青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

もう、遅い

2009年05月17日 | 短歌に政治や社会
最終確認中だった大阪の高校生9人の新型感染を確認(読売新聞) - goo ニュース

どんなに「新型インフルエンザ」の国内進入阻止に、水際で食い止めようとしても、もう遅い。
何せ「景気拡大、経済成長」とやっていて、進入を食い止めるどころか、開けっ広げにしている。「おいで、おいで」を、しているようなものだ。
そして「高速道割引」などで、感染拡張、拡大への体制は整ってしまっている。
「豊かになりたい、快楽を楽しみたい」ということが、かえって我が身を傷めている。
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自由と平等

2009年05月17日 | 人生設計
憲法でも保障され、民主主義社会の根本理念となっている「基本的人権」である「自由と平等」、しかしこの理念がちゃんと理解され実行されているかというと、おかしな具合になっている。それも教養が増せば増すほど、科学技術が発達すればするほど、そして文化が進展すればするほどおかしくなり、混乱している。

ちょっと「自由」について言うと、こんな具合になる。
私たちには、「公民権」がある。政治への「参加権」である。
「選挙権」でもあり、「投票権」でもある。
ところがこうして参加した「公民権、選挙権、投票権」によって選出された議員や知事、市町村長などは、政治への参加権者である国民の自由権に沿った施策を行使するようになっていない。
議員や知事、市町村長はどのようになっているかというと、徒党的、党派的多数派に支配されてしまう。
そうすると、自分自身の自由が利かないようになってしまい、それは国民の自由も聞かないと言う事になり「自縄自縛」に陥ってしまう。
このことは、党派や組織に属し、こういう組織内の利得価値を求めてているがために、個人の自由が追いやられているのと、同じである。
これは家族のために、家族の一員として個人の自由は制限しなければならないが、それは家族全体のための自由を尊重するためだ。
ところが議員や知事、市町村長らとなると、国民の自由はそっち除けになってしまっている。

私たちにしても、自分達の自由のし放題によって、環境汚染に、今日などでは新型インフルエンザなどを招き、かえって不自由を強いられていて、本当に「自由」を実施しできているとは言いがたい。

「平等」についても、鉄道車両や航空機などの「特等席」と「普通,一般席」の分別は、この「平等」の精神に反している。「平等性」は、金銭の値によって左右されてしまっている。あるいは、利用者の地位とかによって・・・。
これが「障害者、妊婦、乳幼児連れ」用を用意するならいいだろうが、そうではないところに「不平等」がある。
これは、病院などにも、ある。

こうした「利得価値」や「貨幣価値」によって左右される「自由と平等」は、文化面にも現れている。
人は、どのように「文化」というものを捕らえているか知らないが、私としてみれば「文化」とは、「人間性を高め、育てるもの」と認識している。
だが今日の「文化の捉え方は、「価値観」で捕らえている。「数値、評価、値打ち、金銭」、文化遺産とか観光地などは「集客数、動員数、視聴率、諸本等の発行部数」などで評価と価値が、文化として扱われ、重用されている。そしてそれが「取引」に利用され、悪用もされ、とてもでないが「人間性を高める」とか「育てる」と言う、「文化」らしくなっていない。

「基本的人権」の「自由と平等」と言うものが、「人間性を高め、育てる」という「文化的」なものとなる、人権でなければならない。
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