新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

10月30日「今日の礼拝堂」

2016年10月30日 | 今日の礼拝堂

宗教改革主日

「今週の祈り:全能の神。恵みの主よ。あなたに忠実な民に聖霊を注いで、み言葉うちに堅く保ち、あらゆる誘惑とみ言葉の敵から防ぎ守り、キリストの教会に救いと平和を与えてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。」

      

〇久しぶりに栄光の色、朱色の聖壇クロスに、昨日行われた教会の姉妹の葬儀で飾られた制度で美しいお花が飾られました。100歳近くまでこの世を見守り続けてくださった姉妹の最期の時は、急に訪れたようで臨終に牧師が間に合わず、教会員のご長男が式文にのっとりご母堂の洗礼をなさったそうです。どんなにか恵みにとんだ時間がそのお部屋を包んだことだろうと、感動をします。最愛の奥さまを見送り、いくつになってもそっと手を握りしめていたいだろうご母堂を、天におくった山本兄の心の中は、針でつつけばもろくも決壊するほどに涙がたまっていることでしょうに、お葬儀の後始末をしっかりとこなしている兄の姿に、信仰をみる思いです。残された物にはきっとたくさんの使命があるのでしょう。どうか、その使命を全うして再び会いまみえる母と息子、妻とその連れ合いの切ない時間を、神さまが温かくやさしくまもってくださるようにと、心から祈ります。

 

   

 

〇10月30日、宗教改革の主日です。

500年前、カトリックの教えと自分の「恵みのみ」の信仰のギャップに苦しんだルターは、大・大・大勇気をもってカトリックに自分の質問状をぶつけました。それは、純粋に質問状だったのですが、大御所カトリックの反感をかって、ルターは破門をされました。それ以来、ルターについてきた私たちは「プロテスト=反抗するもの、抵抗するもの」とレッテルをはられてきました。そして・・・500年たちました。コツコツと積み重ねられていたエキュメニカルな対話は、今日この日に大きな喜びをもたらしました。

カトリックとルーテルがこの記念日に共同の礼拝をすることとなり、世界中の教会を喜びに満たしています。主題は「争いから交わりへ」というものです。「わが命も、わが妻子も、取らばとりね。神のくには、なお割れのものぞ」と高らかに歌うルターの神信頼がついに争いから交わりへと心の向きを変えた。私は感動をしています。人は、変わることができるんだ・・・どんな争いも命がけで正義を訴えるとき、相手は変わる・・・そんな励ましをえた礼拝でした。

〇宗教改革主日説教                 日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)
ヨハネによる福音書2:13-22

「主の家を思う熱意」

 

宗教改革主日です。マルチン・ルターが、当時の世俗化したカトリック教会に対して「否」を突きつけ、宗教改革ののろしをあげてからはや5世紀。来年2017年には、ルーテル教会は宗教改革500年を迎えます。各礼拝堂にとりつけられたルターの顔をあしらったバナーを見て、そのことに気付いてくれる人はどれほどいるでしょうか?あのバナーは、私たちのルーテル教会が宗教改革者マルチン・ルターに由来する教会であることを知って欲しい!との期待を込めて作られたものです。とはいえ、バナーを張り出したくらいで教勢が伸びる筈はないわけで、要は実際にバナーを見て、教会に足を踏み入れてくれた人の目に、私たちの教会がどのように映るかでありましょう。そこで、まことの福音が語られているか?神の豊かな恵みと愛が、キリストのあがないによる赦しが語られているか?なによりも、その群れの中に、信仰と愛と赦しとがあふれているか?問われているのは、まさに私たち一人一人なのです。

 

