新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

3月19日「今日の礼拝堂」

2017年03月20日 | 今日の礼拝堂

四旬節題3主日

「今週の祈り:永遠の主なる神さま。あなたはみ子の生涯と死と復活によって、悩み多いこの世に御国をもたらされました。私たちがみことばに聞き従って、愛の器となることができるよう助けてください。あなたと聖霊とただひとりの神であり、永遠に生きておさめられるみ子、主家宇・キリストによって祈ります。」

岡田薫牧師・札幌教会新札幌礼拝堂での最後の礼拝です。

〇15年の長きにわたって、岡田牧師は細やかなご配慮と愛に満ちた牧会をしてくださいました。慰められた信徒はどれほど多いことでしょう。道東の招聘を受けて、岡田牧師は旅立たれます。その昔、アブラハムが行先も知らずに主の命令に従って旅立ったように、牧師は行先こそ知っているところでも、新しい気候と環境の中へ雄々しく旅立っていかれます。その行く道がどんな時も神さまのみ手の中にまもれるようにと心から祈ります。

丁度、東京から昔ともに礼拝を守った友、今は神学生として牧師への道を真摯に歩んでいられる小澤周平さんと奥さまの実紀さんが来道。フィンランドのミッションから音楽伝道師の任命を受けた実紀さんが、新しいCDをもってきて贈ってくださいました。癒しの歌声が聞ける嬉しい贈り物です。

岡田牧師への感謝と送別の祈りを込めて、NAさんが活けてくださった華やかな一活けとともに恵みに満ちた礼拝をもちました。

 

       

〇場所をホールに移して、牧師の壮行会を開きました。みんなから一言ずつありがとうのメッセージを述べました。暖かい家庭的な新さっぽっ礼拝堂のおうどんをどうかいつまでも忘れないでいてください。

 

〇四旬節第3主日説教       日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)
ヨハネによる福音書4:5-26

「今がその時」

ある日の昼下がり、イエスさまと弟子たちがユダヤからガリラヤに帰られる途中、サマリアの町を通った時のことです。イエスさまは旅に疲れて、ヤコブの井戸のそばに座っておられました。そこで、イエスさまは一人のサマリアの女と出会います。

サマリアに住む人々は、その地域性からしても、また町の歴史からしても、純血を重んじるユダヤ人たちからは、同胞とは見なされていませんでした。彼らは同じユダヤ民族としての血を引き継ぎながらも、同胞たちから蔑まれ、異邦人扱いされていたのです。

そのサマリアに住んでいた素性のよく分からない女−今まで夫が5人もいながら、今連れ添っているのは本当の夫ではないという、どう考えても身持ちが良いとは言い難い女。だから、昼下がりの暑いさなかに、一人こっそり井戸に水を汲みに来なければならない生活を送っていたのでしょう。井戸端会議に出席が許されている女性たちなら、涼しい朝か夕方を見計らって水汲みに集まったものです。驚いたのは、女の方です。当時の常識としては、男性から女性に声をかけるということは考えられないことでした。しかも、彼女は身持ちのよくない女…そのことはとうの本人が一番よく分かっています。その上、彼女はサマリア人ときています。まさか、生粋のユダヤ人の男性から声をかけられるとは思いもしなかったでしょう。しかし、女はイエスさまから声をかけられました。「水を飲ませてください」と。すべての人に仕えるイエスさまのお姿が、ここにあります。

戸惑いながらもいろいろと質問を畳み掛けてくれる女に、イエスさまは丁寧に答えていきます。そうしているうちに、今度は女の方がイエスさまに「主を、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水(永遠の命に至る水)をください」と懇願しました。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』という御言葉にあるとおり、のどを潤す水だけあっても人は生きてはいけません。私たちは、魂の渇きをいやしてくれる水、こんこんと泉のように湧き出る聖霊が注がれてこそ、神の前で永遠に生きていくことができるのです。

その水を注いでくださる主イエスを前にして、女はひざまづき、御言葉に耳を傾けました。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」。今が、その時!イエス・キリストの御言葉を聞くために教会に集い、御糧をいただき、聖霊が豊かに注がれる今まさにこの時、私たちはまことの礼拝に与っているのです。なんと幸いなことでしょう!私たちも今日、この女と共に、主の前にひざまづこうではありませんか。

