降誕節第1主日
「今週の祈り: 神様、すべての行いが御心にかない、いつも御子の光の中を歩むことができますように。私たちの心を御言葉へと開き、あなたの知恵の光で照らしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。」
〇降誕節第1主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) ルカ2:41~52
「 少 年 」
皆さん、クリスマスおめでとうございます。教会としては先週に降誕祭を迎えたわけですが、25日を迎えた今、改めて喜びに心を満たされていきたいと思うのです。
さて、今日与えられた聖書の箇所は不思議な箇所です。4つの福音書の中で唯一少年のイエスさまが記された箇所が与えられました。当時においては13歳で「大人」と見なされていくため、12歳当時のイエスさまは大人の一歩手前ではありますが、まだ「子供」であったのです。そんな子供のイエスさまがエルサレムからの帰路で両親とはぐれていたところから今日の物語は展開されています。
両親にとって三日も子供が見つからない状況は大変に心配だったことでしょう。しかしイエスさまはその間にエルサレム神殿で学者たちから学んでいたのです。神の子であるイエスさまが何を学ぶ必要があるのかと疑問に思うかもしれませんが、学ぶ姿勢の必要性を示しているのかもしれません。
特に重要なのはその後の部分でありましょう。マリアが叱責するように心配したことを伝えたのに対し、イエスさまは「自分の父の家にいるのは当たり前だ」と答えたのです。ここでの文章は前後の文脈から意訳されていますが、読み方によっては「私の父の仕事に従事するのは当たり前だ」と読み取ることもできます。イエスさまにとって、神の子としての働きをするのは当然であり、どうしてそんな自分を探そうとするのかと言うのです。両親にはこの言葉の意味は分かりません。けれども、その言葉をマリアは心に納めたと言うのです。覚えていた、と言うことではなく、大切な言葉として胸にしまったのでしょう。
「なぜ探すのか。父の仕事に従事するのは当たり前だ。」とても深みのある言葉だと思います。父の仕事とは人々を救うことでありました。イエスさまはその仕事に従事するために十字架まで歩んでいったのです。そんなイエスさまが「なぜ探すのか」と述べたのです。つまり探す必要はないのだと。神を探すことではなく、神がそこに居て下さることを信じることこそが重要であるのです。イエスさまが神の子であるように、私たちもまた神の子とされていく。その神の子が神によって守られ続けていくのは当然であり、何も心配する必要はないのです。常に傍にいてくださるのですから。
そのことを私たちに伝えるためにイエスさまは人の子としてこの世にやって来られたのです。既にクリスマスを祝った私たちではありますが、今一度降誕の喜びに満たされて、安心して今日も遣わされていきたいと願います。(中島)
《来週の礼拝》
#1月2日 午前11時 主の顕現日礼拝
*司 式:中島和喜牧師
*説 教:中島和喜牧師「星」
*奏 楽:滝田裕美さん
*聖書朗読:蔵谷俊夫さん
*礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん
*聖 書:イザヤ60:1-6、エフェソ3:1-12、マタイ2:1-12
*讃 美 歌:49(1,2)、53(1,2)、52(1,2)、49(3,4)、262(1,3)