新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

1月29日「今日の礼拝堂」

2023年01月30日 | 今日の礼拝堂

    顕現後節第4主日    

今週の祈り: 聖なる神様。あなたは心の貧しい人々、心の清い人々に御国を与え、この世の知恵を空しいものとされました。私たちのことばと行いを通して、この世が御子の生涯を受け止めることができますように。義に飢え渇き、平和を力強く求める心を私たちに与えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

(本日は、三浦神学生にとって新札幌礼拝堂における研修中最後となる説教により礼拝が持たれました。)

 

 〇顕現後第4主日  説教 三浦神学生(週報掲載説教要旨) マタイ5:1~12

                                   「 幸   い 

本日の福音書のみことばは、「山上の説教」と呼ばれる、3章に渡る長大な説教の冒頭部分にあたります。病気を癒してくださるイエス様の評判がシリア中に広まり、ガリラヤ以外の地方からも、様々な病に苦しむ人や悪霊に取りつかれた人など、多くの人が集まっていた様子が描かれています。藁にもすがる思いでご自分のもとにたどり着いた人々を、イエス様はどのような思いでご覧になったのでしょう。また、そのような人々に御国の福音を宣べ伝えるために召された弟子たちに対して、何を教えようとなさったのでしょうか。

イエス様は何度も、「幸いである」という言葉を繰り返されます。ここでイエス様の言われる「幸い」は、「神様に祝福されている」ということを意味しています。旧約聖書の創世記には、天地創造の時、神様が生き物や人間に向かって「産めよ、増えよ」と言って祝福されたことが記されています。また神様はアブラハムを祝福し、彼の子孫を天の星や海の砂のように増やすことを約束されました。神様の祝福には、増し加えられ豊かになるという結果がついてくるのです。神様は与えることを喜ばれるお方なのです。何も持たず、ただひたすら神様を乞い求める人々を、神様は決して放っておかれないということを、イエス様は教えてくださっています。

とはいえ、実際のところ、誰が好んでこのような状況に身を置きたがるでしょうか。それはあまりに辛いことです。私はこのように語るべきなのかもしれません。「たとえ今苦しくても、悲しくても、迫害されても、神様を求めましょう。御国は私たちのものです。」と。けれども私は、今苦しみの只中にいる人間の生々しい痛みを置き去りにして、教科書を読むように語りたくありません。自分自身も心底苦しんだ経験があるから、なおさらそうすることができないのです。人が味わう苦しみや悲しみは、その人にしか分からない。分かることのできない私には、「貧しいあなたは幸いです。悲しんでいるあなたは幸いです。」などと語ることはできません。私という小さな人間の限界が、そこにはあります。

それでも、イエス様は仰います。「心の貧しい人は幸いだ。悲しむ人は幸いだ。」と、確信を持って語りかけられます。それは人間にはできないことです。神の御子でありながら、十字架において自ら、私たち人間の苦しみを引き受けられたイエス様が語ってくださるからこそ、このみことばは、聞く者に命を与える言葉となるのではないでしょうか。私たちには、そのイエス様が与えられているのだということを、深く受け止めたいのです。死から命を、弱さから強さを生み出される神様の知恵であるイエス様が、傍らにいてくださる。このイエス様を信じ、支えていただくから、私たちは弱くても強い。ひとりでは何も成し得ない私が、みことばを取り次ぐためにここに立ち、恐れず大胆に語ることができるのも、イエス様に支えていただいているからに他なりません。イエス様こそ、神様から私たちに与えられた祝福そのものなのです。イエス様を信じて従うことは、神様からの祝福を受け入れることなのだと思います。

心の貧しい人、それはあなたかもしれません。悲しむ人、それはあなたがいつも見かける人かもしれません。主の御名によって祈ります。その貧しさの中に、その悲しみの中に、どうか神様の祝福がありますように。イエス様という祝福を受け取ることができますように。そして、神様がその祝福を届ける使者として、私たち一人一人を召してくださいますように。アーメン。(三浦)

 

 《来週の礼拝》                                  

#2月5 午前11時 顕現後第5主日礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「塩」

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:蔵谷俊夫さん

礼拝当番:出口輝子さん、小笠原里子さん

聖  書:イザヤ58:1-9a、コリント(Ⅰ)2:1-12、マタイ5:13-20

讃  美 歌:213(1-3)、398(1,2,4)、257(1,2)、増補46

 


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1月22日「今日の礼拝堂」

2023年01月24日 | 今日の礼拝堂

    顕現後第3主日    

今週の祈り: 主なる神様。あなたの慈しみはいつも私たちと共にあり、進む道を先立って導き、またその後ろを守ってくださいます。御光の中へと招き、御子の十字架によって与えられる善き道の歩みを導いてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

