★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

山王の御咎め、とて比叡山より大きなる猿共が二三千下り下り

2019-09-18 23:23:54 | 文学


果ては大内に吹きつけて朱雀門より始めて応天門会昌門大極殿豊楽院諸司八省朝所一時が内に灰燼の地とぞなりにける、家々の日記代々の文書七珍万宝さながら塵灰となりぬ、その間の費いかばかりぞ、人の焼け死ぬる事数百人牛馬の類数を知らず、これ徒事にあらず、山王の御咎め、とて比叡山より大きなる猿共が二三千下り下り手々に松火を点いて京中を焼くとぞ人の夢に見えたりける

『平家物語』は音楽みたいなところがあり、巻一を閉めるのは、僧兵の強訴→宮中での源平との激突→神輿に矢が刺さる→(祟りで)内裏炎上、――という盛り上がりで、もうクライマックスかよ、という感じである。マーラーの第6番のようなもので、第1楽章の盛り上がりでけっこう観客が疲れるようなものだ。むろん、これはこれから始まる大虐殺大炎上劇の始まりなのである。

『源氏物語』というのは、お父さんの奥さんとの子どもが出来ちゃったどうしよう→やはり似ている→おとうさん、わたくしは貴方の息子なのですね→お父さんを太上天皇になずらふ御位にっ→あっ、お父さんも若人に奥さんを寝取られたよ、――という流れが非常に悠長であり、軽く因果応報が三〇年以上かかっている。しかし『平家』の場合は、

兄師高加賀で暴れまくる→僧兵の風呂場に弟師経が闖入狼藉→僧兵曰く何だとこの野郎死ねっ→高・経は偉い人の息子で~→僧兵怒って神輿で京都に殴り込み→神輿に矢が突き刺さったぞ→宮中が大火災に

よく分からんが、ここまで大した時間がたっていない。これでは、誰かが誰かを寝取っている暇もない。

それにしても、よく言われることであるが、強訴に神輿を担いでゆく僧兵は神仏を何と心得る。神仏習合とかなんとか垂迹とかいうものも、神や仏を使って人を脅しつけているうちに習合してしまったのであろう。言うまでもなく、天皇も神輿の一種である。要するに、天皇制とは神*習合なのである。

親っさん、言うちょいたるがのう、あんたははじめからわしらが担いどる神輿じゃないの。組がここまでになるのに誰が血ぃ流しとんの。神輿が勝手に歩ける言うんなら、歩いてみいや、おう?! 

「仁義なき戦い」でなくても、神輿はこんな感じでバカにされているのだが、いざとなりゃ神輿を担いで突撃した方がいいというのは分かっている。「仁義なき戦い」は、神輿の価値に対する相対主義から始まっていて(無論、本当のはじまりは原爆である)、だからこそ長い戦いが続くのであった。僧兵たちもそんな感じであったに違いない。

そんな相対主義は、しかし、われわれの頭の中でさまざまな変形を遂げる。上の「大きなる猿共」もそれである。実際に、あとで木曽からその人間版まで山地から流れ下って京都を殲滅しにやってくるのであった。八〇年代に、文化相対主義が流行ったときに、われわれはその相対化作用みたいなものを理性の仕業と思っていた。しかし、人間は、相対的なものを習合し猿をつくりあげる。反日だなんとかだとか言い合っているのは、レベルは猿並みに低いがまだ理性の仕業だ。だからこそたちが悪いともいえるが、本当にやっかいなのは猿の夢である。


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