新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

10月22日「今日の礼拝堂」

2023年10月27日 | 今日の礼拝堂

    聖霊降臨後第21主日    

今週の祈り:王である神様。私たちの心の内に聖座を据えてください。あなたにかたどられた者として生き、あなたの栄光のために行動し、贖われた者として、あなたのものをあなたにお返しすることができますように。 救い主、主イエス・キリストによって祈ります。   アーメン

  

〇 聖霊降臨後第21主日  説教 (週報掲載説教要旨)

                                    先週の福音から 

            聖霊降臨後第20主日「 わ け た く な い 」小泉基牧師  イザヤ 25: 1~ 9 ,フィリピ 4:1~9,マタイ 22: 1~14

イエスさまは、譬えを用いてユダヤ教の宗教エリートたちを厳しく批判されました。彼らが都合のよい律法の解釈を通して、人々の信仰心を利用し、取り込んだり排除したり、神の代理人であるかのように振る舞っていたからです。

しかし、この譬え話はわたしたちに理解しやすいとはいえません。短い紙幅で細かい説明は出来ませんが、婚宴の招待を受けていたのに、畑仕事や商売など、自分の都合を優先して神の国を遠ざけた宗教者エリートたちの振る舞いは、神さまに受け入れられない。むしろ、彼らが排除していた異邦人や、律法を守り得ない貧しいユダヤ人たちも、こぞって天の国に招かれることになる、というのです。

宴席に招き入れられた人が礼服を着ていなかったことから、王さまによって外に放り出されています。譬え話の意図を汲むならば、この礼服は、この婚姻を喜び祝う気持ちをもっているかどうかが問題とされていると読むべきでしょう。招き入れられたことに喜び感謝するのではなく、「タダ飯が食える」、とばかり自分の欲求を満たすことしか考えないような人は、神の国の宴席にふさわしくはないのです。招待券をもっていても自分の都合ばかりを優先してはならないし、招かれる資格がないままに招き入れられたとしても、そこで自分のことしか考えないのでは、やはり神の国ふさわしくはない。

わたしたちは、神さまから与えられたプレゼントを、自己満足のために用いるのではなく、キリストの十字架に感謝し、愛をもって人びととわかちあっていくことが求められているのです。(小泉)

            

《来週の礼拝》                               

#10月29 午前10時30分 宗教改革主日 礼拝 (配信礼拝で行われます) 

司  式:小泉 基牧師

説  教:小泉 基牧師「天の国に行くために

礼拝当番:小笠原里子さん

聖  書:エレミヤ 31:31-34、ロ-マ 3:19-28、ヨハネ 8:31-36

讃  美 歌:141、364(1,2,5)増補38

 


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10月15日「今日の礼拝堂」

2023年10月16日 | 今日の礼拝堂

    聖霊降臨後第20主日    

今週の祈り: 喜びの宴を司る主。あなたは全ての民を祝いの食卓に招き、あなたの命を惜しみなく注いでくださいました。今一度私たちを招き、名誉なこと・正しいこと・清いことによって、私たちを強め、義と平和の一つの民へと造り変えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。   アーメン

  

〇 聖霊降臨後第20主日  説教 岡田 薫牧師(週報掲載説教要旨)

                  「 祝 宴 へ の 招 き イザヤ 25: 1-9  フィリピ 4:1-9  マタイ 22:1-14

 

 王は《友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか》(22:11)と問いかけます。その人がこれに答えず黙っていると、王は側近の者たちに命じてその男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ》(22:13)という情け容赦ない対応を命じられました。なぜ、王はここまで信じがたいほどに厳格なのでしょう?なぜ、「礼服を着ないでここに入ってきたのか」などと尋ねるのでしょう?そもそも、家来たちに命じて通りに出て彼らが目にした人は誰でも婚宴に招待しなさいと命じたのは王であるはずなのに…。

