新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

9月19日「今日の礼拝堂」

2021年09月25日 | 行事予定

    聖霊降臨後第17主日    

今週の祈り: 主なる神さま。あなたは御子が受けられた苦しみと拒絶によって救いをもたらし、十字架の栄光で私たちを造り変えてくださいます。福音のため悪の誘いから離れ、十字架を負って御子に従うことができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

 *新型コロナウイルスによる緊急事態宣言の中でも今日も会堂に集まっての礼拝がもたれましたが、感染対策のため「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 〇聖霊降臨後第17主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) マルコ9:30~37

                                   「 人   間 

 今日与えられたみ言葉はイエスさまが二度目の受難予告をしたところから始まります。イエスさまの受難とは、罵倒され、傷つけられ。十字架で死んでいくという救いの御業であります。当時の人々が持っていたどこか遠いところで光り輝く神のイメージに対し、痛みや絶望の最中に飛び込んでまで人の懐にやって来てくださる神の姿が描かれているのです。しかし、そのような素晴らしい救いの御業が語られた直後に弟子たちが話していたのは「誰が一番偉いのか」という、何とも人間らしい話でありました。

 「誰が一番偉いのか」という議論は、私たちの時代であっても消えたとは言えないでしょう。年功序列という言葉もありますし、敬語を使い分けて話したりもします。いつの時代であっても誰が偉いのかを気にするのは、人間社会が形成されていく上では仕方のないことなのだと考えさせられます。

 さて、弟子たちの議論に対し。イエスさまは「先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい(9:35)」と語られました。これは難問です。というのも、この言葉をもって私たちは謙遜であるべきと理解すると思いますが、そのことを実行する際に、誰かよりも良い自分でありたいという思いがあった場合、結局それは「誰が偉いのか」という議論を心の内で生み出していることになるのです。評価されるために謙遜になるとしたら、それはもう謙遜であることにはならないでしよう。すべての人の後になり、というのを実行することはとても難しいことだと思います。

 さらにイエスさまは36・37節で「子どもを受け入れる」ということを語られました。今とは全く違い、当時において子どもはひとりの人格として認められていませんでした。それこそ「子どもは引っ込んでいろ」という社会であったのです。すなわち、子どもを受け入れるとは、社会で受け入れられない小さな者を受け入れるということであるのです。この小さな者に対して、皆さんは誰を想定するでしょうか。恐ら<、社会的に弱くされている人ではないでしょうか。しかし、そうではなくて、ここではあなたが見向きもしていない人、あるいはあなたが関わろうともしていない人を受け入れるかどうかが語られているのです。その人たちを受け入れ、仕えることが出来るか。そしてさらに、そこに「偉くなりたい」という思いを排除できるか。中々に、私たちの罪が問われている箇所であるわけです。

 しかし、イエスさまはこのことの前に、受難を予告していることを忘れてはなりません。私たちの罪を赦し、私たちを愛で満たしてくださることを告げてくださったのです。私たちがその愛に満たされた時、私たちはむしろ、全ての人を愛を持って受け入れ、仕える者に変えられていくということでもあるのです。その喜びを覚えて、そこに身を委ねて、これからもすべての大に仕えて参りましょう。(中島)

 

《来週の礼拝》                               

#9月26 午前11時 聖霊降臨後第18主日礼拝

司  式:日笠山吉之牧師

説  教:日笠山吉之牧師「互いに平和に過ごしなさい

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:蔵谷俊夫さん

礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん

聖  書:民数記11:4-6,10-16,24-29、ヤコブ5:13-20、マルコ9:38-50

讃  美 歌:381(1,2)、303(1,2)、410(1,3)


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9月12日「今日の礼拝堂」

2021年09月15日 | 今日の礼拝堂

    聖霊降臨後第16主日    

今週の祈り: 導きの主である神さま。あなたは私たちをみもとに引き寄せ、愛する子として受け入れてくださいます。嫉みと野心をことごとく捨てて、御子の僕となり、あなたの知恵を歩むことができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

 *新型コロナウイルスによる緊急事態宣言の中でも今日も会堂に集まって信徒礼拝で「短縮式文」により礼拝がもたれました

 〇聖霊降臨後第16主日説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) マルコ8:27~38

                                   「 サタン、引き下がれ 

『マルコによる福音書』におけるクライマックスです。ペトロのイエスさまに対する信仰告白と、その直後にイエスさまが話された最初の受難予告が記されています。

 イエスさまに対する人々の評価は、千差万別でした。イエスさまが語る福音や御業を受け入れらない指導者たちは、イエスさまのことを「気が変になっている」とか「ベブゼブルにとりつかれている」と噂しましたが、やがてイエスさまの宣教活動が広く受け入れられていくに従って、「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「預言者の一人だ」と肯定的に捉える人々も増えていきました。そんな中、イエスさまは弟子たちに問われたのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。イエスさまの宣教活動のためにすべてを捨てて従って来た弟子たち。イエスさまと一緒に多くの時間を過ごし、その一挙一動を間近で見てきた弟子たち。弟子のリーダーであるペトロが即答しました。「あなたは、メシアです。」メシアとは、キリスト、救い主という意味です。弟子たちにとってイエスさまは、既に単なる預言者以上の存在だったのです。

