唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第五 三性分別門 (5) 別答 (三因をもって答す。その第三の因。)

2015-10-30 23:16:59 | 初能変 第五 三性分別門
 

 第三の理由が述べられます。(「第三因に云く」(『述記』)
 「又此の識は是れ所熏性なるが故に、若し善と染とならば、極めて香と臭との如く、熏を受けざるべし。」(『論』第三・五右) 
 「述して曰く、前に已に説けるが如し。唯だ、無記性なるは熏習を受くべし。薩多婆等若し復難じて言はん。熏習の識無しと云はば、亦た何の過か有る。」(『述記』第三末・三十一左)
 「前に已に説けるが如し」、熏習について、所熏の四義・能熏の四義が説かれていました。熏習論につきましては、2014年4月23日~26日、所熏の四義(経験の蓄積される場所を明らかにする)につきましては、2014年4月28日~5月02日の投稿を参照してください。
 第八阿頼耶識は所熏処であることが既に考究されていましたように、第八阿頼耶識は現行識の熏習を受ける所熏の識なんです。現行の識が能熏になります。阿頼耶識に経験の種子を植え付ける働きをもつものです。そして植え付けられる場所が所熏処である阿頼耶識なんですね。阿頼耶識が善もしくは染であるならば、熏習を受けることは出来ないと言っているのです。熏習を受ける性質をもっていることが所熏性ということになります。
 喩が出されています。
 「極めて香と臭との如く、熏を受けざるべし。」と。これは、阿頼耶識が善或は染という独自の性質を持ったものであれば熏習しないということを述べているわけですが、「極めて」とありますから、麝香とは沈香といういいお香は心を浄化する働きをもっているわけですから、そこに臭(悪臭)をもった臭いを染み込ませることは出来ないですね。つまり、心を浄化する働きを持っているお香に、心を散乱させる悪臭を熏ずる(染み込ませる)ことは出来ないんだと。また、悪臭に薫香することもできないであろうと、阿頼耶識が善という性質、或は、染(悪)という性質のものであれば、この喩と同様になり、熏習を受けることはない、と。阿頼耶識は善であれ、悪であれ、無記であれ、すべてを受け入れる所熏処でありますから、無記という性質を持ったものなんですね。
 私たちは、このような無記という性質の上に、善悪の種子を植え付けているのだと教えているわけです。
 熏習することがありませんから、
 「熏習無きが故に、染浄の因果倶に成立せず。」(『論』第三・五左)
 「述して曰く、此れ論主の答。・・・若し熏習無くんば染浄の因・果倶に成立せず。既に熏習無くんば即ち種子無くなんぬ。種子若し無くんば即ち是れ因無くなりぬ。因既に無くなりぬるが故に其の果も亦無くなりぬ。」(『述記』第三末・三十一左)
 熏習することは無いと説いているわけですから、熏習がなかったなら因果は成立しないわけです。現行熏種子、現行が因、熏種子が果という因果関係が不成立になるわけです。私たちは無記性の上に善悪を植え付けていきますから、還滅が成り立っているのですね。菩提・涅槃と流転は果ですね。因である現行が問われてくるわけです。
 このような問いが出されてきた背景には、有部の教説があるのですね。有部は「所熏の識など無くてもいいではないか」という論難に対して、論主が答えるという形をもって対論されているのです。熏習がないと、染浄の因果が成立しなくなる。」と。
 「故に此は唯だ是れ無覆無記なり。」(『論』第三・五左)
 私達、人間の迷妄の事実から見つめられてきた問いだと思いますね。私は何故悩み苦しんでいるのか。悩みにも、苦しみにも意味があるということでしょう。大きな意味を持って生まれてきたということなのでは。苦から目覚めへ、、「しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと」。阿頼耶識は無覆無記であるからこそ言えることではないでしょうか。
 

初能変 第五 三性分別門 (4) 別答 (三因をもって答す。その第二の因。)

