新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

5月31日「今日の礼拝堂」

2020年05月29日 | 今日の礼拝堂

          今日の礼拝堂(5月31日聖霊降臨祭「ペンテコステ」

新型コロナウィルスの感染拡大のため、主日礼拝のお休みが続いておりますが、週報掲載の「特別の祈り」及び「グッドニュース」を掲載いたします。

今週の祈り:神さま、あなたはこの日、あなたを信じる者に聖霊を送って心を開いてくださいます。聖霊の光で導き、私たちがすべてにおいて正しく判断し、あなたの平和の内にいつも喜ぶことができるようにしてください。    あなたと聖霊とともにただひとりの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

                          「 聖霊を受けなさい 」 ハネ20:19~23

   イースター以降、7週間の復活節を経て、ペンテコステを迎えました。ペンテコステはユダヤ教の「五旬祭」に由来しています。「五旬祭」はユダヤ教の中で最も大切な祝日である「過越祭」から数えて、ちょうど50日目にあたります。キリストが十字架にかけられたのは過越祭の最中でしたから、イエスさまは私たちの罪を取り除く神の小羊だと、信仰者たちは理解しました。そのキリストが復活して、弟子たちの前に再び現れ、しばらくの間豊かな交わりの時をもたれ、父なる神のみもとに帰られ、そして弟子たちに約束の聖霊を注がれた!キリストの復活からちょうど50日目のその日を、教会では「ペンテコステ」(聖霊降臨祭)と呼ぶようになったのです。この日は信仰者にとっては、神から豊かな聖霊を注がれる恵みを覚える特別な日です。

   この特別な主日、ペンテコステの礼拝を皆さんと共に会堂に集まって守りたかったのですが、今年はそれが叶いませんでした。イースターの礼拝まではなんとか一緒に集まることができましたので、ペンテコステの日には再び会堂で皆さんと一緒に!という願いはありましたが、その楽しみは来週の「三位一体主日」まで取っておきましょう。今年のペンテコステは、それぞれの場で、神様に対する願いと思いに心を一つにして、聖霊を受けたいと思います。

   さて、本日の福音は復活の主イエスが弟子たちの前に現れて言われた最初の言葉です。「あなたがたに平和があるように」「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」イエス様を見捨てて、逃げ隠れていた弟子たちに、イエス様は開口一番「平和かあるように」と祈ってくださいました。弟子たちだけでなく、私たちもいつも弱く、臆病で、不安に駆られている者たちでありますが、イエスさまは「あなたがたに平和があるように」と祈ってくださっています。その上で、イエス様は弟子たちを福音の宣教のために遣わされるのです。イエス様ご自身の息、聖霊を吹きかけて!「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」つまりイエスさまが私たちに吹きかけてくださる息、与えてくださる聖霊は、他者に赦しを与える力をもっているというのです。私たち自身の罪の赦しは、イエス様の十字架のあがないと復活によって既に与えられていますが、その私たちに他者を赦す権限も与えられている!これは大変な主イエスからの委託ではないでしょうか。信仰者は、すべての人に対して赦しと愛を与えることができる!聖霊によって、その賜物が付与されるというのですから。イエス様が十字架を通して示してくださった愛と赦しの恵みを、しかと伝える者として遣わされていきましょう。(日笠山)

《来週の礼拝》                               

#6月7日 午前11時 三位一体主日礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「共に」

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:蔵谷俊夫さん

礼拝当番:出口輝子さん、滝田裕美さん

聖  書:創世記1:1-2:4a、コリント(Ⅱ)13:11-13、マタイ28:16-20

*賛  美  歌:132、322(3-4)、322(3-4)、336,聖263

 

                                

  


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5月24日「今日の礼拝堂」

2020年05月22日 | 行事予定

           今日の礼拝堂(5月24日復活節第7主日)

新型コロナウィルスの感染拡大のため、主日礼拝のお休みが続いておりますが、週報掲載の「特別の祈り」及び「グッドニュース」を掲載いたします。

今週の祈り:栄光の神さま。御子イエス・キリストは私たちのために苦しみを受け、あなたの右に昇られました。私たちが苦しみの時も喜びの時もキリストと一つに結び付け、世界をあなたの慈しみ深い臨在のもとに置いてください。あなたと聖霊とともにただひとりの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

