新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

1月27日「今日の礼拝堂」

2013年01月27日 | 今日の礼拝堂

顕現節第4主日 

「今週の祈り:すべてのものの造り主なる神さま。あなたはみ手を差し伸べ、全世界の民をみ国に招かれます。あなたが世界の隅々から弟子たちを召し招かれるとき、「き子イエス・キリストは主」と、大胆に克服する者の群れに、私たちも加えてください。、み子、主イエス・キリストによって祈ります。」

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〇先週から教会のクロスは希望と成長を表す「みどり」になりました。今年は寒さと雪に覆われて、まだまだ春遠からじですが、このみどりは丁度若葉の芽吹きと共に、信仰の成長を現しているといわれます。 新札幌礼拝堂のクロスは美しい手刺繍でつくられています。
お花のバランスも絶妙です。花の乏しい時期にも関らず、NAさんは毎週心を砕いて礼拝の献花のご奉仕を続けてくれています。

〇今日は週報に掲載される説教と、礼拝堂での説教が同じ牧師によって語られました。語られる説教と、書かれた説教には微妙な違いが感じられます。聞く説教は、語る牧師も聞く会衆も、相互の呼吸が一つとなって説教にいのちが吹き込まれるように感じます。
圧倒的な神さまの恵みと、一方的なイエスさまの招き。そこに素直に耳が開かれ、心が開かれるか・・・。そこが主の真の弟子とされていくかどうかの分岐点だと牧師は語りました。柔らかで穏やかな声の響きなので、すぅーっと耳を素通りしていきそうな感じですが、語られていることは厳しい激しい神さまの招きのメッセージです。何度も何度も神さまにそむきながらも、何度も何度も「しかし おことばですから・・・」と神さまの召命に従って生きていきたい。真の弟子とされるように生きたいと・・・心から思います。

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〇第4週目は「聖書からみことばを聞く会」です。私たちは今「コヘレトの言葉」を読んでいます。「無・無・無・・・・」という救いのない嘆きから始まったこのコヘレトの言葉は知恵文学と分類されています。教会生活の長い人は「伝道の書」として記憶しているものです。コヘレトという言葉は伝道者を意味するので、伝道の書と呼ばれたのでしょう。
全体に厭世主義的な言葉が羅列されていますが、この書の結論は「神を畏れ、神を敬え」ということだと、まだ始まったばかりなのに牧師は結論を話してくれました。表面的な言葉にとらわれると、救いをどこにも見い出せないような絶望を感じるし、私たちの日常の閉塞感と相俟って暗い気持ちになるところですが、牧師が最初にこの結論を教えてくれたことによって、とても積極的に取り組んでいけそうに感じます。礼拝に通う心構え。そこで語られる神さまの言葉に、応答として聞き従うことが、今日の箇所からのメッセージとして教えられました。

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顕現節第4主日説教              日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書5:1-11

「お言葉ですから」

シモン・ペトロとその仲間たち、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの召命物語です。名前は出て来ませんが、おそらくペトロの兄弟アンデレも一緒だったのでしょう。並行記事の『マタイ福音書』4章18節以下と『マルコ福音書』1章16節以下には、アンデレの名前も記されています。彼ら二組の兄弟は、ともにみなガリラヤ湖で漁を営んでいた漁師たちでした。お互いに力を合わせて漁に励み、気心も知れた間柄だったのでしょう。そんな彼らがイエスさまと出会い、イエスさまから人間をとる漁師になるよう声を掛けられ、イエスさまに従っていくのです。イエスさまは全部で12人の弟子を選ばれましたが、彼らはその最初の弟子たちでした。

この物語は上述したように3つの共観福音書が共に伝えていますが、それらの内容はずいぶん違います。総じて『マタイ福音書』と『マルコ福音書』は短く簡潔にこの物語を記しているのに対して、本日の日課である『ルカ福音書』の方は詳しく書かれています。というのも『ルカ』の方には、イエスさまから4人の漁師たちへの呼びかけの前に、彼らが夜通し漁をしても何もとれなかった…という出来事が付随しているからです。ルカによると、イエスさまが4人の漁師たちと出会って開口一番に言われた言葉は、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」でした。4人を代表して、まずシモンが答えます。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。シモンは、事実をありのままにイエスさまに伝えたわけです。漁に関しては、シモンとその仲間たちはプロです。見ず知らずの大工のせがれに、あれこれ言われる筋合いはありません。しかし、シモンはさらに続けて、イエスさまにこう言いました。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と。そうして、口先だけでなく、本当にもう一度、網を降ろしてみたのです。すると、昨夜の不漁が嘘のように網が破れんばかりに魚がかかった!…その後に続く物語は、『マタイ』や『マルコ』と同じです。イエスさまが、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と彼らに声をかけられ、彼らはイエスさまの最初の弟子とされました。

