新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

5月30日「今日の礼拝堂」

2021年05月31日 | 今日の礼拝堂

               今日の礼拝堂(5月30日 三位一体 

    新型コロナウィルス感染拡大のため主日礼拝がお休みとなり、中島牧師によるオンライン礼拝が新札幌礼拝堂からYutubeで配信されています。ここでは週報にある「Good News」を掲載いたします。

                                   「 新たに生まれよう 」  ヨハネ3:1~17

 「三位一体主日」です。父なる神が、私たちの救いのために子なるキリストをこの世に遣わされ、一人一人に約束の聖霊を与えて下さった!その神の御業を「父・子・聖霊」なる神の働きとして、キリスト教会では「三位一体」なる神への信仰告白がなされてきました。今日の福音の中にも、イエスさまによって三位一体なる神が明確に示されています。

 登場するのは、ファリサイ派の教師で議員のニコデモです。ファリサイ派は何かとイエスさまに敵対していましたが、ニコデモは純粋にイエスさまから教えを請おうと思っていたようです。人の目を忍んで、ある夜、イエスさまのもとを訪ねました。ニコデモは開口一番、イエスさまに言いました。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようにしるしを、だれも行うことはできないからです。」ニコデモは、イエスをラビ(教師という意味)と呼んでいますが、それでもイエスさまのことを「神のもとから来られた」方、「神が共におられるのでなければ…」と言っていることから、普通のラビとは違う特別な方であると認識していたようです。このニコデモの言葉の中に、イエスさまが神と等しい方であることが既に言い表されています。しかし、イエスさまはニコデモのこの挨拶には反応されず、次のように返されました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」年を重ねていたニコデモが「新たに生まれなければならない」という言葉に躓くと、さらにイエスさまは言われました。「だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」「霊」とは「聖霊」に他なりません。つまりイエスさまは、誰しも聖霊を受けなければ、信仰者として新たに生まれ変わることはできないし、したがって神の国に入ることもできない、と言われたのです。父と子と聖霊は、三つにして一つの神だからです。

 使徒パウロは『ローマの信徒への手紙』において、聖霊によって信仰に導かれた者はみな「神の子」です、と言い切っています。8章14節〜:神の霊によって導かれる者は皆、神の子です。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。「アッバ、父よ」という祈りの言葉は、幼い子どもが神に祈る時の言葉です。「天のお父様」、いや「お父ちゃん」と言った方がふさわしいでしょうか。神に対する全幅の信頼と親しみをもって、語りかける言葉です。私たちがそのように神に対して祈ることができるのは、聖霊を注がれているからです。なんと有り難いことでしょうか?いつ、何時も、聖霊に導かれ、キリストの御名を通して、神に祈りを捧げましょう。(日笠山)

* 新型コロナウイルス感染拡大のため、通常の礼拝がしばらく中止となりました。                                                      これからは毎週オンライン礼拝がおこなわれる予定ですが、このプログには牧師からいただく「Good News」による説教内容を掲載いたします。                                                                                   

 


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5月23日「今日の礼拝堂」

2021年05月27日 | 今日の礼拝堂

               今日の礼拝堂(5月23日 聖霊降臨祭 )

    新型コロナウィルス感染拡大のため今週も主日礼拝がお休みとなり、日笠山牧師による新札幌礼拝堂におけるオンライン礼拝がYutubeで配信されています。ここでは週報にある「Good News」を掲載いたします。

                                   「  正  解 」  ヨハネ 16:4b~15

   今年もまた聖霊降臨の時がやってきました。昨年同様、今年もまたこの喜ばしい時を皆で共に過ごせないことは非常に残念でありますが、だからこそ今一度聖霊に身を委ねていく信仰を思い起こしたいと願います。

