新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

6月20日「今日の礼拝堂」

2021年06月22日 | 今日の礼拝堂

               今日の礼拝堂(6月20日 聖霊降臨後第4主日)

    新型コロナウィルス感染拡大のため主日礼拝がお休みとなり、中島牧師によるオンライン礼拝が新札幌礼拝堂からYutubeで配信されています。ここでは週報にある「Good News」を掲載いたします。

                                   「  眠  る  」  マルコ4:35~41

    先週に引き続き今日も4章が読まれましたが、同じ4章と言っても34節と35節の間で場面が大きく移り変わっています。先週の箇所までは格言集かのようにイエスさまの説教が連続して語られていたわけですが、今日の箇所から6章6節までは再びイエスさまの旅路に移り変わっていることに注意が必要です。これまではイエスさまからみ言葉を通して神の国に招かれていくという豊かさをお教えていただいていたのに対し、今日の箇所から始まる旅路では、一転して人間がいかに神を信用しきれないかということが露わにされていきます。

 その始まりとして描かれた突風を鎮める物語はまさに、弟子たちの弱さが描かれることを通して、私たち信仰者の弱さが突きつけられていると言って良いでしょう。湖上に出たイエスさま一行は突如として嵐に襲われます。弟子たちの内4名が元々漁師でありましたが、それでも皆が慌てふためいていたということは、相当に大きな嵐であったことが予想されます。それほどまでの大きな恐怖に対して、なんとイエスさまは眠っておられたというのです。何と大胆な方でありましょうか。この光景に対して、弟子たちは「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と非難します。この非難はマルコの特徴的な記載です。マタイ福音書にも同様の物語が書かれていますが、そこでは弟子たちはイエスさまに助けを「主よ、助けてください」と懇願していたのに対し、マルコの物語ではイエスさまを非難しているのです。ここに人間の弱さが描かれているのでしょう。

 苦難と接するとき、私たちは時に、神は私たちの問題に無関心なのではないかという疑念を抱くことがあります。なぜ問題が起こるのか。どうして解決してくれないのか。危機的状況であればあるほど、その疑念は大きくなるでしょう。弟子たちと同じように、私たちも直接的ではないにしても、つい神を非難し神の力を軽視するのです。私たちは思ったよりも、信仰を貫くだけの強さをもっていないのです。故に、私たちは常に十字架を見上げて生きていかねばならないのです。私たちは神を信頼しきれない罪を犯し続けます。しかし、イエスさまはその私たちの罪を赦すために、十字架に架けられ死んだのです。それほどまでの愛を、神の子が私たちに示してくださったのです。

 罪赦された私たちは、嵐の中で眠っていたイエスさまのように、安心して眠るように日々を送りたいのです。不安や恐れがあっては眠れません。また浅い眠りでは周囲が騒がしくなればすぐに起きてしまうでしょう。神は突風すらも静められるほど、力を持った方であるのです。その力に信頼しこの身を委ねて、深く深く眠りにつくように、安心して日々を過ごしていきたいと願います。(中島)

 

 * 新型コロナウイルス感染拡大のため、通常の礼拝がしばらく休止となりました。                                                      これからは毎週オンライン礼拝がおこなわれる予定ですが、このプログには牧師からいただく「Good News」による説教内容を掲載いたします。                                                                                   

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月13日「今日の礼拝堂」

2021年06月15日 | 今日の礼拝堂

               今日の礼拝堂(6月13日 聖霊降臨後第3主日 )

    新型コロナウィルス感染拡大のため今週も主日礼拝がお休みとなり、日笠山牧師による新札幌礼拝堂におけるオンライン礼拝がYutubeで配信されています。ここでは週報にある「Good News」を掲載いたします。

                                   「  種を蒔く 」  マルコ 4:26~34

 本日の福音は、神の国のたとえです。二つのたとえではいずれも「種」が使われています。まず、最初のたとえから見ていきましょう。

 26節:また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」このたとえは、農業を営んでおられる方や家庭菜園を趣味とされている方なら、とても共感できるのではないでしょうか。何の種であれ、それを私たちが土に蒔くと、その種は必ずや芽を出して、やがて茎や葉をつけ、花を咲かせ、そして穂となって、実を結びます。もちろんその間、私たちは何もやらないというわけではなく、水をやったり、肥料をやり、害虫や草取りもするわけですが、それでも私たちに出来ることはせいぜいそのくらい。夜になると私たちは寝ますし、朝起きてからも一日中、蒔かれた種を見守っているわけではありません。それでも、不思議なことに種はいつの間にか芽を出して、成長していくのです。こんな不思議なことはありません。種の中には、そのような力強い命が詰まっているのです。その命を種に与えられたのは、創造主なる神です。使徒パウロがいみじくも語ったように、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神」なのです。その神が、豊かな実りをもたらしてくださる!収穫の時を与えてくださる!その恵みに招かれているのは、私たちにほかなりません。

