青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

恐るべき相対者

2008年04月30日 | 人生設計
私達は、常に何らかの相対するものと接している。それは人である時もあるし、動植物の時もあるし、物や風景などの時もある。こうした相対するものとの間に感情を持ち、喜怒哀楽を繰り広げてゆく。
だが相対するものへの思いは、このように外部に対してのみ行われているかと言うと、そうではない。
私達は何かが生じたとき、その事象や事柄に対して感情を持つ。しかし生じた事象や事柄には、何の意味も持っていない。ただ生じただけである。
問題は、それそれをどう受け止めたかに問題がある。そこに感情が移入された場合が、事となる。
そして最大の相対する相手とは、自分自身ということになってくる。
この自分自身という相対する相手は、恐るべき相手である。我侭で気ままで融通が聞かずに執拗であり、豊かさを求め楽をしたがり楽しみを求め誉に酔いたいばかりで、その逆の働くことや辛苦に耐えるのを嫌う。
しかし私達は、こうしたことは省みる事なく、人の所為にしたりしている。だが相対するものとの間に生じた事象や事柄を、ことさら大げさにとか深刻に受け止めたりするか、それを自然な成り行きと受け止めてゆくかに、自分自身の歩み方が懸かっている。
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至難滅裂でチンプンカンプン

2008年04月27日 | 社会

先日「裁判員制度」について、「裁判員としての権限を放棄する」と記述した。この事は、もしかすると人としての役割や義務から逃げていると言えるかもしれない。あるいは、避けているとも。
ことに「山口、母子殺害死刑判決」が出されてみると、前向きになっていないと言えるかもしれない。
だが私から見ると、それらはみな、至難滅裂でチンプンカンプンで話の筋や、理屈が通っていなくて良く判らない。
「山口、母子殺害事件」に限らず犯罪を犯すものには、それなりの背景や生い立ちなどの環境が存在する。そしてそれ以上に、社会の状態というものもまた、強い影響をもたらしている。
その大きなものが「自由」、「表現の自由」というものである。言葉や文字、絵画や映像によって表現されるこの表現の自由は、人を殺害する様まで生々しく描写している。
このように表現の自由によって人を殺害する様を生々しく描写することを自由としながら、「山口、母子殺害事件」の犯人の少年は、その行為を自由行為として行ったに過ぎないのに、罪に問われていると言う矛盾がある。
言葉や文字や絵画や映像では人を殺しても罪には問われずに、ただ行っただけで罪に問われると言うおかしさ、正統性のなさ、整合性のなさ、論理性のなさに、だから裁判員としての権限を持てなくなる。
それはまた、今日新しい「教育基本法」を発足させ、「愛国心を育てる」と言っている。だけれども医療現場や介護現場に外国人を入れるそうだし、食糧や資源はおおむね外国に頼ることにしていて、どうやら国内の農林畜産といったことも、外国人を受け入れて任せるつもりなのだろうか。
そして我国の国民は、「愛国心」と言っていて何をしているつもりなのだろう。スポーツや何とかのコンサートに明け暮れていて良い気分でいるつもりなのだろうか。まるで城が敵兵に奪われているのに、宴に講じているように。
しかしーーーーーーー。
こんなことを言う私の方が、至難滅裂でチンプンカンプンになっているのかもしれない。何せ、初老ボケの気があるから・・・・・。

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悩み

2008年04月23日 | 人生設計
私達が「生きていく」ということは、悩ましいものである。
第一「こうなりたい、ああなりたい」というように、思い通りにならない。それが出来ればいいのだけれども、一つとして出来るものはない。出来たとしても、完全性がない。持続していかない。必ず変化する。場合によっては、一旦出来上がったものも、壊れてゆく。
それが私たちの「悩み」となり、「苦しみ」となる。それ故に釈尊、お釈迦様は、その実体が「四苦八苦」であると見詰められた。
「四苦八苦とは、

 四苦は、通常、生老病死を指します。生まれる、老いる、病む、死ぬという、人間ならば誰でも避けて通れない宿を苦と捉えているわけです。
  釈迦は更に、 この四苦に4つの苦が加わると分析し「四苦八苦」と定義してます。これが、愛別離苦(愛する人ともいつかは離別しなければならない)・怨憎会苦 (イヤな奴や嫌いな人でも会わなくてはならない)・求不得苦 (欲しいものが得られない)・五陰情苦 (食欲や性欲が過ぎて自制が利かず心が乱れる) です。

