唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(40)

2020-10-11 12:09:44 | 『成唯識論』に学ぶ

 おはようございます。前回明日にでもとお伝えしましたが、少し先延ばしになってしまいました。
外境は存在しないとどうしていえるのかという問題です。ここは、無始以来の有漏種子が因として現行している異熟識を受け止めることが出来ないことに関わってきます。
 もう少し先になりますと、阿頼耶識の心所が述べられますが、触の心所が大事なキ-ワ-ドになると思います。
根・境・識の三和合に由って認識が生起するわけですが、ここに深く関わってくるのが恒審思量の第七末那識なのです。
根・境・識の何れの一つがなかったなら認識は起こりません。根が境に働きかけなければ識は生まれません。識があっても、根・境が無かったなら認識は起こりません。認識は和合体なのです。
前五識の成り立ちは、例えば眼識は眼根に依り、眼根の対象である眼境(色境のことです)を捉えて眼識が生まれます。ここには分別は働きませんので現量(ありのまま)なのです。
以下、耳識(耳根・声境)・鼻識(鼻根・香境)・舌識(舌根・味境)・身識(身ね・触境)の構造も同じです。
問題は第六意識です。意根と法境の三和合なのですが、意は感情を司る受の心所になります。依としては、因縁依・増上縁依・開導依なのですが、第六意識の所依は、『成唯識論』巻第四に於いて、(選註本P84)「第六意識の倶有所依は唯二種のみ有り。謂く七と八との識なり。」と説明されています。
 つまり、第六意識は第八阿頼耶識と第七末那識を所依としているのです。第六意識は第八阿頼耶識を根本依として意識活動を起こしているのです。そして第七末那識の関与は、これも『楞伽経』の伽他に説かれているのですが、「阿頼耶識を依と為て、故に末那転ずること有り。心と及び意とに依止して余の転識生ずるを得と。」と。
阿頼耶識の倶有所依は第七末那識なのですね。阿頼耶識の三相が説かれているところで、執されるところの蔵識と説明されていましたが、現量としての前五識はですね、意識を所依としてして動いていますから、意識の支配下にあるといえます。ですから、前五識が常に現量であっても、第七末識を通して認識された意識に依って、限りなく自己を思い量る自意識の色づけで持って第八阿頼耶識にインプットされることになります。
 この構造が過去の種子として、現の異熟識として行動しているのが自身の今の姿になりますね。有為有漏の相ですね。ここで何のアクションも無かったなら、未来は開かれませんね。だから、「今」が大切な時間なのです。時間は常に与えられているのですが、その時間を無視して生きているのが私の現実相です。
 横道にづれてしまいましたが、投稿が長いという指摘もいただきましたので、今回はここで終わっておきます。

唯識入門(39)

2020-10-03 09:31:52 | 『成唯識論』に学ぶ
 おはようございます。いい天気ですね。ちょつとお出かけしたいと思います。
しばらく休憩をしていましたが、また再開させてもらいます。前回は因縁変・分別変について考えましたが、少し戻ってですね、阿頼耶識の所縁について考えてみたいと思います。
 その前に、四分義が終わりまして、「故に識の行相は即ち是れ了別なり。了別と云うは即ち是れ識の見分なり。」(『論』第二・(『選註本p42))
 ここが総結の文になります。ここをもって四分の説明はおわります。このように識の行相(働き)は了別(区別)して知ることである。そして区別するのは識の見分である、と。
 そして所縁が説かれてきます。
 認識の主体は常に自分なんですね。自分を離れて認識は成り立たないことを四分義は教えてくれました。
 眼は外に向いていますから、世界は自分を離れて存在すると思っていますが、自分が認識しないと世界の存在はあり得ないのですね。つまり、世界も自分の認識が作り上げたものということになります。
 その作り上げた世界が阿頼耶識の対象になって、自己が問われてきます。対象、つまり所縁の相分です。
 阿頼耶識は何を対象として捉えていくのが問われているわけです。それによって自己形成、自分が作り上げられてきます。これは休む間もありませんから、厳しい問いかけですね。
 そして阿頼耶識が所縁としているのは、結論からいえば、種子・有根身・器界の三つになります。種・根・器として表されます。
 外境としての器界と内境としての種子と有根身に分けられます。この種子と有根身は二に執受として表されます。
 『成唯識論』には、「言う所の処とは、謂く異熟識(いじゅくしき)の共相(ぐうそう)の種(しゅう)を成熟(じょうじゅく)せる力に由るが故に。変じて色等(しきとう)の器世間の相に似(の)る。即ち外に大種(だいしゅ)と及び所造(しょぞう)の色(しき)となり。」(『論』第二・p42)と説明しています。
処というのは、自らの種子を因縁として、阿頼耶識が器世間を変為(へんい)したものである。つまり、阿頼耶識が変化して内に種子と有根身とを、外に器世間を作りだす働きを変為といっているわけで、「阿頼耶識は因縁の力の故に自体生ずる時、内に種と及び有根身とを変為し、外に器を変為し、即ち所変と以て自の所縁と為す」と説かれているのです。
 阿頼耶識の対象として外に器世間を変為している、ここですね、非常に難解です。外に対象としての世間はあるではないか。世間が在って私が存在している、こう考えていますが、仏教はそうではないと否定します。すべての存在しているものは心を離れては存在しない、心が変化したものであると。徹底的にですね、すべては心に離れては存在しないと(一切不離識)と教えています。
 器世間は有情の所依処といわれています。私たちは器を所依処として存在している。その所依処は阿頼耶識が作りだしたもの、阿頼耶識が作りだしたものを所変として自らの所縁としているというわけです。その体は色・声・香・味・触の五塵でになります。
 例えばですね、眼識ですと、眼は視覚作用ですから、色境が対象となります。耳識ですと、声や音という声境が対象となります。
 ここを詳細しますと、第八異熟識は自体生ずる時、親因縁と及び業種子との力との力に依って、内に種子と有根身を、外に器世間を変為し、それらを自の所縁とするということになります。器世間が無いというわけではないのですね。ここがややこしいところで、器世間を縁として自らの中に器世間を写し出し、映し出されたものを見ているということなのです。自分が描いたように器世間が在るわけではないということです。
 ここは少し説明が要りますね。眼識の対象は色境であると述べましたが、それが阿頼耶識とどう関係しているのか。明日にでも投稿します。