新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

9月28日「今日の礼拝堂」

2014年09月28日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第16主日

「今週の祈り:全能・永遠の神さま。あなたは、私たちの弱さや問題をことごとく知っておられます。あなたの力強い愛で私たちを助け、私たちが弱さを踏み越え、堅い信仰を告白できるいようにしてください。御子、主イエス・キリストによって祈ります。」

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〇一番右は説教台です。ここで聖書朗読もします。左は礼拝後にローソクのメンテナスをしている担当の姉妹たちです。ローソクはまっ平に削っておかないと、点火のときに上手に炎が点せません。そして、どこから入るのか分からないけど、炎は真直ぐに灯らないで必ず淵に段差ができます。それを毎週きれいに削ってくれる人たちがいて、礼拝がスムーズに執り行われます。人目につかない仕事ですが、礼拝はこういう陰の仕事が結び合って整えられています。

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〇この礼拝堂は、聖壇に向かって左右に会衆席が並んでいます。どちらかと言うと、左の席に座る人たちが、聖壇と十字架に対して真正面という感じです。会堂の設計上、どうしてもこんな感じになります。この形に落ち着くまでには、いろいろと試行錯誤が繰り返されたと聞きますが、すっかりこの形が定番となっています。人間の習性というのか、だいたい座る席が決まってしまいますが、たまに反対側の席に座ってみると、讃美歌やオルガンの音も随分違って聞こえます。自分で指定席をつくらないで、いろんな角度で礼拝を守ってみるのはいいことです。

〇聖霊降臨後第16主日説教           日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)
マタイによる福音書18:15-20

「心を一つに」

教会とは、キリストの恵みによって呼ばれ、招かれた者たちの共同体です。ですから、教会の真ん中におられるのは、言うまでもなくキリストです。それは、キリスト御自身が「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(20節)とおっしゃったことからも明らかです。キリストは、もちろん私たちが孤独の中でただ一人向かい合う時にもおられるのですが、だからと言って、いつまでも私たちがただ一人きりでおられることは望まれません。むしろキリストは、私たちが兄弟姉妹たちと共に心を一つにして交わり、祈り、賛美することを望まれています。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(19節)と約束されたとおりです。キリストは、私たちがそれぞれに孤高を持するのではなく、信仰の兄弟姉妹たちと共に歩むことを望んでおられるのです。

ですから、それら兄弟姉妹のうちの誰か一人でも欠けてしまうことを、キリストは決して望まれません。信仰の兄弟姉妹とはいえ同じ人間同士ですから、罪を犯すこともあれば悪を行うこともあるでしょう。お互いに赦しあうことが大切です。愛とは、お互いに赦し、赦されることだからです。とはいえ、罪は罪として指摘され、忠告され、犯した当人にも自覚される必要があります。なぜなら、罪は放っておくとますます増殖するからです。それゆえ、預言者エゼキエルも神から言われました。「あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める」と(33章8節)。罪は罪として、悪は悪として、主の御前にさらされなければなりません。もしそれらを見て見ぬふりするならば、罪を犯した当人だけでなく、傍から見ていただけの者たちも神から責任を問われるのです。

キリストは、言われます。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」私たちに兄弟姉妹の罪を忠告することが求められているのは、そうすることによって彼らを「得る」ことが出来るからです。彼らの友となるためです。間違っても、彼らを失ってしまうことのないため-そうして彼らを「迷い出た一匹の羊」にしてしまわないため-です。「小さな者が一人でも滅びることは、天の父の御心ではない」(14節)ゆえに、私たちは兄弟姉妹の罪を忠告することがゆるされているのです。お互い罪深い者同志です。自分が兄弟姉妹に対して罪を犯してしまうこともあるでしょう。その時は、素直に赦しを請いましょう。そのようにして、赦し、赦される群の中にこそ、キリストは確かにおられるのです。

日笠山吉之牧師説教集・・〇日笠山吉之牧師随筆集・・〇聖書日課メッセージ

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〇「聖書を学ぶ会」です。ヘブライ人への手紙9章を輪読して牧師からのメッセージを頂いた後、みんながそれぞれに思うことや勉強してきたことを話しあいます。熱心に聖書のことばを解きほぐして知識を高めようとする学究肌の人もいれば、このみことばが私たちの生活の座にどのように働くのかと、現実の生活に立ち位置を求める人もいれば・・・・とても充実したひと時です。

