新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

11月21日「今日の礼拝堂」

2021年11月23日 | 今日の礼拝堂

    聖霊降臨後最終主日    

今週の祈り: 全能・永遠の神さま。あなたは愛する御子に油を注ぎ、永遠の王なる大祭司とされました。罪のゆえに分かたれた地上の民を、御子イエス・キリストの愛の支配で、一つにしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

 *今日も会堂に集まっての礼拝がもたれましたが、新型コロナウイルス感染対策のため、「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 〇聖霊降臨後最終主日説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) ヨハネ18:33~37

                                   「 真理とは何か 

 教会の1年も今日で終わり。札幌礼拝堂では「子ども祝福礼拝」が行われますが、教会の暦の上では「聖霊降臨後最終主日」です。来週からはアドベントに入り、教会は新しい年を迎えることになります。1ヶ月後にはクリスマスを控え、心躍る季節となりますね。

 さて、「聖霊降臨後最終主日」に与えられた御言葉は、王であるキリストについて伝えています。第一朗読の『ダニエル書』7章には、王である「人の子」のようなお方が「日の老いたる者」である神の前に進み出て、権威、威光、王権を受けることが預言され、「彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」とあります。神の国の完成の暁には、キリストが真の王として、神の国を治めてくださると言うのです。また第二朗読の『ヨハネの黙示録』は、キリストの再臨について語ります。1章7節「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。」キリストを十字架上で突き刺した者たちのためにも、キリストは復活して再び来られます。彼らの罪を赦し、真の平和と和解をもたらすために。この世界をキリストが治める神の国とするために。

 キリストは、十字架に架けられる直前の裁判で、総督ピラトから尋ねられました。総督は、当時ローマ帝国からユダヤ地方を治めるために派遣されていた最高権力者です。彼は、でっち上げられた裁判のために連れ出されたキリストを見て、畳み掛けるように尋ねました。「お前がユダヤ人の王なのか」「お前の同胞や祭司長たちがお前を私に引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」すると、キリストは答えたのです。「わたしの国は、この世には属していない。」不思議な答えです。しかし、キリストにとっては当然の答えでした。キリストは神の国に属するお方だったからです。続けて、キリストは言われました。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」キリストが言われた真理とは、キリストが伝えられた福音です。キリストが命をかけて私たちに示された愛と赦しです。すなわち、イエス・キリストそのものです。そのことを信じる者たちは、皆、キリストの声を聞くことができるのです。しかし、ピラトにはキリストの声は届きませんでした。だから「真理とは何か」と言い放ってキリストのもとを離れ、裁判席を囲んだ人々の言いなりになり、キリストを十字架につけるために引き渡してしまったのです。

 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ福音書8章31〜32節)私たちのために十字架にかかり、復活し、再び来られるイエス・キリストの言葉にとどまるならば、私たちは本当の自由を手にすることができるのです。(日笠山)

 

《来週の礼拝》                               

#11月28 午前11時 待降節第1主日礼拝

司  式:日笠山吉之牧師

説  教:日笠山吉之牧師「主の前に立つ

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:青木比呂子さん

礼拝当番:出口輝子さん、小笠原里子さん

聖  書:エレミヤ33:14-16、テサロニケ(Ⅰ)3:9-13、ルカ21:25-36

讃  美 歌:189,1(1,2)(3,4)、213(1,3,5)

 


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11月14日「今日の礼拝堂」

2021年11月17日 | 今日の礼拝堂

    聖霊降臨後第25主日    

今週の祈り: 全能の神さま。あなたの御旨は、救いを成し遂げることです。この世の騒ぎの只中にも、御国が来て、御心があることを信じて、信仰のうちに堅く立つことができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

 *今日も会堂に集まって信徒礼拝により礼拝がもたれましたが、新型コロナウイルスの感染防止のため「短縮式文」により行われました

 〇聖霊降臨後第25主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) マルコ13:1~8

                                   「 嘆   き 

 教会暦は後二週となりましたが、来週はヨハネ福音書が読まれますので、マルコ福音書を読むのは今日で最後です。最後に与えられたのはマルコ13章であり、世の終わりについてのことが記されているために黙示録とも呼ばれることがある箇所です。その冒頭には、神殿の崩壊が語られています。当時、人々が神殿に持っていたイメージは、その場所にこそ神がおられると考え神と会うための場所として考えられていました。そのような神殿が崩壊するということは。どこであっても神と共にいられる関係性を作り出して下さると言うことであるのです。そのような関係性が語られた後に、世の終わりについて語られるのです。4節で弟子たちは世の終わりの徴を求めました。将来に終わりの時があるならば、そのために備えておきたいと思うことは何らおかしなものではないでしょう。それに対してのイエスさまの答えは、「騒がないように」というものでありました。安心してその時を迎えれば良いということであり、理屈としては分かりやすいものです。しかしその実行は難しいと言っても良いかもしれません。

