新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前11時より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

8月1日「今日の礼拝堂」

2021年08月02日 | 今日の礼拝堂

    平 和 主 日    

今週の祈り: 全能の神さま。真理と平和の思いはすべてあなたがくださいます。あなたのすべての子どもたちの心に平和を愛する心を燃やし、あなたの知恵で諸国の指導者を導き、御国が平和のうちに前進し、全地をあなたの愛を知る知識で満たしてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 *今日も会堂に集まっての礼拝がもたれましたが、新型コロナウイルス感染対策のため「短縮式文」により行われました。

 〇平 和 主 日 説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨) ヨハネ15:9~12

                                   「 喜びが満たされるため 

 東京オリンピックが始まりました。コロナ禍の中で賛否両論ありながら1年遅れの開幕となりました。選手やスタッフだけでなく日々コロナの対応に追われている医療従事者たち、そして応援する一人一人が守られて、無事に閉幕することを祈るばかりです。

オリンピックは、平和の祭典と言われます。オリンピック憲章には、次のようにあります。「このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。」ここには、オリンピックに参加するすべての国の選手たちがいかなる差別も受けることなく、全く自由に自分の力を出し切る権利を持っていると謳われているのです。実際、選手たちは日夜スポーツマンシップに則って熱戦を繰り広げ、応援する私たちの心を熱くしてくれます。競技の後、勝者も敗者も共に健闘をたたえあう姿は実に清々しく、これぞオリンピック!平和の祭典と言われるゆえんだ、と思います。

今回オリンピックに参加したのは205の国と地域からです。それらの中には、政情が不安定な国があり、経済状況や食糧事情が大変な国があり…開催国である日本もコロナ禍で大変ですが、どこの国も何かしら問題を抱えています。それでも選手たちが同じ土俵に上がって全力を出し切って競技に挑む姿は、平和の象徴そのものではないでしょうか?なぜなら、そこには暴力はなく、選手一人一人が神から与えられた賜物を存分に発揮する姿を見出すことができるからです。もちろん勝負である以上、勝ち負けはつきものですが、彼らは手に武器を持たず、神から与えられた素手で持って、あるいは競技に必要な最小限の道具を手にして競技に臨みます。私はそこに『ミカ書』の御言葉の成就を見るのです。4章3節「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」私たちはもはや戦ってならない。二度と武器を持ってはならない。そうではなく、神から与えられた賜物を存分に用い、互いに手を取り合って歩んで行かなくてはならない!と、オリンピックを観戦しながら強く思わされます。

イエスさまは言われました。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるため」と。私たちは愛されることによって喜びが沸き上がります。愛と喜びは、既に神がキリストを通して私たちに与えてくださいました。従って私たちに与えられた役目は、それらの喜びと愛とを他者にも伝えること。それこそが、オリンピックのどんな競技よりも尊い私たちの長い人生をかけた競技ではないでしょうか。(日笠山)

《来週の礼拝》                               

#8月8日 午前11時 聖霊降臨後第11主日 礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「満たし」

奏  楽:若井裕子さん

聖書朗読:小笠原里子さん

礼拝当番:小川敦子さん、小笠原里子さん

聖  書:列王記上19:4-8、エフェソ4:25-5:2、ヨハネ6:35,41-51

賛  美  歌:181(1,3)、254(1,2)、276(1,3)


7月25日「今日の礼拝堂」

2021年07月26日 | 今日の礼拝堂

    聖霊降臨後第9主日    

今週の祈り: 恵みの神さま。あなたは私たちの心に、御言葉を慕い、真理に飢え渇く思いを起こしてくださいます。御子こそ天よりのまことのパンであることを悟り、このパンをすべての人々と分かち合うことができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 *今日も会堂に集まっての礼拝がもたれましたが、新型コロナウイルス感染対策のため、「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 〇聖霊降臨後第9主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) ヨハネ6:1~21

                                   「 教  訓 

 暖かくなってきた、というには少しばかり暑すぎる夏がやってきました。皆さん熱中症などにはお気を付けください。

 さて、今日はマルコではなくヨハネ福音書6章が与えられました。ヨハネ福音書は5章まででイエスさまについてのこと、奇蹟の力、権能、そういった神学的な主題が一通り語られているため、6章からは第二部として位置づけられることがあります。そんな第二部の始まりに描かれたのは「五千人の供食」「湖の上を歩く」という二つの奇蹟行為であり、イエスさまの旅路はイエスさまがその力をもって人々に恵みを与えるということから始まっていくとまず示されているのです。