2015-10-30 00:03:33 | 初能変 第五 三性分別門
 

 font size="4">第二の理由が述べられます。
 「又た此の識は是れ善と染との依なるが故に、若し善と染とならば互に相い違へるが故に、二が與に倶に所依と作らざる応し。」(『論』第三・五右) 
 「述して曰く、此の識は既に是れ果報の主として、善染法の所依止と為り、既に恒に是れ善ならば悪が依と為らざる応し。是れ悪ならば亦善が依と為らざるべし。互に相違せざるが故に。」(『論』第三・五右)
 第八阿頼耶識が無覆無記であるには三つの理由があることの第二の理由を示しています。此の識、第八阿頼耶識は七転識の所依である。第八阿頼耶識に依って前七識は善・悪・無記の所依止と為る。つめり、第八阿頼耶識を所依として善・悪・無記のいずれの心にも転じ得る。しかるに、若し所依の第八阿頼耶識が善または染であるならば、つまり、恒に善であるならば、悪の所依にはならないであろうし、もし悪ならば善の所依とはならないであろう。互いに相違し合って三性の識が生ずることができなくなる。
 私達のいのちの依り所は第八阿頼耶識なんですね。ここは非常にわかりにくいところだとはおもいますが、命の根底に在って命を支えているのが阿頼耶識なんです。ですから、阿頼耶識は能蔵・所蔵・執蔵という意義を持つものであると説かれているわけですね。そして三蔵を依り所をして現実の心は動いているわけです。迷うことも、菩提を求めることも、第八阿頼耶識が無覆無記であるから行い得ることができるわけです。もし、阿頼耶識が善なる性質であるならば、悪行をするはずはないのですね。深く言えば、業縁が成り立たないのです。悪を為すことはなく、迷うということもないわけです。
 面白ですね、私たちは苦悩のない世界を求めて彷徨っているわけです。苦悩があるから清らかなに禅定の世界を求めることが出来るのですが、阿頼耶識が善性でありましたら、迷うことがありませんから意味をなさないですね。その逆は、もし阿頼耶識が恒に不善であるとしまうすらば、菩提を求めるということが起こってこないのです。「人生楽あれば苦もあるさ」は無常を教えているのですね。有為有漏の存在であるということを教えているわけです。私たちにとって無常は苦以外にないわけでしょう。その証拠に、いつでも若々しく、地位も財産も名誉も失うことなく、できれば死を迎えることなく生きていたいとの望んでいるのではないですか。ここが鍵になりますね。僕にとってはですよ。生きていることは、こうありたい、ああなりたいと思っているわけでしょう。これが菩提を求める印なんですね。いのちの根柢が無覆無記だから、迷うことも、目覚めることも出来るわけです。迷うことにおいて慚愧の心をいただき、目覚めることにおいても慚愧の心をいただくことができるのですね。
 反面、無覆無記だから、悪行に染まるということも起こってくるわけです。しかし、私たちのいのちの根源は無常であり、無我を生きているわけです。無常を知り、無我を生きよと教えているわけですね。二の重い障礙、菩提と涅槃を障えるのは煩悩障と所知障であると教えられていました。菩提と涅槃は善悪を超えた世界ですね。善悪はいつでも退転するかもしれない対立の世界の出来事です。
 なんかね、僕の立てる場所は、善悪を超えた彼岸の世界、そこが依り所だと。不可知の世界ではありますが、竊に推求すれば「ここに帰ってこい。ここが汝の居場所だ」と。浄土の世界からの呼び声が聞こえてくるような感じがします。
 善か悪か決定されていたら私の進むべき道は閉ざされてしまいますね。現実の諸問題から、第八阿頼耶識は無覆無記であると意味づけられているのでしょうね。

初能変 第五 三性分別門 (4) 別答 (三因をもって答す。その第一の因。)

