新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前11時より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

3月17日「今日の礼拝堂」

2019年03月18日 | 今日の礼拝堂

 四旬節第2主日    

今週の祈り:憐れみ豊かな天の父よ。あなたの道を離れて迷う者すべてを連れ戻し、今いちど、み言葉の真理を与えて信仰を強くしてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。

 

 

    〇四旬節第2主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨)ルカ18:31~43

           「 問  う

 旬節第二主日に読まれたのは、イエス様は三度目となるご自身の死と復活を予告する場面です。イエス様がこれから向かう歩みは死んで復活することであることをご自身の言葉で語ったのです。何とも、四旬節にはピッタリな箇所でありましょう。

 四旬節とはイエス様の十字架への道行きに思いを寄せながらも、同時に悔い改めの季節でもあり、私たちが神様へと方向を向き直すことを覚える季節であります。皆さんはそんな四旬節をいかがお過ごしでしょうか。きっと皆さん、四旬節には十字架への道行きと共に自らの罪を見つめ直していることでしょう。でもそれは表現を変えると、私たちは十字架と共に自らの罪を見つめ直すことが「できる」とも言えるかもしれません。私たちは「赦し」が前提にあるからこそ罪を見つめることが出来るのです。もちろん、それは悪いことではありません。むしろ、赦しがあるからこそ、罪ある者であろうとも、愛を受け取り悔い改めることが出来るのです。

 しかし、そのように赦しが前提にある中での悔い改めは、時に私たちの罪意識を軽いものへと変えてしまう事があります。赦しばかりを見つめ、自らの罪をそこまで見つめないことが起きてしまうのです。だからこそ、問うてほしいのです。今日の箇所を通して、自らの罪を問うて欲しいのです。

 死と復活の予告はマクイ・マルコにも描かれており、ルカ福音書での予告も他の福音書と比べてほとんど変わりはありません。しかし、ルカ福音書ではイエス様が受ける仕打ちに関して一つだけ付け加えられているのです。それは「乱暴な仕打ち(32節)」という言葉です。「乱暴」と訳された「ヒュブリゾー」という言葉は「ヒュブリス」という名詞の言葉が変化したものです。そして「ヒュブリス」という言葉は「傲慢」という意味を持つ言葉です。つまり、人間の傲慢がイエス様に「乱暴」な仕打ちをするのだということをルカ福音書はあえて付け加えているのでしょう。

 そしてこれは、読者である私たちに投げかけてくる言葉でありましょう。イエス様を十字架につけたのは、「そこにいたユダヤ人」ではなく、人間の「傲慢」なのだと。そして同時に、読者に投げかけてくるのです。「あなたの内にも、傲慢があるのではないか?」と。どうでしょう。皆さんの内にもありますかね?傲慢な部分は。きっと誰しもが「傲慢」を抱えていると思うのです。そしてその傲慢こそがまさしく「罪」そのものであるのです。私たちはその傲慢さをこの四旬節に見つめると共に、もう一度問わなければなりません。

 私たちは十字架を見上げる時、そこに救済を見ます。しかし十字架は同時にあなたの傲慢の果てをまざまざ見せつけてくるのです。あなたの傲慢の故に、イエス様は十字架に架けられたのだと。その罪を見つめた先で、私たちは十字架の赦しと出会うのです。その赦しの恵みがいかに大きなものであるのかを私たちはこの四旬節の季節に確かめるのです。問う事を恐れずに、自らの罪を向き合っていきましょう。(中島)

             《来週の礼拝》

〇3月24日 午前11時 四旬節第3主日礼拝

〇司  式:日笠山吉之牧師                                                                                   〇説  教:日笠山吉之牧師「今日もこのままに」
〇奏  楽:滝田裕美姉  
〇聖書朗読:小川敦子姉
〇礼拝当番:藏谷俊夫兄、小笠原里子姉

〇聖   書:出エジプト3:1ー15,コリント(Ⅰ)10:1-13、ルカ13:1-9 
〇讃美歌:73,308(1-3)、308(4-5)、393、聖餐261(1-3)

