★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

民之多辟、無自立辟

2024-04-15 23:31:59 | 文学


陳霊公与孔寧・儀行父通於夏姫。皆衷其祖服以戯于朝。洩冶諫日、「公卿宣淫、民無効焉。且聞不令。君其納之」。公日、「吾能改矣」。公告二子。二子請殺之。公弗禁。遂殺洩治。孔子曰、「詩云、『民之多辟、無自立辟』。其洩冶之謂乎」。

政治家達がこういう分かりやすいクズであったら話は簡単である、現実はちがうなどと昔はよく考えたものだが、やはり、このようなカスを歴史上に晒しあげておくことは、現実の複雑さ以上に意義がある。そうでないと、現実の複雑さという自明の理を濫用して自分を許す輩が現れるからである。

我々のような文弱が想像する体育会というのは「魁男塾」の男共が陰湿ないじめをやってるイメージがあるかもしれないし、実際そういうこともあるであろう。が、youtubeにあがっているむかしの一流?野球選手たちの座談会とかみてると、むしろ学会の懇親会みたいな感じなのだ。したがって、どの分野でもカスな飲み会はメンバーの実力によると言える気もするのだ。しかし、だからといって我々はだいたいの格率でうごくべきときもある。一見して、だめな奴らは存在する。我々は「一見して」と言っているが、それがほんとは一見ではないからだ。「直観」の大事さは、西田先生もおっしゃっておるぞ。

ローコストなんちゃらという広告がホロコーストに見えたわたしは疲れてる。

落ちこぼれた経験がない人が危険なのは、落ちこぼれは精神的な混乱と衰弱の非常に良くある原因であることが分からないからだ。かくして、落ちこぼれは勉強が嫌だからむしろ元気で暴れていると思ったり、精神的な問題をすべてなにか「物質的」な疾患だと思い込んだりするのである。合理的配慮が言われるようになったことで救われる人もいるのはたしかだが、それで様々な人間的なこころの欺瞞的なからくりが消滅するわけではなく、配慮が問題になった時点で、いろいろな原因を無視しなければならないことにもなりかねない。よくいわれていることなんだろうが、「合理的」という言い方も、何かが様々な原因が整斉され解決するかのような語感でよくない。結局、コロナの件と同じで、すべてをコロナのせいにしたり、障害のせいにしたりというのは、人間の観察の放棄と一部の分野の横暴なのである。もちろんそうなる必然性は科学の進捗上あったわけだが、――われわれはすぐあたらしく発見されたみたいなその原因をすべての原因に置き換えて快を得ているにすぎない。近代とは論理がマッサージ化した時代である。

そういえば、少しの進歩を褒めた方が結果を求めることよりも大事だという考えがよくある。確かにそういう場合もあるんだろうが、そういうことを主張しがちな人が「結果」から逃げがちな人間であることもよくあることであって、こういう逃走癖こそが子どもに感染したりするわけである。

こういう混乱は、すべて人間の自明の理を忘却する頭の悪さからくるのである。むかしからよく言われているように、論理によって我々は狂う。

むろん、自明の理を現実に当てはめすぎるとだめなのも自明の理である。例えば、精神的に追いつめられる大学生がだいたい落ちこぼれでみたいな簡単なことになりゃいいのだが、そして確かにそういう事態は多々あるのであろうが、それ以上に教育自体がやべえことになっている場合がある。そりゃ病む方が正解じゃねえかという。

だから、我々の処世は、一定の正義を体現していれば良いというものではない。つねに、多面的な分析が必要である。最近の管理職の世代は、ものすごくニヒリズムをかんじる人がいて、ほんとに教育を演技だと割り切っている人もすくなくない。でもそれは完全に誤っている。演技だということがものすごく伝わっていることを軽視しているからだけではない。演技は演技としての転向が難しい。一定の方針をもってやりはじめると平気で三〇年はやってしまう。最近はやっているのは、現実的な対処という演技である。これはストレスフルであるので、いずれそれを辞めるときがくる。で、演技を辞めたほうがよいときに、急に本音主義になり、そもそも本音とやらが演技みたいなもので出来上がっている可能性、小学生でも知っている可能性を忘れている。社会に馴致するのはこんな頭の悪い事ではないはずであった。

社会を改革しようとする人間が、制度の悪用・濫用に対してはだいたい及び腰になるのが信用されない原因である。憲法に限らず、不断の努力というのは、そういうことを含めての難しい努力であったはずである。

――民之多辟、無自立辟。(民が邪だからといって自分だけで法を立てるべきじゃない。)