2015-10-28 22:41:44 | 初能変 第五 三性分別門
 

 此の識は唯だ是れ無覆無記なり。異熟性なるが故に」。これは総答になりますが、別して無記の名を釈します。三つの理由を以て無覆無記であることの立証をしています。
 第一の因(理由)
 「異熟いい若し是れ善と染汚とならば、流転と還滅と成ずることを得ざるべし。」(『論』第三・五右)
 ここは異熟といいましても、阿頼耶識のことです。阿頼耶識が問われているところですので、有漏の場合は、ということになります。如来の第八識は無漏ですから唯だ善性になります。
 阿頼耶識が若し善であるか、染汚(不善・有覆無記)であるか、それがはっきりしていたらどうなるのか、という問いが先ず出されてきます。人間の本性が善か悪であるとしたらどうなるのかですね。
 答
 「流転と還滅と成ずることを得ざるべし。」(流転も還滅も成り立たなくなる。)
 もし善性か悪性ならば必ず異熟ではなくなる。何故ならば、
 「『摂論』第三巻の末に自ら解せり。(人・天の)善趣の(第八識)は既に善ならば、(不善の熏を受けざるが故に、發業潤生の)不善を生ぜざるべし。(唯善の熏のみを受けて)恒に善を生ずるが故に。即ち(苦・集の)流転なかるべし。(
 煩悩業の)集に由るが故に生死に流れ、苦に由るが故に生死に(輪)転ず。悪趣(の第八識)も翻じて亦然なり。(唯だ悪の熏のみを受くるが故に)既に恒に悪を生ぜば、(善の熏を受けざるが故に、善を生ぜざるが故に、滅・道の)還滅なかるべし。道(諦)に由るが故に還ず。滅に由るがゆえに(業煩悩を)滅す。」(『述起』第三末・三十一右)
 この『述起』の釈がすべてを物語っています。
 『成唯識論抄講』で太田師は(心に響くように)、
 「阿頼耶識が若し善と染汚とならば、善であるか染汚であるか、もしそれがはっきりしていたら、人間の本性は善である、或は悪であるとしたならどうなるか。「流転と還滅と成ずることを得ざるべし。」流転は迷いです。もし人間が、基本的に善であるならば迷いはあり得ない。もしも人間の本性が善でありますならば、現実的に生死流転、迷っていくということはなくなってもいいはずですね。もし人間が染汚、汚れておりましたら還滅がなくなるんです。還滅は滅に還る、滅は涅槃ですから、心の安らぎの世界、静かな悟りの世界に還ってくる、流転は生死に迷う。現実の私達は生死に流転して迷っているか、悟りの方向に向かっているか、そういう二つの動きをしていくわけですが、その時にもしも私共が善であれば生死に迷うことはない。悪であれば修行をして悟りをひらくことはありえない、こういうことになりますね。ですから阿頼耶識は善でも悪でもないというんです。我々は現実に生死流転することもあるではないか、現実に悟りに近ずいていく、仏様にお会いして教えを聞くことができる、そういうことがあるじゃないか。ですから人間は真っ白なんです。無記なんです。無記だからある時はさまようんです。無記だからある時は悟るんです。それが理由です。」と語ってくださいます。
 流転は惑・業・苦の流転輪廻で、流転の因は惑から始まります。惑とは、我を認め執すること、我執です。この我執から煩悩・随煩悩が流れ出します。ここに自尊損他という自他分別が起こってきます。自分にとって、という枠で物事を取り決めていきますから、自分にとって利益になることは楽、その反対は苦ですが、楽といえども、いつでも苦に変わる性質のものですから、自分という枠の中では、苦・楽・捨はすべて苦なのです。
 親鸞聖人は、摂取とは「にぐるをおわえとる」と左訓されておられますが、今日のラインのやり取りを記載しますと、
 「過去を隠そうとすればするほど自分自身に縛られるのですかね。」
 「にげれば追いかけてくる。受け止めるしかない。」
 「なるほど」
 「なんでかわかるか、それは、真実に触れているからなんや。逃げたらあかん!というてんねん。過去を悔いて取り戻すことができるんやったら、いくらでも悔いたらいい。そうならんのや」
 つまり、道理に反すれば苦が必然なんですね。必然が「何故」というといを生み出し、道を求めるエネルギーになるわけです。このエネルギーは如来から頂いたものなんです。私が生み出すものは苦しかないわけですが、苦を縁として浄を欣うのは如来の働きなんですね。
 いうなれば、如来と衆生の分限が違うのですが、如来と衆生が出会えるのは無覆無記性においてなんです。現実の私の姿を見透かして、如来に出会えと催促されているように思えました。
 

初能変 第五 三性分別門 (4)

