★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

非堕落論

2024-03-10 23:52:36 | 文学


将仲子今
無論我里
無折我樹杞
豈敢愛之
畏我父母
仲可慎也
父母之言
亦可畏也


父母の小言はいつの時代も恋人達にとっては雑音であるかもしれないが、その父母がいないとこの状況もあり得ない。いつもそうなるかどうかはわからんが、孤独な個達が恋愛をするようになったかと言えば、むしろ逆であった。雑音がもともと恋愛を構成する一部であったことを忘れたためであった。

しかし、雑音に対する畏敬の念ばかり表していると人の魂は死んでしまう。かくして、わたくしも坂口安吾に倣って、「タモリも鳥山明もいなくなっていっこうにかまわん。必要ならば法隆寺を取り壊して駐車場にすればいい」とか言うべきであろうか。これは、いずれ法隆寺が燃えるかも知れないスッキリしかねない状況にあっての発言であって、われわれにとってはもっとつまらないことが神経に障る。法隆寺の意味とは何かみたいなよくある問である。

例えば、大学院なんかにいくと、つい学部はその前段階だと思ってしまいがちであるが、大学に二回行くみたいなことになっているのである。実際わたくしは大学院に入ったときに「まだ大学にいる」のではなく「また大学に入学した」と言われたことがある。大学が違ったからよけいに、学部から入ったと思われたのであった。実際それやってるひとも少なからずいる。――こんな具合に、大学爆破みたいなスローガンに至る前に、大学間の移動、ロンダリング?みたいな観念が邪魔する。大学は君にとって何なのか?みたいな問が邪魔するのである。むろん、これは人に説明するための問であって、本心からの問ではない。

だから、半端な意味づけに翻弄される若者にとって、かつては批評家が何かを決めてくれる人だったのである。永江朗氏の『批評の事情』なんかをよむと、批評家ってこんなにたくさんいたのかという気がしてくる。たくさんいたのである。しかし、いまはもっとたくさんいる。1億とか。。。

こんな世の中では再び、みんなでやれることは挨拶だとか拍手だとかいう感じになってしまう。日本は一年中地震の追悼やってて、ほんと毎日が終戦記念日の儀式みたいになってきているが、これじゃ頭はどんどん悪くなるに決まっている。やたら形式的な拍手とか黙祷とかがいつからか多くなって、頭の悪い奴が跋扈しはじめた。宮城に頭を下げていた時代と何が違うのだ。

魚豊氏の『ひゃくえむ』は傑作であった。しかし、『チ。』と同じく、この人の漫画の主人公は、雑音を避けるために発狂している。死んでもかまわない発狂のし方である。我々の社会は、何かやろうとする人間をここまで追いつめている。

地球温暖化とか環境何とかとか地震対策とか自然相手にしていると何か大きなことやってるように思うんだが、人間のワルさをとめることのめんどくささから逃避した面も否めない。新左翼運動の最後あたりで問題になってたことだろうけれども。安吾じゃねえけど、震災の被害で家族の幻影に苦しんでる人もいりゃ、新たな面影で胸をふくらませているひともすぐにいたわけで、いずれにせよ、復興とか再出発というのは「不謹慎」な人間性によってなされる部分だってあるのだ。原爆や沖縄戦の語り部は差別しといて、震災の語り部は褒めるのはさすがにだめである。完全に前者の問題の風化をいいことに入れ替わったからな、問題はいつも何処にもあるから一概に言えないことも多いが、さすがに我が社会は人間から逃避し調子に乗っている。ポスト人間とか言っているうちにこれである。

確かに豊かになった代償は大きい。木曾の雀のほうが高松でオレの庭に居座っているやつらより動きが良かった気がする。気温が高く餌も豊富だからだらけてんじゃねえかお前ら。。


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