新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

12月25日「今日の礼拝堂」

2022年12月31日 | 今日の礼拝堂

    主 の 降 誕     *喜びのうちにクリスマスの礼拝がもたれました。

今週の祈り: 全能の神様。あなたは御ひとり子を私たち人間の姿で与え、この世をあなたの光で照らしてくださいました。恵みによって私たちをあなたの子どもとし、聖霊の光によって照らしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

 

 〇主 の 降 誕   説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) ヨハネ1:1~14

                                   「 想    像 

 クリスマスおめでとうございます。心からの喜びと嬉しさの中でこの日を過ごしていきたいと思うのです。今年は珍しいことに、24・25日が土日ということで、主日礼拝の日にクリスマスを迎えることが出来ました。聖書には25日にイエス様が生まれたとは記載されていませんので、日にちは必ずしも25日である必要はないのですが、慣例となっている25日に皆で共に主日礼拝に与れることは喜びでありましよう。クリスマスおめでとうとたくさんの人と一緒になって祝っていきたいのです。

さて、そんなクリスマスの日を皆さんはどのような心持で迎えたでしょうか。そもそもクリスマスをどのような日として捉えているでしょうか。クリスマスとはイエス様がお生まれになつたことを喜ぶ日でありますが、それは私たちが想像するような誕生日を祝う日ではありません。単に誕生日を祝うのであれば、今日の主役は誕生日を迎えたイエス様であり、私たちはイエス様が喜んでくれるようにたくさんのプレゼントや感謝の気持ちを持ってこの場所に向かうべきでありましよう。しかし、クリスマスの主役は皆さんであるのです。イエス様が生まれたことが喜ばしいのではなく、イエス様が生まれたことによってあなたが救われたことを喜ぶ日であるのです。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(14節)」言が肉となって宿ってくださったからこそ、私たちは栄光を見ることが出来るようになったのです。神の栄光は、旧約聖書の時代には見ることができない、それを見たら罪ある人間は死んでしまうものと語られていました。しかし、恵みと真理とに満ちた神の栄光をキリストが肉となって宿り、ご自身を通して示してくださったことによって、恵みと真理とに満たされた私たちはようやく神と共に生きるという最も安心できる生き方が与えられたのです。そのことがキリストの降誕によってなされたのだということを私たちが今一度確認し喜ぶ日、それがクリスマスなのです。 そして何よりも、そのことがあなたのために起こったのだということを受け止めるべきでありましよう。世界全体のためとか、生きるすべての人のためとか、そんな大きい枠組みの中の一人にあなたを埋めるべきではありません。ただただ、あなたのためにキリストはお生まれになったのです。あなたを助けるために、救うために来られたのです。それほどまでの深い愛をキリストが向けて下さっているのだと受け止め、自らの心が愛で満たされていくところでクリスマスが本当に喜ばしい日となっていくのです。

 私たちの生きる世は常に明るいばかりではありません。むしろ暗闇と表した方が良いことの方が多いかもしれません。しかし、キリストが光として来られ、あなたを、そしてあなたを取り巻くすべての場所を照らしてくださったのです。そのことに信頼し、クリスマスの喜びを深<深く噛みしめて参りましよう。クリスマスおめでとうございます。(中島)

 

#クリスマス礼拝の後、3年ぶりの祝会(飲食は伴わない)が行われ、三浦神学生の「朗読劇」の朗読に併せて讃美歌を歌ったり、ビンゴゲームを楽しんだりして、楽しいひとときが持たれました。 

 

《来週の礼拝》                               

#1月1 午前11時 主の命名 礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「新しく

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:蔵谷俊夫さん

礼拝当番:出口輝子さん、小笠原里子さん

聖  書:民数記6:22-27、フィリピ2:5-11ルカ2:15-21

讃  美 歌:338,49,51、260(1,2)、増補35

 

 


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12月18日「今日の礼拝堂」

2022年12月23日 | 今日の礼拝堂

    待降節第4主日    

今週の祈り: 主イエス・キリスト。御力を奮って来てください。溢れる恵みの力によって、信じることを妨げる罪から解き放ち、いつもあなたの約束を受け入れることができるようにしてください。父と聖霊とともに、あなたは永遠に唯一の主です