 #3月20日(水)10:00~オープンチャーチを行います。

    どなたでもお気軽にお立ち寄りご参加ください。   


3月10日「今日の礼拝堂」

2019年03月10日 | 今日の礼拝堂

 四旬節第1主日    

今週の祈り:主なる神さま。あなたは昔、その民を荒野の中を約束の地へ導かれました。今、この世の荒野で救い主に従って歩む民の群れを、栄光のみ国へ導いてください。あなたと聖霊と共にtだひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。

 

 

    〇四旬節第1主日説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨)ルカ4:1~13

           「聖霊に満たされて

  教会の暦は「四旬節」に入りました。これからイースターまでの40日間、私たちはキリストが歩まれた受難の道を共に辿りつつ、キリストが架かられた十字架の恵みを思い起こしていくことになります。と同時に、それは私たちが自分の内にある罪を見つめ、キリストのあがないのゆえに神に赦しを願うことでもありますから、悔い改めの時でもあります。なぜなら悔い改めとは、方向転換のことだからです。私たちが自分の思いのままに生きるのではなく、神に立ち帰って罪を告白する。そして、キリストが私たちのために担われた十字架を仰いで、赦しをいただく。これはも言うまでもなく私たちの日々の信仰生活そのものですが、特にこの四旬節には求められていることではないでしょうか。

  さて、四旬節最初の主日の福音書の日課は、荒れ野における悪魔の誘惑です。悪魔というと、どのようなものを想像しますか?隙あらば私たちに危害を及ぼそうと狙っている邪悪で非道な存在でしょうか?ここで「悪魔」と呼ばれているディアボロスは「中傷する者」という意味です。「中傷する者」なら、周りにたくさんいるのではないでしょうか。私たちも信仰者であるがゆえに、中傷されることはしばしばあると思います。また「誘惑を受けられた」と訳されている言葉は、もともとは「試みられた」という意味を持っています。つまり、イエスさまはご自身の信仰を中傷する者から試みられたのです。これは、この荒れ野における40日間のみの出来事ではありませんでした。あらゆる誘惑を終えた悪魔はいったんイエスから離れますが、それは「時が来るまで」のこと。受難と十字架の「時」が来たら、再び中傷者は現れ、イエスさまを試みることになります。

  不思議なことに、イエスさまが荒れ野で悪魔から誘惑を受けられたのは、ヨルダン川で洗礼を受けて聖霊に満たされた直後のことでした。しかも、その同じ聖霊によって、イエスさまは荒れ野の中を引き回され、悪魔の誘惑を受けたのです。同じように、聖霊は私たちをもさまざまな試練に引き合わせるのです。人生における様々な悲しみ苦しみ、また中傷者による嘲りや誹謗は、たとえ私たちが洗礼を受けて聖霊に満たされたとしても避けることはできません。否、信仰者であるがゆえに、受けなければならない試練もあります。そのような時に、私たちはどこに立つのか。自己憐憫に陥り、人を恨み、神を呪うのか?それとも、聖書の御言葉によって試練に立ち向かい、それらを乗り越えていくのか。『人はパンだけで生きるものではない』『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』『あなたの主である神を試してはならない』心配はいりません。聖霊は絶えることなく私たちに豊かに注がれています。ですから、しっかりと御言葉に立って、ひるむことなくあらゆる試練や誘惑に立ち向かっていきましょう。

           《来週の礼拝》

〇3月17日 午前11時 四旬節第2主日礼拝

〇司  式:中島和喜牧師                                                                                   〇説  教:中島和喜牧師「問う」
〇奏  楽:滝田裕美姉  
〇聖書朗読:小笠原里子姉
〇礼拝当番:堀川 悦姉、小笠原里子姉

〇聖  書:エレミヤ26:7ー19,フィリピ3:17-4:1、ルカ18:31-43 
〇讃美歌:292,70(1-3)、70(4-5)、386,聖餐251(1-3)