2015-10-27 23:25:18 | 初能変 第五 三性分別門
 

 「阿頼耶識は何れの法に摂むるや。」
 「此の識は唯だ是れ無覆無記なり。異熟性なるが故に。」(『論』第三・五右)
 「述して曰く、下の答に三有り。初に総答、次に別答。後に無記の名を釈す。此は総じて答すなり。若し善・悪性ならば、必ず異熟に非ずなんぬ。下に別して之を答す。」『述記』第三末・三十一右)
 阿頼耶識の受は捨であると明らかにしていましたが、今度は善悪について述べています。阿頼耶識は無記だと明らかにしています。善悪いずれでもない無色透明は性質をもっているのが阿頼耶識だと。
 第八阿頼耶識・異熟識の場合は、有漏で無覆無記の性質を持ったものである、ということです。「此の識は」とありますから、第八・阿頼耶識のことを問うているわけです。
 「因是善悪・果是無記」で、過去を背負って存在している自身は、異熟性であり、異熟の総報の果は無覆無記である。
 この理由が次で述べられます。(過去の業を背負うものが何故無記なのか?)この段は明日以降にしますが、私の意識の根柢でいのちを支えている阿頼耶識は無色透明であり、たとえ因が善であれ、悪であってもですね、果である自分自身の存在は無覆無記の存在であるということなのです。阿頼耶識には煩悩は相応しないのです。私たちは縁の催促によればいかなるようにも変化できることが可能であることを示しているわけです。「人間は楽を求めて、苦しんでいる存在である」とメッセージが届けられていましたが、無覆無記の存在に染汚生を植え付けて苦悩しているんですね。余計なことをしているんだな、と思います。「脚下照顧」自分の足元を見よ、とは、阿頼耶識に帰れとの催促ですね。
 

初能変 第五 三性分別門 (3)

2015-10-26 23:16:34 | 初能変 第五 三性分別門
 

 善・悪・無記についてですが、第八識は善・悪について色付けをしない無記性のものであり、第七識は唯だ悪(不善)であるけれども無記性である。そして表に現れている六識に心所のすべてが相応している。善の心所も悪の心所も、不定の心所もすべて六識と相応して現行してくるわけです。いずれにしても、深層で動いている心は無記性であるというところに大きな意味があります。それは私の思いを超えているということです。
 私は、私の思いを超えている現実に、自分の思いを重ねて執らわれて自他分別を起こしています。これは悲しいことですが、本能なんですね。いかんともしがたいことです。でも、ここに悲しみをもつということが大切なことなんですね。悲しみが自分の思いを破ってくれるんです。
 「有為の無記法をば世俗無記と名づく、愛・非愛の果を招くこと能わざるが故に、自性麁重にして不善に濫ずるが故に。虚空と非擇滅(ヒチャクメツ)とをば勝義無記と名づく。二果(当来の愛・非愛の二果)を招かず、不善に濫ずる所無きが故に。・・・」(『述起』第三末・二十九右)
 そして、阿頼耶識は無覆無記であると明らかにしてきます。
 「阿頼耶識は何れの法に摂むるや。」
 「此の識は唯だ是れ無覆無記なり。異熟性なるが故に。」(『論』第三・五右)
 異熟といっています、つまり、過去を背負った自分であるけれども、その過去に左右されない自分を生かされているんだということなんですね。阿頼耶識は無記だということはそういう意味なんです。善でもなければ、悪でもない。無記としてのいのちを賜っている。それを私有化しますから苦悩が生じてくるのですね。いのちは。苦でもなければ、楽でもなく、善でもなければ悪でもない、純粋無記の性格をもったものなんですね。確かに、過去の行為を引きずって今の私が存在するわけですが、今の私が未来に引きずることは無いのです。現状の生活の営みは変わることは無いでしょうが、私でいえば、過去の悪行を清算してというわけにはいきません。悪業を引きずった私が存在しています。後悔もし、なんであんなことをしでかしたのかと悔やむわけですが、もとに帰ることはできません。為した行為は否応なしに引き受けているわけです。それが自分を縛っていることに間違いは有りません。しかし、その悪行が悪行の価値観を変えることが出来ると教えているんです。それが無記性ということなんですね。「これでよかったんだ」と。ここに過去に対する慚愧心と、未来に対する方向性が定まるわけですね。
 「いのちに触れよ」我執の底からの叫び声です。阿頼耶識はいつでも、いかなる時でも、命に帰れと叫んでいます。無覆無記、救済の原理ですね。

初能変 第五 三性分別門 (2)