宗教改革主日のテキストは、イエスさまが神殿から商人を追い出した物語です。神殿の境内で牛や羊や鳩を売っていた商人にしても、またそれら動物を売買するために必要なお金を扱っていた両替商にしても、神殿礼拝のためには必要なものばかりでした。神に感謝を献げるその行為において、より良いものを献げたい!たくさんのものを献げたい!という思いは、貴いものです。しかし、そこに偽善やごまかし、むさぼりや他者への優越感が入りこんでくると、それはまことの神礼拝ではなくなってしまいます。それゆえ、イエスさまは声を大にして言われました。「そんなものは一切ここから運び出してしまえ。おまえたちの中から吐き出してしまえ。この聖なる場所を人の罪にまみれた場所としてはならない」と。ルターが主張したように、キリスト者が求めるべきものは、ただキリストの御言葉のみ。キリストが無償で与えてくださった恵みのみ。そして、それらをキリストに信頼して受け取る信仰のみ。それら以外の私たちの内から出て来る罪という罪は、すべて捨て去らなければならないのです。

 

ルターの宗教改革500年を迎える前に、今年、私たち札幌教会も節目の年を迎えました。宣教100年。教会が100年もの歴史を歩んで来た重みをずっしりと感じます。信仰の諸先輩たちが残された確かな足跡に目を見張り、自らの信仰を奮い立たせられる思いです。と同時に、私たちルーテル札幌教会の100年の歩みは、ルターの宗教改革の時から数えるとまだ5分の1にしか達していないことも事実です。私たちの札幌教会が、これから200年、300年、400年、500年とこの地に立ち続けるには、何が必要か?主の御言葉に尋ね求め続けて参りましょう。

日笠山吉之牧師説教集・・・・・〇日笠山吉之牧師随筆集

 

〇11月6日(日)午前11時       全聖徒主日

〇司式:岡田薫牧師

〇説教;岡田薫牧師

〇奏楽;若井裕子姉

〇聖書朗読:蔵谷俊夫兄

〇礼拝当番:出口輝子姉
      滝田裕美姉

〇聖書:よな書2:1-10・コリントの信徒への手紙一15:50-58・ヨハネによる福音書16:25-33

〇讃美歌211・335(1,2)335(3,4)・192・253

〇11月2日(水)4日(金)はオープンチャーチです。どなたでもご自由にご参加くささい。

 

 

 


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10月23日「今日の礼拝堂」

2016年10月23日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第23主日

「今週の祈り:主よ。み民の罪を赦してください。私たちが弱く、悪へ誘われるとき、闇の支配をみ力で打ち砕いてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。」

           

〇今日は野口神学生が司式と説教を全部つかさどりました。堂々とした立派な礼拝でした。あと1年半くらいで教師試験に合格して、卒論に合格して、教会からの派遣の按手を得て、神学生は一人の牧師として日本のどこかの教会へと招聘され赴任していきます。きっと誰からも好かれ頼りにされる立派な牧師となって、神さまの僕として遣わされていくことでしょう。ほんの7ヶ月の短い期間だけれど、ひとりの牧師のゆりかごの一つとして接する機会が与えられている私たちも、たくさんの恵みを与えられていることを感謝します。

〇一日、一日と深まる秋。ナナカマドの街路樹はかわいい赤い実がきれいです。大きなはっぱのプラタナスの秋の伐採も終わりました。10月20日午後2時10分札幌に初雪が降りました。

〇野口神学生の説教は「あなたの欠けはなんですか」と究極の問いが投げかけられました。人間はなかなか自分自身がわかりません。聖書は繰り返し繰り返し、罪の自覚を促してくれます。罪の大きさが分からなければ、神さまの赦しの大きさにも気づかないと・・・礼拝のたびに頑なな心に鋤を入れられています。今日の神学生の説教は実に率直に直球が投げられました。ファイターズの大谷君よりもっと強く早い直球かもしれません。「あなたの欠けにこそ、あなたの救いがある」と、これまたその答えが直球でかえってきました。わかりやすかったね・・・と、婦人たちが言っていました。心が洗われたような爽快な礼拝でした。

〇聖霊降臨後第23主日説教 岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書18:9-14

『神が求められること』

主は《自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して》一つのたとえを話されました。そこには、ファリサイ派の人と徴税人のそれぞれの祈りの様子が語られています。一方は他者との比較の上で自分が恵まれていることを感謝し自らの行いを誇ります。もう一方は目を天に上げようともせず、ひたすらに憐れみを求めていました。