 

 

〇  顕現後第3主日  説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) マタイ4:12~23

                 「 宣教の始まり 」

 イエスさまの宣教活動が始まりました。その拠点として選ばれた場所は、ガリラヤ湖畔の町カファルナウム。なぜ、イエスさまはユダヤの中心地であるエルサレムやその近郊の町を選ばず、遠く離れたガリラヤを宣教の拠点とされたのか。洗礼者ヨハネが捕らえられたと聞いて怖気付き、エルサレムから遠く離れたガリラヤに退かれたのでは?と考える人もいますが、そうではないと思います。むしろ、当時辺境の地と言われ、エルサレムに住む人々たちからは蔑まれていたガリラヤでイエスさまが福音宣教を始められたのは、かの地で差別や貧困に苦しめられていた人々の悲しみに深く共感されたからでしょう。イエスさまの眼差しは、いつも弱く、小さくされた者たちに真っ先に注がれるからです。

 福音書の著者マタイは、『イザヤ書』の御言葉を引用しながらイエスが宣教の拠点としてガリラヤを選ばれた理由を示しています。「〜異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」旧約の時代から、異邦人が多く住んでいたガリラヤは、暗闇に住む民、死の陰の地に住む者と呼ばれていました。しかし、神は彼らを見捨てはしません。彼らが大いなる光を見、深い喜びと大きな楽しみを与えられる日が必ず来る、と約束されたのです。それは、誰によってもたらされるのか?預言者は語ります。「血を踏み鳴らした兵士の靴 血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた。ひとりのみどりごが私たちのために生まれた。ひとりの男の子が私たちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。」(イザヤ書9章4節〜5節)この平和の君と唱えられるひとりのみどりごこそ、イエス・キリストである、とイエスの弟子とされた者たちは信じたのです。真の平和は、大人がすぐに頼ろうとする軍事力によってではなく、何も持たないひとりのみどりごによって、ただ神にのみ依り頼む御子によって、もたらされるのだと。

 ひとりのみどりごとしてお生まれになったイエスさまは、成長して大人になり、福音宣教者として活動するようになってからも、神の御子の本質を失うことなく平和の君であり続けられました。然り、相変わらず手には何も持たず、ただ「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えられたのです。そしてその御言葉どおり、悲しみ苦しむ人々に自ら近づき、寄り添い、彼らに天の国の到来を告げられました。イエスの弟子の群れである教会が伝えるべきメッセージも変わりありません。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。イエス・キリストが私たちの所へ来てくださったことにより、神の国は近づいた!罪は赦された!救いは約束された!このグッドニュースを伝え続けるべく、私たちもペトロやアンデレ、ヤコブやヨハネに続いて、主イエスの弟子として従って参りましょう。(日笠山)

 

《来週の礼拝》                               

#1月29 午前11時 顕現後第4主日 礼拝

司  式:日笠山吉之牧師

説  教:三浦愼里子神学生「幸い

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:楢戸恵子さん

礼拝当番:出口輝子さん、小笠原里子さん

聖  書:ミカ6:1-8、コリント(Ⅰ)1:18-31、マタイ5:1-12

讃  美 歌:189、347、増補35

 


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1月15日「今日の礼拝堂」

2023年01月19日 | 今日の礼拝堂

    顕現後第2主日    

今週の祈り: 私たちを贖う方、私たちの力である聖なる神様。聖霊によって私たちを永遠に捉えてください。あなたを礼拝し忠実に仕える恵みを与え、あなたに従う喜びを見出すことができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

 

 #礼拝の中で、渡辺郁子さんの転入式が行われました。

 

〇  顕現後第2主日  説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) ヨハネ1:29~42

                 「 見   た 」

 2023年が早くも半月ほど経ちました。いつの間にか過ぎ去っていく時間の流れにどこか寂しさを感じつつも、それ以上に「冬よ早く過ぎ去れ」という願いが強まる今日この頃です。寒くなりましたので、皆さまも体調にはお気を付け下さい。

 さて、今日は洗礼者ヨハネとイエス様との出会い。そして最初の弟子たちが招かれていく場面が与えられました。二つの場面が一度の礼拝において与えられているわけですから、この二つにおいて共通する部分を探すことは重要でありましょう。共通していることは、端的に言えば「主の招き」という恵みが語られていることです。まず洗礼者ヨハネに起こった招き、それは最初の29節に示されています。「ヨハネは、自分の方ヘイエスが来られるのを見て」とありますが、つまりイエス様はヨハネの方に向かってこられたわけです。この箇所の直前でヨハネは「後から来られる方」について証ししていたのであり、イエス様が神から遣わされた方であることを知った上で、そのヨハネに対してイエス様から会いに来られるという招きが起こるのです。そしてヨハネは「神の子羊だ」という信仰告白を行うのです。つまり、神を自ら手繰り寄せるような信仰ではなく、神の方から私たちの下に来られ、信仰へと招いてくださるのだという、神の働きによって守られる信仰の歩みが示されたのです。そしてそれが今度は弟子たちにも起こっていきます。しかし今度は、イエス様ご自身ではなく、信仰を告白したヨハネの証しを通して招かれていくのです。これは私たちに起こる現実を表しているとも言えるでしょう。誰かを通して、あるいは何かを通して、神があなたを招くのだということが示されていくのです。

