新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

4月14日「今日の礼拝堂」

2024年04月15日 | 今日の礼拝堂

  復活節第3主日    

今週の祈り: 聖と義である神様。私たちを命の言で満たし、あなたの子としてくださり、御子の復活の証人として歩むことができるようにしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。  アーメン

 

〇 復活節第3主日  説教 (週報掲載説教要旨)

                 「 食卓をともに 」 岡田 薫牧師  使徒3:12-19ヨハネ一3:1-7 ルカ24:36b-48

 

  《彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。》(24:41-43)「まだ信じられず、不思議がっている」というのは、数分前までの「疑い」とは、質が違います。それを「喜びのあまり」と、ルカは表現しています。驚きや戸惑い、恐れや不安、そしてもう一度主イエスと出会えた喜びなど弟子たちの心の中では様々な感情が入り乱れていたことがわかります。そのような彼らの不安と恐れを払拭するかのように、主は弟子たちの前で、焼いた魚を食べるという行動をとられました。ご自身が亡霊ではなく確かな実体を持つ者であるということを、主は食卓をともにするということを通してお示しになられたのです。

 なぜ主イエスはここまでして、ご自身の体を強調なさっているのでしょうか。そこが大切なところです。からだというのは、その人の具体的な人格の固有性を表現します。私という人格を人が識別するのは、私の目、鼻、口、顔面、など、身体を通してです。年と共に、自分の体つきや人相は変わります。「面影が残っている」とか「見る影もない」とか言われることもあるかもしれませんが、私が、私の体を通して、私として識別されることに変わりはありません。主イエスが、こんなにもご自身の身体を強調されるのは、主イエスの復活が、“ナザレのイエスという固有の人格として甦られた”と言うことを強調するためです。強調されているのは、その人格性です。これは昇天の後、聖霊として降臨されても同じです。私たちと主イエスとの関係の特徴は人格的であるということに尽きます。ある時には父、ある時には友、ある時には、きょうだい、ある時には弁護者、そして、永遠の主、永遠の王として、常に人格的な関係です。復活の主イエスは弟子たちに開口一番《あなたがたに平和があるように》と言葉をかけられました。主はこの挨拶を持って、躓きや戸惑い驚きや疑いや迷いにあった彼らの心に光を当てられたのです。そして、手や足やわき腹の傷をあらわにして、その傷に弟子たちが触れることもいとわずに、なおも疑いや不安に揺れている彼らを再び弟子として召し出し、疑う者ではなく、信じる者とされました。

 この箇所を読むたびに、弟子たちを見つめる主イエスの眼差しが慈愛に満ちていたものだったのではないかと想像します。一人一人をしっかりと見つめられる主イエスの眼差し。愛する弟子たちをじっと見つめながら主は、ご自分と対峙しながらもまだ信じられない者たちの心に、怖がる必要はない、わたしはわたしだ、と呼びかられたのではないかと思うのです。そしてご自身が確かに生きておられることを示すため焼いた魚を彼らの目の前で食べて見せながら《聖書を悟らせるために》(24:45)弟子たちの心の目を開いてくださった、そのように私の心も開いてほしいと願います。(岡田)

 

  《来週の礼拝》                              

#4月21 午前10時30分 復活節第4主日 礼拝  

司  式:小泉 基牧師

説  教:小泉 基牧師「狼たちにあらがって

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:清水美年子さん

礼拝当番:楢戸恵子さん、小笠原里子さん

聖  書:使徒言行録 4:5-12、ヨハネの手紙一 3:16-24、ヨハネ 10:11-18

讃  美 歌:155番、410番、増補版52番

 

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