 ペトロの信仰告白を聞いたイエスさまは、続けて「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と教え始められました。メシアだと信じているイエスさまが、よりにもよって指導者たちの手にかかって殺されるなんて!イエスさまは、そんな弱いメシアである筈がない。イエスさまこそ人々からの信を得て、指導者たちを退け、ユダヤ王国を導いていくメシアとなるお方なのだ!そんな期待を弟子たちも持っていたのでしょう。だから、ペトロはイエスさまを傍へお連れして、いさめ始めました。イエスさま、そんな弱々しいこと言わないでください。多くの苦しみを受けた上で殺されるなんて、あなたはそんなメシアではない筈です。受難予告なんか撤回してくださいよ…すると、イエス様の一撃が飛びました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 人間の願望と、神の思いはしばしば異なります。自分自身をなかなか捨てられない人間に対して、神の御子なるキリストは「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。私たちは、自分を捨てて十字架を背負うことが出来るでしょうか?キリストがなされたように、自分自身の罪のために、他者への愛のゆえに、そして神の栄光のために、十字架を背負うことが出来るでしょうか?イエスさまが私たちに問われていることは、実はそのことなのです。「あなたは十字架を背負ってわたしの後に従うことが出来るか」。たとえ一人で背負いきれなくとも心配するには及びません。私たちのまことのメシアであるキリストが、共に担ってくださるゆえに。(日笠山)

 

《来週の礼拝》                               

#9月19 午前11時 聖霊降臨後第17主日礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「人間

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:小川敦子さん

礼拝当番:出口輝子さん、小笠原里子さん

聖  書:エレミヤ11:18-20、ヤコブ3:13-4:3,7-8a、マルコ9:30-37

讃  美 歌:178(1,2)、66(1,5)、387(1,2)


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9月5日「今日の礼拝堂」

2021年09月09日 | 今日の礼拝堂

    聖霊降臨後第15主日   

今週の祈り: 恵みの神さま。あなたはいつの世でも病を健康に、死を命に造り変えてくださいます。一つになって、あなたの約束を全世界に宣べ伝える民となるために、私たちと共におられるあなたの力に目を開くことができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

 *新型コロナウイルスによる緊急事態宣言の中でも今日も会堂に集まっての礼拝がもたれましたが、感染対策のため「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 〇聖霊降臨後第14主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) マルコ7:24~37

                                   「 伏   す 

 今日与えられた聖書の箇所は、異邦人の地にイエスさまが行かれたところから始まります。そこで語られた二人の救いの物語は、私たちに信仰の在り方、そしてイエスさまと一人一人の関係性が結ばれたことが語られていくものでした。しかし二人を述べる時間はありませんので、今日はシリア・フェニキアの女の物語から、信仰の在り方について考えていきたいと思います。

 シリアフェニキアの女と書かれているように。彼女は異邦人です。彼女は自分の娘が悪霊に取り憑かれ、何としてでも救ってほしいと願いユダヤ人であるイエスさまのところにまでやってくるのです。異邦人でありながらもユダヤ人であるイエスさまの下にやってきたということは、相当に切羽詰まっていたということを示します。それほどまでに異邦人とユダヤ人の間にある確執は深いものであったのです。そこまでしてでも助かりたいと願った彼女に対し、イエスさまは「子供たちのパンをとって、子犬にやってはいけない」と述べられました。これを読むと。「なんて酷いことを言うのかに!」と思ってしまうのが私たちではないでしょうか。けれど、彼女は「子犬」という表現すらも受け入れ、それでもおこぼれに与りたいと願い、結果として救いに与るのです。ここに彼女の信仰と、そして私たちの罪が見えていると言って良いでしょう。   

 「犬」と言う表現は、現代でもそうであるように、当時においても人に使うような言葉ではなく侮蔑表現でありました。ですからこのような表現をイエスさまがなされたことには、やはり驚かされます。愛情深く優しいイエスさまが、なぜそのようなことを述べるのか。しかし、ここに私たちの罪があるのです。私たちは自らを罪人だとしながらも、心のどこかでそれでも自分に対してちゃんとした対応をしてほしいと願うのではないでしょうか。