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〇10月5日 聖霊降臨後第17主日

〇札幌教会札幌礼拝堂で、地区合同礼拝をもちます。新札幌礼拝堂には、新しい方がいらしたときの備えとして、代議員が会堂の門をあけますが、礼拝はありませんので札幌教会札幌礼拝堂へ集合しましょう。
〇説教は、神学校ルター研究所の所長・鈴木浩先生が講壇奉仕をしてくださいます。午後からは「97ヶ条のルター」と題しての講演会があります。

〇10月1日(水)3日(金)はオープンチャーチです。どなたでもご自由にご参加ください。


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9月21日「今日の礼拝堂」

2014年09月21日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第15主日

「今週の祈り:神さま。御子がすべての人のため、苦難の道を歩まれたことを感謝します。どうか、御子に従い、与えられた道を戒めに従って、謙虚に歩む力を私たちに与えてください。御子、主イエス・キリストによって祈ります。」

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〇聖餐式のために、聖壇には「パンとブドー液」が用意されています。このパンとブドー液が、牧師によって聖別されて聖餐に用いられます。

〇懐かしい感じのするアスターが可愛らしく入れられました。オレンジ色のバラの小花も何となく秋を漂わせています。秋の空気の中でみるから秋を感じるのか、同じお花を夏の空気の中で見たら夏を感じるのか、未だに私には分かりませんが、秋の深まりとともにお花たちが小ぶりになっていって、ああ・・秋だなぁ・・と感じるのは五感の力なのかもしれません。

〇聖霊降臨後第15主日説教           岡田薫牧師(週報掲載説教要旨)
マタイによる福音書18:1-14

「小さな者」

今日の日課の冒頭には《いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか》という質問からはじまっています。質問した時の弟子たちは“私は神の憐れみ(恵み)によって今生かされている”という大切なことを見失っています。そのような彼らに主は直接的に返事をされる代わりに一人の子供を彼らの中心に立たせることによって応じられました。

主が《心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない》と言われたのは、幼子礼賛や謙遜を勧めておられるのではありません。《心を入れ替えて》とあるように、自分の無力さを肌で感じ、保護を求めるしかない子供のように、神さまに信頼し、全面的に服するように、という勧めです。また主は《つまずきは避けられない》とも言われています。どのようなつまずきかというと、罪の誘惑によるつまずきです。

“罪の子であるあなたがたは、どんなに努力しても罪を犯さずに生きることは不可能である”と宣言されているようなもので、6節以下のくだりはかなり厳しい口調で語られています。主は、誘惑やつまずきは外的な要因だけではなく、内面的な要因もあるということを教えてくださっているのです。そして主は《これらの小さな者を一人も軽んじないように注意しなさい》と勧告されます。

《小さな者の一人》をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められるほうがましである、という厳しい発言もありますが、これは単に弟子たちや私たちを脅すことばではありません。《これらの小さな者が一人でもほろびることは、あなたがたの天の父の御心ではない》とあるように、神さまの愛の深さ、広さを示すものなのです。

“キリスト者とは?”あるいは“クリスチャンとは”いったいどのような者のことであるかと、私たちはしばしば悩むことでしょう。ルターも悩んでいたようです。彼は「キリスト者の自由」を書いたとき、その序文において、キリスト者とは何であるか、ということを書くことはしていません。彼が最初に打ち出したもの、それは「イエス」という言葉でした。つまり、ルターはこれから展開しようとしている内容が、自己の意見、自己の主張、自己の神学の展開ではなく、「みことば」への従順であることを表すとともに、キリスト者とはひたすらに主イエスを見つめ続ける者であると証しているのです。さながら、“最も小さな者である私がイエスによって見いだされ、導かれている。私はただひたすらに、イエスの声に聴き従うのみ”という事のようです。

迷い出た羊のたとえは、罪を犯した者、自ら進んで神さまの許から離れ去った者に対しても、主は決してあきらめることがない、悔い改めに導くために働きかけ続けてくださるという力強い約束として聞くことができます。私たち自身がどのような状態にあっても、主は私たちからその眼差しを離されません。聖霊は私たちを滅びではなく、十字架の主を仰ぎ見る方向へと誘ってくださいます。この憐れみ深い神の声に私たちはどのような時にも応答し続けるものでありましょう。