 さて、そのような中で書かれた二つの奇蹟。とくに五千人の供食は全ての福音書に書かれていますが、ヨハネの特色としてはイエスさまがなさる奇蹟の業をより私たちの身近に起こる出来事として描き出していることでしょう。五千人の供食の場面では、他の福音書とは違い、イエスさまご自身がパンと魚を配ったことが書かれ(6:11)、救いを神が直接もたらされることが書かれています。また湖の上で荒波に襲われた弟子たちに対しても、「わたしだ。」と直接語りかけられ。神が共におられるという恵みがより深みと親しみをもって与えられていくことが示されているのです。私たちはこの神の恵みを大切に抱えていきたいのです。それは今更言うことではないかもしれませんが、今日の箇所だからこそ今一度そのことを思い起こしていきたいのです。

 五千人の供食の際に、イエスさまは「残ったパン屑を集めなさい(12節)」と言われました。他の福音書では配って終わりですがヨハネではわざわざパン屑を集めさせたことが書かれています。これは、出エジプトの時代に起こった出来事からの教訓でありましょう。かつてイスラエルの民が救い出された末に山の中を放浪していた際、空腹に嘆いていると神がマナを降らせ食べ物を与えたことが書かれています(出16章)が、その際に民は与えられたパン屑を腐らせてしまったのです。彼らは毎日与えられると言われたにもかかわらず、不安を感じ翌日までとっておいてしまったのです。まさに、不信仰の故に起きた出来事でありました。

 神の恵みを、余すことなく受け取り、腐らせてはならない。その教訓から、パン屑を集めているのです。そして集めたパン屑は12の籠がいっぱいになるほどであり、12という完全数が使われていることから、すべての人が満たされたということを示しているのでしょう。自らに与えられている恵みはあなたが満たされるように与えられていく。それはあなたのために神が直接お与えになる、あなたのための恵みであるということを今一度思い起こし、神の恵みを大切に抱えていきたいと願います。 (中島)

 

《来週の礼拝》                               

#8月1日 午前11時 平和主日 礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「愛とは」

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:蔵谷俊夫さん

礼拝当番:出口輝子さん、小笠原里子さん

聖  書:ミカ4:1-5、エフェソ2:13-18、ヨハネ15:9-12

賛  美  歌:271(1,2)、339,435(1,2)


7月18日「今日の礼拝堂」

2021年07月20日 | 今日の礼拝堂

    聖霊降臨後第8主日    

今週の祈り: 力と憐れみの神さま。あなたは羊飼いとして私たち養い守ってくださいます。御子の正義と平和をもたらすために、私たち一人一人を癒やし、一つの民としてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 *二ヶ月ぶりに会堂に集まっての礼拝がもたれましたが、新型コロナウイルス感染対策のため、本日も「短縮式文」により礼拝がもたれました。

 〇聖霊降臨後第8主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨) マルコ6:30~34,53~56

                                   「 触 れ る 

 今日与えられた聖書の箇所は、「5000人の給食」「湖の上を歩く」という二つの奇蹟物語の前後が選ばれています。なぜあえて前後だけが読まれたのか。その理由は先週からの続きとして読んでいくと少しばかり見えてきます。そのため少し分量を割いて先週の箇所に触れていきます。

 先週私たちは洗礼者ヨハネが殺害されるという残酷な箇所を読みました。しかしただ残酷な物語なのではなく、悔い改めに導く神の愛が見える箇所でもありました。洗礼者ヨハネは常に「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えたのであり、へロデに対しても同じようにそのことを行いました。そして彼が殺害された後、今度は神の独り子を通して悔い改めに導くという深い愛を示すと同時に、悔い改めに導くという一貫した目標があること示したのです。

 今日の箇所も6:6以下で派遣されていた弟子たちが帰還したところから始まりますが、彼らも派遣された先で「悔い改めを宣教した(6:12)」とありますから、「悔い改めの洗礼を宣べ伝える」という宣教の業を働く中で、今日のみ言葉を読むというのが舞台として設定されているのです。そこから考えるに、宣教の中で私たちは何をすべきかというのが今日のテーマでありましょう。

 前置きが長くなりましたので、早々に結部に触れていきましよう。帰ってきた弟子たちに対してイエスさまが「人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と述べられたところに今日の結論があります。一見するとただ休暇が与えられているように思われますが、「人里離れた所」という言葉が重要です。この言葉は1章でイエスさまが最初の奇蹟の後に祈るために退いた際(1:35)にも使われた言葉であり、つまり宣教から帰ってきた弟子たちは「人里離れた所」での「祈り」へと導かれているのです。この観点が非常に重要であります。