2015-10-25 23:08:00 | 初能変 第五 三性分別門
 

 「阿頼耶識をば何の法にか摂むるや」に入る前に、法の四種である、善と不善と有覆無記と無覆無記について、『述記』の所論からうかがいます。
 最初の問いは「法に四種有り。何れの法にか摂せらる。大乗にも亦自性善等有りと云う。」(『述記』)
 善に四種あるということですが、自性善・相応善・等起善・勝義善であり、自性善とは、それそのものが善であるというものです。第十一頌に挙げられています善の心所の十一をいいます。相応善は、自性善と倶に働くこころで、等起善は自性善と相応善とから付随して引き起こされる善い身業と語業と不相応行をいい、発起善ともいいます、勝義善は、真如のことで、第一義善であり、善無為の法になります。
 最初の三は有為の善法で、世俗善といいます。「世と出世との可愛(カアイ。好ましいこと。)の果を招くが故に、麁重なり生滅あり、安穏に非ざるが故に。」有為の善法は、「唯だ善の心と倶なるを善の心所と名づく。謂く信と慚との等とき定めて十一有り。」(『論』第六・初右)と説明され、善の心所には何があるのかを述べています。十一ある、と。内容は、
「信・慚・愧(き)・無貪・無瞋・無癡・勤(精進)・安(軽安)・不放逸・行捨・不害」の十一です。
 無貪・無瞋・無癡を三善根といい、それに反して、貪・瞋・癡を三不善根、或は三毒の根本煩悩といわれている。善の心所が立てられるのは、その正反対の心所(煩悩・随煩悩)を対治するためである。
 不善は、「諸の極悪の法」であり、「世俗不善と名づく、能く麁顕(ソケン。はっきりと認識されたあり方。)の非愛の果を招くが故に。諸の有漏法をば勝義不善と名づく。自性は麁重(ソジュウ。身心の重々しい状態。)にして安穏ならざるが故に。」
 有為の善法は、いつでも不善に変わる要素を持ったものであり、有漏なんですね。例えば善の心所の中で「信」が最初に挙げられます。「仏法の大海には信を以て能入と為す」という「華厳経」の教えもあって、非常に大事なことではありますが、「信」は何処で成り立つのかですね。自分が信ずるという時には、必ず功利心が働いてきます。そこで他を裁きます。自力の執心と教えられますが、怯えがあるのですね。自分が壊れる怖れです。怖れが自分の中にあるから他を裁くのです。そこでは「信」は成り立ちません。いつでも自分の評価を気にして一喜一憂しているのが私の姿です。仏教は、そのような立ち位置では駄目だと、財や健康や名誉を当てにしていては苦の因を解くことは出来ないんだと。この三つは髻(モトドリ)ですから、断ち切らなければならないというわけですが、ここに自分の深い執着心が解けない、見えないという暗さがありますね。
 自力の執心に立たないという所に「信」は生まれてくるのですが、それを他力というのですね。すべての因は自分にあったという気づきですね。そして一切は御縁の世界に生かされている身であるという頷きでもあるのでしょう。そこに安穏という、安らかで穏やかな心がもたされてくる、そのように教えられているんだと思います。
 倫理の世界では、善因は善の果を引き、悪因は悪の果を引くと教えられているようですが、仏教でいう善・悪(不善)、世俗善・世俗不善とし、世俗善は、善因楽果であり、世俗不善は、悪因苦果であって、共に安らかで穏やかな心をもたらすものではないと教えているのです。

初能変 第五 三性分別門 (1)

