新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

10月24日「今日の礼拝堂」

2021年10月30日 | 今日の礼拝堂

    聖霊降臨後第22主日    

今週の祈り: 永遠の光よ。私たちの心を照らしててください。永遠の知恵よ。私たちの無知の闇を追い払ってください。永遠の憐れみよ。私たちを憐れんでください。御顔を求めてあなたの道を映し出してください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

 *今日も会堂に集まっての礼拝がもたれましたが、新型コロナウイルス感染対策のため、「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 

 〇聖霊降臨後第22主日説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) マルコ10:45~52

                                   「 躍り上がって 

 十字架に赴くためにエルサレムへの旅を続けておられるイエスさまが、病の人を癒された最後の物語です。場所はエルサレムから程近いエリコの町でのこと。イエスさまと弟子たちがエリコの街に到着すると、一人の盲人が物乞いをして道端に座っていました。彼の名前はバルティマイ。バルティマイは目が見えないという障がいのため何の仕事もあてがわれず、生きていくためには物乞いをするしかありませんでした。当時、病にかかったり何らかの障がいを持っていた人は、その人か家族が犯した罪のゆえに神から罰を受けているのだと考えられていました。そうして、周囲の人々から白い目で見られ、差別され、除け者扱いされていたのです。バルティマイもそうでした。ですから、イエスさまがエリコの町に来られたと知るやいなや大声で「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んではみたものの、多くの人が叱りつけて黙らせようとしたのです。

ところが、バルティマイは怯みません。彼はますます「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。彼は、イエスさまなら自分の訴えに足を止めてくださる!自分の願いを聞きれてくださる!救ってくださる!と信じ、叫び続けたのです。「主よ、憐れみたまえ(キリエ・エレイソン)」と。果たして、イエスさまはバルティマイの声をききつけ、立ち止まりました。そして、彼を呼んでくるよう人々に言いつけたのでした。

 イエスさまが自分を呼んでくださったことを知ったバルティマイは、もうそれだけで嬉しくてなりません。上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスさまのところへ来ました。イエスさまは、バルティマイに尋ねます。「何をして欲しいのか」。バルティマイは即答します。「先生、目が見えるようになりたいのです」。すると、イエスさまは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われ、その通りバルティマイはすぐ見えるようになったのです。バルティマイは嬉しさのあまり、躍り上がるどころか飛び跳ねるようにして喜びを爆発させたに違いありません。こうして彼は、道を進まれるイエスさまに従いました。然り、十字架の道を進まれるイエスさまの最後の弟子となったのです。

 パウロは、神の義について以下のように述べています。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」(ロマ書3章21〜22節)すなわち神は、救いを求める者は誰であっても、ただキリストを信じる信仰さえあれば義とされ、救いを与えてくださるのです。人はただキリストへの信仰によってのみ救われる!これこそ、福音でなくて何でしょう。バルティマイは、この福音を見事に証ししたのです。(日笠山)

 

《来週の礼拝》                               

#10月31 午前11時 宗教改革日 礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「福音

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:青木比呂子さん

礼拝当番:秋田直枝子さん、小笠原里子さん

聖  書:エレミヤ31:31-34、ローマ3:19-28、マタイ11:12-19

讃  美 歌:212(1,2)、450(1,2)、245


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10月17日「今日の礼拝堂」

2021年10月23日 | 今日の礼拝堂

    聖霊降臨後第21主日    

今週の祈り: 王なる神さま。あなたはすべての民の救いのために御顔を向けてくださいます。御国に喜び仕える僕として、絶えず御心を望むことができますように。     救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

 *今日も会堂に集まっての礼拝がもたれましたが、新型コロナウイルス感染対策のため、「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 〇聖霊降臨後第21主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) マルコ10:35~45

                                   「 権   力 

段々と葉に色が付き始め、季節は秋から冬に移ろうとしています。そろそろ一年の終わりも近づいてきましたね。私たちが読み進めるマルコ福音書も今日はイエスさまの三度目の死と復活の予告から始まり、いよいよ佳境に差し掛かろうとしています。十字架の死と復活が、すぐそこまで近づいてきているのです。

