昨晩、人間や社会への関心の減退について記載した。寝付かれずにいる間に、こんなことも考えた。
人間や社会への関心の減退は、直接の関わりについてのことでは確かに当てはまる。しかし直接性の希薄な人や社会については結構凝視をしているものが多いのではないか、と思った。 あるいは関心のある事象が絞られてきているのではないか。歳を取るに従い、応用力や柔軟な思考、許容量がなくなると、精神の自己防衛が発動し、興味・関心の対象が狭まるといえるのではないか。私の場合は、仕事に絡む人間関係への執着は確かに大きく退行している。
今は、対象に対する批判や許容を抜きにした観察、直接の意志疎通がないものの成り行きを、高みの見物のように見つめているのかもしれない。
こだわりが直接性・個別性から、相対性・統合性にシフトしている。このようにでも言い換えないと、情けない自己への見切りとなってしまいそうだ。
人間や社会への関心の減退は、直接の関わりについてのことでは確かに当てはまる。しかし直接性の希薄な人や社会については結構凝視をしているものが多いのではないか、と思った。 あるいは関心のある事象が絞られてきているのではないか。歳を取るに従い、応用力や柔軟な思考、許容量がなくなると、精神の自己防衛が発動し、興味・関心の対象が狭まるといえるのではないか。私の場合は、仕事に絡む人間関係への執着は確かに大きく退行している。
今は、対象に対する批判や許容を抜きにした観察、直接の意志疎通がないものの成り行きを、高みの見物のように見つめているのかもしれない。
こだわりが直接性・個別性から、相対性・統合性にシフトしている。このようにでも言い換えないと、情けない自己への見切りとなってしまいそうだ。