 というのも、終わりの時が来るまでに様々なことが起こると語られているからです。戦争や飢饉に自然災害や迫害と、社会的にも政治的にも環境的にも様々な面での苦難があると語られているのです。これを前にして騒がないようにというのは過酷な要求ではないでしょうか。今だって、私たちはコロナという自然災害を前にして日々騒ぎ立てているのですから、騒がないようにという教えがいかに難しいことかが分かるでしょう。

 それでも、騒がないようにと主は言われるのです。そのために、主は神殿の崩壊を初めに語っているのです。神殿の崩壊、それは先に述べたように神殿にこそ神がおられるという考え方を一蹴するものであると同時に、私たちの中にある神殿が崩壊していくことをも示しているのです。私たちにとっての神殿とは何でありましょうか。ユダヤ人が「そこに神がおられる」と考えたように、私たちもまるで神のように信頼をおく何かが存在しているでしょう。例えばお金、健康、地位、名誉。当時のユダヤ人が「これさえあれば大丈夫」と考えていたような何かを、私たちも作り出してしまっているのです。しかし、神がそれを壊してくださるのです。そして、神さえいれば大丈夫だと言う確かな関係性を作ってくださるのです。そう信じた時、たとえ何が起ころうとも、騒ぐ必要がないことに気が付かされるのです。私たちがこのことを覚え日々を過ごす時、終わりの時すらも、備える必要のないことに気が付かされます。なぜなら、「神が共におられる」その一点によって既に、私たちは神の国にいるのと同じであるからです。その豊かさを抱えて、これからも安心して日々を過ごしていきましょう。(中島)

 

《来週の礼拝》                               

#11月21 午前11時 聖霊降臨後最終主日礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「裏

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:蔵谷俊夫さん

礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん

聖  書:ダニエル7:9-10,13-14、黙示録1:4b-8、ヨハネ18:33-37

讃  美 歌:293(1,2)、277(1,2)、313


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11月7日「今日の礼拝堂」

2021年11月07日 | 今日の礼拝堂

    全 聖 徒 主 日   

今週の祈り: 全能の神さま。あなたは、御子イエス・キリストの聖なるからだへとあなたの民を紡ぎ、一つとしてくださいました。あなたを愛する私たちに、信仰と献身を貫いた聖徒たちに倣い、備えられた言い尽くせない喜びに与らせてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

 *本日は「全聖徒主日」として、主のみもとに召された信仰の先達者たちとの豊かな交わりを覚えつつ、ご遺族の方々の上に主の慰めと平安があるように祈りつつ今日も会堂に集まっての礼拝がもたれましたが、新型コロナウイルス感染対策のため「短縮式文」により行われました。

 〇全聖徒主日説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) ヨハネ11:32~44

                                   「 神の栄光を見る 

 今年も全聖徒主日が巡って来ました。この日は、信仰をもって主のみもとに召された兄弟姉妹たちを覚える主日です。聖壇の前には例年のようにそれら信仰の先達者たちのお顔の写真が所狭しと並べられています。写真を掲示してあるボードもいっぱいで、これ以上増えないで欲しいと願うばかりですが、そのぶん天国は賑やかになっているわけです。

 この1年を振り返っても、共に信仰生活を送り、豊かな交わりを持つことが許された方々を何とたくさん主のみもとにお送りしなければならなかったかと思わされます。札幌教会に着任して11年。最初の任地であった恵み野教会での3年間も加えると、私も北海道に来て14年になろうとしています。これだけおりますと、それぞれの教会でたくさんの方々と出会い、語り、交わりが増えていくばかりです。そのような中で、死別によってこの世での交わりを絶たれ、主のみもとにお送りしなければならない方が増えていくことは仕方のないこととは言え、辛いものがあります。たとえそのお方が最後まで信仰を全うされ、心安からに主のみもとに旅立たれたとしてもです。もちろん牧師の務めとして、そのお方を主の御手に委ねましょう、とご遺族の方にはお話するわけですが、そう言っている自分自身が何とも辛くいたたまれない気持ちになってしまうのもまた事実です。まだまだ一緒に賛美歌を歌い、御言葉を分かち合いたかった…愛餐のテーブルに一緒について、美味しく食べ、飲み、語り合いたかった…という思いをどうしても押し留めることができません。かように、私たちの人生にはいつも後悔がつきものです。特に人との出会い、そして別れに関しては、全く後悔のない人生というのはありえないような気がします。

