新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

5月22日「今日の礼拝堂」

2022年05月25日 | 今日の礼拝堂

    復活節第6主日    

今週の祈り: 惜しみない愛の神様。あなたは私たちをあなたの園に招き、命の木から食べさせてくださいます。霊の力によって励まされ、互いに愛し合い、あなたの創られた世界を大切に守ることができるよう、御言葉で養ってください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

*復活祭の礼拝から「短縮式文」を用いず、通常の式文により礼拝がもたれています。

 

 〇復活節第6主日  説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) ヨハネ14:23~29

                                   「 キリストの平和 

 イエスさまの告別説教が続いています。先週の日課では、イエスさまが弟子たちに新しい掟を教えてくださいました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」その愛の掟とは単なる隣人愛ではなく、イエスさまが弟子たちを愛されたように-イエスさまが弟子たちの足を洗い、彼らのために十字架にかかり、そしてご自身のからだと血とを分け与えられように-あなたがたも心の底から愛し合いなさい、という教えでした。そのような愛は弟子たち自身では全うすることはできませんから、いつもイエスさまの愛に包まれて、イエスさまから愛をいただくことが不可欠なのです。

 しかし、そのイエスさまと弟子たちはもうすぐ引き離されてしまいます。イエスさまはすべての人々の罪を贖い救うために、ただ一人ゴルゴタの丘へ向かわなければならないからです。後に残される弟子たちはどんなに不安だったことでしょう。どんなに悲しい思いでこの最後の説教を聞いていたことでしょう。イエスさまがいなくては、愛の掟も守れやしない…そう弟子たちは悲嘆にくれていたのではないでしょうか。そんな彼らを励ますために、イエスさまはたくさんの約束を弟子たちと交わされました。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」イエスさまの父とは、主なる神。また弁護者は、神が遣わされる聖霊です。イエスさまの愛の中で生きようとする人のところには、イエスさまと一緒に父なる神が来られ、一緒に住んでくださるというのです。神と御子が、この私の心の中に宿ってくださる!罪にまみれたこの私の中に、神とキリストが住んでくださる!そればかりでなく、神と御子は私たちに聖霊を与えて、御言葉をことごとく思い起こさせ、生きる力をも与えてくださると言います。父なる神と子なるキリストと聖霊による愛の協働作業。信仰者はその三位一体の神の愛によって生かされていくのですから、決して孤独ではないのです。

 だから、イエスさまは改めて弟子たちに言うのです。「心を騒がせるな。おびえるな。」と。私たちが何かに怯え、心を騒がせるのは、神を見失っているからです。御子が私の心の中に住んでくださっていることを忘れているからです。聖霊が注がれていることに気づかないからです。落ち着いて、神に祈りましょう。インマヌエルの主イエスを信じましょう。そして、聖霊を豊かに受けるのです。その時、私たちにはまことの平和が与えられまるのです。イエスさまが約束されたように。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」(日笠山)

 

《来週の礼拝》                               

#5月29 午前11時 昇天主日 礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「御顔

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:楢戸恵子さん

礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん

聖  書:使徒1:1-11、エフェソ1:15-23、ルカ24:44-53

讃  美 歌:170、111(1,4)、増補49


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5月15日「今日の礼拝堂」

2022年05月20日 | 今日の礼拝堂

    復活節第5主日    

今週の祈り: 平和の神さま。あなたは羊の大牧者、私たちの主イエス・キリストを死者の中から引き上げられました。御心にかなう働きができるように、永遠の契約の血によって私たちを善き業をなす者としてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

*復活祭の礼拝から「短縮式文」を用いず、今日も通常の式文により礼拝がもたれました。

 

 〇復活節第5主日   説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) ヨハネ13:31~35

                                   「 指   針 

 今日与えられたみ言葉はいわゆる「最後の晩餐」の一場面です。最後の晩餐の始めにイエス様が弟子たちの足を洗い、ユダの裏切りを予告しました。今日の箇所はその出来事の終結部、あるいはここから続く説教の導入部とも言われています。どちらであるのかは神学者によって意見が分かれるところではありますが、ここで語られていることは「イエス様に属するとはどういうことか」ということです。その上で大切なことは、「新しい掟」に従うということだと語られています。新しい掟、それは「互いに愛し合いなさい(34節)」という指針でありました。しかし、ここで注意が必要なのは愛するという掟自体はレビ記19:18や申命記6:4にも同様の事柄が書かれているため新しいものではありません。ここで言われる新しい部分は「わたしがあなたがたを愛したように(34節)」という神の愛からの出発が新しいものとして語られているのです。