一般に初めの「四苦」は自己、自分に関わりあるものと捉えられ、後の「八苦の四苦」は他との関わりと見なされています。
だが初めの「四苦」も、自分が自分を思うように出来ないことから起こるものと見なすと、この「四苦」も、自己とは離れた他との関わりになってしまっています。そして悩み、苦しんでいる。
普通私達は、その悩みと苦しみを避けようとしてしまっている。
釈尊は、こうしたことを解決するには、「自我を捨てて無我になることだ」と説かれました。だが俗人であり、煩悩の燃え盛る私達には、これは理想のまた理想でしかないでしょう。
こうした俗物な私達の救いのために、親鸞聖人が説かれた教えというものがあります。
この教えは、受け取る人によっては間違えやすい教えですが、正しい受け取り方をするというならば、自分と関わりあるものを丁度「車」に見立てて上手に運転しなさいと言うことでしょう。
何事も使い方次第で良くも悪くもなります。殊に自転車の乗る場合など、ハンドル裁きばかりではなく、自然とバランスが取れるようにならなければなりません。この「自然とバランスを取る」という動作には、自我が取り払われた状態になっていす。
そしてそれは、自分と言う車もまた、バランスよく上手に運転していかなければならないという事実があります。
同様に夫婦間においても、親子間においても、家族間や社会や国家間においても、相手という車を上手にバランスを取って運転できるようにしていかなければならないでしょう。こちらだけでなく、相手の方もという風に、お互いがそういう風に勤めてゆかないことには、言葉の争いから暴力行為になってしまいます。
私達が悩みを解決したいならば、苦しみを解決したいならば、まず自分と言う車を上手に運転することから始めなさいというのが、親鸞聖人の教えでしょう。
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裁判員制度

2008年04月21日 | 政治
もう一年もすると、裁判員制度が始まる。そして私たちは、次々と裁判員として、召喚されていく。
裁判員として召喚されたなら、正当な理由がない限り拒否できないにしても、裁判員として人を裁くということには、私には人を裁く立場には立つことが出来ない。
何故かというと、自分自身さえ裁けないからである。自分自身を「完全なる善」で、「完全なる正義」で裁くことは出来ない。どうしても自分の都合や、損得で自分を裁いてしまっている。
そんな人間でしかない自分が、人を裁くということは出来ないし、出来るはずもない。
元々裁判を受ける被告も、本来は自分で自分を裁くべきなのである。それを人に裁きを求めること自体が、おかしい。そういう法律自体もおかしい。だがそれが出来ない、人間の悲しさと愚かさがある。
それ故に、私は裁判員として召喚されても、自分で自分を正しく裁くことも出来ないが故に、その権限、人を裁く権限を放棄する。
出来るのは、被告が自分で自分を裁くよう、求めるだけである。
裁判員制度は、裁判員に対して被告が「有罪であるか、無罪であるか」を決定させる、即ち「白黒」に色分けすることのみを求めているようだ。それ以外の選択肢は、許されていない。それを放棄するのは、法律違反になり罪になることかもしれないが、その選択の自由は憲法によって保障されていることだろう。
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流奈さんの心の世界 終、結果処理

2008年04月18日 | 人生設計

行ったこと、心に思ったことや感じたことへの感情には、必ず結果が現れる。それは法則としても、定まって存在している。
この行いや思いという「行為」の結果の後をどうするかについては、残念ながら日木流奈さんは詳しく述べられていない。いや日木流奈さんだけでなく釈尊においても、そうした感じを受けて止まない。
もちろん日木流奈さんにしろ釈尊にせよ、ある程度の結果対策とか処理とかには触れてはいる。だがそれだけの、対策とか処理だけで済ますべきでもすべきでもない。殊にそれは、今日の世においては、より求められていることでもある。
例えば私達が食事を頂いたとき、「美味しく頂きました、ご馳走様」とする。
しかし今日では、こうした礼儀作法をする人は少なくなっている。ばかりでなく、結果対策処理の一つとも言うべき食事を頂いたら、頂いただけの行いをなすかと言うと、それも出来なくなっている。楽にして、豊かになれば良いというばかりである。
こうしたことは日木流奈さんの心の世界から発するメッセージであり、釈尊の教えでもあり、道徳などの教えるところでもある。
だが、それ以上のことは語っていない。
今の、今日の私達は、食事を食事として「ご馳走様でした」と頂いたとするだけでなく、このように私たちを生かしてくれる源となる食物などを、生み育てていかなければならない。食べるとか、使用するだけに終わらせず、そうして役立ってくれるものを私達自身が作り出していかなければならない。
だがそれは、手間がかかる、苦労がいる、汚れる、労多くして利益が少ない。
こうしたことがあるために、人々は敬遠する。殊に現代の若者たちは、手っ取り早くお金が稼がれて、そしてチヤホヤされて豊かになれる都会に憧れる。そのため私たちを生かす源となるものを作り出そうとする人達は、高齢化が進み、後継者がなく、過疎化が進んだ地に追いやられてゆく。
そしてそうしたことは外国人に任せようということになり、それで薬害とか食品偽装になってゆく。
恋愛情報が氾濫しているが、結婚しても、子供が産れたら「赤ちゃんポスト」や「虐待」、財力があっても保育費や給食費も学費も支払わないという結果対策処理になる。
このように私達は、求めたものが得られてそれで良しとはせずに、後の結果対策処理も、しっかりとしていかなければならない。
こうしたことは日木流奈さんも釈尊も、語り教えてはいない。だがその内容において迫り、どうすべきかを私たちの手に委ねている。

