新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

6月25日「今日の礼拝堂」

2017年06月28日 | 行事予定

聖霊降臨後第3主日

「今週の祈り:すべての民の主なる神さま。あなたはあなたの民に御心を示し、あなたの民を救う約束を与えられました。私たちがあなたの戒めに耳を傾け、み旨を行うために、あなたの強い力で支えてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。」

(礼拝堂の花)

 〇聖霊降臨後第3主日説教 日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)マタイ7:15~29

「愚かな人」

山上の説教の締めくくりの部分です。イエスさまは、この長い説教を閉じられるにあたって、3つのことを話されました。偽預言者に警戒すること、神の御心を行う者だけが天の国に入れること、そして御言葉を聞くだけでなく行う者となることです。

私は牧師という仕事上、神の御言葉を預かって皆さんに伝える務めを担っています。いわゆる、預言者です。もちろん牧師の仕事はそれだけではなく、祭司のように神と人との間に立って執り成しの祈りをささげること、また羊飼いが羊たちを養うように人々の信仰を守り牧する役目もあります。それらすべてを完璧に出来る牧師なんていないでしょうが、それでもなんとか少しでもそれらの役目を果たしていければ!と願いつつ仕事に励んでいるわけです。それで、「偽預言者を警戒しなさい」とか「『主、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」と正面切って言われると、ギクッとするわけです。自分は真実な預言者だろうか?いつも主に祈りはしているが、天の国に入れるのだろうか?むしろ、まっさきに天国から閉め出されてしまうのでは?預言者のように振る舞いつつも心は罪で汚れ、祭司のように祈りつつも主の御心を行っているかどうかおぼつかない自分は…と。牧師は普段自信たっぷりに説教をしているように見えるかもしれませんが、その心の内は畏れおののいているのです。

最後のたとえ話しは、極めつけです。岩の上に家を建てた賢い人と、砂の上に家を建てた愚かな人。それは、御言葉を聞いて行う人と、聞くだけで行わない人である、とイエスさまは言われます。私は、もちろんイエスさまの御言葉をいつも聞いているつもりです。聞かないことには伝えることもできませんし、預言者としての務めも果たせないからです。しかし、では、御言葉を実践しているか?聞くだけで、伝えるだけで、満足してしまって、自分では何一つ行っていないのでは?と問われているような気がしてなりません。イエスさまの山上の説教を聞いていた人々は、これらの教えに非常に驚いたとありますが、私は自分の信仰者としての、牧師としてのあり方を厳しく問い正されているような気がします。

「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また悪い木が良い実を結ぶこともできない」。イエスさまが言われることは、当然至極、当たり前のことです。しかし、その当たり前のことが分かっていて、なかなか出来ない私たちなのです。ですから、私たちはせめてイエスという木に繋がり続けましょう。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と約束してくださったイエスさまに。 

〇7月2日 午前11時 聖霊降臨後第4主日
〇司式:中島和喜牧師
〇説教:中島和喜牧師
〇奏楽:滝田裕美姉・小林広枝姉
〇聖書朗読:小川敦子姉
〇礼拝当番:出口輝子姉

〇聖書:ホセア5:15-6:6・ローマ5:6-11・マタイ9:9-13
〇讃美歌:294(1,3)・295・335・286(1,5,6)
〇28日(水)30日(金)は中島和喜牧師の在宅日で、オープンチャーチをしています。どなたもお気軽にお立ち寄りください。 

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6月18日「今日の礼拝堂」

2017年06月18日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨後第2主日

「今週の祈り:恵みの神さま。多くのことに心を煩わされている私たちが、あなたの教えに耳を傾け、欠くことのできない、ただ一つのものを選び取ることができるように助けてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。」

(礼拝堂の花)

(今日から教会の典礼色は「緑」になりました)

 

〇聖霊降臨後第2主日説教 中島和喜牧師(週報掲載説教要旨)マタイ6:24~34

「悩まずにはいられない」

 

イエス・キリストは私たちに告げました。「思い悩むな」と。この言葉の第一印象で「そんな無茶な!」と思った人はたくさんいるのではないでしょうか。思い悩むなと言われても、結局悩んでしまうのが人間です。ですから、今日の箇所にある「思い悩むな」という言葉は残酷な言葉になってしまいます。悩みたくなくても悩んでしまう私たちに、皮肉なことに、神の言葉を守ることすらできないという「悩み」を付け加えていくのです。

私たちは何に悩むのでしょうか。私の最近の悩みは当然、教会での働きについてです。自分に何が出来るのか、十分であるのか、常に悩みは尽きません。皆さんの悩みは何でしょうか。健康のことか、経済のことか、仕事のことか、家庭のことか。言いだせばキリがないほどに、悩みは尽きないでしょう。そんな私たちに与えられる御言葉が「思い悩むな」という言葉です。生きるために悩まなければならないこともたくさんありますから、非常に厳しい言葉に聞こえてきます。

