新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

3月29日「今日の礼拝堂」

2020年03月29日 | 今日の礼拝堂

   四旬節第5主日    

今週の祈り:全能の神さま。御子はすべての人々を罪と死から解放するために世に来られました。聖霊の力を吹き込み、キリストにある新しい命に生かし、生涯、義をもって仕えさせてください。あなたと聖霊とともにただひとりの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

 〇四旬節第4主日説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) ヨハネ11:1~45

                                   「神の栄光のため」

 ヨハネ福音書における一連の奇跡物語の最後です。イエスさまが、死んで一度は墓に葬られたラザロを生き返らせました。こんな奇跡を行える方はイエスさまだけです。ですから、この出来事を目撃した多くの人々はイエスを信じました。一方、ファリサイ派や祭司長たちは「このままにしておけば皆がイエスを信じるようになる」と危惧し、この日を境にイエスを殺そうと企み始めました。死んで復活したラザロとは反対に、命の与え主であるイエスが十字架の死を甘受しなければならないのです。なんと理不尽なことでしょう。しかし、イエスさまはすべては「神の栄光のため」と言われました。イエスさまは栄光の冠を自身の頭に戴くことなく、すべての栄光を神に帰せられたのです。

 私は音楽の父=ヨハン・セバスチャン・バッハの作品をこよなく愛する者ですが、バッハはしばしば自分が書いたスコアの末尾にS.D.Gというサインを残しました。これはSoli Deo Gloriaというラテン語の略で、意味は「ただ神にのみ栄光あれ」。バッハはルーテル教会の音楽家でしたから俗っぽい面もたくさんありましたが、それでも自分で書いた作品によって有名になろうとか、金持ちになろうとか、そんなことは金輪際考えていなかったのだと思います。その緻密で、均整のとれた、美しく、時に激しく心を揺り動かす音楽を聞いていますと、バッハはそれらの作品によって神の栄光を讃えようとしたのだろうと思います。私たちはどうでしょうか?与えられたものすべて、人生のすべてを神の栄光を表すために用いているでしょうか?

 新型コロナウィルスの蔓延がとどまるところを知りません。今や世界中の人々がこの見えない敵との戦いを強いられ、怯えています。特にイタリアではたくさんの人々が感染し、命を落としています。そんな中、自分より若い患者にと人工呼吸器を譲って死んだ神父が話題になっています。彼の名は、ジュゼッペ・ベラルデッリ。ジュゼッペ神父は、イタリア北部ロンバルディア州のベルガモ司教区にあるカスニーゴの町の司祭長でした。神父は以前から呼吸器系の病気を患っていたため教会の信者さんたちが購入した人工呼吸器を持っていたのですが、それを自分よりも若い人に使って欲しいと譲った後、病院で亡くなったそうです。死から命へ。ジュゼッペ神父の死は、若者に命を与え、さらに多くの人々をも勇気づけています。何よりもその尊い行為は「神の栄光」を証ししています。

 死に瀕したラザロのことを伝え聞いたイエスさまは言われました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」私たちも新型コロナウイルスの脅威に晒されて右往左往するのでなく、復活の命を与えてくださるキリストを信じて、神の栄光のために、今、自分に何ができるか考えてみようではありませんか。

      《来週の礼拝》

〇4月5日 午前11時 主のエルサレム入城礼拝

〇司  式:中島和喜牧師                                                                                   〇説  教:中島和喜牧師「預言者」                                                                                        〇奏  楽:滝田裕美さん                                                                              〇聖書朗読:藏谷俊夫さん                                                                                                                                         〇礼拝当番:出口輝子さん、滝田裕美さん

聖     書:イザヤ50:4ー9a、フィリピ2:5-11、マタイ21:1ー11                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       〇讃  美  歌:72、77(1-2)、77(3-4)、78

 


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3月22日「今日の礼拝堂」

2020年03月25日 | 今日の礼拝堂

   四旬節第4主日    

今週の祈り:主イエス・キリスト、私たちの祈りに耳を傾け、来てください。私たちのため、恵み深い生と死によって、心の闇に光をもたらし、聖霊の油を注いでください。父と聖霊とともに、あなたは永遠に唯一の主です。