イエスさまは三度同じようにご自身の死と復活を予告するわけですが、弟子たちの反応は段々と変わってきています。一度目はイエスさまは叱責し、二度目は恐れて理由も聞けませんでした。そして三度目では、死と復活は必要なことだと受け入れていることが35節以下のヤコブとヨハネの反応から分かります。彼らは死と復活を「栄光をお受けになるとき(36節)」と述べているように、少なくともただ死んで終わりと言うことではなく、何らかの神の御業が果たされようとしていることは受け止めているのです。三回にわたる受難予告で、弟子たちも死と復活が必要であることは理解したのでしょう。けれども、三度の受難予告の後にはまた同じように、弟子たちによる権力争いが展開されていきます。彼らは何度言われようとも、イエスさまが栄光を受ける時、自分は重要なポストを用意してほしいと願うのです。ここに、人間の欲がまざまざと表されています。

彼らは何のためにイエスさまに付き従うのか。それが旅路の中で段々と自分の利益のために差し変わってしまったのでしょう。これは私たちとて同じでありましょう。最初は神さまの言葉を聞いて嬉しくなって信じるようになった純粋な信仰であっても。年数が経つと共に次第に神に要求してしまうことがあるのです。「幸せにしてほしい」「守ってほしい」「救ってほしい」そういった現実的な願いが、神への要求として現れることは起こってもおかしくはないことでありましょう。弟子たちにとっての要求は権力でありました。私たちもまた時に幸福を要求してしまいます。この心の欲をどうすれば良いでしょうか。はっきり言いますが、どうしようもないのです。だから、イエスさまは十字架で死なれたのです。私たちが罪にどっぷり浸かってしまうがために、イエスさまは罪の赦しのために十字架で死なれたのです。私たちに出来ることは、そこから伝えられる愛を受け入れることです。あなたは既に神に愛されているのです。救いは、それで十分でありましょう。私たちがそれ以上を望むとき、権力を欲しがった弟子たちと何も変わらない私たちが現れます。ただ神の愛に満たされることで、その心も満たされる。そのような信仰が既に私たちに与えられていることを今一度思い起こし、今日もみ言葉から愛を受け取っていきたいと願います。(中島)

 

《来週の礼拝》                               

#10月24 午前11時 聖霊降臨後第22主日礼拝

司  式:日笠山吉之牧師

説  教:日笠山吉之牧師「躍り上がって

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:蔵谷俊夫さん

礼拝当番:小川敦子さん、小笠原里子さん

聖  書:エレミヤ31:7-9、ヘブライ7:23-28、マルコ10:46-52

讃  美 歌:188(1,2)、324(1,2)、451(1,3)

 


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10月10日「今日の礼拝堂」

2021年10月12日 | 今日の礼拝堂

    聖霊降臨後第20主日    

今週の祈り: 全能・永遠の神さま。後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、終わりの日に永遠の喜びの冠を授かるために、私たちの信仰の賜物を増し加えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

 *今日は、ルーテル学院大学神学校の講壇奉仕礼拝として行われました。日笠山牧師の司式のもとに、ルーテル学院大学神学校の宮本 新牧師による説教(説教題は「神にはできる」)がオンラインで行われました。

    新さっぽろ礼拝堂では、礼拝はいつものとおり会堂に集まって「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 

 〇聖霊降臨後第20主日説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) マルコ10:17~31

                                   「 救われるのは誰? 

 本日の福音は、イエスさまが「旅」に出ようとされた折に、ある人から質問された話題を中心に展開しています。イエスさまは、一体どのような「旅」に出かけようとされたのでしょうか。それは、ゴルゴタの丘への旅です。そのことは、本日の日課に続いて、イエスさまが最後となる3度目の受難予告をされたことからも明らかです。イエスさまは私たちを罪から救い、私たちに永遠の命を与えるための十字架と復活の旅に、今、出かけようとしておられるのです。

 それゆえ、質問者がイエスさまに尋ねたことも「永遠の命」についてです。彼は旅に出かけようとするイエスさまに走り寄って、ひざまずいて尋ねました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればいいでしょうか」。彼の態度は真剣で、質問も純粋です。ファリサイ派や律法学者たちのように、イエスさまを罠にかけてやろうというような作為的な言葉や振る舞いは彼にはありません。きっと真面目な人だったのでしょう。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな』という十戒の掟をあなたは知っている筈だ、とイエスさまから言われると、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と彼は答えるのです。

