新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

12月26日「今日の礼拝堂」

2021年12月30日 | 今日の礼拝堂

    降誕節第1主日    

今週の祈り: 神様、すべての行いが御心にかない、いつも御子の光の中を歩むことができますように。私たちの心を御言葉へと開き、あなたの知恵の光で照らしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

 

 

 〇降誕節第1主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) ルカ2:41~52

                                   「 少    年 

 皆さん、クリスマスおめでとうございます。教会としては先週に降誕祭を迎えたわけですが、25日を迎えた今、改めて喜びに心を満たされていきたいと思うのです。

 さて、今日与えられた聖書の箇所は不思議な箇所です。4つの福音書の中で唯一少年のイエスさまが記された箇所が与えられました。当時においては13歳で「大人」と見なされていくため、12歳当時のイエスさまは大人の一歩手前ではありますが、まだ「子供」であったのです。そんな子供のイエスさまがエルサレムからの帰路で両親とはぐれていたところから今日の物語は展開されています。

 両親にとって三日も子供が見つからない状況は大変に心配だったことでしょう。しかしイエスさまはその間にエルサレム神殿で学者たちから学んでいたのです。神の子であるイエスさまが何を学ぶ必要があるのかと疑問に思うかもしれませんが、学ぶ姿勢の必要性を示しているのかもしれません。

 特に重要なのはその後の部分でありましょう。マリアが叱責するように心配したことを伝えたのに対し、イエスさまは「自分の父の家にいるのは当たり前だ」と答えたのです。ここでの文章は前後の文脈から意訳されていますが、読み方によっては「私の父の仕事に従事するのは当たり前だ」と読み取ることもできます。イエスさまにとって、神の子としての働きをするのは当然であり、どうしてそんな自分を探そうとするのかと言うのです。両親にはこの言葉の意味は分かりません。けれども、その言葉をマリアは心に納めたと言うのです。覚えていた、と言うことではなく、大切な言葉として胸にしまったのでしょう。

 「なぜ探すのか。父の仕事に従事するのは当たり前だ。」とても深みのある言葉だと思います。父の仕事とは人々を救うことでありました。イエスさまはその仕事に従事するために十字架まで歩んでいったのです。そんなイエスさまが「なぜ探すのか」と述べたのです。つまり探す必要はないのだと。神を探すことではなく、神がそこに居て下さることを信じることこそが重要であるのです。イエスさまが神の子であるように、私たちもまた神の子とされていく。その神の子が神によって守られ続けていくのは当然であり、何も心配する必要はないのです。常に傍にいてくださるのですから。

 そのことを私たちに伝えるためにイエスさまは人の子としてこの世にやって来られたのです。既にクリスマスを祝った私たちではありますが、今一度降誕の喜びに満たされて、安心して今日も遣わされていきたいと願います。(中島)

 

《来週の礼拝》                               

#1月2 午前11時 主の顕現日礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「星

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:蔵谷俊夫さん

礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん

聖  書:イザヤ60:1-6、エフェソ3:1-12、マタイ2:1-12

讃  美 歌:49(1,2)、53(1,2)、52(1,2)、49(3,4)、262(1,3)


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12月19日「今日の礼拝」

2021年12月24日 | 今日の礼拝堂

    クリスマス礼拝   

今週の祈り: 全能の神さま。あなたは御独り子を私たち人間の姿で与え、世をあなたの光で照らしてくださいました。恵みによって私たちをあなたの子どもとし、聖霊によって輝くことができますように。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

 *いろいろなこともありました今年もクリスマス礼拝の日を迎えることができました。皆さんの上にキリストの降誕の喜びが豊かにありますように。

 

 〇クリスマス礼拝説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) ルカ1:39~55

                                   「 祝福に満たされて 

 クリスマスおめでとうございます。コロナ禍で迎えた2回目のクリスマスですが、皆さんと一緒に対面で礼拝ができ、式文を歌い、聖餐にも与れることを感謝します。感染状況も落ち着いてきましたので、このアドベントから短縮礼拝ではなく、フルサービスに戻しました。ルーテル教会は歌う教会ですから、やはり式文を用いて主を賛美できることは嬉しいことです。特にクリスマスのこの時期、グロリアを大きな声で歌えることは感謝です。「天には栄光、神に。地には平和、御心にかなう人に」というグロリアの賛歌は、イエスさまがお生まれになられたクリスマスの夜、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちが聞いた天使の大合唱です。去年のクリスマスは、まだグロリアが歌えませんでした。でも今年はキリエもグロリアも、また聖餐式のサンクトゥスもアニュス・デイも、そして奉献唱もヌンク・ディミティスも全部歌えます。これは本当に素晴らしいことです。