二人の姿は、見る人にとっても対極にあるように感じられたことでしょう。そして当然のように「神さまに祝福されて家に帰ったのはファリサイ派の人で、徴税人ではない」と考えたでしょう。しかし、主イエスの判定は違いました。《言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人(徴税人)であって、ファリサイ人ではない》とたとえを結ばれるのです。

主は登場する二人の対比を通して大切なことを教えてくださっています。それは、神さまは人の目に映るものではなく、人の目には映りにくい、人間の真実、祈る人の心の内に目を向け、耳を傾けておられるということです。またこの話を聞いている人々に対しても「あなた方はどのような祈りをしているのか」と問いかける意味もあると思います。

自分自身の正しさに頼り、他人に対する優越感を支えに生きている人間にとって、主イエスの福音は躓きとなります。なぜなら自分の力によって救いを得ようとすること、自分の力によって救われる、という思いにあるかぎり、無条件に与えられた主イエスの十字架による贖いと救いの喜びを素直に受け入れることはできないからです。

このたとえは、終末的な見通しを語られた後に語られたものです。主イエスは私たちがどのような状態にあっても、まず「主よ、憐れんでください」と呼びかけることができると教えてくださいました。心を明け渡し、祈ること。聞き届けを信じて、神さまに身を委ねることができるのだよ・・・と。

世の終末の日、「人の子が来る」この日は誰にも明らかにはされていません。しかしその日は希望として備えられている日です。最後の審判の行われる日ですが、その判断をなさるのは神さまご自身。私たちは、人間的判断をもってその日を恐れおののいて待つのではなく、恵みの神さまへの信頼をもって待ち望むようにと促されているのです。

 

               

〇うどん食堂に続いて「聖書のまなび」がありました。今日からペトロの手紙二に入りました。みんなで輪読をしたあと、今日は野口神学生から神学生らしいきめ細やかな解説をいただきました。いつもの学びの雰囲気とはちがって、学校の授業を聞いているような、釈義的な時間でした。聞きなれていないせいか、あまりそのあとの話しが盛り上がりませんでした。学究的な人にはたまらなく嬉しい時間だったことでしょう。

〇今日はこの後、仲間の山本兄のご母堂の納棺が行われるので、葬儀社の方も集まってこられて厳粛な空気がただよってきました。神さまのもとに旅立つ最初の儀式です。長いこの世の旅路を労わるやさしいまなざしに包まれて、納棺が行われます。

〇10月30日(日)午前11時 宗教改革主日

〇司式:岡田薫牧師

〇説教:岡田薫牧師

〇奏楽:滝田裕美姉

〇聖書朗読:小笠原里子姉

〇礼拝当番:藏谷俊夫兄
      滝田裕美姉

〇聖書:列王記下22:8-20・ガラテヤの信徒への手紙5:1-6・ヨハネによる福音書2:13-22

〇讃美歌:179(1,2,4)・300(1-2)・300(3,4)・245・264(1)

〇26(水)28(金)はオープンチャーチです。どなたでもご自由にご参加できます。


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10月16日「今日の礼拝堂」

2016年10月16日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第22主日

「今週の祈り:私たちの主イエスよ。あなたは、あらゆる時代の愚かな批判や疑いを耐え忍ばれました。あなたを勝手に断定しようとする私たちを赦し、あなたを「主」と告白する確かな信仰を与えてください。父と聖霊と共に、あなたは私たちの唯一の主です。」

              

〇一目で「秋」を感じる一活けです。すすき、りんどう、黄色のガーベラ、赤い木の実。どれもこれも、夏を生き抜いたけだるさが漂います。一本の花が語る言葉の大きさは、私たちの心を満たしてくれます。いつも、季節の花を活けてくださるNAさんに頭が下がります。毎週、毎週、花の組み合わせを変えて季節感を表現する大変さは愛なくしてはできません。