 今日の箇所はただ招かれて終わりではなく、招かれた先でどうしたら良いかということも示されていきます。弟子たちが招かれた際、イエス様は「何を求めているのか」と問うています。言い変えれば、「何を求めたらよいか」という問いでもあるでしょう。そのことは弟子たちが発した「どこに泊まっておられるのですか?(38)」からも見出されます。「泊まる」という言葉は「留まる」「つながる」という意味の言葉であり、どうなれば神につながったということなのかという問いでもあり、私たちが根本的に抱える「そもそも神の救いとは何であるのか」という問いでもあるのです。それに対して、「来なさい、そうすれば分かる(39節)」とイエス様は語ります。イエス様に付き従うところで、私たちにはその救いの意味を理解していくことが出来るのです。その一端は、既に知っている人も多いと思うのです。愛とも慰めとも希望とも呼べるあなたが知っている救いが、神に従うところに与えられていく。そのことが神の招きを通して、私たちの人生に与えられていったのです。今まさにみ言葉を通して招かれているあなたには必ず救いが果たされる。そのことに信頼して、安心して遣わされて参りましょう。(中島)

 

《来週の礼拝》                               

#1月22 午前11時 顕現後第3主日 礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「射し込む

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:青木比呂子さん

礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん

聖  書:イザヤ8:23-9:3、コリント(Ⅰ)1:10-18、マタイ4:12-23

讃  美 歌:297、290、増補35

 


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1月8日「今日の礼拝堂」

2023年01月09日 | 今日の礼拝堂

    主 の 洗 礼    

今週の祈り: 父なる神様。主イエスが洗礼を受けられたとき、あなたは「私の愛する子」と告げ、聖霊によって油を注がれました。キリストと一つになる洗礼を受けるすべてのあなたの子どもが、その召しに忠実であるよう、あなたの霊を与えてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

*本日の礼拝は信徒礼拝で行われましたので、「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 

 〇主 の 洗 礼  説教 三浦神学生(週報掲載説教要旨) マタイ3:13~17

                  「 今は、止めないでほしい 」

 明けましておめでとうございます。どのような年末年始を過ごされましたか?きっとそれぞれの場所で、神様が共にいてくださったことでしょう。この新しい年も健康が守られ、私たち皆にとって良い一年となることを祈ります。

 さて、本日の福音書のみことばは、始まりの時に読まれるのにふさわしい箇所であると思います。洗礼とは、新たに生まれることを意味しているからです。洗礼者ヨハネが授けていた本来の洗礼の方法は、ヨルダン川に体全体を沈め、再び引き上げるというものでした。これは、体が水に沈められることで、罪にまみれた古い人が溺れ死に、新しい人が恵みのうちに生まれて立ち上がるということを意味しています。洗礼の大きな恵みは、罪にまみれ、本来は滅びるべき者であるにもかかわらず、神様がその罪をなかったものと見なしてくださるというところにあります。洗礼は、神様の救いの御業の約束です。クリスチャンは生涯、この洗礼の約束の中で、その光に照らされ、霊的な導きを受けながら生涯を歩みます。いかなる状況にあっても、神様と結んだ約束に立ち返り、安心して生きることができるのです。

悔い改める必要のない方が、わざわざ洗礼を受けに来たことで戸惑いを覚えるヨハネに、イエス様はこう仰います。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と。おびただしい人が罪赦されることを切実に願い、新しく生まれようと身を沈めた川の水の中に、神の御子が身を沈められた。人々と同じくひとりの人間として洗礼を受けることで、ご自分を罪ある存在となさったのです。人々の罪の中に身を沈め、全人類の罪を引き受けること。それこそが「正しいこと」、すなわち神様の意志でした。

 イエス様は、罪の汚れの中に自らを沈め、汚れた者となられました。イエス様は、罪人の一人として十字架の上で死なれました。キリストの十字架は誰のためのものであったか。それは、この世の最も小さい一人(あなたや私)のためのものでした。ですから、イエス様が受けた洗礼と私たちの受けた洗礼との関係を考える時、このようにも思うのです。洗礼によってキリストに結ばれた時、私たちもこの世の最も小さい一人と結ばれたのだと。洗礼は、私たちを広い世界と結びつけるものでもあるのです。私一人の救いにはとどまらない洗礼の恵み、言い換えればクリスチャンとしての責任があるということも、忘れてはならないことだと思います。