私達の基本姿勢は「幸せになりたい」ではあるが、その「幸せ」は、「豊かさ」でも「楽をする」ということでもない。「豊かさ、楽」は、相手に頼らなければならない。ということは、「豊かさ、楽」は、相対するものの都合次第で崩れるような危ういものでしかない。
本当に「幸せになりたい」ならば、これまでにもこの「流奈さんの心の世界」の中でも述べてきたように、自分の中に見つけ出していかなければならない。
それをするのは、他の誰でもない、自分自身である。

このことを述べて、この連載を終わる。

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流奈さんの心の世界 五、空間性

2008年04月16日 | 人生設計
私達は、私達というものの存在意識を持っている。「場意識」とでもいえる意識である。この「場意識」と言える存在意識には、「空間性」と「時間性」とがあると言える。
「空間性」とは「広がり」、「時間性」とは「経過」であり「過程」であり「変化」でもある。この「時間性」は、「空間性」が停止し静止していないことにある。それによって常に変化が行われている。それは未完成であるがために、完成を求めてさまよっているとでもいえるだろう。
私達はこうした未完成な世界の中で、私達自身もまた完成を求めようとして生きている。基本姿勢である「幸せ」を目指してーーーーーーー。
しかし私たちが一つの事を達成して完成したとしても、それは変化して移ろい行く。そのままの状態が、いつまでも続くことがない。そこに私達の「喜怒哀楽」がある。
日木流奈さんは、その心の世界において、こうした私達の存在意識、場意識、空間性と時間性が、「存在意識として持たなくても良いのだ」と述べている。
「場意識」という存在性は、個性意識を持つ。それは自己というもの、自己の家族とか血縁とか、地域とか国家とか人種とかへと拘りになってしまう。「時間性」も、過ぎ去ってしまい、やり直すことの出来ない過去に拘り、まだ来ない未来に拘って現実をおろそかにしている。
それ故に空間性と時間性のない「今」という現実しかないのだと、日木流奈さんは語るのである。
丁度それは、テレビの瞬間の停止した一コマのように、その一コマをどのように大切に処理するかにかかっていると言う。
「今」という一点には、空間性も時間性もない。だがそれが、今の時から次の時へと連なってゆく。
茶道で言う「一期一会」が、次の「一期一会」になるならば、今の「一期一会」を正しく「一期一会」していかなければなるまい。
私達の人生は、今の「一期一会」の積み重ねによって、良くも悪くも形を作られてゆく。
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青い鳥の歌詞  二十、平和を夢見てた

