新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

11月22日「今日の礼拝堂」

2020年11月27日 | 今日の礼拝堂

    聖霊降臨後最終主日    

今週の祈り: 力と強さあふれる神さま。御子は私たちに仕える道を示してくださいました。恵みの富を受け継ぐ者として、正しいことを知る知恵と、あなたの造られた世界に仕える力を与えてください。あなたと聖霊と共にただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 *新型コロナウイルス感染対策のため、本日も「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 〇聖霊降臨後最終主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) マタイ25:31~46

                                   「 裁   き 

 早いもので、今日で教会暦は一年の終わりを迎えます。気持ちは段々とクリスマスに向かっているかもしれません、しかし、私たちは教会暦の一年の終わりの時を大事に過ごさなければなりません。

 教会の一年の終わりは、いつもこうして終末について考える時が与えられます。その中でも、今日与えられた「最後の審判」と呼ばれる箇所は、キリスト教全体が持つ終末のイメージを定着させた箇所と言っても良いでしょう。終わりの時には、審判の時がやってくる。そこで晴れて合格すれば、天の国に招かれる。終末というのはそういうものであると理解されてきました。最も有名なのであれば、バチカン宮殿の礼拝堂の天井に書かれた、ミケランジェロの最後の審判でありましょう。右と左に分けられていく様は、私たちの最後の審判のイメージを良く表していると思います。事実、今日の箇所では、そのようなイメージで最後の審判は語られているのです。

 今日の箇所にくるまで、イエスさまは終末の時に起こる裁きについてはたとえ話でしか話してきませんでしたが、今日の箇所では実際に起こる出来事として語られています。そこで語られたものが「最後の審判」であり、そこには業による救いについて書かれています。言い換えれば、教会に所属していたとしても、どうなるかは分からないという事がマタイによって語られていると言っても良いでしょう。

マタイ福音書は、常に教会のことが念頭に置かれて語られていると考えられています。教会での生活、指針、規律そういったものが描かれると同時に、油断するなということがいつも語られてきました。それはひとえに、この終末に向かっているからと言う警告でもあるのでしょう。であれば、私たちはこの終末を通して、何を考えれば良いでしょうか。警告として受け取ったところで、私たちは「では善い行いをしましょう」となるでしょうか。果たして、そのような思いの中で、善い行いは生まれるのでしょうか。

アウグスティヌスという神学者は「神を愛し、自分の好きなことをしなさい。」と述べたとされています。これは、神への愛は「自分の好きなこと」を神の好きなことに変えるというのです。私は、ここにこそ終末への真理が語られていると思います。今日の箇所において、善い行いをした人たちは、自分の善い行いに気が付いていません。それは、愛に生きるところでは、自分の思いがけない善い行いをしていくことになるということです。私たちが神の愛を信じ、その愛に満たされていくとき、善い行いへといつの間にか導かれているのです。それこそが、終末への最も良い備えであるのです。

この年の暮れに、私たちは確かに神に愛されているのだということを思い起こしたいのです。その愛を受けて、今日もまた誰かに愛が伝えられていくようにと願いつつ、新しい一年も神と共に、好きに生きていきましょう。(中島)

 

《来週の礼拝》                               

#11月29日 午前11時 待降節第1主日礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「人の子」

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:青木比呂子さん

礼拝当番:小川照美さん、小笠原里子さん

聖  書:イザヤ63:19b-64:8、コリント(Ⅰ)1:3-9、マルコ13:24-37

賛  美  歌:7(1,3)、308(1,2),374(1,3)

     


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11月15日「今日の礼拝堂」

2020年11月19日 | 今日の礼拝堂

      聖霊降臨後第24主日    

今週の祈り:憐れみ深い正義の主、地とそこに住むすべての民はあなたのものであり、私たちのものはすべてあなたからいただいたものです。正義と知恵をもってあなたに仕える心を呼び起こし、あなたが来られる日を喜び迎える備えをさせてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

 *新型コロナウイルス感染対策のため、本日も「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 〇聖霊降臨後第24主日説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) マタイ25:14~30

                                   「 忠実な良い僕 」

 教会の1年も残すところ2週間となりました。今日は聖霊降臨後第24主日。私たちに与えられた御言葉は、今日も「終わりの日」すなわち「終末」についてのメッセージです。  

 先週の日課『マタイ福音書』25章1節〜13節は「十人のおとめのたとえ」でした。そこでは、私たちが主イエスと共に神の喜びの宴に集うためには、主を迎えるための準備が必要であることが語られていました。賢い五人のおとめたちが花婿イエスを迎えるために、ともし火だけでなく油壺も準備していたように、私たちもそれぞれの仕方で主を迎える準備がある。イエス・キリストを信じ、洗礼を受け、救いの約束に与ったからといって、何もせずにただぼんやりと主を迎えれば良い、と言うのではない。キリストが、私たち一人一人に信仰者として期待しておられる生き方がある筈だ。それをわきまえ、信仰者としての証しを立てながら、日々を歩んで行くこと。神から与えられた人生を最後までしっかりと歩み通すこと。その大切さが語られていたと思います。