 この神が愛されたように互いに愛し合うという観点を私たちは今一度大切にしなければなりません。というのも、今日の箇所では神が愛するというのは大前提として語られているのに、私たちはその大前提を前提にしないことがあるからです。果たして神は愛してくれているのか疑問に思うことや、そもそも神が愛してくれているということを考えることを放棄してしまうこともあるでしょう。私たちは神の愛をどこかで軽視してしまうことがあるのです。そしてその愛を見失ってしまえば、互いに愛し合うという掟も成立させることが出来なくなってしまうのです。

 「愛されること」を実感し続けることは難しいことでしょう。目に見えなければ、神様が直接一人一人に証言してくれるわけでもない。どこかあやふやで、人によって定義の違うその愛を実感することはとても難しいことです。だから、私たちは絶え間な<神の愛を思い続けなければならないのです。

 神が愛してくれている。どこかあやふやですぐに忘れてしまうその愛は、しかし私たちの心の中に根付き大きくなってくると、その輪郭がハッキリと見え、そこにある力強さに励ましや慰めを受け取ることが出来るのです。それは神が与えてくださった信仰なしにはなしえません。神を信じ、神により頼み続けるところで、その愛の確かさから私たちはその全てを愛に満たされていくことが出来るのです。そしてその先で、私たちは互いに愛し合う者となっていくことが出来るのです。

 神が愛してくれている。そこに理由を考える必要はありません。ただあなたの存在を愛しているのだと。それは大前提なのだと神が述べて下さっているのです。ならば、喜んでその愛を受け取り続けましょう。愛してくれていると確かに受け取って、私たちもまた誰かを愛する者として遣わされていきましょう。(中島)

 

《来週の礼拝》                               

#5月22 午前11時 復活節第6主日礼拝

司  式:日笠山吉之牧師

説  教:日笠山吉之牧師「キリストの平和

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:小川敦子さん

礼拝当番:出口輝子さん、小笠原里子さん

聖  書:使徒16:9-15、黙示録21:10,22:5、ヨハネ14:23-29

讃  美 歌:381(1,2)、118(1,3)、増補49


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5月8日「今日の礼拝堂」

2022年05月13日 | 今日の礼拝堂

    復活節第4主日    

今週の祈り: 主なる神様。あなたは、愛なしにはすべての業は虚しいと教えてくださいます。何が平和か、何が良いことかを理解できるように、聖霊によって生きて働く愛の賜物を注いでください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

*本日の礼拝は信徒礼拝で行われましたので、「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 

 〇復活節第4主日  説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) ヨハネ10:22~30

                                   「 主の声を聞き分ける 

 ヨハネ福音書の10章のキーワードは、「良い羊飼い」と「羊」です。イエスさまは、ご自分を繰り返し「良い羊飼い」に例えて言われました。11節:わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。14節:わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っておられるのと同じである。羊はどれも小さく弱いので、お互いの身を寄せ合って集団となって行動します。また視野も狭いので、自分の鼻先の草しか目に入りません。ですから、いつも外敵から守り、青々とした草に導いてくれる羊飼いがいなくては生きていけないのです。そのような羊たちを、羊飼いはとても大切にします。人間の目には同じように見える羊の群れであっても、羊飼いは一匹一匹に名前をつけて、彼らの個性まで知っているのです。そのような羊飼いと羊たちとの麗しい関係になぞらえて、イエスさまはご自身と私たちとの関わりについて語ってくださいました。「わたしは良い羊飼い。あなたがたはその羊である。わたしにとってあなたがたはかけがえのない大切な羊だ。だからわたしはあなたがたのために命をも捨てる」と。そうして、本当にイエスさまは私たちの罪を贖うために、自ら十字架にかかって命を捨ててくださったのです。そのことを信じることが出来るなら、誰もがイエス・キリストの羊とされるのです。

 ところが、今日の福音書の日課には、イエスさまを良き羊飼いであると信じることのできない人々が登場しました。祭司長や律法学者、それにファリサイ派といったいわゆる学のある人々でした。彼らはイエスさまに詰め寄って、メシアなのかどうかはっきりさせなさい、と言うのです。イエスさまは、ご自身が語る御言葉や示された御業が父なる神からのものであることを事あるごとに告げられていたのですが、聞く耳を持たず、目を閉じたままの人々にとっては分からずじまい。彼らははなからイエスを信じる気などなかったからです。信仰のないところには、主イエスの福音も御業も届けられることはありません。そのような人々に対して、イエスさまは言われました。25節:わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。自分にはイエスなんか必要ではない、自分の力だけで生きていける、と豪語している限り、私たちは主イエスの羊とはされません。しかし、そのような生き方をしていると、結局は羊の群れからはぐれて路頭に迷い、サタンの餌食となってしまうのではないでしょうか。イエスさまは、常に私たちの「良き羊飼い」でありたい!と願っておられます。その主イエスの願いに、信頼して、身を任せてみようではありませんか。(日笠山)