 今年与えられた福音はヨハネ16章にある聖霊の働きについての箇所です。この箇所は14章から続くイエスさまの告別説教の一部ですが、告別説教をそのまま14:1から読んでいく場合には注意が必要です。というのも、15:18-16:4aまではその直前に語られたイエスさまの愛の教えをさらに補完するために別の場所にあった教えを配置転換した可能性が高く、本来であれば15:17から16:4bに続いていると考えられているからです。つまり、今日の箇所は15:17の「互いに愛し合いなさい」という教えに続く形で語られたのが本来の形であるというのです。これは重要な視座を私たちに与えます。互いに愛することは、聖霊によって守られていくというのです。そしてこれが起こっていくのが教会であると、そう聖書は言っています。しかし、現実のところどうでしょうか。

 使徒言行録にあるように、イエスさまがかつて約束された聖霊が弟子たちに与えられました。そのことによって教会が生まれていくわけですが、使徒言行録の段階から、またさらにその先の歴史を見てみても、教会とは常に「互いに愛し合いなさい」という教えを守っているかと言うと頭を傾げてしまいます。パウロとペテロは喧嘩していますし、ルターもカトリックと喧嘩していますし、時には教派間で戦争も起こっています。聖霊が与えられたにも拘わらず、互いに愛し合うことが出来ているかというと出来ていないと言っても良いでしょう。では何がいけなかったのでしょうかというと、人間の罪が悪いのだという答えになっていくわけです。

 さて、ここまで話をすると、私たちはいかに「互いに愛し合えていない」かということが分かると思います。ではここで少し質問を手前に戻してみましょう。そもそも「互いに愛し合う」とは一体何でしょうか? 仲良く過ごすことでしょうか。喧嘩をしないことでしょうか。笑って過ごすことでしょうか。そのどれも、もしかしたら答えではないのかもしれません。ここまで話して何が言いたいかと言うと、私たちはいつの間にか正解を作り出してしまうということです。愛するという行為ですら、何か正解があると考えてしまう。勝手に、私たちは主の掟を、み言葉を、狭いものにしていってしまうのです。私たちに求められていることは、聖霊に身を委ねることです。その聖霊が、私たちに真理を与えてくださるのです。考えるなということではなく、委ねることに励みたいのです。

 今の私たちもまた正解を探しています。大きな問題を抱えた現状の中で何をすれば良いのかと考える日々でありましょう。けれど、私たちはまず聖霊に委ねたいのです。その聖霊を通して、主が共におられるから不安になる必要はないという思いを受け取って、安心して愛し合う者として、愛し合う共同体として、今日もまた遣わされていきたいと願います。(中島)

 

* 新型コロナウイルス感染拡大のため、通常の礼拝がしばらく中止となりました。                                                      これからは毎週オンライン礼拝がおこなわれる予定ですが、このプログには牧師からいただく「Good News」による説教内容を掲載いたします。                                                                                   

 


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5月16日「今日の礼拝堂」

2021年05月17日 | 今日の礼拝堂

                 今日の礼拝堂(5月16日 主の昇天 )

    新型コロナウィルス感染拡大のため主日礼拝がお休みとなり、中島牧師による新札幌礼拝堂からオンライン礼拝がYutubeで配信されています。ここでは週報にある「Good News」を掲載いたします。

                                   「 心の目を開かれて 」  ルカ24:44~53

 教会の暦は「主の昇天」の主日を迎えました。本日の福音書の日課は、十字架の死から復活されたイエスさまが弟子たちとしばらくの時間を共に過ごされた後、天に上げられ、神のみもとに帰られたことを伝えています。

 それにしても不思議なことは、イエスさまを見送る弟子たちの中に、不安や怯えや悲しみや嘆きが一切見られないことです。それどころか、彼らは天に上げられたイエスさまを見送ると、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の中で神を賛美していたと言うのです。52節:彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。イエスさまが十字架に赴かれる直前は、あれだけ恐れ、悲しみに沈んでいた弟子たちが、こんなにも変えられたのはなぜでしょう。それは、紛れもなく彼らが十字架の死から復活された主イエスと再会したからに違いありません。そして、限られた時間ではありましたが、イエスさまと温かい交わりの時をもち、励ましのメッセージをもらったからでありましょう。然り、弟子たちはイエスさまが彼らの弱さと罪をすっかり赦し、今でも彼らを愛してくださっていることを身をもって知ったのです。そして、何よりも彼らはイエスさまから大切な仕事を託されました。キリストの証人として、福音を伝えるという仕事を!こうしてイエスさまから愛され、励まされ、信頼された弟子たちは、今や喜びに満ちて、その時を待つことができました。神から聖霊をいただいて、福音宣教者としての一歩を踏み出す日を。