2015-10-23 22:34:59 | 初能変 第五 三性分別門
 

 「下、第五の段は即ち是れ第八に何れの性とか倶なりと云う門なり。」(『述記』)
 第五 三性分別門
 「法に四種有り。謂く、善と不善と有覆無記と無覆無記となり。阿頼耶識をば何の法にか摂むるや。」(『論』第三・五右)
 此れは、最初の問いになります。「法に四種有り」から述べられますが、法の四種とは、善と不善と有覆無記と無覆無記になりますが、五位の心所の中で、その識が禅の心所と相応すれば善ですし、煩悩・随煩悩と相応すれば悪または有覆無記です。善と悪と有覆無記の三心所いずれとも相応しなければ無覆無記になります。
 三性分別とは、今の言葉ですと、価値判断です。善と悪。それに無記、善でもなければ、悪でもない、それに有覆と無覆とがある、これで四種です。
 太田久紀師は講義の中で、
 「法というのは難かしい単語でして、この一切のもの、黒板も法です。チョークも法、私共も法、こういうこの世のもの、ものというのは物質だけではないんです。ものを考えるというときのものです。つまり頭の中にいろいろ整理されて入っているもの全部が法です。もう一つは心理、永遠の真理、これらが一体のところが仏教の大事なところです。ものがってどこかに仏様の世界があって、これは全く別世界のものだ、というんじゃなくて、ここに存在している私達の生命そのものが実は真理に支えられているわけでありまして、真理は遠くにあるのではなく、私共のこの現実に生きている生命の中に、この現実の社会の中に真実というものがある。・・・ものという現実的な存在と、永遠の真理がこの一字の中に含まれている。しかし真理と現実は違う。違うという面でいえば、天地のcj被害がある。有限なものと、永遠のものですから、根本的にちがうのです。それをはっきりと分けるのが唯識。・・・これが法の第三の意味であります。法を聞く、聞法をするというときにはこの意味です。教えをとうして法にふれていくわけです。・・・存在するものと、真理と、お釈迦様の教え、その姿が法相・・・」
 と教えてくださいます。
 「法に四種有り」とは、存在するもの、それは真理と一体のもの、それを明らかにしていくのです。善・悪・無記。善という価値判断。悪という価値判断、それと、無記という価値判断があるということですね。
 種子生現行、微妙ですね。色即是空・空即是色が働いているのですが、間髪を入れずに善か悪の色付けをして現行してくる。ここを明らかにしているのが唯識なんですね。因は善か悪、果は無記。無記なる私が、善という方向を持ち、悪という方向を持つわけです。
 厳しいことをいいますが、より良い生き方をするにはどうしたらいいのか。悲しみに寄り添って、悲しみを乗り越えていくにはどうしたらいいのか、等々。これらはこの問いが生み出されてくる背景を知らないと究極のエゴイズムになりますね。「私が困る」ということなんです。いろいろ理由付けをしますが、私が困るんです。何故なんでしょう。思い通りないならんと困るという我執が働いている。両刃の言い方ですので、誤解を生じるかもしれませんが、私の生存の根底は無記であるということなんです。その無記に目覚めた時(念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき)に摂取不捨の利益にあずかるわけですね。現生正定聚につき定まるわけです。往生は現生か死後かとう論争がありますが、僕は、究極のエゴに頭が下がった時、往生が定まるのではないでしょうかね。頭の下がらん状態で、往生論はナンセンスだと思いますが、いかがでしょうか。
 今日もラインで遊んでいましたが、「煩悩のかたまりですね」「これでいいのだ」。これでは駄目だということを通して、これでは駄目だに頭が下がった時に「これでいいのだ」といえるのでしょうね。
 「阿頼耶識をば何の法にか摂むるや」(阿頼耶識はどれだ、という問いです。明日考究します。

初能変 第四 五受分別門 第二釈不與余心所相応所以 (5)

2015-10-22 21:41:06 | 初能変 第四 五受分別門
 

 次に他の心所とも相応しない理由を述べます。他の心所とは、善・煩悩・随煩悩・不定の心所です。
 「此の識は唯だ是れ異熟性なるが故に、善と染汚との等きとも亦相応せず。悪作(オサ)等の四において無記性成る者あれども、間断有るがゆえに定んで異熟に非ず。」(『論』第三・五右
 「此の識(第八識)は唯だ是れ異熟性なるが故に」。種子生現行、阿頼耶識の種子(有漏種子)が現行する時の果相は異熟と云われています。異熟は「無覆無記なり」、異熟無記の識、これが第八識です。常に触と作意と受と想と思と相応するが、感受作用としての「受」は捨受であり、触等の五遍行も無覆無記であることを明らかにしています。
 受は捨受
 三性(善・悪・無記)の中では、無覆無記性である。「異熟は必ず善・染に通ずるに非ざるが故に、(善の心所の)十一と、(根本煩悩の)六と、(随煩悩の)二十とも亦定んで相応せず。」(『述記』第三末・二十八左)
 善の心所は、唯だ善性であり、煩悩・随煩悩は唯だ悪性でありますから、第八識とは相応しないのです。
 悪作等の四の不定の場合についてですが、
 『述記』に問いが出されています。「不定の中の無記成るは名にぞ。第八識の無覆無記と並ぶに非ずと云うや?此の問を答せんが為に、「悪作等」が説かれてきます。
 悪作は悔(ケ)ともいいます。・睡眠(スイメン)・尋(ジン)・伺(シ)の心所です。これらの心所は、第八識と同じく無記性の場合もありますが、「一切時に常に相続するものではない」という理由から、相応することはない、と説かれているのです。
 以上で第四の五受分別門が閉じられます。次に第五の三性分別門が開示されます。
 

 FBの「唯識に自己を学ぶ」の投稿もお読みいただけら幸いです。

初能変 第四 五受分別門 第二釈不與余心所相応所以 (4)

2015-10-21 21:54:19 | 初能変 第四 五受分別門
 

 私たちは、何かを願うとか、何かを欲することを以て生活の基盤としています。しかし、そのことに於いて私たちは悩んだり、苦しんだりしている。非常に矛盾するわけですが、願いとか、欲求そのものは本来、純粋なんでしょうね。ただ煩悩に覆われて不純粋にしています。願いそのものまでも不純粋ということではないと思います。願いは純粋。ここが大事な所です。何故不純粋にしてしまうのかですね。ここに如来のお仕事が有るように思います。不純粋にするのは煩悩だと、煩悩は分別意識ですね。我執です。我が身可愛いということ、自分が一番という自我意識ですね。その煩悩が意識の底深くに流れている。第八阿頼耶識の所縁である種子の中の、染汚を生み出してくる種子が現行する時、心は染汚されたものとして現行してくるのですが、現行そのものは純粋意識なんですね。純粋意識が、染汚された煩悩を縁として煩悩だと知らしめ、本来の願いに呼び覚ます働きをもってくる。
 「如来が人間に成るところに如来の願いが出てくる。それで因位、因位法蔵という。だから如来の願いということになると、如来が衆生となる。衆生の立場となって願いというものがある。人類を背負うて立つという願いになる。」と安田理深先生は教えてくださっています。煩悩を呼び覚まし見失ってしまっている道を本来のあり方に方向転換させていただく。それが如来のお仕事であるということなのでしょう。
 「親鸞聖人は“ちからなくしておわるときに、彼の土へはまいるべきなり”といわれるわけです。・・・これは命終わって浄土に生れる、そいうことではなくて、分別に死ぬということです。また分別が無くなることをいっているものでもありません。分別を当てにすることに死ぬ。分別を頼りとする立場の死、ということです。」と、高柳正裕師は教えてくださっています。
 分別を当てにするのが煩悩ですね。どこまでいっても分別を当てにするのです。そういう構造になっているのですね。その立場の死です。これが如来のお仕事なのでしょう。そのことに目覚めることを、分別を頼りとする立場の死というのでしょうね。前念命終です。同時に願生です。願に生きる生活が始まるのですね。大切なことをお教えいただきました。
 別境の定と慧について概略しますと、
 「定」といいますと、禅定という精神統一を思いますね。ある対象に向かって心を専注して乱れないということです。ここでも何をもって定というのか。それに対し「所観の境に於いて。心を専注して不散ならしむるを以って性と為し。智の依たるを以って業と為す」といわれています。観は観察・境は対象、所観の境は観察しようとする対象・それに於いて心を留める、不散ということ、散乱しないことを本質とするということです。念を受けるかたちで、定がもたらされます。定は智慧の所依となること。智慧は真理を知るはたらきですね。智慧が生まれるのには念・定の心所が大切なのです。定に於いて心が浄化されるのです。浄化ということには本来に帰るという意味が込められています。「自性清浄心」といわれ、本来は清浄心なのですが、煩悩によって覆われているのですね。私の経験したことのすべてが今を生み出している、そのすべてが煩悩によって覆われているというわけです。「覆」ということに菩提心をおこすのです。煩悩と対峙するということです。そして心を浄化するということにつながっていくのですね。煩悩という心所はまた詳しく述べてまいりますが、例えば貪欲です。自分の欲望を満足させたいがために執念を燃やすということがありますね。目標一直線に心を集中させるということなのですが、これは定とはいわないのです。定に似て非なるものです。煩悩を翻すということに於いて真実を知る智が生まれるということなのです。「智の依」というのが「定」であるということ、大事に聞いていきたい心所です。「定」は心をひとつに留めて悪を作らない、浄を妨げる貪欲・慈悲を妨げる瞋恚・因縁を妨げる愚痴の煩悩を止となす、といわれています。大乗仏教では修行の階位としての止観行が最も大事なこととされているのです。「所観の境に於いて、心を専注する」ということですね。修行することによって柔軟心を成り立たせるということがいわれるのです。自己に執着する心が翻されて柔らかな、何事にも対応できるような心に転ずるというのです。