岡田薫牧師説教集・・・岡田薫牧師随筆集・・・聖書日課メッセージ

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〇教会のここ・かしこにそっと置かれた小さな花たちです。ススキに添えられているのはアスパラの赤い実です。野菊も郷愁をそそります。これからが秋の花たちの出番ですが、今年の異常天候は作物だけでなく、小さな花たちにも影響していることでしょう。
すっかり赤くなったナナカマドを見かけるようになりました。大雪山の旭岳も初冠雪との便りです。季節の移り変わりは意外に早くやってきました。季節を追いかけたり先取りできるのは若者たちで、年老いた者たちは、季節に取残されてオロオロと立ちすくみます。どこかでそんな老人を見たら、声をかけてあげましょう。「大丈夫ですよ。一緒に歩きましょう」。

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〇春の窓越しの陽射しは、ほんわかと暖かく感じます。そして、秋の窓越しの陽射しは、古いアルバムを開いたときのアンバー色の写真のように懐かしく心が癒されます。
今日の素敵な一ページは、秋の夜長に一針ずつ刺繍をするための色糸を探している婦人像です。一心に糸を探している表情が、あまりにも優しくあまりにも穏やかだったので、強く心が惹かれました。「♪ かあさんが よなべして てぶくろ あんでくれた ♪」・・・この歌を歌っていた頃の時代や大きな愛に抱きかかえられる思いでした。

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                                  墓前礼拝(平岸霊園教会墓地にて)

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〇礼拝後、それぞれの礼拝堂から墓前礼拝に集まりました。まぶしいほどの光と、爽やかな秋風の中で先に召された家族を思って礼拝が行なわれます。普段あまり会うことのできない人たちとも、今日は会えるという思いが年毎に強くなります。それは眠りについた人たちと会うだけでなく、こうして生きている私たち同士にとっての希望と喜びです。
(墓前礼拝に行けなかったブログ担当者に、同士からの思いがけない記録が届いたので、急遽、編集のしなおしをしました。)

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〇9月28日(日)   聖霊降臨後第16主日

〇司式:日笠山吉之牧師

〇説教:日笠山吉之牧師

〇奏楽:滝田裕美姉

〇聖書朗読:林三浩兄

〇礼拝当番:小笠原里子姉
         小川照美兄

〇聖書:エゼキエル書33:7-9・ローマの信徒への手紙12:19-13:10・マタイによる福音書18:15-20

〇讃美歌:190・365(1,2)・365(3.4)・394・聖餐讃美歌252

〇「うどん食堂」「聖書の学び」があります。

〇24日(水)26日(金) オープンチャーチです。どなたでもご自由にお入りください。


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9月14日「今日の礼拝堂」

2014年09月14日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第14主日

「今週の祈り:すべてのものの造り主なる神さま。あなたは御手を差し伸べ、全世界の民を御国に招かれます。あなたが世界の隅々から、弟子たちを召し招かれるとき、「御子イエス・キリストは主」と、大胆に告白する者の群れに、わたしたちも加えてください。御子、主イエス・キリストによって祈ります。」

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〇表情のまったく違うお花ですが、どちらも使われているお花が最大限に生かされていて、それぞれに美しいなぁと見入ってしまいます。
気がつけば、垣根に使われている木の葉先が赤っぽくなってきました。昨日は道路に落ちているオレンジ色のナナカマドの実を見つけて、思わず木の上を見上げました。急速に自然の世界は秋色になっています。

〇昨日は恵み野教会のバザーを訪問してきました。恵み野といえばコスモス街道が私の一番の心象です。期待したほどにはコスモスの勢いがなくて、もう遅かったのかと残念でしたが、その勢いは教会のバザーにありました。
なぜかとても懐かしさを感じるバザーの賑わいでした。恵み野教会が前を向いて手を取り合って進んでいるのを肌で感じて、恵み野教会をすっぽりと神さまが抱きかかえてくださっていることに思わず涙ぐみたくなったほどです。

             Shimawari039

聖霊降臨後第14主日説教               日笠山吉之牧師

「生ける神の子」 マタイによる福音書16:13-20  (週報掲載説教要旨)