 

 〇待降節第4主日  説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) マタイ1:18~25

                                   「 イ エ ス 

 「マタイによる福音書は、このインマヌエルという額にはめこまれた絵のようである。」素敵な表現でしょう?私が考えたことにしたいところですが、実際はある説教者がこのように語っていたのを引用しただけです。  マタイ福音書は「インマヌエル(神我らと共におられる)」という言葉で始まることが今日の箇所で示されました。そしてマタイ福音書の終わりは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という、「インマヌエル」で閉じられていきます。これは当時よく使われた手法で、最初と最後で同じ事柄を述べることで物語全体をその事柄で包みこむのです。すなわち、イエス・キリストの旅路全体の中にいつも「神が共におられる」という言葉が根底に流れ続けているのです。そのことが最初の素敵な表現につながっているわけです。そしてそれはイエス様と神が共におられるという意味ではありません。イエス様を通して、私たちに対して「神が共におられる」と語り掛けているのです。そのような恵みが与えられることが、今日の箇所を通して示されたのです。今日の箇所はイエス様が神によって遣わされたことを示されています。というのも、20節で天使が登場しますが、降誕の場面以外で天使が登場するのは復活の場面のみであり、マタイは神が力を行使する際には天使を登場させるという描き方をするのです。つまり今日の箇所では神が独り子を送られたのだとマタイはハッキリと示しているのです

では神の独り子は何のために与えられたのか。それは「罪から救う」ためでした。罪とはすなわち神様との関係を破壊することであり、私たちが神を遠ざけてしまうことと言って良いでしょう。私たち自身が神を遠ざけたにも拘わらず、神は私たちを見捨てずに、何とかして神と共に生きられるようにと独り子をお与えになったのです。それ故に、そのことをもたらしたイエス様は「インマヌエル」であるのです。その恵みがイエス様を通して与えられたのです。

私たちはいよいよ来週にはクリスマスを迎えます。救い主が与えられたことを喜び祝うわけですが、それを単にイエス様を記念する日にするべきではないでしょう。いかに私たちに恵みが与えられたかを再確認する日であるのです。その日を豊かに迎えるためにも、私たちは自らに与えられた恵みを今一度思い起こしたいのです。イエス様の降誕を通して、私たちは再び神と共にいることができるようになったのです。神が共におられる。それはどんなこの世がもたらす安心にも勝り、心からの救済を得られる恵みであるのです。孤独がいかに私たちにとって苦しいものであるかは、皆さんも既に知っていると思うのです。けれど、私たちは既にその苦しみから解放されて、常に「神が共にいる」という最も安心できる喜びが与えられているのです。その恵みを今一度思い起こし、主の降誕への備えの時としていきましょう。 (中島)

 

《来週の礼拝》                               

#12月25 午前11時 主の降誕 礼拝

司  式:三浦愼里子神学生

説  教:三浦愼里子神学生「肉となって、宿る

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:清水美年子さん

礼拝当番:楢戸恵子さん、小笠原里子さん

聖  書:イザヤ52:7-10、ヘブライ1:1-4、ヨハネ1:1-14

讃  美 歌:17(1-3)、20(1-3)、250(1-2)、増補1(1-3)

 

 

 

 

 

 

 

   


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12月11日「今日の礼拝堂」

2022年12月14日 | 今日の礼拝堂

    待降節第3主日    

今週の祈り: 主なる神様。あなたを信頼する民の心を奮い立たせてください。洗礼者ヨハネの宣教に耳を開き、あなたの救いを喜び、悔い改めの実を結ぶことができますように。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

 