 二つ目のたとえ話しにも「種」が出てきます。しかも、それはあるゆる種の中でもとりわけ小さな「からし種」です。しかし、そんな「からし種」でも、蒔けばちゃんと芽を出して、私たちが夜昼寝起きしているうちにどんどん成長して、やがて葉の陰に空の鳥が巣を作れるほどの大きな木となる。これは大袈裟なたとえではなく、実際パレスチナに自生する「からし種」の木そのものを描写しています。神の国はまさにこの「からし種」のように、大きく豊かに成長していくのだ、私たちの想像を絶するほどに広がっていくのだ、とイエスさまは言われたのです。確かに、その通りです。なぜなら今から2000年前にユダヤの片田舎でイエスさまによって蒔かれた福音の種は、十字架の死によって一度摘み取られてしまったかのように見えましたが、神の御手によって見事に復活し、今や世界の隅々にまで宣べ伝えられているからです。そうして、私たちもイエス・キリストという木に繋がることが出来た!キリストの木に、その枝として繋がることが赦されたのです。なんと有り難いことでしょうか。福音はかくも豊かに広がっていくのです。(日笠山)

* 新型コロナウイルス感染拡大のため、通常の礼拝がしばらく休止となりました。                                                      これからは毎週オンライン礼拝がおこなわれる予定ですが、このプログには牧師からいただく「Good News」による説教内容を掲載いたします。                                                                                   

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月6日「今日の礼拝堂」

2021年06月08日 | 今日の礼拝堂

               今日の礼拝堂(6月6日 聖霊降臨後第2主日)

    新型コロナウィルス感染拡大のため主日礼拝がお休みとなり、中島牧師によるオンライン礼拝が新札幌礼拝堂からYutubeで配信されています。ここでは週報にある「Good News」を掲載いたします。

                                   「  内  輪  」  マルコ3:20~35

   今週から三位一体の神が与えられた後の残りの半年を、聖霊降臨後として過ごしていきます。そのため、今年の福音書として与えられているマルコ福音書に戻ってきました。二か月近<マルコを読んでいませんから、何だか久々な気がしてきますね。

 久々に与えられたマルコ福音書の箇所は、3:20からのベルゼブル論争と小見出しが付けられた箇所でありました。この論争の始まりはイエスさまが悪霊に憑りつかれた人を癒したことでした。これによって悪霊を従わせることが出来るイエスさまを、ファリサイ派の人々は悪霊の王「ベルゼブル」に憑りつかれているとみなしたのです。しかしイエスさまは、ここで23節以下にあるように、比喩を用いて論敵に相対します。サタンの力は誰かを支配することではな<、力でねじ伏せ略奪することであり、サタンの力だけを行使するといったような事柄は起こりえないと語るのです。これ以降の論争については書いてありませんから、論争はこれで終わったとみなしてよいでしょう。しかし、ファリサイ派はこれ以降も明確に敵対していますので、イエスさまの答えに納得して引き下がったということでもないでしょう。いずれにせよ、イエスさまはサタンの内輪の人間ではないことを示すのです。

 そしてイエスさまは続<形で、31節以下の部分でご自身の内輪とはどのようなものであるかということも語っていますOそこではイエス様の血縁関係にある者たちが、実際イエスさまに付き従っているものを家族と述べることによって、逆説的に「家族ではない」と語られています。イエスさまとのつながりは、血の繋がりではなく、イエスさまに付き従う者、つまりは信仰によって作られ、信仰する者は全て家族として内輪に招き入れられていくのです。このことを、どれだけ受け入れられているでしょうか。聖霊によってその結びつきが与えられているにもかかわらず、疑う私たちがいないでしょうか。

 イエスさまは論争の中で、「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず」と語っています。何だかゾッとする言葉です。私たちは聖霊を信じていると思うのですが、しかしどこかで身を委ねきれていない部分もあると思うのです。ともすれば、私たちもこの「聖霊を冒涜する者」に該当してしまうのではないかと不安に思うかもしれません。

 しかし、ここで言われていることは、イエスさまを悪霊として、悪の手先とすることは赦されないということであり、イエスさまを疑ったりすることは「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」ということの中に含まれているのです。むしろイエスさまは私たちを悪霊の手から解放されるために悪霊と戦い、十字架の死によって悪霊に勝利された方であるのです。そのことによって、私たちは既にイエスさまによって内輪に、それこそ力づくで、イエスさまの家族として既に招かれているのです。安心して今日もまた味方でいてくださるイエスさまに信頼し、付き従っていきましよう。(中島)

* 新型コロナウイルス感染拡大のため、通常の礼拝がしばらく休止となりました。                                                      これからは毎週オンライン礼拝がおこなわれる予定ですが、このプログには牧師からいただく「Good News」による説教内容を掲載いたします。                                                                                   

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする