顕現後節第4主日
「今週の祈り: 聖なる神様。あなたは心の貧しい人々、心の清い人々に御国を与え、この世の知恵を空しいものとされました。私たちのことばと行いを通して、この世が御子の生涯を受け止めることができますように。義に飢え渇き、平和を力強く求める心を私たちに与えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン
(本日は、三浦神学生にとって新札幌礼拝堂における研修中最後となる説教により礼拝が持たれました。)
〇顕現後第4主日 説教 三浦神学生(週報掲載説教要旨) マタイ5:1~12
「 幸 い 」
本日の福音書のみことばは、「山上の説教」と呼ばれる、3章に渡る長大な説教の冒頭部分にあたります。病気を癒してくださるイエス様の評判がシリア中に広まり、ガリラヤ以外の地方からも、様々な病に苦しむ人や悪霊に取りつかれた人など、多くの人が集まっていた様子が描かれています。藁にもすがる思いでご自分のもとにたどり着いた人々を、イエス様はどのような思いでご覧になったのでしょう。また、そのような人々に御国の福音を宣べ伝えるために召された弟子たちに対して、何を教えようとなさったのでしょうか。
イエス様は何度も、「幸いである」という言葉を繰り返されます。ここでイエス様の言われる「幸い」は、「神様に祝福されている」ということを意味しています。旧約聖書の創世記には、天地創造の時、神様が生き物や人間に向かって「産めよ、増えよ」と言って祝福されたことが記されています。また神様はアブラハムを祝福し、彼の子孫を天の星や海の砂のように増やすことを約束されました。神様の祝福には、増し加えられ豊かになるという結果がついてくるのです。神様は与えることを喜ばれるお方なのです。何も持たず、ただひたすら神様を乞い求める人々を、神様は決して放っておかれないということを、イエス様は教えてくださっています。
とはいえ、実際のところ、誰が好んでこのような状況に身を置きたがるでしょうか。それはあまりに辛いことです。私はこのように語るべきなのかもしれません。「たとえ今苦しくても、悲しくても、迫害されても、神様を求めましょう。御国は私たちのものです。」と。けれども私は、今苦しみの只中にいる人間の生々しい痛みを置き去りにして、教科書を読むように語りたくありません。自分自身も心底苦しんだ経験があるから、なおさらそうすることができないのです。人が味わう苦しみや悲しみは、その人にしか分からない。分かることのできない私には、「貧しいあなたは幸いです。悲しんでいるあなたは幸いです。」などと語ることはできません。私という小さな人間の限界が、そこにはあります。
それでも、イエス様は仰います。「心の貧しい人は幸いだ。悲しむ人は幸いだ。」と、確信を持って語りかけられます。それは人間にはできないことです。神の御子でありながら、十字架において自ら、私たち人間の苦しみを引き受けられたイエス様が語ってくださるからこそ、このみことばは、聞く者に命を与える言葉となるのではないでしょうか。私たちには、そのイエス様が与えられているのだということを、深く受け止めたいのです。死から命を、弱さから強さを生み出される神様の知恵であるイエス様が、傍らにいてくださる。このイエス様を信じ、支えていただくから、私たちは弱くても強い。ひとりでは何も成し得ない私が、みことばを取り次ぐためにここに立ち、恐れず大胆に語ることができるのも、イエス様に支えていただいているからに他なりません。イエス様こそ、神様から私たちに与えられた祝福そのものなのです。イエス様を信じて従うことは、神様からの祝福を受け入れることなのだと思います。
心の貧しい人、それはあなたかもしれません。悲しむ人、それはあなたがいつも見かける人かもしれません。主の御名によって祈ります。その貧しさの中に、その悲しみの中に、どうか神様の祝福がありますように。イエス様という祝福を受け取ることができますように。そして、神様がその祝福を届ける使者として、私たち一人一人を召してくださいますように。アーメン。(三浦)
《来週の礼拝》
#2月5日 午前11時 顕現後第5主日礼拝
*司 式:中島和喜牧師
*説 教:中島和喜牧師「塩」
*奏 楽:滝田裕美さん
*聖書朗読:蔵谷俊夫さん
*礼拝当番:出口輝子さん、小笠原里子さん
*聖 書:イザヤ58:1-9a、コリント(Ⅰ)2:1-12、マタイ5:13-20
*讃 美 歌:213(1-3)、398(1,2,4)、257(1,2)、増補46