 〇待降節第3主日  説教 三浦神学生(週報掲載説教要旨) マタイ11:2~11

                                   「 つまずき 

 待降節も3週目に入りました。クリスマスが近づいています。イエス様のご降誕の時を、私たちは心待ちにして過ごしています。先週の主日に読まれた福音書の中で、自分の後から来られる救い主イエス様のために、人々に悔い改めを呼びかけ、道を備えた洗礼者ヨハネが、本日も続けて登場します。しかし、先週とは状況ががらりと変わって、ヨハネは獄中にいます。彼はこの時、ヘロデ王の結婚を非難したことで捕らえられ、投獄されていたのです。ヨハネはこの後、処刑されます。ヨハネは弟子たちをイエス様のところに遣わし、「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか。」と尋ねさせました。ヨハネはなぜ、このような質問をしたのでしょうか。これには諸説ありますが、私は、さすがのヨハネも確信が揺らいでしまったのではないかと思います。彼はただでさえ、捕らわれて死を待っている極限の状況にあったのです。ヨハネが求めていた救い主は、悪しき者を厳しく裁いてくれる、力強い救い主であったかもしれません。しかし、悪しき者を裁く力強いリーダーには思えないイエス様の様子に、本当にこの方が救い主なのだろうかという疑いが浮かんだとしても不思議ではありません。そんなヨハネに対しイエス様は、旧約の預言を引用し、長い間待ちわびた救い主が今、人々のもとへと遣わされていることを告げています。そして「わたしにつまずかない人は幸いである。」と言われるのです。

 聖書は、イエス様の宣教活動が実際に多くのつまずきを生み出したことを伝えています。イエス様が最も偉大な人物であると認めている洗礼者ヨハネでさえも、つまずきました。ヨハネだけではありません。一番弟子のペトロも、他の弟子たちも、民衆も、イエス様から離れて行きました。これらのつまずきが起こったのは、イエス様が人々の常識や価値観を遥かに超えておられる方だからでしょう。人々の頭の中には救い主についての思い込みや誤解があって、その理想像から外れた言動をなさるイエス様のことを信じ続けることができなかったのです。神様は、イエス様をつまずきの石として据えられ、それでも信じる者を救われます。私たちの常識を超えた方法で。それはイエス様ご自身が、その生きざまをもって教えてくださっています。弱い赤ん坊としてこの世に生まれてきたこと。偉い人達ではなく、力の無い人々、罪人と共に生きたこと。悪い人達を裁くのではなく、裁かれ、人々の罪を背負い、十字架に架けられて惨めな姿で死んだこと。イエス様ご自身も語っておられます。「天の国で最も小さな者でも、ヨハネよりは偉大」だと。神様の価値観はこの世の価値観とは真逆なのです。神様はそのように天の国を示されたし、そのように私たちを救われるのです。私たちの思いもよらない方法で、天の国は実現するのです。

 誰でもイエス様につまずく可能性を持っています。けれども、私たちにとっての真に良い知らせとは、神様は、ご自分につまずく者をもなお、深く憐れみ、赦されるということではないでしょうか。イエス様は、ご自分を裏切り打ちひしがれていたペトロを憐れみ、赦し、宣教の働きの担い手として世界に送り出されました。神様が私たちの罪さえも乗り越えて、真の愛で包み込んでくださるとは、なんとありがたいことか。なんと嬉しいことか。だから不安や恐れや疑いを抱かず、信じる者でありたいのです。孤独の中にある時も、どうして助けが来ないのかと思える時にも、イエス様は、私たちの苦しみの中に痛みの中に、確かに共におられるということを。神様の救いのご計画は、人の思いを遥かに超えた方法で実現します。イエス様のお生まれを待つ今、その手に握りしめている古いものを手放してみませんか。神様がくださる愛の証、最高の贈り物、真の良い知らせであるイエス様を、両手を広げて受け取るために。(三浦)

 

《来週の礼拝》                               

#12月18 午前11時 待降節第4主日 礼拝

司  式:三浦愼里子神学生

説  教:日笠山吉之牧師「インマヌエル

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:青木比呂子さん

礼拝当番:小川敦子さん、小笠原里子さん

聖  書:イザヤ7:10-16、ローマ1:1-7、マタイ1:18-25

讃  美 歌:5(1,2,5)、11(1,4)、増補1(1-3)、254

 