 

《来週の礼拝》                               

#5月15 午前11時 復活節第5主日礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「指針

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:蔵谷俊夫さん

礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん

聖  書:使徒11:1-18、黙示録21:1-6b、ヨハネ13:31-35

讃  美 歌:179(1,2)、95(1,2)、増補49


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5月1日「今日の礼拝堂」

2022年05月07日 | 今日の礼拝堂

    復活節第3主日    

今週の祈り: 憐れみ深い永遠の神様。すべての天使と聖徒たちとともに大いなる御力を賛美します。御子の復活によってご自身を顕し、聖霊によって私たちをキリストに従うものとしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン」 

*復活祭の礼拝から「短縮式文」を用いず、通常の式文により礼拝がもたれています。本日は今月の第1週にあたるため聖餐式も行われました。

 

 〇復活節第3主日 説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) ヨハネ21:1~9

                                   「 迫   る 

今日与えられた箇所を含むヨハネ福音書21章は、本筋の物語とは分離した付録あるいは追記であると言われています。と言っても、21章が欠けた写本が見つかったわけでも言語的に問題があるわけでもありません。ではなぜ付録と推測されているかというと、一つは20章の30-31節が明らかに終結部として書かれていること。さらには今までの中で語られてこなかった教会の問題点に焦点が当てられ、これまでの関心事とは全く別なことが書かれているという内容の判断から、21章が付録だと呼ばれているのです。なぜ付け加えられたのか、その理由を考えるためにも、当時の教会の状況を考察することが重要でありましよう。ヨハネ福音書が書かれた当時の教会は、ペトロが建てた教会に加え、パウロ、さらには福音書記者ヨハネが在籍していたものなど、いくつかの派閥に分かれていたと考えられています。そういった背景が、今日の箇所に登場する「イエスの愛しておられた弟子(7節)」とペ卜口との関係として描かれています。19章から登場した愛弟子は、いつもペトロと共に登場していますが、仲が良さそうではありません。それでも協力はするという不思議な関係を維持していました。そして今日の箇所でも、愛弟子の「主だ」という声に反応してペトロが湖に飛び込んでいくということが起こっていますが、協力するでも互いに声をかけあうでもなく、曖昧な関係性が維持されつづけているのです。これが当時のペトロの教会とヨハネの教会の関係だったのではないかと考えられます。しかし、その二つが二つのままで、主との出会いの場が整えられていることに意味があるのでしょう。さらに15節以下では、ペトロにはペトロの、愛弟子には愛弟子への問いかけが成されていくのです。つまり、どのような群れを作ろうとも、主への信仰というところで、人は主によってーつとされていくということが語られているのです。

人間は集団を形成していく中で、時に分離や対立を経験していくことがあります。現に教会は教派に別れ、実際のところ「一つだ」とは言いにくい状況でありますし、さら言えば一つの教会の中でも対立を経験することがあるかもしれません。しかし、主はそれすらも用いて、全ての人のためにそれぞれの人を遣わしていくのです。その中で真の豊かさが主によって完成されていくのです。人の業を主が整えてくださる。そのことに信頼して初めて、宣教が豊かになされていくのです。

21章はあえてガリラヤでの出来事として記されていると考えて良いでしょう。イエス様の宣教の始めがガリラヤのカナの婚礼で豊かさが示される出来事であったように、その最後にもガリラヤで再び豊かさに与る奇蹟が与えられたのです。私たちが主を信じるところでは、どのようなことがあっても、最初から最後まで主が恵みに満ちたものにして下さる。その喜びを受け取って、今日もまた心豊かに遣わされていきましょう。(中島) 

 

 《来週の礼拝》     *信徒礼拝で行われます。                             

#5月8 午前11時 復活節第4主日礼拝

司  式:滝田裕美さん(代行

説  教:滝田裕美さん(代読)「拒絶」

奏  楽:若井裕子さん

聖書朗読:小笠原里子さん

礼拝当番:小川敦子さん、小笠原里子さん

聖  書:使徒9:36-43、黙示録7:9-17、ヨハネ10:22-30

讃  美 歌:212(1,2)、307(1,3)、増補49


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