2008年04月15日 | 作詞

平和を夢見てた      2008/4/15



いつも通る街角の 寂れ行くたたずまい
涙ぐむ寂しさの中にも 
                 私は見ていた ここにいつも
流れる雲に 夢見てた




人には人の道があり 自分には自分の道がある
人のことなど気にせずに 
思い切りがんばって
今日も楽しい 夢見てた




買い物に廻る店先に 今日も値段は上がってた
切り詰める暮らしの中に 
  家族寄り添い肩寄せて
親子そろって 夢見てた




テーブル囲む夕食に 暗いニュースの絶え間なく
噂渦巻く世の中に 
              夫婦(めおと)のきずな呼び合って
二人手を取り 夢見てた




たそがれてゆく山並みと ただ流れゆく川の流れ
またたき光る空の星にも 
命の喜び歌い上げて
ここに幸せを 夢見てた




雨の降る日に曇る日に 明るい笑顔を見せていた
かわいい いたいけな愛し児の 
  つぶらな瞳の素直さに
この世の平和を 夢見てた

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流奈さんの心の世界 四、導性

2008年04月13日 | 人生設計

私達は四六時中、常に何らかの事象や事態に直面している。一秒一刻、一瞬一瞬において、瞬間的に直面している事象と事態に対応していかなければならない。(寝ている間も、あるかもしれない)
この直面している事象や事態に対応する仕方次第で、後の状態が左右されてくる。
日木流奈さんは、この直面する事象や事態に対して私達がどのように反応するかというと、感情によって反応すると語っている。それは、心の状態次第の反応なのだ、という。
釈尊も、物事は「原因となるものが縁によって結果を表す」と縁起観を示され、苦しみとか悲しみとかの元は、心の無智からくるものと説かれた。即ち心が感情によって支配された状態で直面している事象や事態に遭遇した場合、適切な判断や対処が出来なくなってしまうという事である。
しかし一般的として私達は、そういうことがない。物事の事象や事態とで、とやかく言っている。釈尊の説かれた縁起観も、縁を結ぶと言うことが重視されているみたいで、因となる自身の心のあり方には、余り関心が払われていないように思える。
日木流奈さんは、直面する事象や事態には何等の意味がないと述べて、そして大事なのは、その事象や事態を受け止める自身の心の状態が、安定した状態であることが望ましいと述べられている。
自分で、自分の心を、どう導くか、なのである。もちろん最初から出来るものではないが、続けていく内に、いわば修行していく内にそうした心の状態になっていきますよ、と呼びかけている。

ちなみに、釈尊の縁起観を判りやすく、簡単に言うならば、

「善因善果、悪因悪果」

である。

「良い心を持ち行うならば、良い結果となり、
 悪い心を持ち行うならば、悪い結果となる」

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流奈さんの心の世界 三、個性

2008年04月11日 | 人生設計

釈尊の遺訓である「自灯明、法灯明」の教えは、別には「自帰依、法帰依」とも言い表される。「自己を拠り所として他を拠り所とせず、法を拠り所としなさい」ということである。「自灯明、法灯明」と「自帰依、法帰依」とでは、表現としても解釈としても異なるが、それは個性の表と裏の一体性からくると言えるかもしれない。
私達の基本姿勢としての「幸せなりたい」、この思いは個人一人のものではない。他の人も皆、「幸せになりたい」思いを持っている。人だけでなく、動植物も、鉱物も空気や水においても、みんな「幸せになりたい」思いを持っていて止まない。
このように各々の個性は「幸せになりたい」思いを持っているけれども、その個性が「幸せ」になろうとする時には、相対するものに何らかの犠牲を強いることになる。個性が生きていくために、相手の個性の犠牲が必要だからである。
それはまた、相手の個性が生きてゆくには、私という自己を必要としていると言うことが、当然のこととして受け止めるべきことになる。
「自灯明」と「自帰依」と自意識を持つだけでなく、「法」という「あまねく普遍的に行き渡る」大きな、そして全てを生かしてくれる心と力の中での個性は、利己的に自我意識に捉われたものであってはならなくなる。
自己という個性は、絶対と言っていい程、二つはない。それだけに尊いものでもある。その絶対孤独と言える自己を、「自灯明、自帰依」していかなければならない身ではあるが、他のものも同じ同類と知るならば、思いやりもかけたくなる。食事一つするにしても、頂ける事の有り難さと幸せさを感じないではいられないだろう。
こうした思いやり、それは個性という閉篭りがちな感じなものが、外に出して「愛」になる。
「愛」はまた「受けること、求めること」を期待している言葉の意味合いがあるが、そのためか釈尊は[愛」いう言葉を「自己愛」という意味で使われていたようで、それに変わり他への働きかけを意味する「慈しみ、慈愛」を用いて述べられている。
日木流奈さんの「月のメッセージ」からも、自己の見詰め方、個性の持ち方によって、慈しみの心が養われてゆくことが語られている。

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流奈さんの心の世界 二、基準

2008年04月09日 | 人生設計

私達が生きる基本姿勢として「幸せになりたい」としても、この世のしがらみと、まがまがしさを離れて出来るものではない。そしてまた、この世のしがらみとまがまがしさの中で生きていくには、ただ何となく生きて行けば、それで向こうから「幸せ」がやってくるように、都合よく行くものでもない。何らかの基礎となるもの、基盤となるものが必要だし、またその基礎や基盤にもどんな状態でも良いと言う訳にはいかず、基準が必要になる。
日木流奈さんの心の世界では、この基礎と基盤とあわせて、基準の大切さを示している。
私達は何か問題が起こった時、それの解答や解決を外に求めたがる。自分自身の問題なのに、外に解答や解決を求めるのである。しかし他の外のものは、自分自身ではない。変わっても、もらえない。そのために解答は得られず、解決法も得られないことになる。
それ故に「自分自身を基礎とし基盤としなさい」と、日木流奈さんは語っている。
そしてまた、自分自身を基礎とし基盤とするにしても、「幸せ」を受け止めるに相応しい基準を満たしていく必要がある。
それは、穴だらけの器では「幸せ」を受けようとしても受け止められないし、小さな器で大きくたくさんの「幸せ」を受け止めようとしても無理なように、基礎とし基盤とするものには基準なるものがある。
それは釈尊が亡くなる前に残された、

   「自灯明    法灯明」

即ち、「自分自身を灯火とし、法を灯火として生きる」ということが、そのまま日木流奈さんの心の世界にもある。

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