★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

【ナイス】則光【ガイ】

2020-01-12 19:36:17 | 文学


「一夜は責めたてられて、すずろなる所々になむ、率てありき奉りし。まめやかにさいなむに、いとからし。さて、など、ともかくも御返りはなくて、すずろなる和布の端をば包みて賜へりしぞ。あやしの包み物や。人のもとにさる物包みておくるやうやはある。とりたがへたるか」と言ふ。いささか心も得ざりけると見るがにくければ、物も言はで、硯にある紙の端に、

かづきするあまの住家をそことだにゆめ言ふなとやめをくはせけむ

と書きてさし出でたれば、「歌詠ませ給へるか。更に見侍らじ」とて、扇ぎ返して逃げて去ぬ。


則光と清少納言は一度は結婚しておった仲である。物忌みの彼女の居所を斉信がしつこくきいてくるので則光は、参ったよ場所を申し上げるべき?と言う。清少納言は、海藻を一寸ばかり包んで持って行かせた。則光はナイスガイであるが、こういう意味ありげなことを考えるタチではない(ということになっている)。「妙なものが包んでありましたよ。なんなんですか、あれ?」と言うのであった。全く意味が分からないのかこのスカポンタン、海に潜っているあまちゃんの住処をそこですとさえ絶対言うなよという意味で布を喰わせ(目配せし)たんですがな、お前さんはバカなのかへ?といつものパンチを繰り出す彼女である。

しかし、インテリは、勉強ができないお方が一応勉強しようと一回は試みるという想定から抜け出せない。いかに巧妙な嫌みを放っても、そもそも勉強の匂いがしただけで聞いてねえやつがたくさんいるんだから……案の定(ということになっている)、則光は

「歌はいや。見ないよ」と言って逃げた……

「カント読んでないやつは民主主義をやる資格なし」と言っても、カントは知らない聞こえない。「読む」とか「民主主義」は難しそうだから聞こえない。視角といえば「四角」だと思う。こんな調子の人にそういう言い方をしてもダメなのだ。どうすればいいのか。――よくわからんが、いろいろと試みるほかはあるまいて……。

そういういろいろな試みをさぼると、子どものゲームの時間を制限しようとかいう人々でてくるのだ。むろんこの場合の人々は、則光がナイスガイをやめて、和歌を強いる清少納言に怨恨を持ってしまい、しかのみならず、自分が一生懸命和歌の勉強をやったと勘違いをし始めたような人々である。人間、自分の実力が露呈するのを避けるため、無意識に他人の自由を奪いたがる場合がある。その結果、赤の他人に、勉強だけじゃないとか、ゲームだけじゃないとか、なんとか言い出すのである。もっとも、これは非常に自然な心理でもある。――大人は反自然的でなければならぬ。

その点、清少納言は、則光が「絶交するときにだけ和歌を送れ」と言い放ったので直ちに和歌を送った。そして二人は会うことはなかった。則光はたぶん歌を見なかっただろうと清少納言は言っている。

いうまでもなく、この結末は、彼らが本当に「絶交」したことを意味しない。むしろ、力強く平行線だったなあ、と思わせる(だいたい、うえの則光像がちょっと無理に造形されているような気がする)。彼らがそうみえるのは、誰かの命令に従っていないからだ。親と子どもに対してこんな関係を要求できないことはわかりきっているが、それでも、長い時間をかけた試みを放棄し、お上の命令に頼るようになれば、嘘はつくようになる、主体性はなくなる、と反自然的なよいことは全くない。自分の意志が消滅したところのコミュニケーションはとにかく嫌らしくなる。そういうときに他人はナイスガイではなく、creep みたいなものに見えはじめるのだ。若者がいつの頃からか「キモイ」を連発し始めたのには、別に彼らが本性からの差別主義者だからではない。


最新の画像もっと見る