 これらの疑問を考える時、私たちはこれが現実社会の話ではなく「天の国のたとえ」であることを忘れてはいけません。手当たり次第に婚宴に招待された人たちの中には、この人のように礼服の用意ができない人ももちろんいたでしょう。婚宴に招かれるということは、「天の国」を知る、つまり神の御心を知ること、と考えることができます。神を知り、神に知られているということを知るということはすなわち、福音を知る者とされる=信仰を与えられるということです。ルターはここで問われている礼服について「キリストの義によってわれわれのよそおいとされる信仰」と言います。つまり、キリスト・イエスによって私は義とされている、という真実。無条件の喜びの中へと招いてくださっている神の招きを受け入れることです。端的に言うと私はこれを、神の招きに応じその恵みに生きる者は、キリストによって良き業へと押し出されていくことではないかと思います。婚宴に象徴されるように、本来、神と人間の関係は祝福と喜びに満ちたものです。しかし、その喜ばしい関係へと招かれている私たちが、自分たちの生活や都合を優先して、それを蔑ろにしていると主イエスはこの物語で指摘されているのではないでしょうか。つまり、恵み深く慈しみに溢れた神の招きそのものを無視している、それが罪なのだと教えてくださっているのです。そして、ひとたび罪を犯したらそれでもう終わりではなく、罪に気づいたならば悔い改めてたちかえることができるとも教えてくださっています。

 今私たちがこうして集い、主に連なる者とされ、福音を聞くことができているのも、主イエス・キリストを通して招かれ、すべての人に開かれた福音に触れているから。そして今日のたとえ話の王が婚宴を諦めていないように、神が私たち人間を滅びに渡すのではなく、罪から救うことを諦めてはおられないからにほかなりません。《友よ》と呼びかけてくださるお方は常に共にある事、喜び祝う者として生きていくことを私たちに望まれているのです。(岡田)

 

《来週の礼拝》                               

#10月22 午前10時30分 聖霊降臨後第21主日 礼拝  

司  式:岡田 薫牧師

説  教:岡田 薫牧師「おさめるもの

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:小笠原里子さん

礼拝当番:楢戸恵子さん、小笠原里子さん

聖  書:イザヤ 45:1-7、テサロニケ 1:1-10、マタイ 22:15-22

讃  美 歌:158、240増補38

 


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10月8日「今日の礼拝堂」

2023年10月11日 | 今日の礼拝堂

    聖霊降臨後第19主日    

今週の祈り: 愛する神様。善いものはみな、あなたから出ます。私たちが正しいことを知り実行できるように、あなたの息を吹き込み、慈しみ深く導いててください。    救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

 

〇 聖霊降臨後第15主日  説教 小泉 基牧師(週報掲載説教要旨)

                   先週の福音から

         聖霊降臨後第18主日悔い改めているのなら」小泉基牧師

           エゼキエル18:1-4,25-32  フィリピ 2:1-13  マタイ21:23-32

ルターは、司祭になってはじめて執り行う聖餐式のときに、神さまの前に直接立っているという恐れの中で、「自分は死にそうになった」と書き残している。それは、本来わたしたちの誰もが持つべき恐れである。それなのに、わたしたちは、トキに思いが至ることがあったとしても、日々流されながら生きてしまっている。

イエスさまは、権威をめぐる問答の中で、形式主義に陥るユダヤ民族主義者達を厳しく批判された。語られたたとえ話の中で、従順に答えた弟は父にそむき、嫌ですと答えた兄は父に従う。先生者ョハネの悔い改めの呼びかけに応じようとしなかった祭司たちに向けて語られている。兄は「考え直した」のだったが、わたしたちも考え直すのかどうかが問われていると示されている。

ルターは、95ヶ条の提題の第1条を、キリストは、「信じる者の全生涯が悔い改めであることを欲し給うたのである」と書き始めた。それは、わたしたちの全生涯が悔い改めであることを求めているのであるから、わたしたちは神さまの前に恐れを持ってたたなければならない。しかし、ルターが、「信じる者の全生涯が悔い改めであることを欲し給うた」、と書き始めたのは、そのことによって、わたしたちの全生涯が、神さまの深い愛の確認の時であることを伝えたかったからに他ならない。