                          「 執り成し 」 ヨハネ17:1~11

   今日与えられた福音は、ヨハネ福音書における神学的頂点とも呼べる箇所です。そこでは告別説教の最後の執り成しの祈りが記されています。そのあとにはイエスさまが逮捕され、実際に十字架に向かっていく場面が記されていますから、死ぬ直前の祈りであり、一つの転換点とも言えるのです。旧約の時代から、例えばモーセがそうであったように(申33章)、告別の演説の最後は神への賛美と祈りで終わるという一つの定型がありますから、イエスさまのなさった告別説教での最後の祈りもよくある形として人々には受け入れられたでしょう。しかし、その中身は当時の人々が考える告別の折りではなかったのです。

   イエスさまが語られた祈りは、時について語られています。過去を語り、現在を語り、未来を語ることを通して、それらをすべて飛び越えた永遠の命について語るのです。その永遠の命がイエスさまの愛によって人々に与えられるという、キリスト者としての最大の恵みがイエスさまの昇天に上って成就すると宣言されたのです。さらにその対象は、初めに「子なるイエス」の祈りが記され、その後に弟子たちへの、そして教会への折りと変化していきます。イエスさまに付き従う全ての人々が、永遠の命の中を豊かに生かされていくという、決定的に重要なことが記されているのです。

   しかしこの大きな意味を持つ文章を前にして、私たちはこれをイエスさまの「説教」として捉えてはなりません。イエスさまはこの重大な事柄を、この場面においては、人々に対しては全く語っていないのです。イエスさまは終始、神に語り掛け続けているのです。イエスさまは、私たちが永遠の命の中を生きられることを、神に執り成して祈ってくださっているのです。ここにこそ、イエスさまの大きな愛が見られるのです。

   イエスさまは肉をもって私たちのところにまでやってきてくださいました。それは、私たちの痛みを共にし、共に生きて下さるという恵みが語られる出来事でありますが、私たちは祈る時、そのことをついつい忘れてしまいがちです。イエスさまは神さまと私たちの間を執り成してくださるのです。だから私たちは祈れるのです。

    そして、その執り成しは私たちと神さまの間だけではありません。イエスさまは私たちの間をも「すべての人を一つにしてください」という祈りでもって執り成してくがさるのです。

    私たちは今、それぞれの場所にあって。目に見えるつながりを感じにくい状況に立だされています。だから、教区長や本教会からの文書で「共に祈りましょう」という呼びかけがなされたのです。祈ること、それはイエスさまの執り成しを受け取ることであり、私たちが今も執り成しの中にいることを覚えることであるのです。これからも、イエスさまと共に、そしてすべての人と共に祈り続けてまいりましょう。(中島)


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5月17日「今日の礼拝堂」

2020年05月18日 | 今日の礼拝堂

           今日の礼拝堂(5月17日復活節第6主日)

新型コロナウィルスの感染拡大のため、主日礼拝のお休みが続いておりますが、週報掲載の「特別の祈り」及び「グッドニュース」を掲載いたします。

今週の祈り:永遠に生きておられる全能の神さま。あなたは天と地のすべてを一つに結び付けてくださいます。豊かな憐れみによって、あなたのすべての子どもたちの祈りを聞き入れ、全世界に真理と平和の聖霊を授けてください。 あなたと聖霊とともにただひとりの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

                          「 主を愛する人は 」 ヨハネ14:15~21

 イエスさまの告別説教が続いています。今日のテキストでは、「愛」と「掟」という言葉が枠となっています。15節「あなたがたは、わたしをしているならば、わたしのを守る。」21節「わたしのを受け入れ、それを守る人は、わたしをする者である。」「愛」は、イエスさまへの「愛」。「掟」は、イエスさまから与えられた「掟」です。