有名なペトロの信仰告白です。イエスさまの宣教活動が広く知れ渡るにしたがって、イエスさまとは一体何者なのだろう?という疑問が人々の間にも沸き起こりました。身近にいた律法学者やファリサイ派とは違って、「権威ある者」として御言葉を説き明かされたイエスさま。今まで見たこともないような奇跡や癒しの御業を示されたイエスさま。イエスさまの評判は、日に日に高まる一方でした。そんな中、人々はイエスさまのことを洗礼者ヨハネの生まれ変わりだ、エリヤの再来だ、預言者エレミヤだ…等々いろいろ噂していたようです。そこで、イエスさまは弟子たちに尋ねられました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」他人がどう言っているかではなく、あなたはわたしを何者だと言うのか?そうイエスさまは弟子たちに面と向かって問われたのです。その問いに、真っ先に答えたのがペトロでした。「あなたはメシア、生ける神の子です」。ちなみに「メシア」とは、「救い主(キリスト)」の意味です。つまりペトロは、イエスさまをキリストだと告白したのです。

この信仰告白を聞いたイエスさまは、ペトロをまっすぐに見つめて言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ…あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と。「岩」という言葉は、ギリシャ語でペトラ。ペトロの名前と語呂合わせになっています。すなわち、イエスさまはペトロの上にご自分の教会を建てると言われたのです。しかもそればかりでなく、天の国の鍵までもペトロに授けるとも…。ペトロにとっては、身にあまる幸せ、大変光栄なことです。しかし、ペトロにこのような信仰を与えられたのは、彼自身の信心や人格や努力によるのではありません。ですから、イエスさまはペトロに「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」とも言われました。私たちに信仰が与えられたとしたら、それはただ神の憐れみによるのです。

その神の憐れみを忘れ、与えられた信仰をまるで自分で獲得したかのように錯覚する時、人は傲慢になります。ペトロも然り。続けてイエスさまが語られた受難予告の御言葉に耳を傾けず、イエスさまをいさめ始めた時、一喝されました。23節:「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者(岩波訳:おまえはわたしの躓きだ)。神のことを思わず、人のことを思っている。」と。キリストの教会を建てる岩とされたペトロが、キリストの福音を邪魔するつまずきの石にもなってしまう…それでも、主はペトロを最後まで愛され、一番弟子として可愛がられました。私たちもペトロのように福音の宣教どころか、かえって躓きの石となってしまうことがあるかもしれません。それでも、主は私たちを教会を支える大切な石の一つとして用いてくださる!嬉しいことではありませんか。

〇牧師は「これを忘れないでほしい!」と結ばれました。それはわたしたちの全ては「神さまの憐れみ」なのだということだと。この神の憐れみを強く心にもって、主を告白し続けて生きていきましょうと。心にずしんと大きな力が与えられた思いでした。

日笠山吉之牧師説教集・・・日笠山吉之牧師随筆集・・聖書日課メッセージ

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〇今月は第一週目の行事と第二週目の行事が入れ替わり、今日は礼拝後コーヒーとお菓子で心置きなく雑談を楽しみました。一番盛り上がったのは、札幌ドームのファイターズのことでした。みんなが眼を輝かせてファイターズへの愛を語り合うのは感動的でした。ファイターズが札幌を本拠地にするまでは、東京以北の北海道はセ・リーグの色分けの中にあったはず。いつの間にか私たちはパ・リーグを応援しているわけで、人間の心理というのは面白いなと感じます。いづれにしても、こんなに心が一つになって熱く「おおたにくん」を応援する場を見ることができて、とても嬉しかったです。

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〇この「全員でお掃除」も、第一週目の行事なのですが、みんなで会堂のお掃除をしました。掃除機とモップと、コロコロで眼につく範囲ですがきれいにお掃除をしました。

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9月21日(日) 聖霊降臨後第15主日

〇司式:岡田薫牧師

〇説教:岡田薫牧師

〇奏楽:滝田裕美姉

〇聖書朗読:秋田直枝姉

〇礼拝当番:出口輝子姉
      小川照美兄

〇聖書:エレミヤ書15:15-21・ローマの信徒への手紙12:9-18・マタイによる福音書18:1-14

〇讃美歌:212(1,2)・293・460・212(3-5)・聖餐讃美歌261(1-3)

〇14:30より、平岸霊園で「墓前礼拝」が行なわれます。

〇17日(水)・19日(金)オープンチャーチです。どなたでもご自由にご参加ください。 


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9月7日「今日の礼拝堂」

2014年09月07日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第13主日

「今週の祈り:永遠・全能の神さま。あなたは、信じる者に、まことに貴い約束を与えられました。あなたの約束を信じて、あらゆる疑いに打ち克つ強い信仰を与えてください。御子、主イエス・キリストによって祈ります。」

