唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯信鈔文意に聞く (4) 虚仮はなれたるこころ

2010-10-24 18:50:43 | 唯信抄文意に聞く

    『唯信鈔文意』に聞く (4) 

        ―  虚仮はなれたるこころ  ―

 「それから今度は、それだけでは意味がはっきり出ないわけでありますね。その一人の内容となるべきもの、一つということの立場、絶対という意味がどこで成り立つか。一人というものの内容が空虚でないためには、その一人はどこで成り立つかという意味で 「信」ですね。

   「『信』は、うたがうこころなきなり」

 「うたがうこころなきなり」ということがどこから出てくるかと申しますと、「ふたつならぶことをきらうことばなり」からです。疑うということがなくなる。「疑う」とは二つあっての疑いですから、一つの場合は成り立たない。一つという場合には疑いというのは成り立つことが出来ないわけですね。ですから二つあって疑いは成り立つ。自己と自己に対するものとあって疑いが成り立つわけですね。その疑うこころがないという意味において、一つであり、一人である。そういうこころですね。そういうこころは、

   「すなわちこれ真実の信心なり」

と。ここに「これ」と。「これ」といわれてありますのは、いま文字の解釈ですから、そういう文章の意味に考えられるわけでありますが、「すなわちこれ真実の信心なり」といわれた場合に、「これ」という時には、何かそこに具体的にものがあるわけですね。「すなわちこれ」と「真実の信心なり」。「唯信」というのはすなわち「これ真実の信心なり」と、こういわれるのであります。

 真実の信心ということは、門弟の人達と親鸞との間にはかねてより共通になっている言葉でありますから、「唯信」というのも「真実の信心」のことをいわれているのだということですね。別なことではないのだということです。

 「真実の信心」というのは何かと。いうまでもなく、「真実の信心は必ず名号を具す」とありましてですね。「これ」という時には名号、仏の名号というものが「これ」といわれるのであります。「これ真実の信心なり」といわれた時には名号である。従って、ここにものがらから申しますと、名号のほかに、ふたつならぶことをきらうということがいえるでしょうし、それから一人という時には、その念仏をする人ですね。「親鸞におきては、ただ念仏して」という、あるいは「親鸞一人」といわれた「一人」ですね。つまり他の人はかえりみずという意味です。そういう意味で、真実の信心ということが平常語られているわけでありますから、すなわち「これ真実の信心なり」と結ばれておるわけです。

   「虚仮はなれたるこころなり」

 「虚仮」というのは、真実に対しての虚仮です。「真実の信心なり」という「真実」という言葉から「虚仮はなれたるこころなり」と。虚仮というのは何かといえば、ふたつならぶことであり、ふたつならべるこころなのでしょう。それを虚仮、と。その虚仮を離れたこころ、だからふたつならぶこともない。二人が並ぶということもないわけですね。一人で充分という意味になるわけです。

   「『虚』は、むなしという。『仮』は、かりなりという」

 「虚は、むなし」。先程申しましたように、むなしい。他の人と並べての一人はむなしいですね。多くの中の一人というのはむなしい、それから「仮は、かりなり」という、一人というその一人、一つというその一つは、二つ、三つと数えられるうちの一つのことですね。ですからそういう場合、相対的にいえば、一というのは二に対する一と。これは仮なのですね。その場合は仮という意味が、出てきます。絶対という意味では、一ということもいえないわけです。ですから一という時には、二、三、四に対する一ですから、仮という意味があるわけですね。二に対する一は仮んおです。二に対しない一、これが「実」なのですね。二に対しない一というのは、もはやそこに二、三、四、五というものはない。どこへいったのか。どこへもいきはしないまま、仮であった、と。二、三、四も仮であったということです。仮に立ててあったのだという時には実の中に皆おさまって、実と一つになってしまうわけですね。

