★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

魔女と怪物

2016-08-17 00:46:51 | 漫画など

五十嵐大介氏の傑作。すごい絵だなあ……同業者じゃなくって良かったわ……

そういえば、「クローバーフィールド」という映画を思い出した。ゴジラ映画の影響が濃厚だが、「シン・ゴジラ」や「ドラゴンヘッド」と比べてみると、何か日本人の方がすぐ生きるのを諦める気がする。「シン・ゴジラ」が会議ばっかりやっている映画だというのもそれと実は関係があるのだ。会議は我々の生とは関係ない何者かなのである。「クローバーフィールド」は、前半で、日本に転勤するというので彼女を捨てただかなんだかという話題を結構ぐだぐだと描いているのだが、主人公の友達が『舞姫』の相澤みたいに淡泊に一枚岩ではなく、実によくしゃべる。怪獣がマンハッタンをぶちこわした後でも、結構しゃべりあっている。「なんなのこれ」「誰か説明しろ」とかいう発問にしても、何か起こる度に、実にしつこく繰り返す。そういえば、これは日本の会議に絶対にない言葉だ。主人公たちは、しゃべりながら、主人公が捨てた女の子を救い出しに怪獣があばれまわっている地帯に飛び込んでいき、実際助け出してしまう。でも最後は全員だめだったらしいが……

これに比べると、ゴジラに核を落とそうとしているアメリカと、ジュースでゴジラを凍らせようとしている日本の対立を描いている「シン・ゴジラ」が、結局、「如何に人(ゴジラ)を殺すか」という立場の相対的違いに拘っているだけなのかが分かる。相手をすぐに殺すことを考えるのは、しゃべる相手の不足と生きる力の不足と……全部繋がっている問題のような気がする。

もう、アメリカは戦争を自分の国でしたことがないから日本の気持ちが分からない、とかいう議論は成りたたない。アメリカ人の一部は自分を殺しに来るものたちとの戦場を経験しすぎている。「クローバーフィールド」に限らず、あちらの怪獣が戦闘的な獣であるのは、差別もあるだろうが実感なのであろう。それに対して、ぐだぐだ会議を天皇のご英断で救われた、兵隊が死んだら英霊になって家族や靖国に帰るとか、ファンタジーで微睡んでいる我々の方が、よっぽどまだ「敵」が存在することの恐ろしさを自覚していないのではなかろうか。


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