〇礼拝堂は高校生が3人、ただ座っているだけで何か違う・・・新鮮な爽やかな香りを感じます。・・・ということは、反対に、気が付かないでいるけれど「加齢臭」というのも本当なのかもしれません。いかんともしがたいことですが・・・・・

〇説教は岡田牧師でした。「絶えず祈れ」という説教題でメッセージを取り次いでくださいました。「諦めないで祈ること」「希望の見えない時こそ、祈りなさい」と、牧師は勧めてくださいました。私の特技は「すぐあきらめる」ことだと自負しているので、心にしみました。先日検査入院をしていたとき、幼稚園の園長先生が「私のモットーは、諦めないことなんだよ」と話してくださったとき、そうだね。すぐあきらめてしまうのは、絶対に助けると約束してくださっている神さまを、結局は信じ切っていないということだものね。と、その時は疲れた体で、帰宅前に病院によってくださった園長先生の穏やかな顔と話し声に、とても素直になって翌日の辛い検査に臨んだのを思いだします。失敗ばかりが続くと、やっぱり日ごろの特技がむくむくと顔をもたげて、逃げの姿勢になってしまいます。牧師の語ってくださったメッセージにもう一度顔をあげて生きていきましょう。

〇聖霊降臨後第22主日説教                野口和音神学生(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書18:1-8

「この世でも祈り続けなさい」

今日のたとえ話には、やもめと自分勝手な裁判官が登場しています。やもめが裁判官に幾度となく自らの救いを願い求めたことによって、裁判官はついにその申し出を取り上げることにする、という話です。この裁判官は神を畏れることもなく、人を人とも思わない人でありましたから、ただ裁判官自身が不利益を被らないように彼女の願いを聞き入れることにしたのです。イエス様はこのたとえ話から、まして神様は、熱心に祈り求める人々をいつまでも放ってはおかないであろうと言われるのです。

このたとえ話は、絶えず祈らなければならないことを教えるために話されたとあります。祈りとはなんでしょうか。聖書の教える祈りとは、神様との対話である、とよく言われます。それはたとえば旧約聖書の中で、ソドムの滅亡を宣言された神様に対して、アブラハムが撤回を願い求める場面などに現れています。聖書の教える神様とは私たちの祈りを受け止めるだけではなく、私たちに対して応えを返される、相互的な対話関係の中にある存在なのです。

私たちはどのような祈りをするでしょうか。感謝と願いはよく祈られるかもしれませんが、詩編を見ると、嘆きの祈りもまた多くあることに気付きます。なぜですか、どうしてですか、という切実な問いもまた祈りとして聞き届けられるのも、祈りが対話であればこそであります。しかし私たちがそのような問いを神様に投げかけるとき、神様が沈黙されているように感じるときもあるのではないでしょうか。この問題を深く掘り下げたものとして、遠藤周作の『沈黙』があります。日本に宣教にきた司祭は、日本で迫害を受ける信仰者を救ってくれ、と神様に祈りを捧げるのですが、神様は沈黙されたままなのです。神への語り掛けが呪詛のためのようだ、とさえ彼は言うのです。ここに人間の罪の姿があります。祈りが神様との対話である以上、神様からの応答を聞く耳がなければ、対話にはなりえないのです。神様が確かに聞いてくださっている、と信じる信仰によってその応答を受け取ることが出来るのです。さもなければ嘆きの祈りは、呪いの言葉へと貶められてしまうのです。

『沈黙』の中で、ついに司祭自身も踏み絵を踏むことになります。その時彼は主の声を聞くのです。「わたしは沈黙していたのではない、一緒に苦しんでいたのだ」と。私たちの苦しみを沈黙のうちに分かち合われる主がおられることを、司祭はその信仰によって聞くのです。私たちの祈りは、対話であります。私たちの祈りを受け止めてくださる唯一の主がおられます。私たちもまた、主の御声を聞き取ることの出来る信仰が与えられるよう、祈り求めてまいりましょう

