青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

知識と教養の在り方

2008年02月29日 | 人生設計
小さな子供達や、幼児達が聞いたり尋ねたりする。
「これなぁに?、あれなぁに?」
「これはどうしてなの?、あれはどうしてなの?」
とーーーーー。
こうした幼子達の素朴な問いに、そこに知恵の芽生えの生成の過程を感じさせられる。知識欲に満ちた、すばらしさを持っているともいえる。
しかし知識欲には、限界を持たない。貪欲で強欲さを持っていて、限りがない。
今日豊かさを求めて際限がないし、殺傷力の向上を目指して兵器開発にしのぎを削りあい、医科学では人工知能開発や人工細胞ばかりか、人工生命の誕生まで目指している。
こういううことを見てみると、知識を持とうとすること、教養を養おうということがどういうことなのかを、一度考えてみないではいられない。
元々「知る」ということは、「生きる」ということの知識であるはずのものであったはずである。それは言い換えると、私達生命あるものに具わっていた意識されていなかったものが、それが「そういうことだったのか」としることが、知識なのだということになる。されは丁度、病気の自然治癒力を知るようなものが、知識といえるだろう。
しかし私達人間の知識や教養吸収意識は、本来の知識や教養吸収意識を逸脱している。欲望を満たすだけの、知識や教養でしかなくなっている。
せっかく主権住民のための民主主義も、その理念の自由と平等は、欲望を満たすたるの貪欲さと強欲さを露にするものとなっている。
収まる範囲の、知識と教養であるべき必要がある。
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青い鳥の歌詞  十五、自分にたずねてみたい

2008年02月27日 | 作詞

自分にたずねてみたい     2008/2/26




雪の降る中 冷たさしみても
吹雪の後の 晴れ間の輝きに
悔やむことない 我が道を
自分の心に たずねてみたい





三度三度の 食卓するも
ただ頂くばかりは 浅ましいばかり
われがこの身に 何ができるか
自分の手を見て たずねてみたい





この身かわいく 思い多く
物言いたい 我が身なれども
物言える程の この身でなければ
自分の姿見て たずねてみたい






賑々しき 世には生きても
誰にも頼れぬ ただの一人に
人世の流れに この身を写して
自分の行く先 たずねてみたい

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温かさと和やかさと穏やかさを

2008年02月25日 | 人生設計

今国会は今、来年度予算審議に関わりガソリン国会となっている。道路特定財源の暫定税率法案審議のためだが、そこへ持ってきて毒餃子事件に沖縄米兵の中三女子暴行事件にイージス艦と漁船衝突事件が加わり、混迷を極めている。
それだけではない。原油高騰による諸物価値上げに続いて、小麦粉の政府売り出し価格も値上げされるし、鉄鉱石の輸出価格も値上げされることになったし、株価は下落するしで景気の先行きに暗雲が立ち込め、不景気風が吹き始めようとしている。どちらを向いても、いいこと無しの状況である。
こうした様を見ると、一概には言いえないにしても、資本主義社会の欠陥が現れた観がする。
資本主義というものには、何事も「数値化」しようとする点がある。その事によって「評価、選択」が行われ、「優位」に立とうとしている。それは「格差」を生む。「身分」と言えるかもしれないし、偏るものともいえるものを生む。
言い方を変えてみると、その為に「冷たい」のである。暖かさ、和やかさ、穏やかさがない。数値化によって、殊更冷たさを増している。
それは「法」においてもそうである。「法」を強化し、「法」に縛り付けられてしまって、世の中が冷たくなっている。
実話だが、

杉原 千畝(すぎはら ちうね、SUGIHARA "Sempo" Chiune1900年明治33年)1月1日 - 1986年昭和61年)7月31日)は日本官僚外交官第二次世界大戦の際、外務省の命令に反してユダヤ人亡命できるようにビザを発給し、ナチス
による迫害からおよそ6000人にのぼるユダヤ人を救ったことで世界中に広く知られている。

こういう法に逆らいながら人道優先を貫いた人がいる。柔軟性を持った人と言わなければならない。こういう人が、今日では少なくなっている。
むしろ悪いことをしても、「法にのっとって処理している」といって開き直っている政治家がいるほどである。
個人も公人も、温かく穏やかに和やかな人となって欲しいものである。

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一期一会の幸せ

2008年02月24日 | 人生設計

先に『幸せ談義』において、幸せに対して私達は「待ち」の姿勢でいるより他はないと述べた。いくら努力をしても「やってくるもの、訪れるもの」である。そしてこの「待ち受ける」姿勢も態度も、ただそれだけで良いというものではない。
それが「独立、自立、そして自主性」の中で述べた、「したいのにしてはならない」ことであり「したくないのにしなければならない」ことなのである。この事は、幸せというものが私達の我侭が通るだけのものではないことを意味している。
私達一人一人の我侭が通るような幸せなら、世の中がこのように乱れることはないだろう。
だが私達の我侭は、通ることはない。それは人もまた、自分の我侭を通したいからである。この我侭を通したいもの同士がぶつかり合って軋轢が生じていがみ合い、世の中が乱れている。その一方では、こうしたことを避けて「引きこもる」人もいる。
「したいのにしてはならない」「したくないのにしなければならない」という、それは人間らしさの独立心や自立心、自主性というべきものを持って我侭を捨てないことには、私達はいつまでも幸せを「待ち受ける」という姿勢でいなければならなくなる。
その点「したいのにしてはならない」「したくないのにしなければならない」という事は、積極性を持つ。忍耐心も持つ。我慢強さも要求される。人としての「生きる強さ」ともなる。