 〇四旬節第4主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) ヨハネ9:35~41

           「 景  色  」

 四旬節も第4週を迎え、段々と春が近づいてきました。コロナウイルスの影響で礼拝を開くこともできずに不安ばかりを抱える日々でありましたが、今週から礼拝を開くことができ、また暖かくなっていく気候に心が癒されていくことを感じます。

 北海道に来てから3回目の春を迎えようとしています。北海道に来てから思ったことは、目に見える季節の変化が忙しいという事です。桜色の春、青緑の夏、赤黄色の秋、そして真っ白な冬。北国でしか経験の出来ない目で見る季節感でありましょう。今も、目に見える白色が減っていくことを通して、春の訪れを感じています。

 私たちはそのようにして、目で見ることを日常の中で当たり前のように行っています。しかし、目で見ることというのは、思ったよりも情報量が多いのです。季節の話だけに限らず、外を歩けば危険がないか目を配り、買い物に出れば数多ある物を前にして練り歩き、人と話せばその顔色を伺う。私たちは目で見て様々な物事を判断しているのです。

 今日の箇所に出てくる「イエスさまによって目が見えるようにしてもらった人物」は、途端に情報量の多い社会に出てくることになった人物とも言えるでしょう。だからこそ、目が見えるようになった彼は様々な景色を見ては感激しながらも、目が見えるようになったからこその生活に変化していくべく、ユダヤ人たちから批判されながらも、忙しい日々を過ごしていたのです。

 そんな状況の彼に、イエスさまは出会いに行きました。 35節では「出会う」という言葉が出てきますが、これは「見出す」とも訳せる言葉です。つまり、ユダヤ人に批判されながらも、状況の変化に対応すべく忙しい日々を過ごしていた彼を、イエスさまから見つけ、会いに来てくださったのです。その後の対話の中で、目が見えるようになった彼はイエスさまの信仰に導かれていきます。急激に変わっていく日々の中にあっても、まず私たちが思い起こすべきことは、イエスさまへの信仰である、そのことが示されたのです。

 さて、私たちはどうでしょうか。最近で新聞やニュースからコロナウイルスのことばかり目にしていると、ついつい不安や葛藤を抱えてしまいます。その不安や葛藤を抱えて外に目を向けた時、私たちの目に映る景色はどのようなものでしょうか。あまり、良い景色ではないでしょう。

 私たちは目に見える情報に心が左右されていきます。それこそが、何も見えていない状況であるのでしょう。私たちはまず、イエスさまへの信仰に導かれていかなければなりません。そのことが出来るように、今もイエスさまは私たちに会いに来てくれています。私たちがイエスさまを通して外の景色を見るとき、不安や葛藤を抱えていた時とは全く違う、平安と愛に満ちた景色を見ることが出来るのです。その時、私たちは初めて、「見る」ことが出来るのです。イエスさまを通して与えられた、平安と愛に満ちた景色を見つめつつ、この四旬節の季節を、そして神と教会と共にある日々をこれからも過ごしていきましょう。

      《来週の礼拝》

〇3月29日 午前11時 四旬節第5主日礼拝

〇司  式:中島和喜牧師                                                                                   〇説  教:中島和喜牧師「母」                                                                                        〇奏  楽:滝田裕美さん                                                                              〇聖書朗読:小川敦子夫さん                                                                                                                                         〇礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん

聖     書:エゼキエル37:1ー14、ローマ8:6-11、ヨハネ11:1ー45                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       〇讃 美 歌:300(1-2)、303、375、300(3-5)


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3月15日「今日の礼拝堂」

2020年03月15日 | 今日の礼拝堂

            今日の礼拝堂(3月15日 四旬節第3主日)

    新型コロナウィルスによる緊急事態宣言を受けて、今週も主日礼拝がお休みとなりましたが、中島牧師より「グッドニュース」いただきましたので、掲載いたします。

                   「 渇 く 」(出17:1-7、ロマ5:1-11、ヨハ4:5-42)                                                                

礼拝を開けない2回目の日曜日となりました。不安や寂しさが続きますね。今はそれぞれの場所にあってみ言葉と向き合う日々ではありますが、その傍らには主が共にいてくださり、その主を通して、皆が結びあわされている。そのことを覚えつつ、今日もまたみ言葉にあずかっていきたいと願います。