 

               

〇先週、札幌礼拝堂で行われた「札幌教会宣教100年記念礼拝」に、新札幌から助っ人にいったスリッパたちをきれいに拭いて乾かす作業をしている姉妹たちです。無心にスリッパと向き合っている姉妹たちの姿の美しいこと。一つのおおきなことを成し遂げる陰にある、目にはふれない小さな小さな奉仕です。このほか、各礼拝堂と会場になった幼稚園の後始末は、どれだけ大変だったことかと思います。すべてがうまく運ばれて、記念の時が刻まれたことを、神さまに感謝いたします。そして、大きな行事が終わって、呆けてしまわないかと思ったけれど、もうすでに101年をこうして淡々と着々と歩みだしていることを感じて、立ち止まることが赦されない信仰の歩みの確かさに感動します。

 

〇10月23日(日) 聖霊降臨後第23主日

〇司式:野口和音神学生

〇説教:野口和音神学生

〇奏楽:中嶋泰子姉

〇聖書朗読:小川照美兄

〇礼拝当番:堀川悦姉
      滝田裕美姉

〇聖書:申命記:10:-12-22・テモテの信徒への手紙二4:6-18・ルカによる福音書18:9-14

〇讃美歌:470・369(1-3)・369(4,5)・391(1-3)

〇うどん食堂と聖書の学びがあります。ご予定ください。

〇19日(水)21日(金)はオープンチャーチです。どなたでもご自由にご参加ください。

 

 

 


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10月9日「今日の礼拝堂」

2016年10月09日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第21主日

「今週の祈り:全能の神さま。あなたは豊かな祝福を日々新たに与えてくださいます。み霊の息吹によって、あなたの慈しみをさらに悟り、み恵みに感謝し、あなたに喜び仕える者にしてください。御子、主イエス・キリストによって祈ります。」

     

〇明日10月10日、全国から札幌教会にゆかりの方々が「宣教100周年記念礼拝」に参列のため集まってくださいます。今日はその中のおひとり、札幌教会出身の滝田浩之牧師が、新札幌の礼拝で説教のご奉仕をしてくださいました。滝田牧師と日笠山牧師と仲の良い友達との関係で実現しました。滝田牧師は「主のもとへ」と題して説教をしてくださいました。10人のハンセン病の集団とイエスさまとの出会いの物語です。何度も何度も読んでいる聖書箇所ですが、いつもと違う牧師の説教とあって、新しい気付きを与えられました。自分の病が癒されたことを通して、彼は何にきづいたのか・・・? 彼の喜びは、病が癒されたということにとどまらず、「神さまが自分を見捨ててはいなかった!」ということだと思いますと、牧師は語りました。神さまは必要としている人に、必要なものを与えてくださいます。それは、私たちが日常の生活の中で、何を必要として、何を求めていきているか・・・と、自分の心に問いかける糸口にもなりました。力強く、淡々と、よくとおる声でいい説教をいただきました。

〇聖霊降臨後第22主日説教 岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書17:11-19

 

「見えない壁を砕かれて」 

 

今日の物語には、10人の病人が登場しています。彼らの必死の叫びと訴えを耳にされた主は《祭司たちのところに行って、体を見せなさい。》とただひと言おっしゃいました。なぜなら、律法には祭司によって丹念に調べられたうえで「清い」と判定を受けることが共同体への復帰の条件となっていたからです。彼らは触れられてもおらず、何か特別なことをしてもらったわけでもないのに、主イエスの言葉を信じて、その言葉に従いました。はたして彼らは祭司の元へ行く途中で清くされました。願いがかなったのです。そのうちのひとりは、自分の身に起こったことを知ると、大声で神を賛美しながら戻ってきました。彼はサマリア人でした。

 