    実はこの告別説教に入る直前に、イエスさまは既に「新しい掟」を弟子たちに与えておられます。13章34節「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」つまり「新しい掟」とは、互いに愛し合いなさいという愛の掟です。この掟の根拠は、イエスさまご自身が弟子たちを愛されたから、然り、十字架の極みまで愛し抜かれたからです。こうしてイエスさまの測り知れない愛を知った者は、主イエスを愛するのと同じように、主が愛されたすべての人々をも愛するよう促されていくのです。同35節「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。教会の宣教に当たってまず問われているのは、そこに集う者たちが互いに愛し合っているかどうか。教会が互いに愛し合う信仰共同体であるなら、それすなわちイエスの弟子であることの証しであり、やがて皆の知れ渡るところとなって、福音の宣教は自ずから進んでいくのです。

 今日イエスさまが伝えようとしておられるもう一つのことは、「別の弁護者」の派遣です。それは、この世が見ようとも知ろうともしない「真理の霊」とも呼ばれていますが、信仰者はそれが「聖霊」であることを知っています。イエスさまが十字架で死なれ、復活し、そして父なる神のみもとへ帰られた後、この世を裁くために再び戻って来られるその日まで、私たちと一緒にいてくださるのがこの「聖霊」です。聖霊は、私たちを力づけ、慰め、励まし、真理の道に導くために与えられるいわば私たちの人生の同伴者です。私たちが決してみなしごになることがないようにと、イエスさまは父なる神に願って、聖霊を送る約束をしてくださったのです。

 この聖霊派遣の約束が果たされたのが、『使徒言行録』の2章に記された「ペンテコステ」の出来事です。教会では「イースター」と並んでこの「ペンテコステ」を大切な祝日として毎年祝います。今年の教会の暦では、5月31日がその日です。しかし、コロナウィルスの感染拡大がまだ収まらないため、札幌教会はこの日まで礼拝を中止することになりました。なんとも無念ですが、だからと言って私たちに約束の聖霊が与えられないというわけではありません。イエスさまが約束してくださった御言葉を信じつつ、聖霊を待ち望みましょう。(日笠山)

 

 


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5月10日「今日の礼拝堂」

2020年05月08日 | 今日の礼拝堂

           今日の礼拝堂(5月10日復活節第5主日)

新型コロナウィルスの感染拡大のため、主日礼拝のお休みが続いておりますが、週報掲載の「特別の祈り」及び「グッドニュース」を掲載いたします。

今週の祈り:全能の神さま。御子イエス・キリストは道であり、真理であり、いのちです。私たちが互いに愛し合い、主の戒めの道を歩んで、御子の復活の命を世界中の人々と分かち合うことができるように恵みを与えてください。あなたと聖霊とともにただひとりの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

                          「 命  令 」 ヨハネ14:1~14

    新型コロナウイルスの影響は留まることがなく、今なお不安の中で日々を過ごしていることと思います。様々な苦しみや痛みと格闘する一人ひとりの上に神さまからの平安が与えられますように、そしてまた少しでも早く皆で礼拝に集うことが出来ますように、日々お祈りしています。

   今日与えられた箇所は、イエス様が十字架に架けられる前の最後の説教。その冒頭の部分が与えられました。それはつまり、イエス様に従うとは何であるのか、そのことが伝えられる最後の場所であります。そこで与えられた言葉は、今の私たちにどのように響くでしょうか。こう書かれています。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。」この力強い命令は、どのように聞こえるでしょうか。強い励ましでしょうか。信じようという力を頂く言葉でしょうか。それとも、心を騒がせてしまう自分への裁きの言葉のように聞こえるでしょうか。

   今、私たちの現状はまさに、心を騒がせている状態ではないでしょうか。止まることのない感染者の増加、自粛要請、携帯に送られた緊急速報にも心が騒ぎました。たとえ信仰者であっても、不安が私たちの心を襲います。その私たちに対して、「心を騒がせるな」というみ言葉は少々酷なようにも聞こえてきます。「心を騒がせるな」と言われたところで、「はい、わかりました」と言って騒がせないようにできるほど、私たちは器用ではありません。感情というものは、自分のものであっても、コントロールできないのが私たちです。ましてや、目に見えないウイルスとの闘いは、いくら備えたところで、心から安心することも出来ないでしょう。「心を騒がせるな」この言葉は、今の私たちにとってとても重たい。だからこそ、今の私たちにとってふさわしい言葉なのでしょう。

