聖霊降臨後最終主日
「今週の祈り: 力と強さあふれる神さま。御子は私たちに仕える道を示してくださいました。恵みの富を受け継ぐ者として、正しいことを知る知恵と、あなたの造られた世界に仕える力を与えてください。あなたと聖霊と共にただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン」
*新型コロナウイルス感染対策のため、本日も「短縮式文」により礼拝がもたれました。
〇聖霊降臨後最終主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) マタイ25:31~46
「 裁 き 」
早いもので、今日で教会暦は一年の終わりを迎えます。気持ちは段々とクリスマスに向かっているかもしれません、しかし、私たちは教会暦の一年の終わりの時を大事に過ごさなければなりません。
教会の一年の終わりは、いつもこうして終末について考える時が与えられます。その中でも、今日与えられた「最後の審判」と呼ばれる箇所は、キリスト教全体が持つ終末のイメージを定着させた箇所と言っても良いでしょう。終わりの時には、審判の時がやってくる。そこで晴れて合格すれば、天の国に招かれる。終末というのはそういうものであると理解されてきました。最も有名なのであれば、バチカン宮殿の礼拝堂の天井に書かれた、ミケランジェロの最後の審判でありましょう。右と左に分けられていく様は、私たちの最後の審判のイメージを良く表していると思います。事実、今日の箇所では、そのようなイメージで最後の審判は語られているのです。
今日の箇所にくるまで、イエスさまは終末の時に起こる裁きについてはたとえ話でしか話してきませんでしたが、今日の箇所では実際に起こる出来事として語られています。そこで語られたものが「最後の審判」であり、そこには業による救いについて書かれています。言い換えれば、教会に所属していたとしても、どうなるかは分からないという事がマタイによって語られていると言っても良いでしょう。
マタイ福音書は、常に教会のことが念頭に置かれて語られていると考えられています。教会での生活、指針、規律そういったものが描かれると同時に、油断するなということがいつも語られてきました。それはひとえに、この終末に向かっているからと言う警告でもあるのでしょう。であれば、私たちはこの終末を通して、何を考えれば良いでしょうか。警告として受け取ったところで、私たちは「では善い行いをしましょう」となるでしょうか。果たして、そのような思いの中で、善い行いは生まれるのでしょうか。
アウグスティヌスという神学者は「神を愛し、自分の好きなことをしなさい。」と述べたとされています。これは、神への愛は「自分の好きなこと」を神の好きなことに変えるというのです。私は、ここにこそ終末への真理が語られていると思います。今日の箇所において、善い行いをした人たちは、自分の善い行いに気が付いていません。それは、愛に生きるところでは、自分の思いがけない善い行いをしていくことになるということです。私たちが神の愛を信じ、その愛に満たされていくとき、善い行いへといつの間にか導かれているのです。それこそが、終末への最も良い備えであるのです。
この年の暮れに、私たちは確かに神に愛されているのだということを思い起こしたいのです。その愛を受けて、今日もまた誰かに愛が伝えられていくようにと願いつつ、新しい一年も神と共に、好きに生きていきましょう。(中島)
《来週の礼拝》
#11月29日 午前11時 待降節第1主日礼拝
*司 式:中島和喜牧師
*説 教:中島和喜牧師「人の子」
*奏 楽:滝田裕美さん
*聖書朗読:青木比呂子さん
*礼拝当番:小川照美さん、小笠原里子さん
*聖 書:イザヤ63:19b-64:8、コリント(Ⅰ)1:3-9、マルコ13:24-37
*賛 美 歌:7(1,3)、308(1,2),374(1,3)