どのようなきっかけで受けたとしても、記憶に残っていようがいまいが、洗礼とは、神様が私たちを救うために働いてくださった、神様からの大事な贈り物であることに変わりありません。そこに込められた神様の深い愛と憐みは、どんな人にも等しく降り注ぎます。私たちはその愛と憐みに感謝して、恵みを受け取るのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」人々の罪を背負い、壮絶な苦難の道を歩み始めたイエス様に、神様は聖霊を送り、その背中を押されました。三位一体の神様が総力を挙げて取り組まれるほどに、私たちは深く愛されています。その思いを、誰にも止めることはできません。一年の始まりの時、いえ、どんな時でも、キリストと結ばれた洗礼の出来事へと立ち返りましょう。そして、この礼拝堂からそれぞれの場所へと、広い世界へと、送り出されていきましょう。(三浦)

 

《来週の礼拝》                               

#1月15 午前11時 顕現後第2主日 礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「見た

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:小笠原里子さん

礼拝当番:小川敦子さん、小笠原里子さん

聖  書:イザヤ49:1-7、コリント(Ⅰ)1:1-9、ヨハネ1:29-42

讃  美 歌:188(1-3)、56(1-3)、増補35

 


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1月1日「今日の礼拝堂」

2023年01月03日 | 今日の礼拝堂

    主 の 命 名

今週の祈り: 永遠の父である神様。あなたは受肉した御子を「イエス」と名付け、救いのしるしとしてくださいました。すべての民の心に世の救い主、主イエスの愛を注いでください。あなたとと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン

 

〇  主 の 命 名  説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) ルカ2:15~21

                                   「 すべて心に納めて 

 遅ればせながら、クリスマスおめでとうございます。札幌教会での最後のクリスマスというのにコロナに罹ってしまい、皆さんと一緒にクリスマスを迎えることが来ませんでした。申し訳ありません。おかげさまですっかり元気になりましたし、クリスマスはまだ続いていますから、気を取り直して残り3ヶ月間を皆さんと過ごして参りたいと思います。

さて、教会の暦の上では今日を「降誕節第2主日」とも「主の命名」ともあるいは「新年」とも呼んで良いことになっていますが、例年にならって「主の命名」としました。主の命名とは、私たちの救い主としてお生まれになられた主が「イエス」と命名されたことを意味します。それは、キリストがお生まれになって八日目のことでした。

親は子を授かると、どんな名前をつけようかと一生懸命考えるものです。そこには、えてして親としての願いや夢が託されます。時にはそれが子どもにとって、後々プレッシャーとなる場合もあるかもしれません。それでも親が授かったばかりの子を抱きしめ、その子の行く末を思い描きながら命名するという行為は、人にのみ許された神の恵みでありましょう。しかし、ヨセフとマリアの夫婦にはそれが許されませんでした。というのも「イエス」という名前は、天使がそう命名するよう告げられたものだったからです。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」(ルカ1章30〜31節)「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1章20〜21節)然り、イエス・キリストはただ両親を喜ばせるために生まれて来たのではなく、人々を罪から救うためにこの世にお生まれになられたのです。

 神の御子イエス・キリストの誕生は、その両親として選ばれたマリアとヨセフをもってしても理解できないことの連続でした。天使のお告げに、マリアはすぐさま反問しました。「どうしてそのようなことがありえましょうか」。しかし、一呼吸おいて彼女は応えるのです。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」このマリアの信仰が、今日の日課にも現れています。キリスト誕生の知らせを伝えに来た羊飼いたちの話しを不思議に思いながら聞いていた人々の中で、ただ一人マリアだけは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」のです。こうして、キリストがイエスとして母マリアに育てられていきました。私たちに起こるすべての出来事にも意味があります。そこには、神の見えざる御手が働いておられるからです。新しい年も、すべてのことを心に納め、心の内で思い巡らし、神に祈りつつ、歩んで参りましょう。(日笠山)

 《来週の礼拝》     *信徒礼拝で行われます。                             

#1月8 午前11時 主の洗礼 礼拝

司  式:滝田裕美さん(代行

説  教:滝田裕美さん(代読)「見過ごす」

奏  楽:若井裕子さん

聖書朗読:小笠原里子さん

礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん

聖  書:イザヤ42:1-9、使徒10:34-43、マタイ3:13-17

讃  美 歌:211、60(1-3)、増補35

 

 


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