 来週は、ペンテコステです。弟子たちに約束の聖霊が与えられた日です。しかし、今年のペンテコステも去年と同様、札幌教会では共に礼拝堂に集まることが出来なくなりました。新型コロナウィルスの感染の再拡大が懸念されるからです。去年の6月から約1年間、教会では感染対策を取りつつなんとか礼拝を続けて参りましたが、最近の急激な感染者数の増加に鑑みて、しばらくの礼拝休止は致し方ないという判断をしました。なぜ、またこの季節に?北海道が1年のうちで最も美しく輝くこの5月になぜ?と言う忸怩たる思いは拭えません。ペンテコステには久しぶりに聖餐式も予定していたのですが、それも出来ません。毎週皆さんと礼拝でお目にかかって、共に御言葉を聞き、聖餐に与り、神を賛美できることこそ礼拝を司どる牧師としての最大の喜びであるにもかかわらず、それが出来ないのは本当に辛いことです。弟子たちが聖霊を受けるまで都にしばらくとどまることを命じられたように、今の私たちも「とどまる」時なのでしょうか。聖霊を豊かに受けて再び礼拝堂に集える日まで、それぞれの場で、私たちも絶えず神をほめたたえることが出来ますように。(日笠山)

* 新型コロナウイルス感染拡大のため、通常の礼拝がしばらく(5月30日までの予定)中止となりました。                                                      これからは毎週オンライン礼拝がおこなわれる予定ですが、このプログには牧師からいただく「Good News」による説教内容を掲載いたします。                                                                                   

 


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5月9日「今日の礼拝堂」

2021年05月11日 | 今日の礼拝堂

    復活節第6主日    *本日は信徒礼拝で行われました。

今週の祈り: 神さま。あなたはあなたを愛する者に、計り知れない喜びを与えてくださいました。思いをはるかに超えた約束に与ることができるように、すべてにまさってあなたを愛する愛を注いでください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 *新型コロナウイルス感染対策のため、本日も「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 

〇復活節第6主日 説 教 中島牧師(週報掲載説教要旨) ヨハネ15:9~17             

                      「  父  

 先週、私たちは「イエスはまことのぶどうの木」と小見出しのつけられた箇所の前半部を読んできました。そして今日はその続きから読まれていますが、全体を通しての視点で読むことは大切ですので、前半部にも触れつつ今日のみ言葉を聞いていきたいと思います。

 イエスさまはご自身を「ぶどうの木」にたとえ、私たちをその「枝」と表現しました。それほどまでの繋がりが与えられているという喜びが語られているわけです。このみ言葉を聞いて私たちがなすべきことは枝になることを目標にするのではなく、枝の状態を保持するために奮闘することでありましょう。というのも、イエスさまは既に私たちを「つながっている枝」と言われているように、繋げてくださっているのです。そのため、私たちは枝であり続けるよう努力しなければなりません。その方法が今日の箇所で語られていくわけです。注目すべきは、9節以降で語られる「とどまる」という言葉です。この言葉は枝に「つながる」という言葉と、訳す際には意味合いから別の訳がなされていますが、同じ言葉(メノー)が使われています。つまり枝に繋がり続けることは、とどまることであると言うのです。私たちにとってとどまるということは一体何でしょうか。教会に行くこと、神の愛を実践すること、神学を勉強すること。色々なことを思い浮かべるかもしれません。しかし、とどまるというのは何かを実践することではないと考えられます。

 7節で「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」と語っています。この「いつもある」という言葉も実は「とどまる」という言葉と同じ言葉が使われています。つまり、イエスさまのみ言葉を内にいつも持ち続けることが、神の愛にとどまり続ける一つの重要な事柄として語られているのです。