私がこのブログで公開しているものは、断言していながら結論としては断言していない尻すぼみなものになっている。いわば指標も志向性を示さないし方向性も示していないといえるだろう。志もビジョンも語っていない部分もある。
その理由は、時は刻一刻変化していることにある。指標や方向性やビジョンを示したとしても、刻一刻の変化には付いていけないからである。どうしても刻一刻の変化に合わせるより仕方がなく、いたずらに方向性やビジョンに縛られると、そのために身動きできなくなってしまうからである。
それは茶道の精神で言われる「一期一会」のように、「今を正しく生きる」ということが、私達人の幸せとなる生き方となるだろう。

最後に、私のこのブログに対して、「Hをしよう」というようなサイトからのコメントが寄せられる。そうしたコメントは公開せずにすぐに削除してしまうが、こういうコメントを寄せる人達に、「自分の行いの姿をよく見詰めてほしい」と申し上げたい。

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青い鳥の歌詞  十四、若い君達に

2008年02月22日 | 作詞

若い君達に           2007/11/22



青いお空に 白い雲
そよぎる風に 花の香も
若い君達に 呼びかける
一人でいる時も
二人でいる時も
どこからか 聞こえてくる
幸せの 歌声が あなたを 待っている




白雪の山の 森緑
流れるせせらぎ 川の瀬に
若い君達に 呼びかける
君といる時も
家族といる時も
希望から 聞こえてくる
愛の 歌声が あなたを 待っている




弾むボールは ネット越え
めぐるリレーも グランドに
若い君達に 呼びかける
グループといる時も
みんなといる時も
校舎から 聞こえてくる
楽しき 歌声が あなたを 待っている




夕焼け紅く 陽は染まり
いらかの町も たそがれて
若い君達に 呼びかける
輪になり踊り
手を取り踊り
明日から 聞こえてくる
豊かな 歌声が あなたを 待っている

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独立、自立、そして自主性から

2008年02月21日 | 人生設計
先日「自衛隊海外派遣 恒久化議論」において「独立、自立」と自主性」について、ちょっと述べた。ここでは「独立、自立」と「自立性」とを絡めた上で、簡潔に述べたみたい。
現在、よく確かめたわけではないが、国の借金に当たる国債発行残高が五百兆余円に登る。これに地方債発行額を加えると、優に六百兆円位になるだろう。一般家庭や会社なら、自己破産や倒産している状態にある。
そればかりか食糧自給率は四割、資源の大部分は輸入に頼っていて、「ないない」尽くしである。
こうした有様が、独立国家、自立国家の実体である。独り立ちできないのに、一人前振る奇妙さ滑稽さがある。
それだけではない。個人においても自由と平等とは言うものの、そこには独立性ある自由も平等も、自立性ある自由も平等も、自主性ある自由も平等もない自由と平等を、自由と平等としている。
ただそれは利己的で、自分を庇うばかりの自由と平等であるに過ぎないといってもよいくらいである。
正しく独立心をもち自立心を持ち自主性を持つ、そして自由と平等に生きるということは、実は私たちにとっては「したいのにしてはならない」ということであり、「したくないのにしなければならない」思いを耐えなければならないことなのである。
これを「信仰」といい「宗教」という。そして正しく独立心と自立心と自主性を育て自由と平等に生きることを、「信仰の道」とも「宗教の道」とも、「信心の道」とも言う。
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続:自衛隊海外派遣 恒久化議論

2008年02月20日 | 政治
駐留米軍の米兵による犯罪が、綱紀粛正と言いながら相次いでいる。
このことに対する首相の談話は「米軍はどうなっているんでしょうね」と、人事みたいな言葉を言っているうちに、イージス艦が漁船に衝突するという事故が発生した。
私から見ると、こうしたことは異常なことでもなんでもない。起こるべくして、起きた事に過ぎないものとしか写らない。
それは戦闘行為に関わるものが過度な緊張から遭遇する、避けられない精神状態になると思えるからである。一種の狂気状態にもなる。
現在でも歴史問題などで問題化されている旧日本軍による南京大虐殺事件や慰安婦問題などを見るとわかるように、自衛隊海外派遣恒久化議論をすると言うことは、自衛隊員も米兵のように駐留地で何をやるか分からない事になる。それを政治家や官僚はよく考えているのだろうか。
最も政治家は政争に明け暮れ、官僚は利得権益にそれどころではないだろう。
私達国民は、そこの所をよく考えて、自衛隊海外派遣 恒久化議論をすべきである。
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青い鳥の歌詞  十三、七色の虹に