 今週の福音もその続きです。「十人のおとめのたとえ」に続くのは「タラントンのたとえ」です。タラントンとは、当時用いられていた通貨の単位で、6000デナリオンに相当します。デナリオンは、新約聖書にもよく出てくる単位なのでご存知の方も多いでしょう。1日の労働賃金に当たる単位です。ですから1タラントンは、その6000倍。それが今日のたとえ話に出てきたように、2タラントン、5タラントンともなると、かなりの額のお金になります。現在の貨幣価値に換算すると、1タラントン=5000万円、2タラントン=1億円、5タラントン=2億5000万円となるでしょうか。それほどの大金を主人は僕たちに託して、旅に出たのです。14節「ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けて旅に出かけた」。

 ここで主人が僕たちに財産を預ける時に、「それぞれの力に応じて」預けたと言うのがポイントです。ある僕は、才覚もあるし、仕事もバリバリ出来るタイプだから、たくさんのお金を預けても大丈夫。この僕は、体が弱くて仕事は出来ないだろうから無理をしないよう、でもせめて銀行に預けることくらいはやってくれる筈だ、と。「才能」や「素質」と言う意味を持つ英語の「タレント」の元になった「タラントン」。然り、神様は私たち一人一人に異なった才能や素質や賜物を与えてくださっているのです。それを私たちがいかに感謝し、豊かに用いていくか。単なる自己実現のためだけにではなく、隣人のために、神の栄光を表すために、神から与えられた賜物を用いていくか。それを主イエスは私たちに問われているのです。(日笠山)

 

《来週の礼拝》                               

#11月22日 午前11時 聖霊降臨後最終主日礼拝

司  式:日笠山吉之牧師

説  教:日笠山吉之牧師「永遠の命」

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:小川敦子さん

礼拝当番:楢戸恵子さん、小笠原里子さん

聖  書:エゼキエル34:11-16,20-24、エフェソ1:15-23、マタイ25:31-46

*賛  美  歌:267、138(1,2,5)、140


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11月8日「今日の礼拝堂」

2020年11月14日 | 今日の礼拝堂

    聖霊降臨後第23主日   *信徒礼拝で行われました。 

今週の祈り: 正義と愛の神さま。あなたは、御子の言葉で私たちの生涯を照らしてくださいます。なくてはならないその光を受けて、私たちが他の人々の必要のも気づくことができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

 *新型コロナウイルス感染対策のため、本日も「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 

 〇聖霊降臨後第23主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) マタイ25:1~13

                                   「 眠    気 」

 先週、先々週と、私たちは「全聖徒の目」「宗教改革生口」という特別な玉目を過ごしてきました。ですから、聖霊降臨後としての主日は三週間ぶりです。しかし、その間も聖霊降臨後としての週は同時に進んでいましたから、三週間前は聖霊降臨後第20主目として22章を読んでいたのに、今日はいきなり第23主日として25章を読むことになりました。物語も終盤と言って良いでしょう。

マタイ福音吝は24章から、「主の再臨」と「終末の審判」についての教えがまとめて記されています。それらの教えは、どこか旧約聖書の時代の裁きのように、威嚇的な性格を含んだ文章と言って良いでしょう。常にその教えの裏側には「気を付けていなさい」という警告が含まれています。

今日の箇所もまた、警告が語られた箇所と言っても良いでしょう。5入の愚かな乙女と、5人の賢い乙女。花婿を迎え入れる際、思いの外遅くなった花婿に対して、賢い乙女はあらかじめ用意していた油を用い灯りを点けた。他方で、愚かな乙女は油が切れてしまい灯りを点けられず、結局祝宴から締め出されてしまうという話でした。そしてイェスさまから「目を覚ましていなさい」「その日、その時を知らないからだ」と言われてしまうのです。明らかに、私たちに警告しているのです。しかし、私たちは常に目を覚ましているというのは難しいことのよう思ってしまいます。

この箇所を読んで、私たちはつい「目を覚ましている」とは「常に神を信じ、終末の時を覚え、裁きに備え続けなければならない」と考えてしまうこともあります。しかし、今日の箇所で賢い乙女も眠気に負けて寝ているのです。目を覚まし続けていたわけではありません。5大の賢い乙女にも眠気が襲ったように、私たちも眠気に襲われると表現した方が良いような、信仰の葛藤が襲うこともあるでしょう。常に裁きに備え続けることの難しさは知っていると思うのです。しかし、それは裁きに備えていない状況、というわけではないのです。

ルクーは終末に対して、「たとえ明日、世界が終わるうとも、私は今日りんごの木を植える」と述べました。まさに、神に信頼した姿であり、「目を覚ましていた」状態であったのです。不必要に裁きに脅えるのではなく、神の十字架によって贖われたことを信じ、平安の中で生きていく。それが、ルターが示した忠実な姿です。私たちもこのことを思い起こしつつ、安心して神の僕とされている自分をまず享受していきたいのです。