私がここを読むたびに思わされることは、シモンの実直なまでの素直さです。プロとしてのプライドも捨てて、「しかし、お言葉ですから」とイエスさまの御言葉に耳を傾けたシモン。それは、神の御子を宿すことを天使から告げられたマリアが「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えた姿を彷彿とさせます。主の御言葉は、時として私たちの常識や価値感、感覚、信仰とさえ相容れないことがあります。その時、私たちは自らの耳を閉ざしてしまうのか。それとも、御言葉に対して耳が開かれ、心の目が開かれますように、と主に祈り求めるのか。私たちが主の真の弟子とされていくかどうかの分岐点が、そこにあるような気がします。

日笠山吉之牧師説教集

日笠山吉之牧師随筆集

 


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1月20日「今日の礼拝堂」

2013年01月20日 | 今日の礼拝堂

顕現節第3主日

「今週の祈り:全能の神さま。あなたは権威をもって、み国の到来を告げ、教えるために、み子を遣わされました。悩む人によい知らせを、悲しむ人に慰めを、囚われている人には自由を伝えるために、み霊の力を注いでください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。」

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〇今日から聖壇クロスはみどりに変わります。これからしばらく長いみどりの時を過ごします。成長の時です。

〇今日は一年で一番寒い日といわれる「大寒」です。本当に寒い日が続いています。大寒の礼拝堂で、真紅のバラが華やかに活けられました。真紅のバラを引き立てているのがオンシジュームです。蘭とひとくくりにしてしまっては、その可憐さがいじらしく思えるほどに、ささやかな世界を身体いっぱいで表現してくれています。 自分の置かれた場所、自分にしか生きられない生き方を、こういう可憐な花が全身で教えてくれるのを感じ取るとき、私たちは自分をそっと振り返ります。自分に与えられていること以上のことを、私たちは求めてはいないだろうか・・・?。自分に与えられていることを、精一杯生きているだろうか・・・?。

〇今日の礼拝堂説教は岡田薫牧師でした。「苦しみを担う方」と題してメッセージを伝えてくださいました。
イエスさまが洗礼を受け聖霊を受けられて、具体的に宣教活動を始められたときのことを、牧師は私たち自身の生き方の問題として提示してくださいました。
世の中からはみ出したような人々、その時代の常識からかけ離れたような生き方をしている人々、いや、そう生きざるを得ない人々に、イエスさまは近づき寄り添い共に生きてくださいました。つまり、私たちと共に生きてくださっているということです。「ここから始まった」このイエスさまの一歩、それは私たちのために切り拓かれた試練の道です。そのイエスさまの道を私たちも歩んでいきましょう。私の前を、私の横を、私の後ろを、イエスさまが歩いていてくださる。ともすれば、私たちは神さまにとってかわる立場に自分を置いて、はみ出した人たちを裁く目でみてしまいます。はみ出しているのは、この私なのに。そのことを、つい忘れて混乱し、憎しみ、敵意をもって他者との間に深い闇をつくっています。
今日活けられたお花のように、自分の守備範囲をしっかりと守って精一杯美しい花を咲かせましょう。小さくても、目立たなくても、自分の存在価値を認めてくださったイエスさまに信頼して、精一杯花を咲かせましょう。お花を活けたくれた方はNAさんです。

岡田薫牧師説教集

岡田薫牧師随筆集

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〇今日は札幌教会で役員会のある日なので、コーヒーとお菓子でほんのひととき、おしゃべりの時間をもちます。この一杯のコーヒーが、礼拝に集う者たちの心を結んでくれるのを感じます。

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〇今冬は初雪が根雪になりました。観測史上初めてのことだそうです。積雪はもっと多いのですが、私たちが礼拝に来る日にはこんなふうに歩きやすく除雪がされています。陰で礼拝を支えてくださっている方がどれほどいることか。一人一人が、それぞれに出来ることを積み重ねて初めて礼拝が成立していることを、もっともっと心に刻みたいものです。
今日は大寒。それでもあと二週間で節分。そして立春です。もう少しです。春の来ない冬はなく、朝のこない夜はありません。私たちはそのことを固く信じています。でも、それよりももっと確かなことは、イエスさまの救いの約束です。こんな寒い冬の日には、特にその約束が心を強く暖めてくれます。信じましょう。待ちましょう。