イエスさまの命令に、簡単にうなずけない時ほど、私たちはそのみ言葉の愛に気が付かされていくのです。イエスさまはご自身のことを「わたしは道であり、真理であり、命である。」と述べられました。イエスさまご自身が道となり、真理となり、命となってくださるのです。つまりは私たちがどのように歩み、どのように悟り、どのように命を保つのか、そこに悩む必要はないのです。なぜなら、その全てをイエスさまが担って下さるからです。イエスさまを信じ、そこに身をゆだねる時、私たちは騒ぐ心から解放されるのです。

「心を騒がせるな」という命令は、「心を騒がせる必要はない」というイエスさまからの愛のメッセージであるのです。そのことを、信じましょう。神を思い、神に身を委ね、神に祈っていく。そのことを通して、私たちは確かな平安の中を生かされていくことが出来るのです。み言葉を通して、私たちはホツとして良いのです。いくら備えても消えない不安は確かにあります。けれども、いつもイエスさまは私たちを覚え、一緒にいてくれます。神と共に、各々の場所にあって祝福に満たされますよう、願っています。(中島)

 


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5月3日「今日の礼拝堂」

2020年05月02日 | 今日の礼拝堂

           今日の礼拝堂(5月3日復活節第4主日)

新型コロナウィルスの感染拡大のため、主日礼拝のお休みが続いておりますが、週報掲載の「特別の祈り」及び「グッドニュース」を掲載いたします。

今週の祈り:私たちの羊飼いである神さま。あなたは私たちひとりひとりの名を呼んで、死の谷を越えて安らかな地へと導いてくださいます。あなたの家に用意されている喜びの宴に向かって、確かな足取りで歩むことができるよう、御声をもって私たちを導いてください。あなたと聖霊とともにただひとりの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

                          「 命を豊かに受けるため 」 ヨハネ10:1~10

 本日の福音は、イエスさまがご白身を「羊の門」や「羊飼い」にたとえられた箇所です。羊飼いと羊のイメージは、旧約聖書にもしばしば登場します。よく知られている御言葉は『詩編』23編でしょう。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行く時もわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。 あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」私たちが青草の原に休む時も、憩いの水のほとりに佇む時も、死に直面する時にも、主は必ず共にいてくがさる。羊飼いである主は、いつもその杖と鞭で私たちを支え、力づけ、魂を生き返らせてくださる。ほかならぬ主イエス・キリストが、そのような真の良き羊飼いである、とおっしゃるのです。「わたしは良い羊飼である。良い羊飼いは羊のために命を捨てる…わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」 

 ルターは、ペストの猛威がヴイッテンベルグの町にも及んだ時、フリードリヒ選帝侯の避難命令を拒否して人々のために町に残りました。その際に『死の災禍から逃れるべきか』という文章を残しています。総会議長からの書簡の中にもありましたので、少し紹介します。

 (1)困難な時にこそ神の召しに忠実であれ

 ルターは、命の危険にさらされている時こそ、牧師をはじめ他者に仕える召しのある者(行政官や医療関係者、主人と召使、子を持つ両親に至るまで)たちは持ち場を離れるべきではない、と戒めています。その根拠として挙げているのが、今日のイエスさまの御言葉です。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いではなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」

 (2)不必要なリスクを避けよ

他方ルターは、死の危険や災禍に対してあまりにも拙速かつ向こう見ずな危険を冒すことも戒めています。それは神を信頼することではなく、試みることだからです。ルターは言います。「私はまず神がお守りくださるようにと祈る。それから私は消毒をし、空気を入れ替え、薬を用意し、それを用いる。行く必要のない場所や人を避けて、自ら感染したり他者に染さないようにする。私の不注意で、彼らの死を招かないためである。しかし、もし隣人が私を必要とするならば、私はどの人も避けることなく喜んで赴く。」。

 どちらもいかにもルターらしい言葉だと思います。不必要なリスクは避けなさい、と現実主義に立ちつつも、神の召しに忠実であれ、と呼びかけています。私たちが神から与えられている「召し」とは何でしょう?一人一人それは違うことでしょう。いずれにしても、神が私たち一人一人に呼びかける御声にしっかりと耳を傾け、忠実に歩んでいきたいと思います。(日笠山)

 

 


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