★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「有女同車、顏如舜華」的風景

2024-03-11 23:59:55 | 文学


有女同車、顏如舜華。將翺將翔、佩玉瓊琚。彼美孟姜、洵美且都。

車に女性を乗せると、彼女の顔は朝顔の花のよう、腰に揺れるはたまかざり、といった具合であるが、中国のこの古い歌は同じように「ドラゴンボール」なんかでも歌われている。ブルマの運転するバイクに同乗する悟空という、情景がそうであった。これは別に恋愛ではなかったが、愛の場面であった。この情景があったから、この作品は長く続いた。そして、この情景には当然背景があった。地平線がみえる広大な田舎であった。

『週刊朝日』の1981年7月24日号をみると、鳥山明が、自分は田舎が好きで、地平線が見えるみたいな、と言っていた。鳥山明の世界が町とその周りに広がる広大な田舎なのはみんな思うことだが、やっぱり彼にとって田舎は「地平線が見える」ものなのであった。やっぱりこれは彼が生まれ育った濃尾平野のそれなのかもしれない。わしなんか地平線なんかみたことなかったからね、彼の描く世界がテキサスあたりにみえていた。――それはともかく、最近活躍いちじるしいサブカルチャーの面々は、背景の力に頼っている。これは独歩の歩んだ道の再発見である。彼ら、鳥山明とか新海誠とか山崎貴とか、愛知(鳥山)や長野(新海・山崎)あたりまで実際は東京の郊外になっている証拠なのではあるまいか。

その背景のなかでは、人間あるいはそれが起こす音などが無機的にこちらに立ってくる。むかし高校の美術の先生だったかが、鳥山明の絵は人間を描くのを断念したところがすごいし、立体だというけど、我々はそんなにものを立体に見ていない、あれは基本ロボットの世界と言っていた。確かにと思った。だから人間にちょっと近い「ドラゴンボール」の後半は書いててしんどかったのかもしれない!!!!!!!(←)「近代文学の自我問題――白樺派!!!!!!!!!!」投稿したら確実に墜ちるやつである。この戦闘シーンの!!!!!!は歯磨きのブラシのように人工的であった。もはや今はやりの○(まる)ハラではなく、!!!!!!!ハラである。


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