 確かに、彼は十戒に書かれているような戒めは何も破らなかったでしょう。殺人をしたり、不倫をしたり、泥棒をしたり、偽証したり、そのような犯罪は何一つ犯さなかったに違いありません。しかし、十戒が私たちに教えているのは、文字通りの禁止事項だけではないのです。人を生かし、愛すること。人の真実を伝え、そして人に与え尽くすこと。そのような積極的な生き方を、神さまは私たちに期待して、十戒を授けられたからです。イエスさまが、彼に求めた生き方も然り。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」彼はこのイエスさまの御言葉を聞くと、気を落とし、悲しみながら立ち去ってしまったとあります。勿体ないことです。真面目な生活をし、永遠の命に与りたいと真剣に求め、イエスさまに走り寄ってひざまづき教えを請うた彼。イエスさまは、そんな彼を「見つめ、慈しんで」教えてくださったのです。にもかかわらず、彼はイエスさまの御心を受け止めることが出来なかった…。

すべての人を慈しみの眼差しで見つめ、赦し、愛してくださるイエスさまは、すべての人を永遠の命に招き入れるために、十字架の旅を始められました。私たちもイエスさまと一緒に、その旅に連れて行っていただこうではありませんか。(日笠山)

 

《来週の礼拝》                               

#10月17 午前11時 聖霊降臨後第21主日礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「権力

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:小川敦子さん

礼拝当番:楢戸恵子さん、小笠原里子さん

聖  書:イザヤ53:4-12、ヘブライ5:1-10、マルコ10:35-45

讃  美 歌:175(1,3)、399(1,2)、159(1,3)


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10月3日「今日の礼拝堂」

2021年10月04日 | 今日の礼拝堂

    聖霊降臨後第19主日    

今週の祈り: いと高き神さま。あなたは私たちを愛し合い交わりの中にに創られました。変わることなく誠実に生き、幼子のように信頼し、御子の姿を映し出すことができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

 *今日も会堂に集まっての礼拝がもたれましたが、新型コロナウイルス感染対策のため、「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 〇聖霊降臨後第19主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) マルコ10:2~16

                                   「 一  つ 

 随分と寒くなりましたね。ストーブを点けるどころか消せない季節が近づくと思うと少しずつ寂しさが起こりますが、今日もまたみ言葉によって心満たされていきましょう。今日与えられたみ言葉は、離縁について律法学者やファリサイ派の人々が質問してきたところから始まります。しかし、彼らは離縁について知りたいわけではなく、イエスさまを罠にかけようとしています。というのも、1節でイエスさまはヨルダン地方にやってきたと書かれていますが、これはつまりヘロデが治めるところにやってきたということです。へロデと言えば6章で出てきていますが、彼は自分の兄弟の妻を離縁させて自分の妻とした人物でありました。そのことを厳しく諌めた洗礼者ヨハネは。ヘロデの妻ヘロディアによって殺されてしまったのです。そのため、彼が治める領地では離縁についてはタブーのようになっていたのです。そのような状況の中でイエスさまに聞きに来たということは、律法によって離縁を批判すればヘロデヘの反発となり、離縁を批判しなければ洗礼者ヨハネと別のことを言っていると批判できるという、どちらを答えても批判できるといった罠をしかけているのです。

 そこに対し、イエスさまは神の意志は何であるかと問い返します。神は人が独りでいるのは良くないという意志によって、一人一人に支えを与えてくださったのです。つまり、神は一人の人を覚えて、その人のだめに愛を果たそうとしてくださる方であるのです。しかし、人は罪によって神の愛を時に見いだせないままに、今日の箇所で言えば離縁するような、神の愛を無下にしてしまうことも起こしてしまうのです。その心の頑なさをイエスさまは指摘するのです。この視点は私たちにとって非常に大切です。私たちも何かが起こった時、その物事の表面ばかりを気にしてしまいます。特に今日のような離婚という非常に具体的な問題に迫った時、それが良いか悪いかという二択で答えを導きだそうとしてしまいます。けれども、神はそういった良い悪いという判断ではなく、常に神の意志を、つまりは聖書に立ち返りなさいと述べているのです。そして神は常にみ言葉を通して私たちに愛を伝えてくださる方であることを示してくださるのです。たとえ私たちが罪を犯そうとも、その罪を赦し、愛してくださる方であることを覚えることが重要であるのです。