 #3月13日(水)10:00~オープンチャーチを、そして13:00~から「聖書と祈りの会」を行います。

    どなたでもお気軽にお立ち寄りご参加ください。   


3月3日「今日の礼拝堂」

2019年03月04日 | 今日の礼拝堂

   変 容 主 日    *信徒礼拝で行われました。

今週の祈り:全能の神さま。あなたはみ子の変容によって、モーセとエリヤに与えられた信仰の神秘を明らかにし、輝く雲の中から、私たちをあなたの子として迎えることを示されました。どうか、私たちを栄光のみ国の世継ぎとして、毎日を喜び生きる者にしてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。

 

 

    〇顕現主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨)ルカ9:28~36

           「全  て」

  本日与えられましたイエス様の変容と言う出来事から、イエス様の歩みもこれまでとは全く違うものへと変わっていきます。ここから十字架への道が始まるのです。旅の終わりへと近づいていくのです。教会暦も今週の水曜日から、イエス様の受難を覚える四旬節が始まります。大きな変化です。ルカ福音書は、この変容の出来事を通してこれから始まる十字架への旅路の意味を示そうとしているのです。だから、私たちも四旬節に入る前に、この箇所について、深く聞いていかなければなりません。

   では、実際に変容というイエス様の姿が変わることに何の意味があるのでしょうか。それは、光り輝くイエス様と、モーセとエリヤという旧約聖書の偉大な人物の登場によって、イエス様が神の子であるという栄光を示しているのです。さらに、このモーセとエリヤが登場した後、ルカ福音書だけはイエス様と二人の会話の内容にまで踏み込んで記しています。「イエスがエルサレムで遂げようとされている最期について話していた」と。ここでの「最期」というのは、十字架について語っていると言って良いでしょう。栄光に輝く変容と、苦難を示す十字架という二つの対照的な出来事が同じ場所に記されることによって、神の栄光を通して十字架を見ていくという事をルカ福音書は伝えようとしているのです。イエス様がこれから歩む道は、最期には十字架という最も苦しく最も惨めな姿をとって死に至る道です。栄光など全く感じられない道です。けれども、十字架にかけられた方があの栄光に輝くイエス様である事に目を向けた時、私たちは神が十字架に架けられた意味を知るのです。それは、私たちと共に苦しみ、共に嘆いて下さる神の姿です。十字架を通して私たちを罪から救い出して下さる神の姿です。それが栄光の神の姿であり、神が十字架に架けられた意味なのです。その姿を私たちが正しく見るために、ルカはあえて今日の箇所でイエス様とモーセたちは最期について語っていると記したのです。そして私たちが十字架から栄光を見出す時に、その最期は、最期という意味だけではなくなるのです。

   31節で「最期」と訳されている言葉は、「旅立ち」「出発」とも訳すことができる言葉です。つまり、十字架の死という最期の時は同時に、新しい旅路への出発でもあるのです。新しい旅路、それはイエス様が共におられることを信じて歩む旅路です。私たちは変容の出来事から、そこまでを見ていかなければならないのです。聖書を読んでいると、ついその箇所だけを見てしまう事があります。けれども、今日の箇所は十字架を含めたイエス様の歩み全てを見ながら読まなければなりません。なぜなら、この変容の出来事はこれから始まる四旬節全てに関わって来るからです。四旬節はイエス様の受難を覚えると同時に私たちも悔い改めを特に覚える期間です。それは私たちにとって喜ばしい時ではないでしょう。むしろ、辛く、苦しくなってしまうような時であるかもしれません。けれどもその道を、あの栄光に輝いたイエス様も共に歩んで下さるのです。私たちはそのことを覚えながら、これから始まる四旬節の期間を過ごしていきたいと願います。 

 3月3日に東京教会で「教職授任按手式」が行われ、3名の神学生が牧師として遣わされることとなりました。この3名の神学生の方々はいずれも北海道に縁のある方々で、小澤周平神学生は札幌教会(新札幌礼拝堂)で長く礼拝を共にしていた方で、筑田仁神学生は函館教会のご出身、そして中島共生神学生は帯広生まれで本札幌教会の中島和喜牧師のお兄様にあたります。お3方の按手を心からお祝い申しあげます。