主は彼を迎えながら《清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来たものはいないのか。》と言われます。おそらく、10人のうちサマリア人は彼ひとりだけだったのでしょう。同病の時は連れ立ってたとしても、この人はユダヤの祭司のもとに行くわけにはいきません。人種の壁によって隔たれてしまったのです。それで、この人は主イエスのもとに戻ってきたのです。

 

《9人はどこにいるのか》と問いかけられる主イエスの嘆きは、ここに向けられていると思います。10人の者たちに同じように奇跡は起こり、喜びが与えられたのに、それを共に分かち合うことができない痛みがここにある。神の憐れみは求める者たちすべてに同じく具体的に示されているのに、その喜びと感謝を分かち合う隣人の不在。ここには律法を超え、律法を完成させる存在である主イエスの愛の業を理解することができない人間の限界も垣間見えます。

 

ただ、サマリア人のこの人だけが自分に起こったことに気づき、神を賛美しながら主のもとに戻ってきました。そして、《立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。》と主に告げられたことにより、自らに起きた出来事が誰によってなされたかに気づかされました。そして、行く当てがなかった彼に、帰るべき場所、喜びを分かち合う隣人が与えられたのです。

 

私たちもしばしば自らのうちに隔たりや壁を築いてしまいます。そして、その隔たりや壁ゆえに憐れみ深い主の姿を見失い、彷徨こともあるでしょう。また、熱心さのあまりたとえ意識していなくても隣人を排除してしまうこともあると思います。主はご自身が痛みを負い、その命を十字架に差し出すことによって、隔たりや壁を打ち砕いてくださいました。主は私たち一人一人にまっすぐにその愛と憐れみを注がれています。だからこそ私たちは、壁を砕かれた者として自由に豊かに生きることができるのです。

〇ご一緒に来札されたご家族といっしょに、新札幌特製のうどんをめしあがって、三種類もつくってくださった手作りケーキをいただいて、お嬢さんのご希望で北海道の開拓史の展示会へとお帰りになりました。

〇10月16日(日)午前11時 聖霊降臨後第22主日

〇司式:岡田薫牧師

〇説教:岡田薫牧師

〇奏楽:中嶋泰子姉

〇聖書道独:林三浩兄

〇礼拝当番;秋田直枝姉
      林三浩兄

〇聖書:創世記:32;23-31・テモテへの手紙二3:14-4:5・ルカによる福音書18:1-8

〇讃美歌:178(1-3)・399(1,2)・399(3-4)・166・254

〇12日(水)14日(金)はオープンチャーチです。どうぞお越しください。

 

 

 

 

 


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10月2日「今日の礼拝堂」

2016年10月02日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第20主日

「今週の祈り:愛の神さま。あなたは私たちのもろさや欠点をことごとくにご存じです。私たちにそれを克服する力を与え、滅びの力から守り、生涯、救いの道を歩ませてください。み子、主イエス;キリストによって祈ります。」

              

〇今日はシンプルにピンクと白だけでまとめ上げた一活けです。白という色の強さに心惹かれます。どんなに小さなものでも、白い花の存在感は多くの色を圧倒します。花嫁さんの衣装が白いのも、ひっそりと力強く、自分の存在をその場で輝かせなさいという意味だと聞きました。反対に裁判官の衣が黒いのは、どんな状況にも染まってはならないという戒めがあるとききました。どっちもとても難しい使命を与えられているんだなと思います。今月の召天者は若くして召されていった男性です。繊細で向学心の強い人でした。すっかり成人してから、北星学園に入学をして、ご自分の子どもさんたちと同じくらいの年齢の人たちとの学びを楽しんでいらっしゃったのを思いだします。

        

〇秋が深まってきました。窓辺の植物たちにも厳しい冬がまじかです。赤く色づいた木の実やホウヅキの枝が形よく飾られた窓辺です。和やかな日差しの中でやさしく愛らしく秋を告げています。

〇そろそろ薄くなってきた頭が寒い季節です。「手作りショップ・あきた」が新作をそろえてリニューアルオープンです。お店で買うよりは3分の1くらいのお手頃価格でご用意しています。どうぞ、まずはこのお店をご覧ください。