自分の歌いたい歌を思う存分に歌い、言いたいことを自由に言えるということは、当たり前のことではないのだということを、私たちはコロナ禍を通して知らされました。それは何もコロナだけが原因ではないでしょう。然り、たとえパンデミックが収まったとしても、私たちの健康が支えられ口を開くことが出来たとしても、自分の心の中から湧き上がってくる歌を存分に歌えなくなってしまう時があります。言葉を遮られてしまう時があるのです。それはなんと苦しく、辛く、また悲しいことでしょうか。かつて私たちの国もそれを体験しました。そのような時代に逆戻りしてしまわないように、キリスト者はしっかりとこの世を見張り、声を張り上げていかなければならないと思います。

 本日与えられた福音は、イエスの母マリアの賛歌です。マニフィカートと呼ばれるこの歌は、救い主をみごもったマリアの喜びに溢れた歌です。彼女は開口一番「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌い始め、主のはしために過ぎない自分にも目を留めてくださった神の恵みに感謝を捧げます。しかし、それだけでは終わりません。マリアは「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし…」と続けるのです。この下りは、当時の支配者階級たちに抗って歌ったマリアの勇気ある反骨歌となっています。身に覚えのない妊娠をしてバッシングされていたであろう彼女が、それでも神が約束なされたその御業を「お言葉どおり、この身になりますように」と受け止め、そして虐げられている人のためにも声を上げていく-そのマリアの信仰に心打たれます。この母あってこそのイエスでありましょう。自分に注がれた神の恵みに感謝するだけでなく、悩める隣人のために、苦しみのただ中にいる兄弟姉妹のために祈り、寄り添い、声を上げていく者とされたい。(日笠山) 

 

《来週の礼拝》                               

#12月26 午前11時 降誕節第1主日礼拝

司  式:日笠山吉之牧師

説  教:日笠山吉之牧師「神と人とに愛されて

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:小川敦子さん

礼拝当番:出口輝子さん、小笠原里子さん

聖  書:サムエル上2:18-20,26、コロサイ3:12-17、ルカ2:41-52

讃  美 歌:47(1,2)、40(1,2)(3,4)、338(1,2)

 


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12月12日日「今日の礼拝堂」

2021年12月19日 | 今日の礼拝堂

    待降節第3主日    

今週の祈り: 主なる神さま。民の心を奮い立たせてください。洗礼者ヨハネの叫びに私たちの耳を開き、み救いを喜び、悔い改めの実を結ぶことができるようにしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

 *待降節に入ってから、今日も通常形式での礼拝がもたれました。

〇待降節第1主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) ルカ3:7~16

                                   「 放   棄 

 いよいよ来週の日曜日、私たちは降誕祭を迎えます。つまり今日は降誕の直前とも言えるでしょう。聖書日課的には来週が直前となるのですが、来週を降誕祭として迎える都合上、今日が直前です。ですから、いよいよイエスさまを迎えるのだと言う心持の中で、今日のみ言葉を読んでいきましょう。

「蝮の子らよ(7節)」という呼びかけは、ヨハネの言葉を聞こうと集まった民衆にとって衝撃的なー言だったでしょう。この呼びかけはアブラハムの子孫たちに向けられていて、つまり自分たちは神に選ばれた者という意識を持つ人々に対しヨハネは「蝮の子」と呼んだのです。「蝮」とは毒蛇を表していますので、集まった民衆に「あなたたちは毒を持っている」と宣言しているわけです。それが、ヨハネの説教の出発点であり、ひいては私たちの出発点でしょう。

自分がどのような人間であるか。私たちはこの問いをする時、何を思うでしょうか。昨今では「自分を愛そう」という風潮が高まっていますが、聖書が語り掛けるのは「あなたは罪人」だと言うことです。今日の箇所で言えば。「あなたは毒蛇」なのです。神を疑い、罪を犯し、罪を内包する毒蛇であるのです。それを受け止めることが始めの一歩です。今まで積み上げてきた自分への評価、それを放棄し、毒蛇であることを受け止めた上で、私たちは悔い改めていくのです。