  

      《来週の礼拝》

〇3月10日 午前11時 四旬節第1主日礼拝

〇司  式:中島和喜牧師                                                                                   〇説  教:中島和喜牧師「飢え」
〇奏  楽:滝田裕美姉  
〇聖書朗読:青木比呂子姉
〇礼拝当番:小川敦子姉、小笠原里子姉

〇聖  書:申明記26:5ー11,ローマ10:8b-13、ルカ4:1-13 
〇讃美歌:165(1-2)、76,311、165(3-4)、聖餐258

 #3月6日(水)10:00~オープンチャーチを、そして13:00~から「聖書と祈りの会」を行います。

    どなたでもお気軽にお立ち寄りご参加ください。   


2月24日「今日の礼拝堂」

2019年02月24日 | 今日の礼拝堂

 顕現節第8主日    

今週の祈り:天地の支配者、全能・永遠の神さま。私たちの祈りを聞き、今より永遠まで、あなたの平安のうちに歩ませてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。

 

    〇顕現節第8主日説教 日笠山牧師(週報掲載説教要旨)ルカ7:1~10

               「キリストのひと言」 

 平地での説教を終えたイエスさまに、百人隊長の部下が病気で死にかかっているので助けて欲しいという依頼が飛び込んで来ました。伝えたのは、ユダヤ人の長老たち。百人隊長は、自分が直接イエスさまにお願いに上がるのは失礼だと思って長老たちを使いに出したのです。彼らは百人隊長のために熱心にイエスさまに願いました。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」と。百人隊長とは、ガリラヤ地方に駐留していた外国人傭兵部隊の指揮官です。権力者とはいえユダヤ人から見れば異邦人ですから、両者の間には少なからぬ緊張関係がありました。しかし、この百人隊長は現地のユダヤ人から好意をもたれていたようです。そうでなければ、ユダヤの長老たちが百人隊長の願いを叶えるためにイエスさまに執り成す筈がありません。彼らがこれほどまでにこの百人隊長を愛していたのは、百人隊長自身が彼らを愛していたからに他なりません。然り、愛こそが人を動かすのです。

 百人隊長の愛は、ユダヤ人だけにとどまりません。自分の部隊に属している部下にも、同じように注がれています。軍隊の指揮官といえば、自分の保身に走って部下を捨て駒のように扱う人もいますが、この百人隊長は違います。部下の病気が癒されるようにと必死に願い、そのためにイエスさまへの執りなしをまず長老たちに、次に友達に託したのです。

 願いを聞きつけたイエスさまが百人隊長の家の近くまでやってきたことを知ると、今度は友達を使いに出して言わせました。「主よ、ご足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」と。どこまでも謙遜で慎み深い百人隊長です。イエスさまに面と向かって会う資格はない、と自覚しているのです。それでも、百人隊長は愛する部下のためにイエスさまに願わずにはいられません。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」百人隊長は、イエスさまのひと言さえあれば、部下の病気が癒されると信じているのです。イエスさまが部下のためにただひと言、「癒されよ」と発すれば、それでもう十分だと信じているのです。異邦人でありながら、なんという深い信仰でしょうか。イエスさまもこの百人隊長の信仰に驚き、称賛されました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と。イエスさまはこの百人隊長の中に、本物の信仰を見たのです。

 百人隊長をこれほどまでの深い信仰に突き動かしたのは、何でしょう?もうお分かりですね。「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(第一コリント13章13節)                  

       《来週の礼拝》 *信徒礼拝で行われます。

〇3月3日 午前11時 変容主日礼拝

〇司  式:滝田裕美姉(代行)                                                                                     〇説  教:滝田裕美姉「全て」(代読)
〇奏  楽:若井裕子姉
〇聖書朗読:蔵谷俊夫兄
〇礼拝当番:出口輝子姉、滝田裕美姉

