★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

主客未然的犯罪性

2024-05-07 23:01:41 | 文学


わたくし、おしろの中では、「坊主、坊主」といわれておりましたが、「たゞ坊主ではいけぬ」と仰っしゃって、おくがたから「弥市」という名をいたゞいておったのでござります。
「弥市、どうしたのだえ」
と、そのときかさねてのお言葉に、
「はっ」
と申して、おどおどいたしておりますと、
「いっこう力がはいらぬではないか、もそっときつうもんでおくれ」
と仰っしゃるのでござります。わたくしは、
「おそれいりました」
と申しあげて、さてはいらざる取りこしくろうに手の方がおろそかになったかと、気を入れかえてせっせともんでおりました。


――谷崎潤一郎「盲目物語」


坊主と聞いてなぜか枕営業という単語を想起した。それはきわめて犯罪的意味になってしまったが、枕に頭をのっけながら平日も仕事をするようなわれわれが枕営業といわれるのはべつにかまわんし本当である。

電子工学者からの「ゴジラ-1.0」の感想文を読んだが、ようするに、宮崎駿につうじる職人的機械仕掛けみたいなてざわりがよかったと思しい。五回も観にいったらしいが、わたくしにもそういう血が流れている。「スケアクロウ」や「女は女である」、「エイリアン」、ついでに「フォーリングダウン」や「エボリューション」や「モスラ対ゴジラ」とかもたぶん50回以上観ている。細は、その感覚はありえないという。2回以上観る意味が分からないというのである。これはあるいみ、批評的なオタク気質が、どこかしら工学的な機械趣味であることを示していると思う。どうなってるのか調べたい欲望が快感として体験される病気である。それに、映画というのは鑑賞者が思う以上に機械いじりや工作に近い創作なんだろうとおもうのだ。特撮は映画の一部であるが、そもそも映画が特撮的なのである。

一方でわたくしはいつも、そんなことをする必要もないのに、批評をしたがる根性がどこからくるのかいつも考えている。一般的に、作品に対する論評なんか素人は別にやらなくてもいいし、半端にやると作品全体に対する「経験」を失うというのは本当だ。この御時世、作品を畏れよと言ってももはや無理だから、実際に失うものがあると言ったほうがよいと思うのだ。当事者や創作側でないのにいらぬ文句をつける癖というのは、当事者達がスターでなくなったという現象から説明されることがあるが、――むしろ、我々が自分自身でちゃんと頑張らなくなったことと関係があるとわたくしは直感的に思う。文句とケアの要求は倫理的には逆だがほんとんど一緒の欲望であって、自他の区別をあいまいにしたラディカルな意見はある種の人間にとっては反作用も大きい。これは思想というよりも日用の常識の問題である。だから、日用実用の学問が学問だみたいなことを言っていると、大思想みたいなものを日用に直截に応用しようとするバカが出てくるといってるのだ。

例えば、よく一人で抱え込んじゃだめみたいなアドバイスがある。確かに人によるけど、ちゃんと抱え込まないから人に相談もしないし解決もしないみたいな場合がものすごく多いのである。そういう個々をちゃんとみる能力がない(ので)、かえって一般論を教育している人間はさすがにタチが悪すぎるのではないか。

授業でも少し言ったが、――「推し」というのは、作品全体(あるいは、他の生活のなにかかもしれない――)に対する批評の不全感を、個への崇拝という形にしてのりきったかたちである側面がある。まあいってみりゃ主客未然の経験の回復だとかとも言えるとは思う。そのいみでは、推しがお母さんになるという例の話(「推しの子」)は確かに、母子同体であるところの主客未然みたいなはなしになっているとはいえるかもしれん。

水俣の件で、環境省が被害者のマイクの音量をしぼったとかいうのがニュースになっていた。NHKアナウンサーが「被害者の心を傷つけないように」みたいなこといってたけど、こういうふうになんでも被害者のケアに話を移すのは、環境省の根性の劣悪さと同様に犯罪的で、もっというと、こういうことを平気で言ってしまうような大学一年生なんかがたくさんいるのに、放置している大学の教員も問題なのである。ちゃんと不可にしとけと。――被害者のケアとかに話が移りやすいのは、責任問題からの逃避であるというのは、レアケースではなく、最も多い事例のような気がする。むろんハラスメントへの追及もそういう逃避の結果使われたりもする。道具はつかえばいいというものではないのは、原爆やマジンガーZにかぎらないのだ。思想もそうなのである。

教育現場でのハラスメントは、管見では必ずハラスメントをした?当人以外に、組織の中での深刻な問題の存在があって、それを見たくないし隠したい人間が下手すると被害者になることさえある。よくみないと分からないことはおおい。そもそもこういう問題は、マスコミの手に負えるようなものではない。