# 毎週水曜日(10:00~12:00)オープンチャーチを行っています。  どなたでもお気軽にお立ち寄りご参加ください。   


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12月4日「今日の礼拝堂」

2022年12月05日 | 今日の礼拝堂

    待降節第2主日    

今週の祈り: 主なる神様。私たちの心を奮い立たせて、御独り子の道を備えさせてください。御子の来臨によって、世界のすべての人々にあなたの救いを知る知識を与えてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

*本日の礼拝は信徒礼拝で行われましたので、「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 

 〇待降節第2主日  説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) マタイ3:1~12

                  「 悔い改めに導かれて 」

 アドベントキャンドルに二つ目の火が灯されました。待降節第2主日です。クリスマスまであと3週間。今年のカレンダーでは、12月24日が土曜日、25日が日曜日となっていますので、クリスマス礼拝もその日に迎えることになります。したがって、アドベントの主日もちょうど4回過ごすことができます。これはちょっと珍しいことなのです。というのも、例年なら便宜上4本目のアドベントキャンドルに火が灯された主日をクリスマス礼拝として守るのが常だからです。でも、今年は違います。しっかりアドベントを4週間過ごした上で、クリスマスを迎えることが出来ます。嬉しいことではありませんか。

 毎年この時期になるとよく演奏される音楽があります。ヘンデルの『メサイア』です。『メサイア』といえば「ハレルヤコーラス」が有名ですが、全部通して聴くと約3時間もかかる大作です。合唱団やソリストによって歌われる歌詞は、すべて聖書の御言葉から取られているのも特徴です。全体の構成は、救い主の降誕の預言から始まり、キリストの誕生、受難、復活、そして永遠の命へと続きます。その音楽はまるでイエス・キリストの一大絵巻を見ているかのようです。『メサイア』の冒頭を飾るテノールの独唱とそれに続く最初の合唱が歌うのが、『イザヤ書』の40章です。「慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる…呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」呼びかける声とは、一体誰の声でしょう?その名は、洗礼者ヨハネ!福音書を書いた著者たちはそう証ししています。ですから今日の福音にも、ヨハネの登場と共にこの『イザヤ書』の御言葉が引用されているのです。

 洗礼者ヨハネの風貌や説教に関する記述を読むと、何だか近寄り難くおっかない感じがします。腰に革の帯を締め、らくだの毛衣を身にまとっていたヨハネが口にするものといえば、いなごと野蜜だけ。そんなヨハネが荒れ野の真っ只中で、洗礼を受けようとしてやってきた人々に向かって言い放ちます。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」と。凄まじい迫力です。しかし、ヨハネは自分の使命をしっかり認識していました。それは、「後から来る方」を指し示すこと。自分は、そのお方の履物をお脱がせする値打ちもない者であること。そのお方とは、言うまでもなくイエス・キリストでした。つまりヨハネはイエス・キリストの到来を知らせるために、自ら嫌われ役を買って出て、人々に激しい言葉を浴びせかけたのでした。すべては人々を悔い改めに導くために-人々をキリストに導くために。洗礼者ヨハネのその熱い思いに心を打たれます。そして、自分はヨハネのように激しく、厳しく、燃えたぎるような思いで御言葉を伝えているだろうか?と反省させられるのです。(日笠山)

 

《来週の礼拝》                               

#12月11 午前11時 待降節第3主日 礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「小さな者

奏  楽:若井裕子さん

聖書朗読:小笠原里子さん

礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん

聖  書:イザヤ35:1-10、ヤコブ5:7-10、マタイ11:2-11

讃  美 歌:1(1-3)、15(1-3)、増補1(1-3)

 

# 毎週水曜日(10:00~12:00)オープンチャーチを行っています。  どなたでもお気軽にお立ち寄りご参加ください。   


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11月27日「今日の礼拝堂」

2022年12月01日 | 今日の礼拝堂

    待降節第1主日    

今週の祈り: 主イエス・キリスト。御力を奮って来てください。迫り来る罪の危険から憐れみをもって守り、救いの道を照らしてください。父と聖霊とともに、あなたは永遠に唯一の主です。 アーメン