〇聖 書:申命記34:1ー12,コリント(Ⅱ)4:1-6、ルカ9:28-36 
讃美歌:376,148(1-3)、148(4-5)、聖餐250   

 #2月27日(水)10:00~オープンチャーチを、そして13:00~から「聖書と祈りの会」を行います。

    どなたでもお気軽にお立ち寄りご参加ください。   


2月17日「今日の礼拝堂」

2019年02月20日 | 今日の礼拝堂

 顕現節第7主日    

今週の祈り:主なる神さま。あなたの民の願いに心を傾けてください。そして、私たちがすべきことを悟り、喜んで行う力を与えてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。

 

 

    〇顕現節第7主日説教 中島牧師(週報掲載説教要旨)ルカ6:37~49

           「 そ れ で も

    人を裁くことが好きな私たちがいませんか?裁いてしまう、ではなく、むしろ自分から好んで人を裁いている私たちがいるのではないでしょうか。

   昨今の社会において、人の欠点や不足している部分、不適切な考え方に対して過剰なまでに糾弾する傾向が増してきているように感じます。そしてその社会の中で生きている私たちも同じように、誰かを糾弾、つまり裁くことがどんどん好きになってしまっているように感じます。

  裁くという行為は実に私たちに甘美な思いを抱かせるのです。誰かを裁くとき、私たちは自分を「正しい人間」という立場に立たせ、同時に誰かを裁くことで誰かを[更生]させるという良い行いをしているような気持ちになれるからです。当然、道徳的にそれらが必要な場面もあるでしょう。しかし、私たちが誰かを裁くとき、そのほとんどは「自分のため」になってしまっているように思うのです。「自分の目にある丸太に気づかず、兄弟の目のおがくずを取ろうとする。」2000年前の言葉であるにもかかわらず、現代の私たちの心に突き刺さる一言であると思うのです。

   そして、キリストの言葉に出会った後では自分がもっと大変な状況にあることに気が付かされていきます。自分の目にある丸太に気が付いていながらもそれを忘れ、再び兄弟の目のおがくずを取ろうとするようになるからです。礼拝の度に自分の罪を見つめ、赦しを受け取っていく。それでも、再び罪を犯していく私たちがいませんか。私たちのキリスト者としての歩みは、いつまでたっても「それでも」なんです。罪を見つめた「それでも」罪を犯していく。人を裁くなと言われた「それでも」裁くんです。赦せと言われた「それでも」許さないんです。ならばとことん「それでも」を極めて下さい。何度も何度も、「それでも」を経験して下さい。ただ一つ、忘れてはいけない「それでも」があるのです。それは「それでも神はあなたを愛している」ということです。だからあなたも返事をして下さい「それでも神が私を正しい道へと導いて下さる」と。その信頼し委ねていく信仰こそ、あなたが人を裁くのではなく、人を愛する人となるための家と土台を作っていくからです。

   マタイ福音書と比較するとよくわかるのですが、ルカ福音書は「裁くな」という禁止命令をただの禁止のままにはとどまらせないのです。禁止の命令を語った後で、積極的な愛を実行していくことを望むのです。積極的になれば、私たちは再び間違いを犯すことがあるでしょう。後悔も起こるかもしれません。「それでも」神があなたを愛で満たし、愛の実行が出来るほどに、あなたを愛の人にしてくれます。そのことに信頼して、これからも信仰者としての歩みを、神と共に続けていきたいと願います。

          《来週の礼拝》

〇2月24日 午前11時 顕現節第8主日礼拝

〇司  式:日笠山吉之牧師                                                                                   〇説  教:日笠山吉之牧師「キリストのひと言」
〇奏  楽:滝田裕美姉  
〇聖書朗読:小笠原里子姉
〇礼拝当番:堀川 悦姉、滝田裕美姉

〇聖   書:列王記上8:41ー43,ガラテヤ1:1-10、ルカ7:1-10 
〇讃美歌:382,331(1-2)、331(3-4)、277(3-4)、聖餐262

 #2月20日(水)10:00~オープンチャーチを、そして13:00~から「聖書と祈りの会」を行います。

    どなたでもお気軽にお立ち寄りご参加ください。