しかも、ここでの悔い改めはただ心を神に向けるということだけでなく、「豊かな実を結ぶ」ことが求められています。つまり、私たちが生きる生活の上でもそのことが表されていかなければならないのです。私たちはよく悔い改めを心の問題だけにしてしまいます。けれども。私たちが神に心を向けて愛を受け止めたなら、その生活も変わっていくはずです。もっと安心し、もっと喜んで、もっと愛をもって生活していくようになる時、必ず変わっていくはずなのです。故に「豊かに実を結ぶ」ことは悔い改めが確かに果たされていることを示すために、そのことが求められているのです。あなたは、そうなっているでしょうか。不満や不安、愛の欠落を抱えてはいないでしょうか。そう問いかける時、あなたの罪に気が付かされていくのではないでしょうか。

ここから、私たちは降誕に目を向けていきたいのです。聖書は確かに私たちの毒を明らかにし、だから悔い改めて豊かな実を結べと教えています。けれど良く考えてほしいのです。そう言われたところで、簡単に実を結べるでしょうか?きっと出来ない。出来ないほどに罪にどっぷり浸かった私たちだから、キリストがこの世に来られたのです。罪を赦し、愛を満たされて生きていくことが出来るようにと。

 次週、私たちは降誕の喜びに与ります。罪の赦しに、愛の満たしに、心からの平安に、与る時がやってくるのです。期待して、その時に思いを寄せていきましょう。(中島)

 

《来週の礼拝》                               

#12月19 午前11時 クリスマス礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「明暗

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:青木比呂子さん

礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん

聖  書:ミカ5:1-4a、ヘブライ10:5-10、ルカ1:39-55

讃  美 歌:11(1,4)、14(1,2)(3,4)、38(1,4)、250(1,3)


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12月5日「今日の礼拝堂」

2021年12月08日 | 今日の礼拝堂

    待降節第2主日   

今週の祈り: 主なる神さま。私たちの心を奮い立たせて、御独り子の道を備えさせてください。御子の来臨によって、世のすべての人があなたの救いを知ることができますように。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

 *前節から待降節に入り、今日は久しぶりに聖餐式を伴う通常形式での礼拝がもたれました。

 

 

 〇待降節第2主日説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) ルカ3:1~6

                                     「 主の道を備えて 

 待降節が来ると我が家では欠かさずに聴く音楽があります。それはヘンデルが作曲した『メサイア』です。「メサイア」とは「メシア」すなわち「救い主」の意味。従ってこの作品は、メシア預言から始まり、キリストの降誕・受難・復活、そして永遠の命までを歌い上げた壮大なものです。演奏時間は3時間にも及びますが、この「メサイア」を聴かないと我が家にはクリスマスは来ません。私の前任の宮崎教会では毎年この時期に「メサイア」を演奏していたので、子どもたちも子守唄のように覚えている作品だからです。

 本日与えられた聖書の御言葉は、「メサイア」の歌詞となっている箇所ばかりです。『ルカ福音書』3章4節〜6節の預言者イザヤの言葉は、テノールの独唱と合唱から成る第2曲から第4曲にかけて。また、『マラキ書』3章1節〜3節の御言葉はバスの独唱による第5曲と第6曲です。それらの御言葉を聴くと私の頭の中では「メサイア」の音楽が流れ出して止まらなくなってしまい説教どころではなくなってしまいますので、「メサイア」には出てこない『フィリピの信徒への手紙』の御言葉を取り上げたいと思います。

 さて、この手紙を書いたパウロは、信頼するフィリピの教会の人々のために次のような祈りを捧げています。9節:私は、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。このパウロの祈りから連想する祈りを皆さんも聞いたことはありませんか?「神よ、変えることの出来るものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与え給え。変えることの出来ないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与え給え。そして、変えることの出来るものと、変えることの出来ないものとを識別する知恵を与え給え。」これは1世紀前のアメリカの神学者ラインホルト・ニーバーが、とある小さな教会の礼拝の中で捧げた祈りです。パウロが言う「知る力と見抜く力」を、ニーバーは「変えることの出来るものと、変えることの出来ないものとを識別する知恵」という言葉で言い換えています。そして、変えることの出来るものにはそれを変える勇気を、変えることの出来ないものについてはそれを受け入れるだけの冷静さを与え給え、と神に祈ったのです。これは現代の私たちにとっても大切な祈りではないでしょうか。人間には変えることの出来ない神の御心というのが、歴然と存在しています。その一方で、私たちには変えることが出来るにもかかわらず、それを黙認し、放任してしまう弱さや怠慢があります。そこで大切になってくるのは、両者を識別し、見分ける知恵と力、信仰なのです。それらを与えてくださるのは、私たちの中で「善い業を始められた」(6節)キリスト。私たちの中に住み、善い業を成し遂げてくださるキリストを迎え入れる備えの時を過ごして参りましょう。(日笠山)