(本日は、三浦神学生の説教により礼拝が持たれました。)

 

 〇待降節第1主日  説教 三浦神学生(週報掲載説教要旨) マタイ24:36~44

                                   「 目を覚ましていなさい 

 終わりの時が必ず来る。イエス様はそのような確信を持って本日のみことばを語っておられます。しかし、それがいつ起こるのか、イエス様でさえご存知なく、その時を知るのは神様だけだと言うのです。イエス様によれば、終わりの時は突然やってくるようです。それはノアの時と同じだと仰っています。その時は突然にやって来るのです。だから、イエス様は語りかけられます。「目を覚ましていなさい」と。

 昨今の気候変動の影響で、自然災害が急増している日本では、どのようにして備えるかということに、人々の高い関心が寄せられています。また、災害への備えのみならず、私たちはあらゆる場面で、私たちなりの備えをしていることと思います。備えとは、人間が失敗から学び、この次は同じ失敗をしないように、また生き残っていけるようにとる本能的で自然な行動でしょう。しかし私の場合、この備えがしばしば行き過ぎていることが問題なのです。一見努力しているかのようですが、そこには、必要以上の恐れと、自分に頼ろうとする思いがあるのです。この点について、先日行われた宣教研修の中間評価会で、信徒委員の方々から大変親身なアドバイスをいただきました。評価会の後、一人で様々なことを考えました。人々に福音を告げる牧師が、恐れを原動力にしているようでは、本末転倒ではないか。私は、何か大切なことを見落としている、と。このように考えていたところに、本日のみことばが与えられたのです。中間評価会で受けたアドバイスとみことばがつながったように感じられ、私自身が福音に生かされる思いがしました。

 私たち信仰者が「目を覚ましている」とはどういうことでしょうか。考えてみれば、イエス様が私たち信仰者に語りかけておられる備えとは、不安や恐れとは正反対の、喜びが原動力となるものです。なぜなら、終わりの時に来られるのは、他でもないイエス様ご自身なのですから。信仰者が迎えるのは泥棒ではなく、救いをもたらしてくださるイエス様なのだから、恐れるよりもむしろ喜んで待っていて良いのです。終わりの時が訪れても、終わることのない永遠の命が約束されているのですから、その時を待つ日々は、希望に満ちたものとなるでしょう。しかも、私たちは一人きりで待つのではありません。私たちには、主イエス・キリストにおいて兄弟姉妹となった信仰の仲間が、世界中に与えられています。「目を覚ましておく」とは、喜びつつ、互いに手を携え、支え合い、この世に平和を生み出す努力をしながら待つということではないでしょうか。

未来のために備えることは大切です。しかし、私たちの人生は単純なものではなく、いくら万全の備えをしたつもりでも、うまく行かなかったり、打ち砕かれたりすることがあります。そのような時、信仰者にとって慰めとなるのは、神様が備えてくださった救いに、ただ喜んで与ることができるということだと思います。教会の暦では、本日からイエス様のご降誕を待ち望むアドベントに入りました。この節目の朝に、主を信じる者たちが、イエス様によって暗闇から既に救い出されていることを、感謝と共に覚えます。恐れる必要はありません。私たちはその時のために喜んで、共に目を覚ましていましょう。(三浦)

 《来週の礼拝》     *信徒礼拝で行われます。                             

#12月4 午前11時 待降節第2主日礼拝

司  式:滝田裕美さん(代行

説  教:滝田裕美さん(代読)「石」

奏  楽:若井裕子さん

聖書朗読:蔵谷俊夫さん

礼拝当番:出口輝子さん、小笠原里子さん

聖  書:イザヤ11:1-10、ローマ15:4-13、マタイ3:1-12

讃  美 歌:9(1.3)、7(1,3)、254(1,2)、増補1(1-3)

 

# 毎週水曜日(10:00~12:00)オープンチャーチを行っています。  どなたでもお気軽にお立ち寄りご参加ください。   


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