25章で裁きが教えられた後には、いよいよ十字架が描かれていきます。それは、私たちがどれだけ罪を自覚しようとも、その罪も含めて全てを赦し、神が受け入れてくがさるという愛が語られていくのです。裁きだけに目を向けるのではなく、私たちには絶えず愛され続けていることを信頼して、平安と共に日々を過ごしていきたいと願います。(中島)

 

《来週の礼拝》                               

#11月15日 午前11時 聖霊降臨後第24主日礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「賜物」

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:井上 聡さん

礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん

聖  書:ゼファニア1:7,12-18、テサロニケ(Ⅰ)5:1-11、マタイ25:14-30

*賛  美  歌:328、346、404


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11月1日「今日の礼拝堂」

2020年11月03日 | 今日の礼拝堂

      全 聖 徒 の 日      

今週の祈り: 全能の神さま。あなたは、御子、主イエスの神秘のからだの交わりに民を編み込み、一つにしてくださいました。信仰と献身を貫いた聖徒たちに倣って、あなたを愛する者たちに用意された言い尽くせない喜びに与らせて下さい。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

 *本日は天の国に召された多くの兄弟姉妹を偲びつっつ、新型コロナウイルス感染対策のため「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 全聖徒の日 説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) マタイ5:1~12

                   「 天の国に招かれた人たち 」

 今年も「全聖徒の日」が巡って参りました。「聖徒」とは、キリストを信じて救われ、義とされ、聖とされて、主のみもとに召されたすべての人々のことです。すなわち、私たちの信仰の先達者たちです。ですから、この日、私たちは彼らの懐かしいお顔の遺影を見ながら、その熱い信仰に思いをはせ、キリストの御言葉に耳を傾けながら、自らの信仰を省みるのです。キリストが「幸いである」と言われた人々のように、私も「心貧しき人」だろうか?「柔和な人」だろうか?「義に飢え渇」いているだろうか?「憐れみ深い人」だろうか?「心の清い人」だろうか?「平和を実現する人」となっているだろうか?と。

 キリストが語られたこれらの御言葉は、初めから「天の国」に召された人々に私たちの視線を促します。それは、最初の御言葉が「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」と始まることからも明らかです。ここで「心の貧しい人」と言われているのは「霊において貧しい人」、すなわち自分の霊の足りなさを知り、主の霊で満たしてくださいと祈り求めている人のことです。私たちの信仰の先達者たちを思い出してみましょう。自分は霊において十分だ!自分の信仰は完全だ!と思い上がった人は、誰一人としておられませんでした。それどころか、年を重ねるごとに自分の罪深さに思い至り、主のみ前で謙遜に頭を垂れた人ばかりでした。実に、信仰の先達者たちは「心貧しい」ことを知っている人たちばかりでした。だから、彼らはキリストから「幸いな人」と呼ばれ、父なる神がおられる天の国に招かれたのです。私たちの教会にはそのような信仰の先達者たちがたくさんおられ、私たちもその後に続くようにと祈っておられるのです。

 この1年に限って振り返っても、天の国に召された人たちが何人もおられました。札幌教会でも、恵み野教会でも、本当に敬愛する兄弟姉妹たちが次々に召されていきました。私自身、牧師として親しい交わりをいただいた方々ばかりなので、それらの方々とのこの世での別れが訪れるたびに胸を引き裂かれるような思いがしました。お一人お一人の名前を挙げてそれらの方々との思い出を語りたいところですが、それは皆さんも同じことでしょう。週報に挟まれた召天者名簿を見ながら、それぞれの方々との交わりを思い返してください。天に召された方々は、確かに今、私たちが住んでいるこの世界にはおられません。しかし、主なる神はこの世界も天の国も、すべてを支配しておられます。ですから、主を信じる信仰によって、この世界も天の国も一つとされている!つまり、私たちはいつも信仰の先達者たちとともに、場所は違っても同じ礼拝に与り、同じキリストの復活の命に生かされているのです。この世の現実に打ちひしがれて、とかくうつむきがちになる私たちですが、信仰の眼はしっかりと天に向けて歩んでいこうではありませんか。(日笠山)

《来週の礼拝》 *信徒礼拝で行われます。

*11月8日 午前11時  聖霊降臨後第23主日

司  式:滝田裕美(代行)

説  教:滝田裕美(代読)「眠気」

奏  楽:若井裕子さん

聖書朗読:蔵谷俊夫さん

礼拝当番:小川敦子さん、小笠原里子さん

聖  書:アモス5:18-24、テサロニケ(Ⅰ) 4:13-18、マタイ25:1-13

*賛  美  歌:181、137、200

                               # 11月4日(水)13:00~「聖書と祈りの会」が行われます。


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