新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

2月19日「今日の礼拝堂」

2023年02月23日 | 今日の礼拝堂

    主  の  変  容    

今週の祈り: 神様。あなたはモーセとエリヤが証する信仰の神秘を御子の変容において確かなものとし、輝く雲の中から「これはわたしの愛する子」と宣言され、私たちもあなたの子としてくださることを示されました。キリストと共にあなたの栄光を受け継ぐ者として、私たちを喜びで満たしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

 

 

〇  主 の 変 容  説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) マタイ17:1~9

                 「 こ れ は 」

 昨年から副鼻腔炎という病気に悩まされ、体調不良の日が増えてしまいました。体が細い割には風邪をあまり引かないというのが自慢だったのですが、いよいよ見た目通りに体の弱い人へと変貌しつつあります。イメージ回復のためにも健康に気を付けたいところです。皆さんも、まだまだ寒い日が続きますので体調にはお気を付け下さい。さて、いよいよ次週から教会の歩みは四旬節、つまり十字架の歩みへと進んでいきます。その転換点に置かれているのがこの変容の出来事です。主が顕れるという顕現の栄光から、十字架という苦難への歩みは、一見すると全く違った事柄に見えます。しかし苦難と栄光が両立するというのが十字架の出来事であり、そのことを先んじて示すのがこの変容の出来事なのです。マタイ16章で弟子たちは信仰を告白し、その先でイエス様から死と復活の予告を聞くこととなりました。自身の信仰をハッキリさせたその矢先に苦難が宣言されたのです。弟子たちは鶩いたことでしょう。ですが、その予告がなされてすぐに、今度は変容の出来事という神秘的体験と出会うのです。この順番は非常に面白いと思います。というのも。弟子たちの信仰告白という喜ばしい出来事がされたのですから、そこに対して変容の出来事をもって神の権威をよりハッキリと示し、そこから受難告知をもって苦難の道を進んでいくとした方が。転換点が分かりやすいと思うのです。なぜ苦難の道を歩むという宣言をしたその一歩目にわざわざ変容という神秘的出来事が備えられているのか。それは、苦難の道もまた神の栄光を示すものであるのだと言うことを伝えるためでありましよう

 イエス様の十字架の歩みは、人の目からすれば神の栄光とは程遠いものです。弟子たちもまたそのように考えていたのです。受難告知と変容の神秘的体験という、真逆にしか思えないそれらに対する無理解を抱え、気持ちを整理できないまま彼らは山を下っていったのです。この弟子たちと同じように、私たちも苦難の歩みから神の栄光を見いだせないことがあります。私たちは十字架の死を、復活という大逆転を前提にして、ようやく栄光の出来事として見ることがあります。しかし、十字架の死とそこに至る苦難そのものが神の栄光の道行であるのです。苦難と栄光、その両立を私たちはどれだけ理解できているでしょうか。私たちは復活祭という喜びに向かっていくのではありません。十字架の死という「神の栄光」に向かっていくのです。そのことを覚えて、私たちは四旬節に向かっていきたいのです。

 来る四旬節に私たちは悔い改めの日々を過ごしていきます。それは罪を見つめ落ち込むときではありません。私たちの罪をイエス様がその死をもって赦し、再び神と共に生きる道を備えて下さったことを覚える時であるのです。そのことに思いを寄せることを通して、私たちは十字架の死こそ神の栄光が示されていることに気が付かされていくのです。苦難と栄光が示されるその日に向けて、悔い改めの日々を主と共に歩んでいきたいと願います。(中島)

 

《来週の礼拝》                               

#2月26 午前11時 四旬節第1主日 礼拝

司  式:日笠山吉之牧師

説  教:日笠山吉之牧師「霊に導かれて

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:清水美年子さん

礼拝当番:楢戸恵子さん、小笠原里子さん

聖  書:創世記2:15-17,3:1-7、ローマ5:12-19、マタイ4:1-11

讃  美 歌:150(1-3)、454(1-3)、増補46

 


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2月12日「今日の礼拝堂」

2023年02月15日 | 今日の礼拝堂

    顕現後第6主日    

今週の祈り: あなたに希望を置く者の力である神様。私たちは弱く、やがて死すべき者であり、あなたなしには何も良き業ができません。私たちがなすべきことを悟り、行うための恵みと力を与えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

*本日の礼拝は信徒礼拝で行われましたので、「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 

 〇顕現後第6主日  説教 三浦神学生(週報掲載説教要旨) 申命記30:15-20,マタイ5:21~37

                  「 命を選びなさい 」

 本日の旧約聖書のみことばは、モーセが、イスラエルの民に対して語った説教の一部です。一方には命と祝福、他方には死と呪いという究極の選択肢が置かれています。そして、人々はこう勧められます。「あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主に従いなさい。それがまさしくあなたの命である。」主に従うことが命であると、ここには書かれています。誰しもできることなら、幸いに満ちた命を生きることを選びたいと思うものでしょう。しかし、ふと、このような問いが浮かんでくるのです。果たして「主に従う」という、信仰者にはおなじみのこの言葉の意味を、私は深く捉えることができているのだろうか。命を選ぶとは、私にとってどんな意味を持つのだろうかと。