 

《来週の礼拝》   *信徒礼拝で行われます。                             

#12月12 午前11時 待降節第3主日礼拝

司  式:滝田裕美さん(代行

説  教:滝田裕美さん(代読)「放棄」

奏  楽:若井裕子さん

聖書朗読:小笠原里子さん

礼拝当番:小川敦子さん、小笠原里子さん

聖  書:ゼファニヤ3:14-20、フィリピ4:4-7、ルカ3:7-18

讃  美 歌:169(1,3)、13(1,2)(3,4)、192


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11月28日「今日の礼拝堂」

2021年12月02日 | 今日の礼拝堂

    待降節第1主日    

今週の祈り: 主イエス・キリスト。力を奮って来てください。罪の危険に晒されている私たちを、憐れみによって警告し、守ってください。あなたの義に生きることができるように助け出してください。父と聖霊とともに、あなたは永遠に唯一の主です。

 *今日から待降節に入り、久しぶりに通常の形式での礼拝がもたれました。

 

 〇待降節第1主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) ルカ21:25~36

                                   「 い   ざ 

    新しい教会暦が始まりました。そんな一年の始まりに与えられた箇所は、イエスさまが終末について教えられた箇所です。終わりを語るには早すぎる気がしますが、この終わりを見つつ一年を、というよりも信仰生活を送っていくということでありましょう。さらには、「人の子が来る」ということは主の降誕の出来事と重ねて読むことでより深みを増すため、待降節に読むには実にふさわしい箇所が与えられたと思います。

   さて、今日の箇所は終末のことが書かれていると言っても、内容はあまり喜ばしいものではありません。最終的にはイエスさまが栄光を帯びてやって来てくるという喜びが語られていますが、その前には明らかに困難な出来事が起こると記されているからです。この箇所を読むためには、その前にあるエルサレムの滅亡の予告を踏まえておく必要があるでしょう。

   20節からエルサレムの崩壊が記されていますが、そのときに起こすべき行動は「山に逃げる」ことでありました。これは当時において極めて不可解な教えであります。というのも、当時は城壁都市が一般的でしたから、戦争が起こった際に人々はむしろ街中、つまり街壁の中に逃げ込むのが通常です。ましてやエルサレム神殿という、神が臨在すると考えられていた場所に避難したいと願うことが当たり前のことだったのです。それに対しイエスさまは山に逃げろと述べられたのです。私たちが人間社会の中で信頼するものは、困難な時に役に立たないのだと言うのです。むしろそれらを捨てて逃げろというのが、エルサレム神殿の崩壊と共に語られていたのです。

    そこから終末の出来事が語られています。ここでは困難を前にしたときに私たちは何に信頼を置くべきかと言うことが語られています。先に述べられたように、それまで大事にしていたものを捨てて逃げたとしましよう。私たちはその先でどうやって生きれば良いのか。それに対する答えは、「わたしの言葉は決して滅びない。(33節)」でありました。私たちがみ言葉を携えている時、たとえ困難を前にして逃げようとも、何一つ変わらない平安の中を生きられると言うのです。そのためにも、いつも主を覚え祈り続けなさい(36節)とイエスさまは語られたのです。

    これが、人の子が再び来ることで起こっていく救いであります。かつてあった主の降誕の出来事は、そのことを目撃することができた一部の人々に示されました。そして今度は主の再臨によってすべての人々が救いに招かれていくのです。主の降誕を通して示された救いは、いつも主がみ言葉と共に傍に居て下さることでした。そのことが私たちにも起こっていく救いであることを覚えて、これからの待降節、そして主の降誕の時へ喜びをもって備えて参りましよう。(中島)

 

《来週の礼拝》                               

#12月5 午前11時 待降節第2主日礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「整理

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:蔵谷俊夫さん

礼拝当番:出口輝子さん、小笠原里子さん

聖  書:マラキ3:1-4、フィリピ1:3-11、ルカ3:1-6

讃  美 歌:5(1,5)、7(1,2)(3,4)、468(1,2)、254(1,2)


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