しかし、この御言葉をもう一度よく考えていきたいのです。私たちは生きるために当然悩みます。では、果たしてその悩みすら放棄しなければならないのでしょうか。そうではないのです。人間は野の花や鳥とは違い、悩みながら生きていく動物です。イエス様は、悩むことではなく、そこに現れる罪を見ているのです。神様に信頼しきれない私たちだから起こる漠然とした不安、心の葛藤、未来への憂い、その罪をイエス様は見ているのです。そう考えますと、私たちの悩みは罪だらけです。私はこれからどうなっていくのか、何をしていけばよいのか、そういった悩みが尽きない私たちでありますから、大変に罪深い存在であることがわかります。私たちは今日の御言葉から、悩んでしまうという罪ではなく、イエス様が整えて下さった生き方を全く信頼しきれていない罪を見ていかなければなりません。もはやその罪を前にして、私たちは絶望するしかないのです。どうしようもありません。さらに、その罪はとても大きく、イエス様を十字架に架けるほどに大きな罪を私たちは有しているのです。

その罪深い私たちにイエス様は言って下さるのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」神様が常に私たちを支配して下さり、私たちを義しい者として下さる。そのことを信じ続けていくことをイエス様は求めているのです。むしろ、求めて良いのだと言っているのです。イエス様を裏切り、信頼しきれない私たちに、何度でも何度でも赦しを与え、悔い改めへと導いて下さるのです。それほどまでに私たちを愛しておられるのです。絶望するしかない罪を前にして、愛が語られる時、私たちは本当の豊かさに満たされていくのです。その豊かさが私たちを襲う思い悩みから解放していくのです。きっと悩みはこれからも尽きないでしょう。けれども、常に私たちを導いて下さる神様に信頼していきましょう。その時に、思い悩みは愛の探求へと変えられていくのです。

 

〇6月25日 午前11時 聖霊降臨後第3主日

〇司式:日笠山吉之牧師
〇説教:日笠山吉之牧師
〇奏楽:滝田裕美姉
〇聖書朗読:青木比呂子姉
〇礼拝当番:小川照美兄
〇聖書:申命記11:18-28・ローマ1:8-17・マタイ7:15-29
〇讃美歌:279(1-3)・318(1,2)・318(3,4)・258・153(1-3)
〇21日(水)23日(金)は中島和喜牧師の在宅日で、オープンチャーチをしています。どなたもお気軽にお立ち寄りください。 

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6月11日「今日の礼拝堂」

2017年06月09日 | 今日の礼拝堂

三位一体主日

「今週の祈り:全能の神、栄光の父なる神さま。み霊によってすべては新しくされます。主キリストのみ力によって、一切の恐れと疑いを私たちから取り除き、父と子と聖霊のひとりの神を礼拝する恵みを与えてください。あなたと聖霊とともにただ一人の神であり、永遠に生きておさめられるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。」

(礼拝堂の花)

(リハビリ中のブログ担当者:真剣に人生初の筋トレに励んでおります)

 〇三位一体主日説教 日笠山吉之牧師(週報掲載説教要旨)マタイ28:16〜20

いつもあなたと共に

教会の暦は、三位一体主日となりました。三位一体とは、キリスト教特有の教理です。それは、父なる神と子なるキリストと聖霊とが、3種3様にバラバラなのではなく、同じ1つの同じ神であることを表しています。「三位一体」という用語そのものが聖書に明瞭に記されているわけではありませんが、福音書をひもといてみると、神とキリストと聖霊とが一つであることを示す御言葉は随所に出てきます。『マタイによる福音書』28章19節以下も、その一つ。この箇所は、イエスさまが天に上げられる直前に、弟子たちに言い残した最後の遺言です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るようにしなさい」。その内容から、「大宣教命令」とも呼ばれる御言葉です。この御言葉の中にある「父と子と聖霊の名によって」は、まさに三位一体を言い表したものです。信仰者はみなこの「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けられた者たちです。それゆえ、次には、父と子と聖霊の名による洗礼を授ける側となることが期待されている−それが、主の弟子となるということです。主によって遣わされ、福音を伝えていく者となるということです。預言者イザヤのように「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と。

イエスさまは弟子たちをやみくもに叱咤激励されたわけではありません。イエスさまがこのような命令を最後に弟子たちに与えられたのには、根拠があってのことです。それが、福音書を締めくくる最後の言葉です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」イエスさまは、弟子たちを突き放すかのごとくに、宣教に遣わされるのではありません。そうではなく、「わたしはいつもあなたがたと共にいる」という約束を交わした上で、肩を押し出されたのです。然り、あなたが死の陰の谷を行く時も、永遠に、わたしはあなたと共にいる!インマヌエル!これが、イエスさまの最後の遺言となりました。

人は誰しも一人きりでは生きていけません。それゆえ、愛する人、信頼する人、信仰を共にする人がいる人は幸いです。大伝道者パウロも、そのことをよく知っていました。それで、コリントの教会の人々に書き送った手紙の最後をこう締めくくったのです。「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」と。私たちが兄弟姉妹たちと共に喜びを分かち合い、励まし合い、思いを一つにして平和を保つそのただなかに、イエスさまは共にいてくださるのです。愛すべき兄弟姉妹に恵まれている幸いに感謝しつつ、インマヌエルの主と共に、福音を伝える良き足として遣わされて参りましょう。