 さて、四旬節も第3主日になりました。早くも、四旬節の半分が過ぎたわけであります。いかがお過ごしでしょうか。悔い改めの時を過ごしているでしょうか?礼拝に行けない期間が長引くと、ついついそのことを忘れてしまうかもしれません。もし忘れてしまうときがあるというのであれば、そのことも含めて、悔い改めていきましょう。それは何も恐れることではありません。むしろ、悔い改めの中にある温かさに触れていくことが今日の箇所で求められていくことでありましょう。

 本日の箇所はヨハネ福音書4章の5節から42節までと大変長い箇所が与えられました。本来であれば3回ほどに分けて語れるぐらいに内容の濃い箇所でありますが、それを1回で話さなければなりません。牧師泣かせの箇所でありますね。流石に長くなりすぎるので、注目すべき箇所を絞って話したいと思います。決して私が楽をして短くしているのではありません。今日の箇所において注目すべき点は、サマリアの女の心の渇きに寄り添うイエスさまの姿でありましょう。

 イエスさまはユダヤ地方に行った後、ガリラヤへ行くためにサマリアを通って北上しました。しかし、当時においてこのルートはあり得ないのです。なぜなら、サマリアは他民族の血が混じっているということから差別されていた地域であり、当時のユダヤ人たちはサマリアを避けて、ヨルダン川の方から迂回して北上するのが一般的だったからです。しかし、イエスさまの歩みは、まるでその姿勢を示すかのように真っすぐに進んでいきます。その中で、サマリアの女に出会うのです。そこは井戸のそばでありました。

 このサマリアの女は、当時差別されていたサマリア人たちにすら避けられていた人だったのでしょう。サマリアの女が井戸に行きイエスさまと出会った時間は6節に「正午ごろのことである。」と書かれていますが、当時の水くみは涼しい朝か夕方に行くのが通常であり、日差しの激しい正午ごろに水くみには行きません。サマリアの女は人目を避けて水くみに行っていたのでしょう。周囲から嫌がられたのか、自分から嫌がったのかはわかりませんが、彼女は誰にも会わないように、正午に井戸に水くみにいくのです。

 彼女が人目につかないように気を配っていたのは、18節にあるように、過去に5人の夫がいて、なおかつ今は別の人といる、という状況にあるからです。なぜそのような状況になったのかは分かりませんが、罰されずに何度も結婚することが許されているという状況であることから、夫が次々に死別していったと考えるのが妥当でありましょう。

 どれだけの痛みを彼女は抱えていたのでしょうか。容易には想像できませんが、相当なものであったでしょう。彼女はあまりにも辛い状況に立たされながら、さらには周囲の人目を気にしながら生きなければならず、あまりにも多くの苦しみを担っていた人物でありました。そこに、イエスさまがやってくるのです。

 イエスさまが声をかけた際、サマリアの女は驚いたことでしょう。なぜなら、当時ラビと呼ばれる律法の教師は公の場で女性に声をかけることはしませんでしたし、ユダヤ人はサマリア人に声をかけることもなかったからです。なぜ「サマリアの女のわたしに」という驚きを彼女は抱えたと考えられます。そしてそれがイエスさまの招きであるのです。

 彼女は、自分は声をかけられるにふさわしくない者と考えていたのです。周囲に嫌がられる要素を多分に抱える者に対して、その人がどのような者であろうと関係なしに、イエスさまは語り掛けるのです。むしろ、その弱さに対して、イエスさまは踏み込んで語り掛けるのです。

 イエスさまとサマリアの女の会話は奇妙なものでありました。はじめはイエスさまが「水を求める者」であったのに、次第にサマリアの女が「水を求める者」に変化していきます。そこでは「水」の意味が変わっていったからです。はじめは「飲み水」が語られていましたが、次第にイエスさまは「永遠の命に至る水」について語りだしたのです。しかし、サマリアの女ははじめそのことが分かりませんでした。永遠に渇くことのない水は、まさに永遠にのどの渇きを覚えない水であると考えたのです。しかし、イエスさまが語る渇きとは、心の渇きでありました。

