けるときに行っておきたいということで、妻と二人で出かけた。妻のお目当ては「猫」。
 会場の展示は3部構成。初めは「闇の守一:1900-10年代」。守一が20歳からほぼ40歳まで。20歳で東京美術学校に入学し、1910年にいったん故郷の岐阜県中津川にもどり材木運搬などの仕事をしたのち、1915年に画家として再上京するまで。いわゆる習作時代というのであろうか。裸婦像を中心に昏い色調の作品が並ぶ。解説では「感心を抱いたのは光と影」と記しているが、闇に融け込むような裸婦が執拗に描かれている。形はあまり判然とはしない。



 1913年の「馬」という作品は故郷での山仕事で乗っていた馬を描いた作品。たぶん実際よりも足が短く、胴が長く形は歪だ。しかしどこか惹かるものがあった。
 第2部は「守一を探す守一:1920-50年代」。40歳から70歳までの時期である。風景画や裸婦像が描かれるが、裸婦像は対象の形態からますます離れていき、色面と構図の要請に従う形態に変化していく。同時に不思議なことに私には抽象的な質感が増していくように感じた。形態が周囲に融け込むにしたがい、色彩の塊としての存在感が浮き出てくるように思われる。魂が浮かび上がるように思った。第1部の「轢死」の主題が第2部の時代にまで尾を引いているのであろう。
 1930年代後半から1940年代、戦争の時代を大きな転換点として画風の転換、確率がされていく。戦争がどのように画家に作用したかは展示だけではわからないが、この大きな変化は画家の内発的なエネルギーによるものなのか、戦争という外在的な刺激が作用したのかは、解らない。しかしこの時期に転換したことは確かだ。わたしから見て大きな転換点となったと思われた作品は次のとおり。

 画家が獲得する赤い輪郭線を用いた作品が1940年代後半以降一挙に開花していく。


「陽の死んだ日」(1928年)


「裸婦」(1930年)


「夜の裸」(1936年)


「式根島」(1939年)


「谷ヶ岳」(1940年)


「萬の像」(1950年)


 「陽の死んだ日」について解説では、「次男、陽は数え年4歳で急逝しました。熊谷は「陽がこの世に遺す何もないことを思って、陽の死顔を描き始めましたが、描いているうちに“絵”を描いている自分に気がつき、嫌になって止めました」と熊谷の言葉を引用している。しかし熊谷は後年、21歳で亡くなった長女萬の病中の像を描いている。「萬の像」(1950)を見ると“絵”として画家の眼をとおした作品に仕上がっていると思った。
 亡くなろうとする夫人を描いたモネを思い浮かべた。



   


熊谷守一展を訪れた

2018年02月15日 18時16分56秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 東京国立近代美術館、久しぶりである。東京駅から歩いた。本日は陽射しが暖かく、風もない。皇居の堀のまわりは柳が芽を膨らませ、垂れ下がる枝の先端で葉が開きかけているものもあった。椿が花芽を大きく膨らませていた。鴨や鴛鴦が泳ぎ回り、長閑な散歩を楽しみながら近代美術館にたどり着いた。
 熊谷守一展は、200展の作品と80点近い資料がならび、すべてまわるとさすがに疲れた。コレクション展をまわる気力はなくなってしまった。
 それほどの混雑ではなく、ゆっくりと見て回ることができた。
 帰りに毎日新聞社屋の1階でコーヒータイムでようやく一息。


本日の講座は「くらべて楽しむアート」の2回目

2018年02月15日 12時25分33秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 午前中は「くらべて楽しむアート観賞」という講座の2回目「華やかでファッショナブルな時代「ロココと江戸・美人画」」。講師はいつものとおり中村宏美氏。
 服飾のことはとんとわからないのだが、引き込まれて聞いた。ファッションが庶民に広がる画期としての17世紀の捉え方・・・。新たに知ったこと、思いだしたことなどいろいろある。いつも新しい何かを教えてくれる講座である。

 お昼に講座が終わってすぐに、東京駅経由で東京国立近代美術館へ向かった。