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〇今月の召天者と共に礼拝を守ります。今日は月に一度の信徒による礼拝です。信徒だけで礼拝を守ることを信徒礼拝と名づけていますが、そこに御ことばが語られる以上、主の礼拝日であることに何の変わりもありません。

〇代議員が代読した、岡田薫牧師の説教全文を掲載します。

聖霊降臨後第13主日 (イザヤ56:1-8 ローマ11:25-36 マタイ15:21-28)

「どんなに小さなものでも」

今日の福音の物語は、一人の母親が主イエスのもとに進み出てきたところからはじまります。娘が悪霊に悩まされているこの母親は、一縷の望みをかけて主もとに勇気を振り絞って出てきたのです。しかし、主は彼女が必死に訴えているにもかかわらず、何もお答えになりません。まるで無視しているかのように見えます。とうとう弟子たちの方がたまりかねて《この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので》言い出すまでになりました。

弟子たちの求めに応じて、主はようやくこの女性と向かい合われるのですが、その第一声は《わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない》という驚くべきものでした。

もし、私が彼女の立場にあり、主からこのように言われたならば、心が折れてしまうのではないかと思います。“この人であれば何とかしてくれるのではないか”という期待と望みをかけて進み出てきたのに、にべもなく扱われればたいていの人は、腹を立てるか絶望するかしかない、そんな状況だからです。けれどもこの母親はひるむことなく、主イエスの前にひれ伏して《主よ、どうかお助けください》と言って食い下がります。

ところが、主は《子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない》と、さらに彼女を突き放すような言葉を発せられました。もう、取りつく島もない状況です。しかし、昔から“母は強し”と言われている通り、このカナン人の母親はどんなに冷たくされようとも引き下がりません。決して諦めずに言葉を続けるのでした。悪霊に悩まされている娘を何とか助けたいという強い思いを持ちながら、彼女は自らが“異邦人である”という抗いがたい事実を直視します。そして、なおも言葉を続け《主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです》と訴えました。これは、あなた以外にはもう私には頼るものはない。あなたには不可能なことはない、という信仰告白として主に受け止められました。主が《婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように》と言われると彼女の娘は癒され、願いはかねられました。

ここまで読み進めることによって、私たちはようやくホッとすることができるのではないでしょうか。いろいろな試練が彼女には与えられたけれども、やっぱり一生懸命願えば、主は願いを必ず聞き入れてくださる、と感じることができるからです。けれども私たちは、単にこの物語を“めでたし、めでたし”の物語として読み飛ばしてはいけないと思います。なぜなら主イエスの長く続いた沈黙の意味、また、主がカナンの女性のどこをご覧になって《あなたの信仰は立派だ》と言われたのか、ということをよく考える必要があると思うからです。

なぜ主イエスは、カナンの女性が最初に訴えてきた時、その叫びを無視されたのでしょう。弟子たちが彼女に何とか応えて、早く追い払ってほしいと願っても、冷たい言葉でつき返された理由は?これを読み解く鍵は、日課の最初の言葉にあると思います。

《イエスはそこをたち、ティルスとシドン地方に行かれた》これは、主がガリラヤを離れて異邦人世界へと入られたということを意味しています。なぜ、異邦人の土地に入られたかというと、直前にエルサレムからわざわざファリサイ派の人々と律法学者たちが主イエスの下に来て、自らの不信仰をあらわにしたという出来事によります。かたくなな民は、神の国の福音を聞いても悔い改めることを拒んだのです。そこで主は、いったんガリラヤから身を引かれるのですが、その心には《わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない》という発言にも明らかなように、同胞たちに対する深い憐れみと愛情がありました。

福音伝道のために12人の弟子を派遣された時も、主はまず《イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい》(10:6)と命じておられます。しかしこれは、異邦人を排他的に処遇するのではなく、イザヤの預言にあるように、終わりの日には選ばれた民のみならず、異邦人たちが神を礼拝するためにシオンの山へと押し寄せてくる(イザヤ60章)、ということを信じておられたからこその命令です。なぜなら、異邦人の回心は神の奇跡によって成し遂げられる、しかし、その時に先立って、イスラエルには悔い改めの機会が与えられ、神はご自分の民が悔い改めることを切に望まれているからです。主は時が迫りつつあることをご存知であったからこそ、まず、神の民の悔い改めに全力を尽くされていたのです。

神の民の救いのために心身をすり減らしておられるところに、異邦人の入り込む隙間は無いように見えます。けれどもそこに《主よ、ダヒデの子よ、わたしを憐れんでください》という叫びがもたらされました。そして、まさに預言にあるとおり、異邦人の口を通して信仰が告白されたのです。