 イエスさまの愛を心に持ち続けるところで、私たちはいつもそのみ言葉から愛を受け取ることが出来るのです。その愛をひっさげて生きていくとき、私たちは神の愛にとどまるものとして、枝であり続けることが出来るのです。

 11節以下には神の新たな掟が語られています。私たちが愛を受け取ることが出来て初めて、私たちは誰かを愛する者としてその掟に従っていくことが出来るのです。故に、私たちは今日もイエスさまのみ言葉を持って遣わされていきたいと願います。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。(16節)」。(中島)

 

《来週の礼拝》                               

#コロナ感染再拡大のため、礼拝はしばらく中止となりました。なお、新さっぽろ礼拝堂からオンライン(Youtube)で礼拝が配信されます。

 


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5月2日「今日の礼拝堂」

2021年05月04日 | 今日の礼拝堂

       復活節第5主日     

今週の祈り: 神さま。あなたは御子をぶどうの木とし、私たちをつなげて生かしてくださいます。御子の復活に生き、愛の実を結び、喜びに満たされるよう養ってください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 *新型コロナウイルス感染対策のため、本日も「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 〇復活節第5主日 説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) ヨハネ15:1~8

                   「 キリストの実 」

  本日の福音は、イエスさまがご自身を「まことのぶどうの木」に例えられた御言葉です。1節:わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。『ヨハネ福音書』には、イエスさまが「わたしは〜である」と言っておられる箇所がたくさんあります。「わたしは命のパンである(6章48節)」「わたしは世の光である(8章12節)」「わたしは良い羊飼いである(10章11節)」等々。イエスさまは私たちが生きていく上で欠くことのできないものに例えて、ご自身を顕してくださったのです。「わたしは〜である」と。今日の福音もその中の一つです。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」

 この御言葉において、イエスさまはご自身を「まことのぶどうの木」に例えられた上で、父なる神との関係も端的に例えておられます。「わたしの父は農夫である」と。ぶどうの木の成長のためには、手入れをする農夫の存在は欠かせません。農夫が丹精込めてぶどうの木を育てるからこそ、木はたくさんの枝を張り、実を結ぶのです。日々の水まきや肥料やり、また枝の剪定など農夫の仕事はたくさんあります。イエスさまはその大変な仕事を父なる神がしてくださっているとおっしゃるのです。神は御子をこよなく愛しておられるからです。

 それゆえ、イエスさまは「わたしにつながっていなさい」と呼びかけてくださいます。「まことのぶどうの木」であるイエスさまにつながっているだけで、私たちにも神の愛が日々豊かに注がれるからです。そう、私たちは「ぶどうの枝」なのです。4節〜:わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」私たちは、イエス・キリストとつながることによって、神の恵みを豊かに受けて、実を豊かに結ぶことができる。まことのぶどうの木であるキリストの実を、キリストの福音を証しする実を、結ぶことができるのです。

 私たちは、自分なんかとてもキリストの実を結ぶことなんかできやしない、と諦めてはいないでしょうか?洗礼を受けても罪を犯さないでは生きていけない自分-往々にして信仰が揺らいでしまう自分なんか駄目だ、と。しかし、実を結ぶのは私自身の努力に信仰によるのではありません。父なる神の愛が注がれているがゆえに、私たちは実を結ぶことが出来るのです。そのために、私たちはただ御子につながっているだけで良い。キリストにつながっているだけで良いのです。それは何も難しいことではありません。  (日笠山)

《来週の礼拝》 *信徒礼拝で行われます。

*5月9日 午前11時   復活節第6主日 礼拝

司  式:滝田裕美(代行)

説  教:滝田裕美(代読)「父

奏  楽:若井裕子さん

聖書朗読:小笠原里子さん

礼拝当番:小川敦子さん、小笠原里子さん

聖  書:使徒言行録10:44-48、ヨハネの手紙(Ⅰ)5:1-6、ヨハネ15:9-17

*賛  美  歌:410(1-3)、382、404


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