わたしたちは、神さまへの恐れと、自らの罪への気づきによって、初ミサ時のルターのように「死にそうになる」のではなくて、神さまへの深い愛に気づき、その愛への感謝と、その感謝に基づく、新しい生き方へと、くり返し、全生涯を通して、導かれていきたい。(小泉)

 

《来週の礼拝》                               

#10月15 午前10時30分 聖霊降臨後第20主日 礼拝  

司  式:小泉 基牧師

説  教:小泉 基牧師「わけたくない

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:小川敦子さん

礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん

聖  書:イザヤ 25:1-9、フィリピ 4:1-9、マタイ 22:1-14

讃  美 歌:152、351増補38


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10月1日「今日の礼拝堂」

2023年10月03日 | 今日の礼拝堂

    聖霊降臨後第18主日    

今週の祈り: 命の与え主・愛の神様。あなたは私たちがいつも過ちを犯す者であることをご存じです。恵みによって私たちを過ちから守り、それを乗り越え、救いの道へと導いてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。   アーメン

 

〇 聖霊降臨後第18主日  説教 岡田 薫牧師(週報掲載説教要旨)

              「  立  ち  帰  れ  」   エゼキエル18:1-4&25-32 フィリピ2:1-13 マタイ21::23-32

  今日の物語は、私たちに信仰の歩みについて考えるように促しています。端的に言って、信仰は信仰を起こしたもうお方(神)の力を信じるところからはじまります。また、それ故に人間のあらゆる不信にもかかわらず、信仰の歩みは現実のただ中に展開されます。そして、信仰の道のりを進むうえで、私たちはたとえ話の弟息子のように口では「はい」と言いつつも御心に従わない/従えない場合もありますし、兄息子のように反抗しつつも心を変えることもあるでしょう。二人の息子に現れる姿は、私たちがそれぞれの人生の歩みの中で時に誘惑や試練や戸惑いの中で揺れ動く姿に似ているのではないでしょうか。

 宗教指導者たちは神殿に押しかけ《何の権威でこのようなことをしているのか。誰がその権威を与えたのか》(21:23)と主イエスに詰め寄ってきました。主は彼らを突き放すことなく問答をもって応じ、宗教指導者たちは洗礼者ヨハネの権威についての問答ではお茶を濁したような返答しかできませんでした。そこで主は、二人の息子のたとえを語られます。これは弟息子が「承知しました」と口では言っても父の御心に従っていないように、彼らが知識や経験や伝統を重んじていても神の御心に聞き従えていないことを指摘するものでした。つまり彼らは自分たちが受け継ぎ知っている事柄には忠実である一方で、自分たちの思いを超えたところから差し込む神の権威については知ろうともせず、理解しようともしていない。むしろそれを否定することに躍起になっていると指摘されているのです。そのような彼らに主は、あなたがたもいつでも気づいたときに方向転換できるのだよ、ということを教えられるのです。

 主イエスの権威がとこから来るのか?その答えを私たちは知っています。それは、誰もが憧れるようなキラキラした美しいものではなく、今まさに主が向かわれている十字架によって明らかにされるということを。十字架の上で主は《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》(27:46)と叫ばれました。見捨てられた者、つまり最も祝福から遠いところに降り、呪いのように感じられる死の先に、栄光の復活があることを信じて、すべてを父なる神に委ねる姿を示されたのです。この主の死によって、信仰を与えられた者たちは呪いではなく祝福、絶望ではなく希望へと目を向けさせられます。

 権威についての問答から始まった今日の物語。蓄えた経験や知識がおごり高ぶりになってしまうと見るべきもの、聞くべきものから遠くなってしまいます。主イエスはご自身がへりくだり、仕える者となられる姿を通して、誰もが神のみ前に立ち帰る道がある事を私たちに示されているのです。(岡田)

                 

《来週の礼拝》                               

#10月8 午前10時30分 聖霊降臨後第19主日 礼拝  

司  式:岡田 薫牧師

説  教:岡田 薫牧師「なぜ、そうなるのか

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:小笠原里子さん

礼拝当番:小川敦子さん、小笠原里子さん

聖  書:イザヤ 5:1-7、フィリピ 3:4b-14、マタイ 21:33-46

讃  美 歌:191、393増補38

 


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