2008年02月18日 | 作詞

七色の虹に        2007/11/15




雨に 涙も 流されて
雲間に もれる 陽の光り
愛の旅路に 疲れても
空にはかかる 七色の虹に




友の 便りも 絶え果てて
思い出 こもる アルバムに
窓辺に写る 昔日も
夢になつかし 七色の虹に




花は しとどに ぬれながら
頭(こうべ)をたれて うなずけば
人道(ひとみち)たどる 定め見て
望みの燃える 七色の虹に




虹は 夢の橋 七色の虹
あなたこなたを 結びつけ
幸せ呼び込む 七つ色の
嬉しい楽しい 七色の虹に

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自衛隊海外派遣 恒久化議論

2008年02月16日 | 政治
沖縄において、米兵による中三暴行事件が発生した。こうした事件は、初めてではない。過去には何度もあり、このために沖縄県民の怒りは、煮えたぎるほどであろう。
これは何も沖縄だけのことではない。他の米軍基地のある、基地のある町では起こりえることである。先日行われた岩国市長選挙の結果にも、艦載機移転賛成派の市長が誕生したとはいえ、市民感情としては穏やかではあるまい。
そしてそうした中で「自衛隊海外派遣恒久化」が議論されつつある。

それにしても何故これほどまでに事件が起こり、問題にされ、そうしてなお「自衛隊海外派遣恒久化」などを議論しなければならないのだろうか。
この疑問に私は、一言で「国民や政府が独立心や自立心を持たないからだ」と結論つけた。
我国は、国民としても国家としても独立国家意識を持っていないといえる。それは「日米安全保障条約」に見られるように、田に寄り掛かるようにして独立国家ぶっている。簡単に言えば、それだから国内に他国の基地の存在を許すことになっているし、共同防衛条約なども必要になってくる。
こういうと、現憲法が自主制定憲法ではなく、押し付け憲法だからというかもしれない。そして改憲が必要だと。
だがこういう論説は「自主」という語の意味を、取り違えている。「自主」というのは、自分の「都合の良いように」ということではない。「内」から見ても「外」から見ても、良きもので無ければならない。
例えば人の生き方も、自分都合の良いような勝手な生き方をすれば、前防衛事務次官やいい年をした校長がわいせつ行為や製品偽装に食品偽造をして逮捕されるように、社会という外から見ても良き行いでなければならないのと同じように、「自主」とは自他を兼ね備えたものでなければならないのである。
現憲法は占領軍によって立案されたものだが、占領政策的な自由抑制も人権平等迫害もなく、伝統文化も継承されている。言わば「内から見ても外から見ても」優れたものと言わなければならない。
それを改憲し、自衛隊海外派遣恒久化を図ろうとするのは、独立国家、自立国家の放棄を願うのだろうか。
よしんば改憲するならば、この地上に生きる人として、この地に仮に住まう者達のための法として、より良き憲法を定めてもらいたい。この土地が「永遠に我が物である」ということは、あり得ないのだから。

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医療訴訟の恐怖

2008年02月15日 | 社会
幼児割りばし事故訴訟というものに、判決が出された。診断した医師の過失を認めず、原告の訴えは退けられたが控訴するという。
この訴訟を覚めた目で見ると、感情的になっているばかりで論理性を持っていないといわなければならない。
なぜなら、医師や医療機関に可能性とか想定とか予見を求めるならば、なぜ親としてわが子が割り箸を口にくわえて飛び回っていた場合、転ぶとどうなるか予見し、想定し、ただではすまなくなるという可能性を持たなかったかを問わなければならないからだ。ここに論理的に矛盾している。

しかしここで言いたいことは、そういうことではない。医療訴訟の恐ろしさを、言いたいのである。
医療訴訟されることによって医師や医療機関は、訴訟を恐れて診療をとめ始めた。既に手術を断る病院も、出てきている。このために、助かる命も、助からない状態になりつつある。
だから、もし私や私の家族が病気や怪我で診療や手術を受けようとして断られたとしたら、それは医療訴訟している人達のためであるとして損害賠償等を請求する権利を有することになるといえる。これは論理的にも理論的にも、感情的ではない正当性をもっていえるだろう。
これは又、既に訴訟している人達に対してだけでなく、これから訴訟しようとしている人達に対してもいえることであり、医療訴訟は止まるところを知らなくなる。

しかし私は、家族はともかく、私はこういうことがあっても訴訟などはしたくは無い。それはこれまでこの「青い鳥の世界へ」の中で述べてきたように、それは「報復、復習」行為だからである。憲法九条に「戦力をもたない」と記されながら曲解して自衛隊を保有するということと同じみたいなものである。

それはさておくことにして、こうした場合私はどうするかというと言うならば、神の前にぬかずき、仏の前にぬかずき現実を認め受け入れるばかりである。
それは、同じ地上に生きる人として、貴方方の思いの痛みを知るからである。
そしてそれは又、同じこの世に生きる生命あるものとしてもーーーーーーーーーーーーー。
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