 私たちも宣教の働きに遣わされていくと、どうしても実働にばかり気を取られ、ついつい「祈ること」を忘れてしまうことがあります。牧師をしていますとより一層そのことを感じるのです。説教を作りながらも、注解書やパソコンとばかりにらめっこして、いつの間にか祈ることを忘れることもしばしばあります。しかし、私たちはそのように神に遣わされている時にこそ、「人里離れた所」つまりは心を静め忙しさから離れて、ただ神に祈ることが求められているのです。

 そして、祈る先で私たちは神に触れていくのです。53節以下では、イエスさまが触れることによって癒しがなされていったことが記されています。私たちはイエスさまに直接触れることは出来ないでしょう。けれど、祈ることを通して、神に触れるのです。ただ服や手に触れるよりももっと深く、その心で交わることが出来るのです。その喜びを覚えて、今日もまた共に、祈っていきましょう。(中島)

 

《来週の礼拝》                               

#7月25日 午前11時 聖霊降臨後第9主日礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「教訓」

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:小川敦子さん

礼拝当番:秋田直枝さん、小笠原里子さん

聖  書:列王下4:42-44、エフェソ3:14-21、ヨハネ6:1-21

賛  美  歌:188(1,3)、250(1,2)、307(1,2)


7月11日「今日の礼拝堂」

2021年07月13日 | 今日の礼拝堂

             今日の礼拝堂(7月11日 聖霊降臨後第7主日 )

    新型コロナウィルス感染拡大のため今週も主日礼拝がお休みとなり、日笠山牧師による新札幌礼拝堂におけるオンライン礼拝がYutubeで配信されています。ここでは週報にある「Good News」を掲載いたします。

                                   「  欲しいもの 」  マルコ による福音書

 本日の福音書の日課は、洗礼者ヨハネがヘロデ王によって処刑された出来事を伝えています。ヘロデ王とは、イエスさまが生まれた時に幼児虐殺を命じたあのヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスです。彼も父親に似て、残虐な権力者でした。しかし、彼以上に屈折していて、嫉妬深く、残忍だったのは彼の妻となったヘロディアです。彼女こそ、洗礼者を恨み、その命を奪いたいと願い、それを着実に実行するために娘まで利用したのです。

 とはいえ、この物語が事実であったかどうかは議論のあるところでもあります。というのも、同時代のヨセフスという歴史家が書き残した『ユダヤ古代誌』には、ヘロデ王が洗礼者ヨハネを処刑したのは人々からとても人望があったからだ、とあるからです。「そこでヘロデは、実際に革命が起きて窮地に陥り、その時になってほぞを噛むよりは、反乱に先手を打って彼を殺害しておく方が上策であると考えた」とも書かれています。この『ユダヤ古誌』はれっきとした歴史書ですから、そこに書かれている事柄も信憑性が高いのです。となると、洗礼者ヨハネの処刑の理由もヘロデ王の疑心暗鬼によるものだったと考えるのが事実に近いのかもしれません。一方『ユダヤ古代誌』には、王の妻ヘロディアも名誉心が高く、夫を言いくるめて色々な策略を弄したことが書かれていますから、おそらく洗礼者の殺害にも絡んでいるのでしょう。いずれにしても、夫婦揃って洗礼者ヨハネを葬り去ったことは確かです。特に王は、洗礼者の教えに喜んで耳を傾けていたにもかかわらず、最後は命を奪ってしまったのですから、その罪は到底許されるべきことではありません。

 この痛ましい事件から-人間の欲や怒り、嫉妬や恨みが引き起こした罪の現実から-私たちは何を学べば良いのでしょうか?この物語の一体どこに福音を見出すことが出来るのでしょう?私自身も困惑しています。ただ一つ言えることは、この洗礼者ヨハネの殉教の物語は、イエス・キリストの受難と十字架の予兆であるということです。キリストも、また私たちの罪の故に、私たちが抱くあらゆる欲望やプライド、嫉妬や恨み、怒りや拒絶の報いを一身に受け、十字架上に架かられた!そのキリストの赦しと愛とを、洗礼者の姿の中にも見ることが出来るのではないかと思うのです。これは単なる昔話でもなければ、キリスト者の信仰だけに関わる物語というわけでもありません。なぜなら今も私たちは、洗礼者ヨハネのように無実の罪で捕らえられ、虐待され、命を奪われている人々がいることを知っているからです。そのような人たちを助け出し、彼らと連帯し、この世界に真の平和を築き上げていくことはできないものでしょうか?神の愛と恵に溢れた世界を構築していくことはできないでしょうか?どうか一人一人にそのような力と霊とが神から与えられますように。(日笠山)