 

〇聖霊降臨後第20主日説教 
ルカによる福音書17:1-10 日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)

 

「信仰によって生きる」

 

本日の第1の日課に登場したハバククは、紀元前600年頃に南ユダ王国で活躍した預言者です。彼は当時の不安定な政治情勢の中で信仰を守り抜こうとしましたが、それでもどうしてこの世では正義が示されず、逆に神に逆らう者が栄えるのか?いつになったら、あなたは助けてくださるのか?と、神に問い続けました。この嘆きに対して、神ご自身がハバククに答えられたのが2章2節以下です。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように 板の上にはっきりと記せ。定められた時のために もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」。深い嘆きの中で解決を急ぐハバククに対して、主は「主の正義は、必ず示される。だから、待っていなさい。その時まで、神に従う者として、信仰をもって生き続けなさい」と、励ましてくださったのです。

 

一方、本日の福音書の日課『ルカによる福音書』17章1〜10節は、イエスさまが弟子たちに語られた御言葉です。ここでイエスさまが言われた3つのことは、兄弟姉妹を裁くのでなく赦す者となること、からし種一粒ほどの信仰でもいいから持つこと、そして他者に仕える者となることです。小見出しもそれぞれ「赦し」「信仰」「奉仕」となっていますが、核となっているのは「信仰」です。それは、神への確固とした信仰がなければ、兄弟姉妹を赦すことも、また彼らに仕えることも出来ないからです。ここで興味深いのは、弟子たちがイエスさまに対して「わたしどもの信仰を増してください」と願っていることです。「増してください」というからには、既に自分たちにはそれなりの信仰がある…と思い込んでいるわけです。しかし、弟子たちに対するイエスさまの答えは「もしあなたがたに、からし種一粒ほどの信仰があれば…」でした。つまりイエスさまから見れば、弟子たちには、からし種ひと粒さえの信仰も無いのです。にもかかわらず、弟子たちは少なからず自分たちは信仰を持っている!と自負しているのですから、イエスさまはあきれたに違いありません。むしろ、弟子たちも預言者ハバククのように、「主よ、いつまで…主よ、どうして」と、真剣に問うべきなのです。なぜなら、ハバククの叫びは不信仰ゆえの嘆きではなく、主に信頼し、主にすべてを委ねているがゆえの訴えだからです。それゆえ、主もそのハバククの祈りに答えてくださいました。「神に従う人は信仰によって生きる」と。

信仰とは、信じて待ち続ける営みです。たとえこの世が不法や争い、いさかいや暴虐にあふれていようとも、たとえ悲しみや苦しみや嘆きがわが身を襲おうとも、必ずや主の正義が示され、主の救いが訪れることを信じて、信仰の歩みを続けていきましょう。

〇日笠山吉之牧師説教集      っ日笠山吉之牧師随筆集

〇礼拝堂の説教は岡田薫牧師がしてくださいました。

イエスさまの断固とした決意のこもった一言が、私たちの心に響きました。

「たとえ、どんなにおそくなっても待っていなさい。私は必ず来る!」

あぁ・・・そうなんだ、イエスさまは必ず来る!と約束されている。1時間も1日も待てないでうろうろとしてしまう私たちに今日は静かだけど、凛とした牧師のメッセージの取次が響きました。

〇10月9日(日)午前11時  聖霊降臨後第21主日

〇司式:日笠山吉之牧師

〇説教:滝田浩之牧師

〇奏楽:若井裕子姉

〇聖書朗読:小川敦子姉

〇礼拝当番:小川照美兄
      林三浩兄

〇聖書:列王記下5:1-14・テモテへの手紙二2:8-13・ルカによる福音書17:11ー19

〇讃美歌:167(1,3,5)・394(1,2)・394(3,4)・42・265

〇うどん食堂とみんなの会があります。ご予定ください。

〇5日(水)7日(金)は、オープンチャーチです。ご自由にご参加ください。

 

 

 

 

 

 

 


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