 

〇3月26日(日)午前11時   四旬節題4主日礼拝

〇司式:日笠山吉之牧師

〇説教:日笠山吉之牧師

〇奏楽:滝田裕美姉

〇聖書朗読:青木裕子姉

〇礼拝当番:小川照美兄
      滝田裕美姉

〇聖書:イザヤ書42:⒕-21・エフェソの信徒への手紙5:8-14・ヨハネによる福音書9:13-25

讃美歌:76・322(1-3)・322(4,5)・200・256

〇「聖書の学び」があります。いつもは「うどん食堂」ですが、この日はうろおんがありませんので、各自用意してください。

〇22日(水)はオープンチャーチです。どなたもお気軽にお越しください。


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3月12日「今日の礼拝堂」

2017年03月12日 | 今日の礼拝堂

四旬節第2主日

「今週の祈り:憐み豊かな天の父よ。あなたの道を離れて迷う者すべてを連れ戻し、今一度み言葉の新地を与えて信仰を強くしてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子主イエス・キリストによって祈ります。」

         

〇今月の召天者のお好きだった「黄色いバラ」を飾ってくださったのは、いつものNAさんです。この季節、バラを捜すのも大変なくらいなのに、高価なバラにカスミソウを添えて先に召された姉妹を偲んでくださるやさしさに、尊い愛の姿を教えられる思いです。感謝です。

〇四旬節第2主日説教       岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)
マタイによる福音主20:17-21

『主の杯』

エルサレムへ上って行く途中、主イエスは十二人の弟子だけを呼び寄せてご自身の十字架と復活について語られました。今日の日課となっている箇所は三度目となるところです。ところが、弟子たちは主が打ち明けてくださった受難と復活についての話を十分に理解し、受けとめることができていません。理解できなかったというよりも、むしろ、真剣に聞いていなかったようなのです。すでにこの時から、主が十字架の苦しみを背負っておられたと考えても良いと思います。つまり、主がたどられた地上での歩みは、ご自身の苦悩、悲しみ、憂いを結局は誰も共有することが出来なかった、誰からも理解されず、誰からも支えられず、ひたすらに耐え忍ばれる歩みだったからです。

ゼベダイの子らの願いを知って、他の10人も憤慨していることに気付かれた主イエスは、弟子たちを呼び寄せられました。そして《あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間ではそうであってはならない。あなたがたの中でいちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのと同じように》と言われました。

残念ながら弟子たちはこれらの言葉を謙遜、教訓としか捉えていないようです。しかし、主イエスの十字架の苦難と死という文脈を知っている私たちは、その文脈にそってこれらの言葉を理解しなくてはならないと思います。つまり、《仕える》《僕になる》とは徹底的に父のみ心に従って、主が歩まれた道に従うということ。誰もが見放され、棄てられ、もはや深い絶望しか残されていないと考えるような時でさえ、主イエスが復活の希望へと目を向けられていたように、信仰者は希望を見失ってはならないというエールではないかと思うからです。言いかえると、常に神と対峙する生き方への招きです。

主イエスは私たち人間の苦悩、悲しみ、運命に寄り添うために人の子としてお生まれになりました。そして、福音を携え人々の中に分け入り、神の愛を伝え生涯をかけて示されました。しかしその最後は《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》(マタイ27:46)という断末魔の叫びを伴う壮絶な死で締めくくられます。これは、神さまの憐れみなしに死ぬという想像のつかない孤独な死です。しかし、主はその十字架の死という地点においてこそ、復活の望みに生きておられました。

父なる神への信頼、委ねて生きるという姿勢に私たちは憧れ、そのように生きたいと願いながらも躓きます。主がゼベダイの子たちに示された「杯」とは、私たちが目を背け見たくないと思う自らの弱さや脆さや浅はかさがあふれる杯です。簡単に飲み干せるものではありませんが、主が共にいてくださるからこそ私たちはその杯を手に取ることが出来るのです。