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顕現節第3主日説教              日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書4:16-32

「ヨセフの子」

ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたイエスさまは、ガリラヤ地方で本格的な伝道活動に入られました。ガリラヤは、昔から「ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ」と言われていた地域。神殿のあるエルサレムからも遠く離れ、ユダヤ教の指導者たちからも蔑まれていました。しかし、イエスさまにとってガリラヤは特別なところ。なぜなら、イエスさまはそこで育ち、伝道者としての活動を始められたからです。

イエスさまが過ごされた町は、ナザレ。ガリラヤ湖から西へ数10キロ、海抜400メートルの所にある丘の中腹にある美しい町です。ナザレの町で、イエスさまは母マリアに愛され、父ヨセフの大工の仕事を手伝いながら成長していったのでしょう。町の人々からも可愛がられ、やがて一目置かれるような存在となりました。というのも、イエスさまの伝道者としての評判が、ガリラヤ地方一体に広まっていたからです。(4:14-15)ナザレの人たちにとって、イエスさまはいわば郷土の期待の星だったのです。

 

今日の福音書の日課は、そんなイエスさまが故郷ナザレに帰ってきて、懐かしい人々を前に御言葉の奉仕に当たった場面を伝えています。朗読された御言葉は、『イザヤ書』の61章。貧しい人に福音を伝え、捕らわれた人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にする…そのような主の恵みを告げるために、神が遣わされる救い主の到来が記されています。イエスさまは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と、力強く語り始められました。すると人々は、イエスこそが神が遣わされたそのお方だ!と直感し、ほめたたえました。「この人はヨセフの子ではないか」と言いながら。そう、イエスは自分たちもよく知っているあのヨセフの子なのだから、きっと真っ先に何か自分たちの利益になることをやってくれるに違いない、と。しかし、そのような考え方は、イエスさまの伝える福音とは相容れないものでした。イザヤ書の御言葉にもあるように、福音とは誰よりも真っ先に、貧しい人、捕らわれている人、圧迫されている人に対してこそ語られ、働く御業に他ならないからです。福音は、私たちがいくら自分たちの内に閉じ込めようとしても、外へと向かい、広がってゆくもの。そのことが分からずに憤慨する故郷の人々の間をイエスさまは堂々と通り抜けて、その場を立ち去っていかれました。

キリストの福音を、教会の中だけに、あるいは私たち一人一人の信仰の中だけに閉じ込めようとしても、それはいつしか消えてどこかへ行ってしまうでしょう。福音は、外に向かって伝え、分かち合っていくものです。そのために、私たちもまたキリストと共に遣わされているのです。

日笠山吉之牧師説教集

日笠山吉之随筆集


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1月13日「今日の礼拝堂」

2013年01月13日 | 今日の礼拝堂

主の洗礼日

「今週の祈り:天の父なる神さま。あなたはヨルダン川でイエス・キリストに聖霊を注いで、「わたしの愛する子」と言われました。み名による洗礼によって、あなたの子どもとされた私たちがみ心に従って歩み、永遠の命を受ける者となるようにしてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。」

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〇イエスさまが洗礼を受けられた・・・この驚くべき出来事こそが私たちの救いの原点です。牧師の説教はいつものように包まれるように穏やかに静かに語られましたが、若い高校生たちが10人くらいいらした礼拝の中で、このイエスさまの洗礼が意味するところを、分かりやすく丹念に語ってくださいました。
なかなか理解し難い教会用語を、私たちは分かっていることを前提に使ってしまうところがあります。高校生に難しいだけでなく、洗礼を受ける勉強の中で熱い思いで学んだ私たちも、もう一度あの時の喜びと感動を思い起こすために、今日のイエスさまの洗礼日は大事な大事な礼拝だとかみ締めました。
洗礼は信仰の到着点ではなく、洗礼から全てが新しくなる信仰の歩みの始まりであることを改めて新鮮な思いで聞きました。