 イエスさまはその渇きに迫って語り掛けます。16節でイエスさまは「あなたの夫をここに連れてきなさい」と言いました。イエスさまはサマリアの女の事情を知っていたにも関わらず、そう語り掛けたのです。サマリアの女にとって、それは触れてほしくないものだったでしょうし、知られたくないものでもあったでしょう。出来れば、隠したままイエスさまと話したかったのではないでしょうか。けれど、イエスさまはそのことに迫るのです。隠したい、触れられたくない、そう思っている部分に対して触れていくことを通して、どのような過去や現状を抱えていようとも、それを知ってもなお、あなたに語り掛け、永遠の命に至る水を与えるのだという事をイエスさまは示してくださるのです。

 ここにこそ、四旬節に読まれるべき内容であることが示されているのです。私たちはこの四旬節を通して、自らの罪を見つめていきます。それは、見たくないものでしょうし、触れられたくないものであるでしょう。私たちもまた、サマリアの女と同じように、周囲の目に脅えるときがあるのです。私たちもまた、サマリアの女と状況は違えど、人それぞれ色々な痛みや困難を抱え、心が渇くのではないでしょうか?

その心の渇きに、イエスさまは語り掛けるのです。触れられたくないところに触れ、見たくないものを見せ、それでも、あなたに永遠の命に至る水を与えるのだと、私たちに伝えて下さるのです。罪の重荷を見つめ、しかしそこから解き放たれていく時、私たちはホッとするのではないでしょうか。その時に抱える喜びや安心こそが、私たちの心の渇きを満たす泉となるのです。その喜びに触れていくことが、この四旬節に求められていることです。

 今、私たちは毎日のようにニュースを見ながら、不安を抱える日々を過ごしているのではないでしょうか。やれどもやれども、目に見えないウイルスであるから、完全な対策は打てません。どうしても、不安を抱えてしまいます。けれども、イエスさまはその私たちが抱える不安や痛みに対して語り掛けて下さる方であるのです。ですから、ホッとしていいんです。イエスさまが共にいてくださる、そのことを覚えながら、この日々を皆で共に過ごしていきたいと願います。

 


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3月8日「今日の礼拝堂」

2020年03月08日 | 今日の礼拝堂

         今日の礼拝堂(3月8日 四旬節第2主日)

新型コロナウィルスによる緊急事態宣言を受けて、主日礼拝がお休みとなりましたが、日笠山牧師より「グッドニュース」いただきましたので、掲載いたします。

 

         「新たに生まれる」(ヨハネ3:1〜17)

 私たちの主なる神と御子イエス・キリストから 恵みと平安が皆さんにありますように。

 新型コロナウィルスの流行のため札幌教会も今週と来週の礼拝を取りやめることになりましたが、このグッドニュースを通じて聖書の御言葉を皆さんに届けたいと思います。この度の新型コロナウィルスによって命を落とされた方とそのご遺族の上に、主の慰めと平安がありますように。また、今治療中の方が癒されますように。そのために看護しておられる方や医療に従事している方が、主によって支えられ用いられますように。そして不安の中におられるすべての方々の上に、主の平安が与えられますよう切に祈ります。

 さて、本日四旬節第2主日に与えられた福音は『ヨハネによる福音書』3章の御言葉です。ここには、イエス様とファリサイ派の議員だったニコデモの対話が記されています。議員といえばイエス様を十字架に追いやったあの最高法院を構成していたメンバーでニコデモもその一人であったわけですが、しかし彼は他の多くの議員たちとは違ってイエス様に少なからず親近感を持っていたようです。そうでなければ、人目を忍んでこっそりイエス様のもとを訪ねてくる筈がありません。またニコデモは、他のファリサイ派の人々が「議員の中にあの男(イエス)を信じた者がいるだろうか」と公言して憚らなかったさなかに、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたか確かめた上でなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」(7章51節)と諫めてもいます。そして、十字架につけられたイエス様が葬られる時、彼は没薬と沈香をもって墓へと急ぎ走りもするのです。ニコデモは自分でも言っているようにかなり年をとっていたのでしょうが、最後の最後までイエス様を慕い求めていたような気がしてなりません。