主が何度も彼女の信仰を試された理由の一つは、信仰の一番基本となるところを際立たせるためであったように思います。それは私たちが「神を神とし、人を人とする」といことです。

私たちは常々自分の考えや思いのままに神さまを勝手に思い描き、祈ればすぐに答えが欲しいと求め、助けを求めれば願いをかなえてくださる、と考えてしまいます。ですから、願いがかなわなかったり思うままにならないときには、いらだちを覚えたり、嘆いたり、落胆したり不信仰になったりと身勝手にふるまいます。

今日の物語に登場する一人の母親はカナンの女でした。彼女の娘は悪霊に悩まされており、何とか助けてほしいという一心で主のもとにやってきたのです。しかし、勇気を振り絞って主イエスのもとに進み出て来たものの、最初は主から無視され、拒絶され、彼女は厳しい言葉を投げかけられてしまいます。

もしあなたがこの女性の立場にあったならば、どのような対応をするでしょうか。憤慨する?悪態をつく?諦める?・・・。様々なことが考えられますが、この母親はどんなに厳しい事を言われても《ごもっともです》と主の言葉を受け入れました。またそれだけでなく、自分の願いを最後までしっかりと自分の言葉で伝えるのです。

ここに見ることができるのは、単に相手の言葉にこびへつらうのではなく、事実は事実としてしっかりと受け止め、それを承知の上で対話を続けたいと願う真摯な人の姿です。彼女は“異邦人である自分は、イスラエルの神の救いに与る権利を有していない者である”という事実を踏まえたうえで、神が神であるならば、その憐れみがどんなに小さなものであったとしても奇跡を起こしてくださるはずだ、という思いに溢れています。《食卓からこぼれ落ちるパンくず》という表現は、神には決して不可能なことはない、という信仰告白とも取れます。主はここに彼女の信仰を見て《婦人よ、あなたの信仰は立派だ》とお褒めになりました。

この物語が私たちに語り掛けるのは、信仰とは神の恵みを信頼し、いかなる拒絶や揺らぎや不信にさらされても、粘り強く神を信じきること。そして、私たちが神の救済の中で、神の民という身分を受けることが許されるのは、まさに恵みにおいてほかならない、そして、私たちには“その恵みに大胆にすがることが許されている”ということだと思います。憐れみ深い神は、ご自分に向かって救いを求める者に対して必ず応えてくださるお方です。ですから、諦めることなく、大胆に《わたしを憐れんでください》と祈り続ける者でありましょう。

岡田薫牧師説教集・・・・岡田薫牧師随筆集・・・聖書日課メッセージ

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〇「ときしらず」という名前の雑草です。時かまわず、一年中咲くからでしょう。昔は原っぱや道端にいっぱい咲いていましたが、最近あまり見かけなくなりました。「ときしらず」というと、鮭を思いますが、この花も間違いなく「ときしらず」です。決められた時に咲くことも大事だけど、こうして一年中ありったけの力で咲く小さな花はいじらしく感じます。

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〇今日の礼拝奉仕者です。いつもは写真を撮るときは、笑顔でピース!をする仲間ですが、礼拝に奉仕をする心構えが全員に行き届いていて、みんな姿勢を正し真面目に並んでくれました。

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〇いつもは第二日曜日に開く「世話人会」が、今日は第一日曜日に開かれました。先日の札幌教会信徒会の報告から始まって、間もなく具体的になる恵み野教会との礼拝の時間調整について、今日もまた話しあわれました。たった10人でも10人10色、それぞれにもっている思いをすり合わせて、少しでも隣人と歩調を合わせて信仰生活を歩もうとしています。

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〇9月14日(日曜日) 聖霊降臨後第14主日

〇司式:日笠山吉之牧師

〇説教:日笠山吉之牧師

〇奏楽:渡辺真知子姉

〇聖書朗読:小川敦子姉

〇礼拝当番:大輪まり姉
         小川照美兄

〇聖書:出エジプト記6:2-8・ローマの信徒への手紙12:1-8・マタイによる福音書16:13-20

〇讃美歌:160・317(1,2)・317(3,4)・348・聖餐讃美歌260

〇9月21日(日)14:30より、平岸霊園にて「墓前礼拝」があります。

〇10日(水)12日(金) オープンチャーチです。どなたでもご自由にご参加ください。


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