〇6月18日 午前11時 聖霊降臨後第二主日

〇司式:中島和喜牧師
〇説教:中島和喜牧師
〇奏楽:若井裕子姉
〇聖書朗読:小笠原里子姉
〇礼拝当番:小林広枝姉
〇聖書:イザヤ書49:13-18・コリント(Ⅰ)4:1-13・マタイによる福音書6:24-34
〇讃美歌:187・213(1-3)・213(4,5)・171(1,3,4)
〇14日(水)16日(金)は中島和喜牧師の在宅日で、オープンチャーチをしています。どなたもお気軽にお立ち寄りください。 

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6月4日「今日の礼拝堂」

2017年06月04日 | 今日の礼拝堂

聖霊降臨祭

「今週の祈り:私たちの主イエス・キリストの父なる神さま。弟子たちに約束の聖霊を送られたように、あなたの教会を顧み、私たちの心を開いて、み霊の力を受けることができるようにしてください。私たちの心に愛の炎を燃え上がらせ、私たちを強めて、生命あるかぎりみ国に仕える者としてください。あなたと聖霊とともにただ一人の神であり、永遠に生きておさめられるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。」

(礼拝堂の花)

(リハビリ中のブログ担当者:杖なしで階段を上り下りできるようになりました)

 

 〇聖霊降臨祭説教 中島和喜牧師(週報掲載説教要旨)使徒2:1-21、ヨハネ7:37-39

「いくらでも飲め」

言葉というのは面白いもので、同じ言葉であろうとも様々な意味を持っています。例えば、今日の第二の日課である使徒言行録2章4節には「ほかの国々の言葉」と書かれた箇所がありますが、原文を訳していくと「ほかの」という言葉は<外国の>あるいは<まったく違った>とも訳せます。さらに「言葉」も<言語>あるいは<異言>と訳せるのです。つまり、「ほかの国々の言葉」は<外国語>とも<全く違った世界の異言>とも解釈することが出来るのです。これだけの違いでも、私たちが聖書の世界をイメージする時に思い浮かべる場景は全く違ったものになっていくでしょう。また、誰かと聖書を読む時に、他の人と全く違う解釈をしていた、なんて経験を持っている人もきっといるでしょう。同じ言語を使う者同士ですら解釈が分かれるのですから、ましてやギリシャ語で書かれた聖書の御言葉を私たちがしっかりと受け取ることは難解なことです。

さらに、言葉というものは意味を表すだけでなく、力をも持っています。時には言葉が人を生かすこともあれば、反対に傷つけてしまうこともある。同じ御言葉を聞いても、そこに慰めを受け取る人もいれば、戒めを受け取る人もいます。「言葉を聞く」、それは単純なことのように思えて、とても難解で複雑なことです。

今日の第二の日課では、色々な言葉を話す人たちが出てきます。そしてもう一つ、言葉を聞く人たちが出てきます。話す人たちはそれぞれ聖霊の語るままに話します。聞く人たちは、それを自分の故郷の言葉として聞くのです。これが、私たちに働きかける聖霊の働きです。

私たちは御言葉を語る時、色々な言葉で、色々な解釈で語ります。聖書ですら色々な訳が存在しますし、御言葉を説教壇から語る牧師ですら同じ御言葉から違うことを話します。聞く人にとって、言語の違い、解釈の違いは、聞く事の難解さを生んでいくでしょう。それでも、私たちの心に御言葉は届くのです。言葉を御言葉として受け取る時、その御言葉がまるで故郷の言葉のように響き、安らぎを受け、まるで渇いた大地に雨が降るかのように心に染み渡っていくのです。それは、一人ひとりのために、聖霊を通して御言葉が届けられていくからです。御言葉があなたの内に与えられた聖霊と結びつく時、その御言葉はあなたのための生きた水となり、救いとなるのです。

イエス様は言いました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書の書いてあるとおり、その人から生きた水が川となって流れ出るようになる。(ヨハネ7章37b-38)」この約束の成就が、聖霊を与えられたことで果たされたのです。その時に、教会が生まれました。御言葉を語る集団であり、御言葉を聞く集団として生まれたのです。それは2000年前から現代に至るまで何も変わりはありません。御言葉に生かされて生きていく集団として、私たちはこれからも、聖霊の助けに身を委ねて、御言葉に聞き従い、そして御言葉を語っていきましょう。

〇6月11日 午前11時 三位一体主日

〇司式:中島和喜牧師
〇説教:中島和喜牧師
〇奏楽:滝田裕美姉
〇聖書朗読:小川敦子姉
〇礼拝当番:堀川悦姉
〇聖書:イザヤ書6:1-8・コリント(Ⅱ)13:11-13・マタイによる福音書28:16-20
〇讃美歌:131(1,2)・239(1-3)・476・264(1-3)・131(3,4)
〇7日(水)9日(金)は中島和喜牧師の在宅日で、オープンチャーチをしています。どなたもお気軽にお立ち寄りください。 

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