 ここで、犬と言う表現を少し変えてみましょう。「恵みを受けるにふさわしくない者」とでも言い変えればどうでしょうか。「恵みを受けるにふさわしくない者に与えるものはない。」と言えば。何らおかしなことを言ってないことが分かるでしょう。私たちは恵みに与るにふさわしくない者でありながら、「子犬」などと呼ばれると怒り、酷いと感じるのです。まだ自らがどうしようもないほどに罪を抱えていることを、受け入れられない私たちがいるのではないでしょうか。

 しかし、シリア・フェニキアの女はそれを飛び越えていくところに救いがあることを私たちに示したのです。罪を見つめ。それを受け入れ、それでも主にすがり伏していくところで、主の救いがあるのです。それが、悔い改めて福音を信じることであります。私たちもまた、自らの罪を受け入れ、それでも主が愛してくださることを信じて主に救いを願っていきましょう。(中島)

 

《来週の礼拝》   *信徒礼拝で行われます。                             

#9月12 午前11時 聖霊降臨後第16主日礼拝

司  式:滝田裕美さん(代行

説  教:滝田裕美さん(代読)「メシア」

奏  楽:若井裕子さん

聖書朗読:小笠原里子さん

礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん

聖  書:イザヤ50:4-9a、ヤコブ3:1-12、マルコ8:27-38

讃  美 歌:61(1,4)、402(1,3)、361(1,2)


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8月29日「今日の礼拝堂」

2021年09月01日 | 今日の礼拝堂

    聖霊降臨後第14主日    

今週の祈り: 弱い私たちを強めてくださる力の神さま。私たちを内外の攻撃から守り、清めてください。御子のうちにとどまることが出来ますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

 *新型コロナウイルスによる緊急事態宣言の中でも今日も会堂に集まっての礼拝がもたれましたが、感染対策のため「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 〇聖霊降臨後第13主日説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) マルコ7:1~8,14~15,21~23

                                   「 すべては清められ 

 今日の福音書のテキストはずいぶん細切れになっていましたが、テーマは一つです。それは、私たちがいかに自分たちの作った規則や決まり事に縛られてしまい、神の御心を見失ってしまいやすいか、ということです。

 事の発端は、イエスさまの弟子が手を洗わず食事をしたことをファリサイ派や律法学者たちが見咎めたことです。食前に手を洗うという行為は、公衆衛生上、いわば常識として私たちに身についているものです。特にコロナ禍の今、手を洗わないで食事をするという行為は自ら感染の危険性を冒すものです。決して褒められたことではありません。しかし、弟子たちが糾弾されたのはそのような観点からではありません。聖書では、彼らが「汚れた手」で食事をしたと記されているとおり、その行為は公衆衛生上の問題ではなく、たぶんに宗教的な意味を持っていました。すなわち、ファリサイ派や律法学者たちが何かにつけ必要以上に手を洗うことに拘ったのは、自分たちがこの世のありとあらゆる汚れから清められていることを示唆する行為に他ならなかったのです。「ファリサイ」という言葉そのものが「分離する」という意味を持っていたことからも明らかなように、彼らは自分たちこそ他の人々とは違って清い者であり、神の救いに近い者であると信じて疑わなかったのです。そのためたくさんの「言い伝え」や決まり事を作り出しました。そして、それらを守ることが出来ない者は罪人だ、救われない、と教えたのです。

 イエスさまはそのような彼らの信仰理解を根本から問い直されました。8節:「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」と。自分自身で救われる条件を考え、実行しようとすればするほど、神の救いからは遠く離れていきます。しかし、人はなかなかそのことに気づきません。そうして他者を裁いては、自分自身も心の平安がなくなってしまいます。私たちにとって大切なことは、自ら救いを達成しようと頑張ることではなく、神の全き赦しと恵みに信頼して、神の救いにより頼むことなのですが。

 イエスさまは群衆に言われました。14節:「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが人を汚すのである。」神が与えてくださったものは、私たちの手や行いを介さずとも、すべて清いものなのです。むしろ、汚れたものは私たちの中から出てくる…盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、妬み、悪口、傲慢、無分別など挙げるとキリのない悪い思いの数々。それらが、私たちの心の中を汚してしまうのです。たとえ手は綺麗でも、体は清潔でも、心の中はどうだろうか?真っ黒に汚れていないだろうか?イエスさまが私たちに問われているのは、そのことなのです。(日笠山)

《来週の礼拝》                               

#9月5 午前11時 聖霊降臨後第15主日礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「伏す

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:青木比呂子さん

礼拝当番:出口輝子さん、小笠原里子さん

聖  書:イザヤ35:4-7a、ヤコブ2:1-17、マルコ7:24-37

讃  美 歌:306(1,2)、335(1,2)、167(1,2)


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