〇聖餐の日だったので、未だ洗礼の恵みに与っていない方たちで一つの輪をつくってもらい、牧師が一人一人の名前を聞いてその名前を呼びかけて祝福を与えてくれます。
私はこの祝福の輪が教会の行事の中で一番好きです。一番深い祈りをするときでもあります。たまたま今日、私たちの札幌教会で20年も前に洗礼を受けられ、その後さまざまな事情で礼拝出席が出来ないでいた方が、そのおかあさんの死をきっかけに、家族で礼拝に出席したというメールをご本人から頂きました。おかあさんが教会に連れ戻してくれたと書いてありましたが、その後ろにイエスさまの捕らえて離さないという愛の決意をまざまざと見る思いで感動をしました。洗礼のもつ約束の確かさ・・・。このイエスさまの洗礼日にふさわしい出来事だったので記録しました。

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〇ラオスの学びが新しく始まりました。増刊号「人生五合目からのあゆみ」です。高齢化の社会の中でご他聞にもれず、教会も高齢化です。65歳を高齢と言うのなら、教会の半分以上は高齢者です。この現実のなかで具体的にどういう配慮、どういう動きをしていくべきかを、こらから時間をかけて話し合っていく予定です。

〇その後、クリスマス行事の反省や教会備品のオーダーについての確認など、みんなで教会のことを考えていく会がもたれました。それぞれの思いや希望と、教会維持の現状とをどう動かしていくか。これからこそがみんなの知恵と協力と譲歩が求められるのでしょう。

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主の洗礼日説教               日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書3:15-22

「わたしの心に適う者」ルカ3:15-22

メシアを待ち望んでいた民衆の多は、洗礼者ヨハネこそが待望されたメシアではないかと考えました。しかし、洗礼者ヨハネ自身はそれを否定し、自らはそのお方を指し示すための道具にすぎないと・・・証します。そして、悔い改めの洗礼を受け、来るべきお方を待ち望み、そのお方が現れたならば従うようにと民衆に説くのです。やがて彼は自分の役目を果たすと、新しい時代の到来を感じながら歴史の表舞台から消えて行きます。務めを果たした者がその任から解き放たれるということは、神殿で幼子イエスを抱え《今こそ去ります》と主を賛美しながら言ったシメオンにも通じるところがあるようにも思います。

主イエスが、“罪を負う私たち人間とまったく同じように悔い改めの洗礼をお受けになった”という事実は、私たちを驚かせるものでもあります。しかし、真の神であるお方が真の人間として、悔い改めの洗礼をお受けになったからこそ、私たちの洗礼が《主に結ばれるもの》(ローマ6:3)であることを保障してくれているとも言えます。

ここで、主が聞かれた《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》という声の背景には、今日の第一の日課であるイザヤ書の言葉があります。《見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上に、わたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む》(イザヤ42:1~4)といわれているように、主は洗礼をもって神の子としてのご自分の職務を開始されたのです。

この様にして主イエスが洗礼をお受けになられたからこそ、私たちもまた洗礼を受けることによって主に連なる者となることができます。そして、単に連なるだけではなく主が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という宣言を耳にされたのと同じように、私たち自身も神さまの御心に適う者とされてゆく、ということを聞くことができるのです。

日笠山吉之牧師説教集

日笠山吉之牧師随筆集

 


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2013・1・6 「今日の礼拝堂」

2013年01月06日 | 今日の礼拝堂

顕 現 日

「今週の祈り:主なる神さま。あなたはこの日、星の導きにより、すべての民にみ子を示されました。今、信仰によって歩む私たちが、あなたの臨在を知り、終わりの日に、栄光の主を仰ぐことができるように導いてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。」

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〇明けましておめでとうございます。2013年最初の礼拝です。今年は元旦礼拝がなかったので少し寂しい気持ちでいましたが、それも神さまの道備えだったのでしょうか。昨年暮れの31日にお葬儀をしてお見送りした姉妹に続いて、元旦にまた一人の姉妹が天に召されました。元旦礼拝はなかったけれど、私たちは思わぬ出来事に深い祈りをもってその日を過ごしました。
クリスマスにお見送りをした方と大晦日にお見送りをした方。そして三ヶ日にと三人の大先輩を私たちは神さまのみ手に委ねる祈りをしました。お三人ともご高齢でした。親が子どもに先立たれるのは逆縁という癒しがたい哀しみを残しますが、そういう意味では、お三人とも子どもである私たちが親を見送るという順縁 でした。順縁・逆縁という仏教用語を使いましたが、なぜかしっくりとくる言葉なので使いました。
お三人とも教会という場所を終の棲家にして旅立たれました。私たちが、やがて、必ず行くところ。そこにたくさんの心強い信仰の先達が待っていてくれる。それを杖にしてこの世に命のある限り、主の命じる道を、主の導きを信じて力強く生きていきましょう。