   「『虚』は、実ならぬをいう。『仮』は、真ならぬをいうなり」

 真実という言葉を、今度は虚仮に当てはめまして、虚とはまことならぬをいう。実という意味は、実際にあるように思っているけれども、実際にないということですね。虚というのは、ないものをあるように思うのですが、あるように思う時には、実際にあると思うわけですね。実際にあると思うている。その実というのは、一、二、三という相対的なものが絶対的にあるものだと誤って見る、そのことを虚というのであります。相対的にあるものが、絶対的なものだと考える。それは実ではないのですね。一、二、三、四とあるではないかと。ある、、仮にあるのだ。仮のものを実際のものと間違えるのですね。実のものと間違える。実際にあるものという意味においては、それはむなしい、そういう意味ですね。

 その場合、我々は、一、二、三、四と実際にあると思っていますから、そこでないものに迷い苦しんでゆくわけです。金がなくなったといって苦しむ。どれだけなくなったのかと。一円なくなったのでは苦しまないのですね。一円なくなったのでは苦しみませんけれども、一万円入れておいたのがなくなったというと、さわぎますね。「ないと困るのだ」といっている。しかし、一万円札は何のためにあったのか。困るためにあったのかというと、そうではないのですね。それがつまり困るためにあることになってしまうのですね。一万円札があるから困らないと思っていたところが、なくなったら困るのだと。困ったといって大騒ぎを始めるということは困るためにあったことになるでしょう。もとからなかったのなら困らないのであったと。普通の人にいってごらんなさい。普通の人にいってみますと、「話にならん」といいますわ。もともと話にならない話をしようとしているのです、人間はですね。話にならぬといっても、話にならない話ばかりやっているのですから、今さらあわててさわいでも仕方ないことを大騒ぎするのですね。「さわがずにおれるか」というのです。それなら困るために持っていたのか。そうではないのだ、なくなって困るのだ、と。あって困らないものは、なくなって困るのは当たり前で、初めから分かっていることなのですね。なくなったら困ることぐらいは分かっていることなのです。持った時から分かっていることなのです。仮にあるものですからね。仮にあって実にあるものでないからこそ使えるのです。実際にあるものならば使えませんよ。財布の中にはりついたきりで、引っ張っても取れません。実際あるものならね。人に渡ってゆくのは仮にあるからです。仮のものですね。それは仮です。相対の存在です。相対的な存在であるということは仮ということですね。これは一面だけしか真実と見ないということですね。

  「虚は、実ならぬをいう。仮は、真ならぬをいうなり」と。これは真と実と違うように思いますけれども、そうではないのでありまして、互いに違いに表わしているだけで、「虚は、真実ならぬをいう。仮は、真実ならぬをいう」といってよいのです。結局「虚仮は真実ならぬをいう」ということを互いに違いに字を分けて、互いに違いに表わされるのであります。これも虚仮なのです。うっかりすると、こういうことに引っかかりますね。虚は実ならぬをいう、仮は真ならぬをいう、と。仮は真ならぬことなのだと、虚は実ならぬことをいうことなのだといっててですね、虚仮に引っかかるのです。同じことなのです、虚仮も真実もですね。こういうふうに示されて、いずれにでも用いられることをあらわされるのであります。

 相対的な存在であるものを絶対的なものと、我々は思い誤っておるわけですね。思い誤っている立場というものが相対的に一、二、三、四とか、いろいろなものを並べているからでありましょうね。それから、自分というものをいろいろな多くの人間のうちの一人だということよりほかに考えたことがないということもあるのですね。そういう意味があるわけですから、相対的な一面というものを否定するのではないのです。相対的な一面はあるけれども、しかしどこまでも相対的なものだから、それを固執すれば虚仮になるわけですね。相対的なものから絶対的なものに如何にして立ち得るかという課題ですね。それをかかげたものが「真実信心」であるということになります。それで次に、

  「本願他力をたのみて自力をすつるをいうなり、これを『唯信』という」

と結ばれているわけです。それでは如何にすれば、相対的なものにとらわれている我々が、その相対的なとらわれから離れて絶対的な立場に立つ、そういうことが出来るかというと、本願他力をたのんで、自力を離れるほかにないのだ、と。「本願他力をたのみて自力をすつるをいうなり、これを『唯信』という」のだと。   (つづく) 来週は『鈔』の説明です。 蓬茨祖運述 『唯信鈔講義』 より 

 


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