* 新型コロナウイルス感染拡大のため通常の礼拝が止されておりましたが、来週(18日)の礼拝から再開されます。                                                                                                                                         

《来週の礼拝》                               

#7月18 午前11時 聖霊降臨後第8主日礼拝

司  式:中島和喜牧師

説  教:中島和喜牧師「触れる」

奏  楽:滝田裕美さん

聖書朗読:青木比呂子さん

礼拝当番:小川照美さん、小笠原里子さん

聖  書:エレミヤ23:1-6、エフェソ2:11-22、マルコ6:30-34,53-56

賛  美  歌:189、357(1,3)、416(1,2)


7月4日「今日の礼拝堂」

2021年07月06日 | 今日の礼拝堂

               今日の礼拝堂(7月4日 聖霊降臨後第6主日)

    新型コロナウィルス感染拡大のため主日礼拝がお休みとなり、中島牧師によるオンライン礼拝が新札幌礼拝堂からYutubeで配信されています。ここでは週報にある「Good News」を掲載いたします。

                                   「  故   郷  」  マルコ6:1~13

今から4年前、生まれ故郷である北海道に牧師として遣わされた際、「放流した鮭が帰ってきた」と冗談を言いつつも、非常に温か<迎え入れてくださったことを昨日のことのように思い出します。故郷というものは、どこか温かく自分を迎え入れてくれる場所。そういったイメージが一般的かもしれません。

しかし、今日の箇所において、故郷は正反対の描かれ方がされています。 イエスさまの故郷はナザレというガリラヤ地方の小さな村でした。小さな村ですから、住んでいる人々は皆知り合いで、家庭環境などもそれぞれによく知っていたことでしょう。そのため、イエスさまのことも幼いころからよく知っていたのですから、今更預言者と言われても受け入れられないのです。さらに、当時において普通は父親の名前を使う状況の中でわざわざイエスさまを「マリアの息子(3節)」と呼んでいるのには、侮蔑的な意味合いが込められていると考えられます。イエスさまの出生が結婚する前だったことから、村の人は様々な憶測をたてていたのでしょう。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう(3節)」という言葉からもわかるように、彼らはマリアの不貞を疑っているのです。そういったことが絡み合い、ナザレの人々はイエスさまが預言者であることを受け入れられないのです。

今日の箇所は、確かに故郷や家族の間での宣教の難しさを語る一面がありますが、同時に人間の深い部分にある罪を引き出している箇所でもあるでしょう。ナザレの人々は最終的にイエスさまを拒絶しますが、しかしイエスさまの奇蹟や教えに「驚いて(2節)」いるのです。これまでのイエスさまの旅路の中でイエスさまと出会った人々と同じような反応を示しているのです。その上で彼らが拒絶した理由はイエスさまをよ<知っていたからです。これを言い変えると、彼らは自分たちの知っている知識の中に留まろうとしたのです。

これは私たちにも起こりうることでありましょう。私たちも全<の未知のもの、不可思議なものと出会うと、どうしてもそれをそのまま受け入れるというよりも、自分の知っている知識や経験の中で処理しようとしてしまいます。そして受け入れられるように形を変えて、受け入れたことにしてしまうのです。そのような罪が、故郷の人々を通して浮かび上がっているのです。

私たちは、イエスさまの教えをただ受け入れ、信じていきたいのです。奇蹟やみ言葉は、私たちの知識や経験の中に納まるようなことではないでしょう。しかし、形を変えずにそのまま受け入れていく。それは時に不安や恐れを引き出すものでありますが、しかしイエスさまを信じる信仰は、必ず私たちを救ってくださるのです(マルコ5:34)。今日もまた、イエスさまを信じ、イエスさまにその身を委ねて参りましょう。(中島)

 

 * 新型コロナウイルス感染拡大のため、通常の礼拝が7月11日(日)まで止となっています。                                                      それまで毎週オンライン礼拝がおこなわれる予定ですが、このプログには牧師からいただく「Good News」による説教内容を掲載いたします。