 私たちの教会にもニコデモがたくさんおられます。年は重ねておられますが、礼拝は決して休まずに欠かさず来られる方。愛する伴侶をなくされてからも礼拝に通うことをやめず、かつて伴侶と一緒に座っていた席でただ一人御言葉に聞き入っておられる方。毎週の礼拝出席が難しくても、せめて月に一度の聖餐礼拝にはと体調を整えて来られ、今なお跪いて聖餐を受ける方…そのようなニコデモが、札幌教会にはたくさんおられます。皆さんきっとイエス様に会いたくて熱心に礼拝に来られているに違いありません。そのようなたくさんのニコデモさんたちから、若い世代はどれだけ励まされることでしょう。自分たちも諸先輩たちの後に続いて、御言葉を求め続けていきたい!イエスさまから離れることなく、最後まで食らいついて行きたい!と。

 そのように礼拝が生き甲斐になっておられるニコデモさんたちのためにも、主日礼拝はいつものように続けたかったのですが、新型コロナウィルスという病魔からそれぞれの身を守っていただくためここ2週間に渡る礼拝の中止を決めました。この厄介なウィルスが、特に高齢者や持病をもっておられる方々を重篤化させるということが分かったからです。何よりも教会に来ることを楽しみにしておられる方々です。少々無理してでも体調が悪くても頑張って来られる方があるかもしれませんし、自覚症状のない感染者からウィルスをもらってしまうかもしれません。今は1日も早く収束して、皆さんが安心して再び教会に来られる日を祈りつつ待つしかありません。今年のイースター(復活祭)の礼拝は4月11日(札幌北礼拝堂)と12日(札幌礼拝堂と新札幌礼拝堂)ですから、その日には聖餐式もまた礼拝後の祝会も出来ますように。

 福音書に登場したニコデモに、話しを戻しましょう。彼は自らイエス様に近づき、イエス様と対話することによって、イエス様が語られる御言葉を理解したいと願っていたことは明らかですが、実際の二人の対話はあまり噛み合っているとはいえません。ニコデモは初対面のイエス様に対して「ラビ、私どもはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」と恭しく挨拶するのですが、イエス様はいきなり「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と答えられました。「年をとった者が、どうして生まれることが出来ましょう」と驚くニコデモに対して、さらにイエス様は「はっきり言っておく。だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない…」と続けられます。たまらずに、「どうしてそんなことがありえましょうか」と言うニコデモに対して、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と叱られるイエス様。もっとお手柔らかに!優しく!なにぶん相手はお年を重ねておられるのだから、と私なんかはつい思ってしまいますが、イエス様はそんなことはお構いなしに直球で攻められる。そしてとうとうど真中の豪速球をニコデモの懐にずしんと投げ込まれるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3章16節)と。<小聖書>とも呼ばれるこの御言葉こそ、福音の本質です。ニコデモは、この福音の本質をイエス様から引き出すために用いられたのです。それだけでも十分な働きを、ニコデモはしたわけです。ニコデモはイエス様から叱られながらも、見事にイエス様の口から福音を語らせたのです。神が独り子イエスをこの世に送られたのは、私たち人間を愛されたから。どうしようもない罪人である私たちなのに、神は愛してやまなかったから、かけがえのない独り子イエスをこの世に送り、私たちの罪を担わせた。それは、私たちの誰一人として罪の故に滅ぼされることなく、救われるため。赦されて、神から永遠の命をいただくため。そのために、神はその独り子をこの世にお与えになったのだよ、とイエス様自らが解き明かしてくださったのです。なんと有難い御言葉でしょうか。喜ばしい福音でしょうか。聖書に記された神からのメッセージのすべてが、この一言に集約されていると言っても過言ではありません。