 私たちを心の底から愛し、そして私たちが罪の故にその愛を見いだせない時にも、自ら独り子を送り十字架の死によって罪を赦してくださる方であるのです。それほどまでの大きな愛を示してくださる方を覚えて、私たちが愛に満たされ愛に従って生きていくとき、私たちは神の支えがいつも与えられていることに目が開かれ、そしてその支えに感謝して大切にして生きていくことが出来るのです。今日もまた、主への賛美を喜びと共に唱えていきましよう。(中島)

 

《来週の礼拝》                               

#10月10 午前10時30分 聖霊降臨後第20主日礼拝

司  式:日笠山吉之牧師

説  教:ルーテル学院大学神学校 宮本 新牧師「神にはできる

       #神学校による「講壇奉仕礼拝」としてオンラインで行われます。


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9月26日「今日の礼拝堂」

2021年10月02日 | 今日の礼拝堂

    聖霊降臨後第18主日    

今週の祈り: 恵みの神さま。御子は、私たちがあなたとの平和を得るために命をささげてくださいました。あなたの霊を分け与え、御名を証しできるように強めてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

 *今日も会堂に集まっての礼拝がもたれましたが、新型コロナウイルス感染対策のため、「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 〇聖霊降臨後第18主日説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) マルコ9:38~50

                                   「 互いに平和に過ごしなさい 

 本日の福音は、二つの段落から成っています。一つは、弟子たちが自分たちに従わずにイエスの名を使って癒しの業を行なっている人を排除しようとした話し。もう一つは、小さな者を躓かせてはならないというイエスさまの話しです。一見すると別々の話しのように見えますが、実は繋がっています。それは、二つの段落を締め括るイエスさまの御言葉からも明らかです。50節:「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」。これは、自己正当化ばかりして他人を拒絶しようとする私たちに対して、主が言われた御言葉です。イエスさまは、私たちが自負心や偏狭な考え方から解放されて、互いを認め合い、受け入れ合って、平和に過ごすことを望んでおられるのです。

 最初の段落から見て参りましょう。弟子のヨハネがイエスさまに言いました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」弟子たちは宣教活動に赴くに当たって、イエスさまから悪霊を追い出す権能を授かっていました。それで彼らはイエス。キリストの名によって、悪霊に取り憑かれた人々を癒すことが出来たのです。一方、12人の弟子集団には属さずにイエスの名前を使って癒しの業を行なっていた人がいました。彼を見て、弟子たちは憤ります。彼は正統なイエスの弟子ではない!というわけです。弟子たちの強烈なプライドと特権意識が垣間見えます。そんな弟子たちを制して、イエスさまは言われました。「やめさせてはならない…わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と。なんと寛容なイエスさまの心でしょう!大切なことは、どの集団や教派に属するかではありません。イエスの名によって、愛の御業がなされていくことなのです。

 次の段落は、「小さな者の一人」を躓かせる者に対する裁きの言葉です。ここで言われている「小さな者」とは「わたしを信じる小さな者」、すなわち「イエスを信じる小さな者」とも解釈できますので、前段に登場した一人の癒し人も該当するでしょう。彼は12人から成る弟子集団と比べると、たった一人の小さな存在です。それでも、イエスの名を信じて、自分なりに一生懸命に宣教と癒しの業に励んでいるのです。そんな彼を躓かせてはなりません。彼を拒絶し、排除してはならないのです。むしろ、彼によってなされている愛の業を共に喜ぶべきなのです。キリスト者とは、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く者だからです。そのような信仰者となるために、「自分自身の内に塩を持ちなさい」とイエスさまは言われます。「人は皆、火で塩味を付けられる」からです。聖霊の火によって、罪を吹き消され、愛の炎を燃やされた人は、自分自身の内に塩を持つことができます。そして、塩味のきいた人間関係を、神との関係を、保ち続けることが出来るのです。(日笠山)

 

《来週の礼拝》                               

#10月3 午前11時 聖霊降臨後第19主日礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「一つ

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:青木比呂子さん

礼拝当番:出口輝子さん、小笠原里子さん

聖  書:創世記2:18-24、ヘブライ1:1-4,2:5-13、マルコ10:2-16

讃  美 歌:238、410(1,2)、277(1,3)


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