 それでも、信仰者が最後には自分自身を主に委ねることが出来るのは、主が私たちをそのみもとに迎え入れてくださることを信じているからです。主がそこで、復活の命を与えてくださることを信じているからです。主ご自身がその御手で、私たちの涙を拭ってくださると信じているからです。「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。」(イザヤ書25章8節)「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」(ヨハネの黙示録21章3〜4節)新旧約聖書のいずれもが、主が私たちのあらゆる悲しみの涙をぬぐわれ、永遠に共にいてくださることを証ししています。信仰の先達者たちもそうやって、主ご自身の御手によって涙をぬぐわれ、平安のうちに主のみもとにおられるのです。そこへ、やがて私たちも加えていただく!それは、なんと喜ばしい約束ではないでしょうか。その時が来るまでは、主から与えられたこの世での生活をしっかりと全うしていこうではありませんか。(日笠山)

 

《来週の礼拝》   *信徒礼拝で行われます。                             

#11月14 午前11時 聖霊降臨後第25主日礼拝

司  式:滝田裕美さん(代行

説  教:滝田裕美さん(代読)「嘆き」

奏  楽:若井裕子さん

聖書朗読:小笠原里子さん

礼拝当番:小川敦子さん、小笠原里子さん

聖  書:ダニエル12:1-3、ヘブライ10:11-14、マルコ13:1-8

讃  美 歌:176(1,2)、322(1,3)、370(1,2)


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10月31道「今日の礼拝堂」

2021年11月05日 | 今日の礼拝堂

    宗 教 改 革 日    

今週の祈り: 恵み深い父なる神さま。聖なる公同の教会のために祈ります。教会をあらゆる真理と平和で満たしてください。御子イエス・キリストのゆえに、堕落したときはきよめ、誤ったときは道を示して改革し、正しいときに強め、欠けているときには備えてください。分裂したとき、再び一つにしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

 *今日も会堂に集まっての礼拝がもたれましたが、新型コロナウイルス感染対策のため、「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 

 〇宗教改革日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) ヨハネ8:31~36

                                   「 福   音 

 コロナ禍と言われるようになってから、私は個人的に中世の時代についての学びを始めました。というのも、中世の時代は今の私たちと同じように、いやそれ以上にペス卜という疫病に襲われ人々がウイルスに怯えながらの生活を強いられた時代だったからです。そこからルターが生きた宗教改革の時代がどのような時代だったのか理解を深めたいと思い、宗教改革に至るまでの歴史を学び始めたのです。その中で理解したことは、中世の時代は聖書の上に様々な制度や文化を作り上げた時代であったけれども、聖書への探求はそこまで熱心にはされていなかったということです。そこから宗教改革の時代には中世の時代が持っていた聖書理解が本当に正しいのかを検討する事から始まり、結果として聖書の理解という根本的な部分から見直す必要があるとされたことで、それまで持っていた制度全体を見直す必要が起こり宗教改革が起こっていったのです。では、どのような理解の変化が起こったのでしょうか。

 一言で言えば、ルターは聖書を福音とする理解を深めていったと言って良いでしょう。福音とは良い知らせを意味する言葉であり、神からの良い知らせがみ言葉として私たちに与えられたのだとルターは理解したのです。良い知らせとは神が私たちの罪を赦し、むしろ恵みによって生かしてくださるというものであり、等価交換が一般的な人間社会において、あり得ない大きな神の愛が示されているとルターは述べたのです。中世においては、神の恵みに対して人間にもそれに見合う償いが求められていました。様々な制度が作られ、良い生活、良い態度、良い働きが望まれていたのです。しかし、ルターはそれらを一掃しただ信仰によるものだと強調していったのです。神のみ言葉を福音として受け取ったのです。これこそが、今日の箇所が伝えることでありましよう。

 「神の真理は私たちを自由にする」とイエスさまは述べられました。私たちは罪の奴隷であり、罪を犯さずにはいられない存在です。罪を犯す、つまり神から離れる時。私たちは孤立し苦しみと出会うのです。しかし、主によって私たちが赦されるという真理が伝えられたのです。この真理によって、私たちは罪から解放され、再び神と共に生きられるようにされたのです。神と共に生きること、それは常に神の平安の中で生きられることであり、そこにこそ私たちが求める本当の自由があったのです。それを伝えてくださる神のみ言葉は、まさしく福音でありましょう。

 ルターはこの福音を、一人ひとりが良い知らせとして受け取るように説き明かしたのです。今日あなたに伝えられたのはただの教えでしょうか。それとも、福音でしようか。そのことを今一度吟味してほしいのです。私たちがただしく福音として受け取る時、私たちは自由にされていくのです。ルターを通して神が伝えてくださった福音を、今日も喜んで受け取っていきましょう。(中島)

 

《来週の礼拝》                               

#11月7 午前11時 全聖徒主日 礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「天地

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:小川敦子さん

礼拝当番:出口輝子さん、小笠原里子さん

聖  書:イザヤ25:6-9、黙示録21:1-6a、ヨハネ11:32-44

讃  美 歌:371(1,2)、337(1,2)、375(1,4)


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