〇3月19日(日)午前11時  四旬節第3主日

〇司式:岡田薫牧師

〇説教:岡田薫牧師

〇奏楽:滝田裕美姉

〇聖書朗読:小川敦子姉

〇礼拝当番:小笠原里子姉
      滝田裕美姉

〇聖書:出エジプト17:1-7・ローマの信徒への手紙4:17b-25・ヨハネによる福音書4:5-26

〇讃美歌:64・238・290・328・258

〇岡田薫牧師の最後の礼拝担当となります。お誘いあわせうえ、お越しください。

〇15日(水)はオープンチャーチです。どうぞご自由にご参加ください。

 

 


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3月5日「今日の礼拝堂」

2017年03月05日 | 今日の礼拝堂

四旬節第1主日

「今週の祈り:主なる神さま。あなたは昔、その民を荒野の中そ約束の地へ導かれました。今、この世の荒野で救い主に従って歩む民の群れを、栄光のみ国へ導いてください。あなたと聖霊とともにただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。」

      

       

〇四旬節第1主日説教        日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)
マタイによる福音書4:1-⒒

「聖霊に導かれ」

教会の暦は、四旬節に入りました。イースターまでの40日間、私たちは、私たちの罪の赦しとあがないのために自ら受難を引き受け、十字架にかかってくださったイエスさまの愛を、深く心に刻んでいきたいと思います。

本日の福音書の日課は、イエスさまがヨルダン川でヨハネから洗礼を受け、福音を宣教し始める前の出来事を伝えています。洗礼の時、聖霊が鳩のようにご自分の上に降ってくるのを確かにご覧になったばかりのイエスさまでしたが、その聖霊に導かれて、イエスさまはすぐさま荒野へ行かれます。それは、荒野で悪魔から誘惑を受けるためでした。

「悪魔」とは、「中傷する者」のこと。悪魔は、イエスさまの信仰を挫こうとばかりに、いろいろと難癖をつけては、イエスさまを中傷するのです。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」「神の子なら、飛び降りたらどうだ」「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら…」と。それらの悪魔の誘惑に対して、イエスさまはことごとく聖書の御言葉をもって切り返されました。さすがイエスさま!お見事です。こうして悪魔は、しばらくの間、退散するしかありませんでした。

悪魔というと、いかにも性悪な顔をもったグロテスクな容姿を想像するかもしれませんが、そんなことはありません。むしろ、悪魔は私たちの信仰をぐらつかせるために、甘い声でささやき、常に唆してきます。その目的は、私たちを神から引き離すこと。人類最初の夫婦であるアダムとエバに罪を犯させた蛇は、まさに悪魔の象徴です。神が二人に唯一食べてはいけないと命じられたエデンの園の中央に生えている木=善悪の知識の木の実について、蛇は「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」と唆すのです。実際、その木の実を見るといかにもおいしそうで、一口食べただけで賢くなれそうな気がする…神のようになれそうな気がする…その誘惑に抗えず、アダムとエバは二人して神の御言葉に背いて、とうとうその実を口にしてしまいました。神のようになりたい−否、神を凌駕する者となりたい−絶えず沸き上がってくる人間のそのような欲望や高慢が、私たちを底知れぬ罪の淵へと誘っていくのです。

私たちの信仰は、日々、悪魔の誘惑にさらされています。私たちが何気ない日々の生活の中で、考えること、感じること、言うこと、行うこと…それらの隙間に、狡猾にも悪魔は忍び込んで、私たちを神との交わりから引き離そうと躍起になっているのです。私たちは、そんな悪魔の言いなりになってはなりません。「退け、サタン」と悪魔を一蹴されたイエスさまに聞き従い、たとえ辛苦と試練に満ちた道を歩むことになろうとも、先立って歩んでくださる主イエスに手をひかれて、その道を歩んで参りましょう。

 

〇3月12日(日)午前11時  四旬節第2主日礼拝

〇司式:日笠山吉之牧師

〇説教:日笠山吉之牧師

〇奏楽:若井裕子姉

〇聖書朗読:蔵谷俊夫兄

〇礼拝当番:秋田直枝姉
      滝田裕美姉

〇聖書:創世記12:1-8・ローマの信徒への手紙4:1-⒓・マタイによる福音書20:17-28

〇讃美歌:189・306(1-3)・306(4-6)・73・252(1,2)

〇「うどん食堂」と「みんなの会}があります。ご予定ください。8日(水)はオープンチャーチです。どなたでもご自由にご参加ください。


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