青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

絶対的民主主義

2007年12月31日 | 短歌に政治や社会
今日理想の主権主義として、民主主義が定義している。最も権力主義や人権主義に脅かされているが、そういう彼らも民主主義の重要さを否定していない。
しかし私には本当の民主主義の理念というものは判らないが、今日の民主主義は多くの弊害を抱かえている。その弊害を探りながら、逆説的に民主主義の理念に迫ってみた。
民主主義の基本は、基本的人権である。それは自由と平等であるだろう。この基本人権の、自由と平等が怪しい。
例えば平等の男女同権、男女平等をとっても、男性と女性の性の違いという相対的な対等性に立たない男女同権、男女平等を強調している。男性らしさ、女性らしさに立つことのない同権意識と平等意識により対立を引き起こしている。
自由についても例えば表現の自由があるが、これは表現する者のみの自由権の強調であり、その表現を受け取る側の都合、その表現を受け取るかとらないかの自由は後回しにされている。それが表現の自由の、言い分といえる。そしてそれによって受けての都合は無視され、青少年に有害な図書やメディアが氾濫している。
このように今日の民主主義は、相対的な個別性を尊重せず、そして対等性に立たないことに大きな欠点を持っている。
こうしたことから民主主義の理念は、私達個人が求めるものではなく、相対するものの基本的人権を認め尊重することから始まるといえるだろう。その上で、相対的対等性ある民主主義となりえる。
これを、絶対的民主主義とでも名付けることにしようか。

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実直に生きて

2007年12月28日 | 人生設計
病気をしたことがあったので詳しいことは忘れたが、十年ほど前にとんちで有名な一休さん、一休和尚に関する本を読んだように思う。そしてその中に一休さんは正月だというのに、杖の先に髑髏をつけて京の街中を練り歩いたという記述があった。一休さんはなぜそんなことをしたかというと、正月とはいえ浮かれている世間の人々を戒めるためだったという。
それは今日でも、通じるだろう。
現代の私たちも、何かと浮かれている。しかしそうして浮かれている反面、内実とか内情とか事実はどうかというと物質資源は全く無いという国情がある。食料自給率も四割程度しかなく、ものによっては九割を輸入に頼らなければならない物まである。
医師や看護師は不足して生命の危機にさらされ、消防士も救急士もなり手が無く不足しているという現状がある。その一方でタレントやスポーツ選手がスポットライトやステージライトを浴びて、振るわっている。
実生活には何の役にも立たないことに健康な人たちがライトを浴びる影に、医師などは疲労して人手不足から医療事故でも起こそうものなら訴えられる。先日は人手不足から疲労して居眠りしてしまい、救急に間に合わなかった救急隊員がいたが、この救急隊員をマスコミメディアは責めるけれども、マスコミメディアがタレントやスポーツ選手をちやほやするのを責めるべきだ。
そうして医師や救急隊員になるように進めるべきなのだ。そうでなければマスコミ論理や倫理の正当性も道理性も無いと、言わなければならない。

私達が健康な肉体を持つなら、実生活に役立つ生き方をすべきである。ことに若い人達に、それが望まれる。
田畑を耕し、子供を養育し、老人や障害者を介護して上げられるようになって実直に生きて欲しいものである。
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母国語を大切に

2007年12月26日 | 短歌に政治や社会
先日ちょっとテレビを見ていたところ、今日中高生の間でおかしな言葉が流行っているそうだ。方言とは異なる当て語のようなものらしく、私のような年代には理解に苦しみ覚えらようもない言葉が日常的に使われているらしい。
そして私には小四の孫がいて、時には勉強を教えてくれと言われたり、置いてある雑誌に目を通したりするが、そうすると一般生活と勉学との間に言葉の隔たりを感じないではいられない。
一般生活では話し言葉が中心になり、短い文体になっている。これがテレビのパラエティ番組ともなると、カタカナ語も混じり当て語も混じる構成になった話し言葉になっている。一方の勉学に使われる言葉は、二つ以上の文節のつながりを理解するような文体によって文脈構成されているため、一般話し言葉になれたままでは全文を理解し難くなっている。
このため国語力は落ち、理数学の応用力が低下するのは当然の成り行きといえる。文芸や番組製造には表現の自由や著作権があるが、幼少年の知育情操向上を阻害し侵害するような表現の自由や著作権の行使は正当性を持たないものと言わなければならない。
今日幼少年の知育情操向上のためにも、母国語を正しく使わせる必要がある。

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