 実は、私は今まさにこの御言葉を筆ペンで聖書に書いているところです。札幌教会に隣接するめばえ幼稚園では、まもなく卒園式が行われ、年長さんの卒園生たちはみんな教会から記念品として御言葉が書かれた聖書をもらえます。ところが中には年中さんや年少さんでも、親の転勤などで引っ越さなければならない子どもたちも若干います。彼らは卒園を待たずに一足先に聖書をもらうことになるのですが、そこに御言葉を書くのは牧師である私の務めなのです。そこに記す御言葉も昔から『ヨハネ福音書』3章16節の御言葉と決まっています。ですから、彼らのために私は筆ペンをとってこの御言葉を書いているのです。めばえ幼稚園に在園した子どもたちが、この御言葉を忘れずに、これからも大きく豊かに成長していきますように。そう、ニコデモの年になっても、生涯最後の時まで御言葉を求め、福音に生かされていきますように、と祈りながら。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、皆さんの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守りますように。

 


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3月1日「今日の礼拝堂」

2020年03月01日 | 今日の礼拝堂

   四旬節第1主日    

今週の祈り:私たちを強くしてくださる神さま。善と悪との戦いは、私たちの内と外にあり、悪魔とあらゆる勢力が空しい約束で私たちを誘惑し、あなたに挑んでいます。私たちを御言葉に固く立たせ、再び立ち上がらせてください。あなたと聖霊とともに、ただひとりの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

 

 〇四旬節第1主日説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨)マタイ4:1~11

           「 荒野のただ中で  」

 教会の暦は先週の水曜日から「四旬節」に入りました。今日は「四旬節第1主日」。これからイースターまでの40日間、私たちはキリストの受難と十字架を覚える季節を過ごしていくことになります。教会暦と合わせたわけではありませんが、このたびの新型コロナウイルスの流行を受けて、札幌教会としても少なくともイースターまでの間は、聖餐式や礼拝後の学びや交わり、また週日の集会も見合わせることにしました。私たちにとってもまさに受難の日々が続きますが、荒野で悪魔の誘惑を退けたキリストのように、神の御言葉にしっかりと立って歩んでいきたいと思います。

 このたびの新型コロナウイルスのような状況に直面しますと、私たちはすぐに動揺し、不安に駆られ、いても立ってもいられなくなってしまいます。インターネット上で飛び交う風説に惑わされて、罪のない人をバッシングしたり、事態を引き起こした犯人探しに躍起になってしまいます。しかし、それこそが悪魔の思う壷なのです。なぜなら聖書に登場する「悪魔」とは「中傷する者」という意味だからです。イエスさまを試みるために荒野に現れた悪魔も、然り。悪魔は言葉巧みに聖書の言葉を引用してはイエスさまを試みようとしますが、その狙いはイエスさまを中傷するためです。その証拠に、イエスさまは十字架に掛けられる時、悪魔と同じ言葉を人々から投げつけられることになります。「他人は救ったのに、自分は救えないのか。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ」と。この中傷は、荒野で悪魔がイエスさまに投げかけた「神の子なら、飛び降りたらどうだ」となんとよく似ていることでしょう。こうして神を中傷し、私たちを神から引き離そうとするのが悪魔が使う常套手段なのです。

 悪魔は自分が神になりたいがために私たちに神を中傷するよう仕向けますが、私たちはそれに乗せられて人を中傷してしまいます。中傷とは「根拠のない悪口などを言って、他人の名誉を傷つけること」。私たちの世界に蔓延っている様々な差別、偏見、暴力、いじめの類がそれに当たります。今、問題となっている新型コロナウィルスを巡っても然り。あちこちで起こっているゴタゴクを見ていると、人間とはかくも罪深い者なのかと思わずにいられません。私たちは自分自身はさておき、誰かを悪者にしないと気がすまない。誰かをターゲットにして責めずにはいられない。誰かを中傷せずにはいられない。イエスさまはそんな私たちの底知れぬ罪を一身に引き受け、神の御心に従って、黙って十字架に掛かられたのです。

パウロは私たちの罪の蔓延にもかかわらず、否、罪が増し加われば加わるほど、キリストの十字架の恵みがいっそう豊かにもたらされるのだ、と言いました。 私たちもキリストの十字架の恵みを信じつつ、悪魔がもたらすあらゆる中傷や罪と戦って参りましょう。

   《お知らせ》

  新型コロナウイルスの影響により、3月7日(日)、3月15日(日)の礼拝及び3月中の

 「オープンチャーチ」「聖書と祈りの会」は休止します。下記の「号外」をご覧ください。

 


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