聖霊降臨後第17主日
「今週の祈り: 主なる神さま。あなたは御子が受けられた苦しみと拒絶によって救いをもたらし、十字架の栄光で私たちを造り変えてくださいます。福音のため悪の誘いから離れ、十字架を負って御子に従うことができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン」
*新型コロナウイルスによる緊急事態宣言の中でも今日も会堂に集まっての礼拝がもたれましたが、感染対策のため「短縮式文」により礼拝がもたれました。
〇聖霊降臨後第17主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) マルコ9:30~37
「 人 間 」
今日与えられたみ言葉はイエスさまが二度目の受難予告をしたところから始まります。イエスさまの受難とは、罵倒され、傷つけられ。十字架で死んでいくという救いの御業であります。当時の人々が持っていたどこか遠いところで光り輝く神のイメージに対し、痛みや絶望の最中に飛び込んでまで人の懐にやって来てくださる神の姿が描かれているのです。しかし、そのような素晴らしい救いの御業が語られた直後に弟子たちが話していたのは「誰が一番偉いのか」という、何とも人間らしい話でありました。
「誰が一番偉いのか」という議論は、私たちの時代であっても消えたとは言えないでしょう。年功序列という言葉もありますし、敬語を使い分けて話したりもします。いつの時代であっても誰が偉いのかを気にするのは、人間社会が形成されていく上では仕方のないことなのだと考えさせられます。
さて、弟子たちの議論に対し。イエスさまは「先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい(9:35)」と語られました。これは難問です。というのも、この言葉をもって私たちは謙遜であるべきと理解すると思いますが、そのことを実行する際に、誰かよりも良い自分でありたいという思いがあった場合、結局それは「誰が偉いのか」という議論を心の内で生み出していることになるのです。評価されるために謙遜になるとしたら、それはもう謙遜であることにはならないでしよう。すべての人の後になり、というのを実行することはとても難しいことだと思います。
さらにイエスさまは36・37節で「子どもを受け入れる」ということを語られました。今とは全く違い、当時において子どもはひとりの人格として認められていませんでした。それこそ「子どもは引っ込んでいろ」という社会であったのです。すなわち、子どもを受け入れるとは、社会で受け入れられない小さな者を受け入れるということであるのです。この小さな者に対して、皆さんは誰を想定するでしょうか。恐ら<、社会的に弱くされている人ではないでしょうか。しかし、そうではなくて、ここではあなたが見向きもしていない人、あるいはあなたが関わろうともしていない人を受け入れるかどうかが語られているのです。その人たちを受け入れ、仕えることが出来るか。そしてさらに、そこに「偉くなりたい」という思いを排除できるか。中々に、私たちの罪が問われている箇所であるわけです。
しかし、イエスさまはこのことの前に、受難を予告していることを忘れてはなりません。私たちの罪を赦し、私たちを愛で満たしてくださることを告げてくださったのです。私たちがその愛に満たされた時、私たちはむしろ、全ての人を愛を持って受け入れ、仕える者に変えられていくということでもあるのです。その喜びを覚えて、そこに身を委ねて、これからもすべての大に仕えて参りましょう。(中島)
《来週の礼拝》
#9月26日 午前11時 聖霊降臨後第18主日礼拝
*司 式:日笠山吉之牧師
*説 教:日笠山吉之牧師「互いに平和に過ごしなさい」
*奏 楽:滝田裕美さん
*聖書朗読:蔵谷俊夫さん
*礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん
*聖 書:民数記11:4-6,10-16,24-29、ヤコブ5:13-20、マルコ9:38-50
*讃 美 歌:381(1,2)、303(1,2)、410(1,3)