 イエス様は、本日の福音書のテキストの中で、いくつかの律法について、その本来の意味を語り、人々が陥っている間違いを示されました。イエス様が取り上げられた律法の一つに「殺してはならない」というものがあります。ファリサイ派の人々や律法学者たちが、身体的な殺人にのみ注目し、肉体的な命を奪わなければ良いと解釈するのに対し、イエス様は、人を「殺す」とは何かを問われます。イエス様は神の教えを都合の良いように受け取る人間の心の中にある、隣人への憎しみや怒り蔑みを見ておられるのです。心の中にある悪い思いは、その人を内側から蝕み、やがては隣人へと伝染し、人とのつながりを破壊していきます。自分自身を省みてみれば、行動には表していなくても、心の中には怒りを抱えているということは珍しくありません。それどころか、強い言葉で相手を傷付けてしまうこともあります。神様に従っていると思っていても、実際のところ、神様の御心に適う者からは程遠い自分の姿を突きつけられます。私は命ではなく、死の道を選んでいるのではないか。そのような思いに駆られます。

 しかし聖書は、救いようが無く思えるところにこそ、神様の愛が働かれることを教えてくれます。先週の福音書のみことばの中で、イエス様はこう宣言されました。マタイ福音書5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」イエス様は自ら、律法が私たちに宣告する死を十字架によってその身に引き受け、私たちに命と祝福の道を与えてくださいました。命とは、イエス・キリストの十字架によって私たちに与えられた、神様の愛の贈り物なのです。私たちが心の中に良いものを持たず、神様の御心も知らない、取るに足りない小さな存在であるとしても、そんな私たちを、神は愛し、祝福し、キリストという命の道へと招いてくださいます。私たちはこの特別な愛の贈り物を受け取り、イエス様がそうなさったように、隣人と共に生きるよう送り出されます。それぞれが行く道の上には、数々の困難や誘惑が待ち受けているかもしれません。でも安心して足を踏み出して良いのです。私に対する神様の御心は何かと、耳を澄ませて聞くならば、聞こえてくる声があるはずです。その声に従って参りましょう。(三浦)

 

《来週の礼拝》                               

#2月19 午前11時 主の変容 礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「これは

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:青木比呂子さん

礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん

聖  書:出エジプト24:12-18、ペトロ(Ⅱ)1:16-21、マタイ17:1-9

讃  美 歌:175(1,2,4)、148(1-3)、増補46

 


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2月5日「今日の礼拝堂」

2023年02月09日 | 今日の礼拝堂

    顕現後第5主日

今週の祈り: 主なる神様。あなたは限りない憐れみによって、求めるすべての者の祈りを受け入れてくださいます。聖霊によって、なすべきことを私たちに教え、恵みによって、それを行う力を与えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

 

〇  顕現後第5主日  説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) マタイ5:13~20

                                   「  塩  

 先週から読み進めている「山上の説教」でありますが、今日の5:16までは「序文」として記されていると考えられます。というのもマタイ福音書の記者は枠組みを重視する人物であり、例えばマタイ福音書の最初と最後に「神共にいまし」というインマヌエルを語ることで、いわば絵でいうところの額縁をつけているのです。同様に、山上の説教でも「律法と預言者」という言葉を5:17と7:12におくことでそれらを額縁とし、5:17から7:12までが一つの塊として記されているということを表しているのです。そのため5:1-16までは「序文」として判断されているのです。

 山上の説教は、一言で言えば新しい律法であり、その中には神に従うとはどのようなことかが語られていきます。しかし、それらに先立って序文では「幸いなれ」という祝福が語られ、さらに「あなたがたこそ地の塩・世の光である」と語られているのです。つまり、実際に各々が神に従っているかは救済において重要ではなく、既に幸いなものとされ、地の塩・世の光とされているということを前提にして、神に従うことの中身に触れていく必要があるとマタイは述べているのでしょう。このことは私たちがこれから山上の説教を聞いていく上で重要なことです。というのも、私たちは「あなたがたは地の塩・世の光である」と言われた先で、こう考えることがあります。「地の塩・世の光に『ならなければならない』」と。それこそ、以降の山上の説教の中身を読んでいくとそれ以上に困難な事柄に対しても、「これを守らなければならない」と考えてしまうことがあるでしょう。そういった考えが徐々に、これを守らなければ救われないという考えを生み出していくのです。それこそ、当時のユダヤ人が愛の指針として与えられた律法を、いつのまにか守らなければ裁かれると理解し、次第に律法を裁きの道具としてしまったように、私たちもまた神の教えを裁きの道具としてしまうことがあるのです。

 だからこそ、マタイは序文に強烈な救済の宣言を語るのです。既にあなたたちには幸いが約束されているのだと。既にあなたたちこそが「地の塩・世の光」なのだと。塩は味付け・防腐・清め・契約のしるしというように、その生活になくてはならないものなのです。光の重要性は言わずもがなでしょう。私たちは既に、神によって地の塩として、世の光として、この世になくてはならないものとして祝福されているのです。ならば、私たちはそのことを喜んで受け取って、遣わされていきたいのです。

 そこから先で何が出来るのかは分かりません。でも、怯える必要も不安になる必要もないのです。あなたこそが、地の塩・世の光なのですから。今日も喜びを受け取って、遣わされて参りましょう。(中島)

 《来週の礼拝》     *信徒礼拝で行われます。                             

#2月12 午前11時 顕現後第6主日 礼拝

司  式:滝田裕美さん(代行

説  教:滝田裕美さん(代読)「愛」

奏  楽:若井裕子さん

聖書朗読:小笠原里子さん

礼拝当番:小川敦子さん、小笠原里子さん

聖  書:申命記30:15-20、コリント(Ⅰ)3:1-9、マタイ5:21-37

讃  美 歌:172、331、増補46

 

 


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