顕現節第4主日
「今週の祈り:すべてのものの造り主なる神さま。あなたはみ手を差し伸べ、全世界の民をみ国に招かれます。あなたが世界の隅々から弟子たちを召し招かれるとき、「き子イエス・キリストは主」と、大胆に克服する者の群れに、私たちも加えてください。、み子、主イエス・キリストによって祈ります。」
〇先週から教会のクロスは希望と成長を表す「みどり」になりました。今年は寒さと雪に覆われて、まだまだ春遠からじですが、このみどりは丁度若葉の芽吹きと共に、信仰の成長を現しているといわれます。 新札幌礼拝堂のクロスは美しい手刺繍でつくられています。
お花のバランスも絶妙です。花の乏しい時期にも関らず、NAさんは毎週心を砕いて礼拝の献花のご奉仕を続けてくれています。
〇今日は週報に掲載される説教と、礼拝堂での説教が同じ牧師によって語られました。語られる説教と、書かれた説教には微妙な違いが感じられます。聞く説教は、語る牧師も聞く会衆も、相互の呼吸が一つとなって説教にいのちが吹き込まれるように感じます。
圧倒的な神さまの恵みと、一方的なイエスさまの招き。そこに素直に耳が開かれ、心が開かれるか・・・。そこが主の真の弟子とされていくかどうかの分岐点だと牧師は語りました。柔らかで穏やかな声の響きなので、すぅーっと耳を素通りしていきそうな感じですが、語られていることは厳しい激しい神さまの招きのメッセージです。何度も何度も神さまにそむきながらも、何度も何度も「しかし おことばですから・・・」と神さまの召命に従って生きていきたい。真の弟子とされるように生きたいと・・・心から思います。
〇第4週目は「聖書からみことばを聞く会」です。私たちは今「コヘレトの言葉」を読んでいます。「無・無・無・・・・」という救いのない嘆きから始まったこのコヘレトの言葉は知恵文学と分類されています。教会生活の長い人は「伝道の書」として記憶しているものです。コヘレトという言葉は伝道者を意味するので、伝道の書と呼ばれたのでしょう。
全体に厭世主義的な言葉が羅列されていますが、この書の結論は「神を畏れ、神を敬え」ということだと、まだ始まったばかりなのに牧師は結論を話してくれました。表面的な言葉にとらわれると、救いをどこにも見い出せないような絶望を感じるし、私たちの日常の閉塞感と相俟って暗い気持ちになるところですが、牧師が最初にこの結論を教えてくれたことによって、とても積極的に取り組んでいけそうに感じます。礼拝に通う心構え。そこで語られる神さまの言葉に、応答として聞き従うことが、今日の箇所からのメッセージとして教えられました。
顕現節第4主日説教 日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)
ルカによる福音書5:1-11
「お言葉ですから」
シモン・ペトロとその仲間たち、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの召命物語です。名前は出て来ませんが、おそらくペトロの兄弟アンデレも一緒だったのでしょう。並行記事の『マタイ福音書』4章18節以下と『マルコ福音書』1章16節以下には、アンデレの名前も記されています。彼ら二組の兄弟は、ともにみなガリラヤ湖で漁を営んでいた漁師たちでした。お互いに力を合わせて漁に励み、気心も知れた間柄だったのでしょう。そんな彼らがイエスさまと出会い、イエスさまから人間をとる漁師になるよう声を掛けられ、イエスさまに従っていくのです。イエスさまは全部で12人の弟子を選ばれましたが、彼らはその最初の弟子たちでした。
この物語は上述したように3つの共観福音書が共に伝えていますが、それらの内容はずいぶん違います。総じて『マタイ福音書』と『マルコ福音書』は短く簡潔にこの物語を記しているのに対して、本日の日課である『ルカ福音書』の方は詳しく書かれています。というのも『ルカ』の方には、イエスさまから4人の漁師たちへの呼びかけの前に、彼らが夜通し漁をしても何もとれなかった…という出来事が付随しているからです。ルカによると、イエスさまが4人の漁師たちと出会って開口一番に言われた言葉は、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」でした。4人を代表して、まずシモンが答えます。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。シモンは、事実をありのままにイエスさまに伝えたわけです。漁に関しては、シモンとその仲間たちはプロです。見ず知らずの大工のせがれに、あれこれ言われる筋合いはありません。しかし、シモンはさらに続けて、イエスさまにこう言いました。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と。そうして、口先だけでなく、本当にもう一度、網を降ろしてみたのです。すると、昨夜の不漁が嘘のように網が破れんばかりに魚がかかった!…その後に続く物語は、『マタイ』や『マルコ』と同じです。イエスさまが、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と彼らに声をかけられ、彼らはイエスさまの最初の弟子とされました。
私がここを読むたびに思わされることは、シモンの実直なまでの素直さです。プロとしてのプライドも捨てて、「しかし、お言葉ですから」とイエスさまの御言葉に耳を傾けたシモン。それは、神の御子を宿すことを天使から告げられたマリアが「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えた姿を彷彿とさせます。主の御言葉は、時として私たちの常識や価値感、感覚、信仰とさえ相容れないことがあります。その時、私たちは自らの耳を閉ざしてしまうのか。それとも、御言葉に対して耳が開かれ、心の目が開かれますように、と主に祈り求めるのか。私たちが主の真の弟子とされていくかどうかの分岐点が、そこにあるような気がします。
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