〇お正月のお花が活けられました。松、金水引、菊、葉牡丹、千両。どれもみんな新しい年を心新たに迎える花です。
千両と万両の違いは、葉の上に実がつくか葉の下に実がつくかの違いだと聞いたことがあります。私たちは、ナナカマドにしてもオンコにしても、赤い実には目が吸い寄せられますが、その実が赤くなるには、まず花が咲き青い実になり、やがて赤く色づきます。なかなか青い実には目がいかないし、ましてや花など気がつかないうちに散ってしまいます。
けれど、赤い実だけが命ではない。美しい色だけがそのものの命ではない。まだ見えないような姿に気がつく人間になりたいと、私は毎年ナナカマドが赤くなったときに、そう思います。
・・・というわけで、今日の礼拝堂の花の命の繋がりをご披露して、私たちがこの一年、見えにくいものに目を注ぎ、聞きにくい声に耳を傾ける生き方の縁にいたしましょう。

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〇今日は近隣の高校生たち、帰省中の方たち、たくさんの方が新年の礼拝にみえました。礼拝の後、いろいろな方からの差し入れのお菓子をいただきながら、和やかなひと時を過ごしました。私たちの大事な「かよちゃん」が、腕と足の骨折で痛い思いをしていることがご主人から報告されました。あの屈託のない笑顔が一日も早く礼拝堂に戻ってくるように、どうぞお祈りしてください。クリスマスのページェントでマリアさまを演じたかよちゃんの写真です。かよ
ちゃんはお花が好きなのでお花と可愛がっているルークで囲んであげました。かよちゃん、頑張ってね。早くギブスが外れてリハビリもして帰ってきてね。
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顕現日説教                  日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)
マタイによる福音書2:1-12

「まことの光に導かれ」

新しい年、2013年が始まりました。今年の元旦から使おうと思って準備していた毎年カレンダー「大好き北海道」の最初の頁(1月1日)をめくると、地球岬の初日の出の写真が載っていました。太平洋の沖合から日が昇る様は、たとえ写真でも何かしら神々しさを感じます。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」。本日与えられた御言葉(イザヤ書60章1節)が、聞こえてくるかのようです。

札幌教会では、クリスマス以降この年末年始にかけて、教会員の召天が相次ぎました。わずか1週間のうちに、なんと3人もの姉妹が神のみもとに召されて行ったのです。まるで、一人きりでこの世に別れを告げるのが寂しかったかのように、みなさん連れ立って神のみもとへと旅立たれて行かれました。3人の姉妹たちのご遺族の方々は、口を揃えて言われました。「クリスマスに続いてお疲れのところをすみません…」「新年早々からすみません…」と。いえいえ、そんなことはありません。人の肉なる命が尽きるという出来事は、人がどうこうできることではなく、神の御業なのです。だから、謝る必要などないのです。神は、その人にとってもっともふさわしい時を選んで、みもとへと招かれたのですから。私たちはそのことを信じて、愛する者を送り出すだけです。この世で肉をまとっていた者たちが、神のみもとでは決して朽ちることのない栄光の姿へと変えられることを信じて。

しばしば私たちは愛する者を見送った後、その人が夜空の星となって見守ってくれる…という風な言い方をすることがあります。ロマンチックな表現でいいなあ…と私も思うのですが、もちろん聖書にはそのようなことは記されていません。福音書に記されている唯一の星は、私たちを救い主イエス・キリストのもとへと導く星。はるばる東の異国から3人の博士たちをイエスさまのもとへと導いたしるべの星です。同じように3人の姉妹たちも、きっとその星に導かれて、イエスさまのみもとへと行かれたに違いありません。もちろん手には、捧げものを携えて。姉妹たちが、信仰者としてこの世で歩んできたその証しを携えて。間違っても、手ぶらではないでしょう。というのも、信仰者は神のみもとに招き入れられる時、この世でどのような歩みをしてきたのか必ず申し開きをしなければならないのですから。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(第二コリント5章10節)

ひるがえって、私たちは今、ここで、主の御前に何を捧げましょう?主イエスによって赦され、救われ、永遠の命まで保証された私たちは、この世で生かされている間、何を捧げましょう?主から受けた恵みにふさわしく捧げる者でありたいと思います。

日笠山吉之牧師説教集

日笠山吉之牧師随筆集

今日の礼拝堂説教者
岡田薫牧師説教集

岡田薫牧師随筆集

 


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