 「慧の心所と云は、万ずの知らんと思う事の徳失をよく簡び弁えて疑を除く心なり。是則ち智なり。別境の五と申は是なり。」(慧の心所というのは、すべての知ろうと思うことが正しいか、正しくないかを選び、弁えて疑いを除く心である。)智慧の慧は聞慧・思慧・修慧といわれますように正しく聞き・思惟し修行することによって得られるものです。何が真実か不真実を選択して疑いを断ずる心なのです。その真実は清浄の業より起こり、そして仏事を荘厳するわけです。何が真実かということですが、私は答えはないと思うのです。「往生極楽の道を問う」ことが真実につながるのではないかと思います。私たちの知恵は疑心をもっているのですね。二心(ふたごころ)です。一心ではないのです。この知は愚痴の痴で病にかかっているのですね。我執と云う病です。私が一番で二番三番は無いのです。此れが私たちの知恵の本質です。「所観の境に於いて簡択(けんじゃく)するを以って性と為し。疑を断ずるを以って業と為す。」のが慧であるといわれているのです。過去のすべての経験を忘れていないというのが「念」でした。この念が定の依り処となり、その対象にむかって心を一つに集中していくのが「定」です。定が智の依り処となるのです。そしてどの方向に向いて歩みを進めているのか、善か悪かを択びわける働きが慧というわけです。これが煩悩を断じていくのであるといわれているのです。過去の経験を忘れていないということは何を意味するのかということです。その中に「生きていくことの意味」のヒントが隠されているということだと思います。過去の経験のなかを吟味して択ぶ、仏道の方向に向いているのかどうかを択ぶわけです。何故なら、私たちの目的は悔いのない生き方・空しく過ぎ行くことの無い人生・幸福な生き方を願っているわけでしょう。願いの彼岸が私たちの故郷になるわけです。故郷を持たないと帰る場所が無いわけです。故郷喪失症に陥ります。故郷を回復する運動が念・定・慧という一連の流れに成るのではないでしょうか。
 欲・勝解・念・定・慧という別境の心所は働く対象が異なるのですね。欲は所楽の境に於いて・勝解は決定の境に於いて・念は曾習の境に於いて・定・慧は所観の境に於いてというように異なる対象に於いては異なる心所が働いているわけです。ここで大事なことは欲から慧へと心の深まりがあります。はじめは漠然として欲の心所がいわれています。その欲にもいろいろあります。欲楽といい、欲望という違いもありますが、慧の心所から窺えますことは、慧は真実を知る智慧ですね。そうしますと別境の心所は仏道に向かわしめるということを主題としているということがわかります。私たちは自ずと仏道的生き方をしているわけです。そして別境はどの心に働くのかという問題になります。「第七・八識には」と、この別境は位(有漏・無漏)に随って有無があるというのです。有漏の阿頼耶識には別境は働かない・偏行だけが働きます。阿頼耶識は純粋ですから何事にも分別しないのですね。阿頼耶識が転依(大円鏡智に)しての無漏位には別境の全てが働くのです。これは願生という欲生心から無分別智まで一筋の道なのですね。第七末那識は転依(平等性智に)しての無漏位にはすべての別境は働きますが、有漏位では慧の心所だけが働くのです。何故かと言いますと末那識は我執ですから自他を簡びわけるのですね。自分の損得だけを思いつづけていますから、自分にとって損をしないように簡択(選ぶ)するわけです。その心所が慧です。仏道に方向が定まっていてもですね、最後の関門があるわけです。エゴイズムです。利己的に物事を変えていくわけですね。ここをどのようにして突破するかが仏道の課題として残るのですね。前五識は感覚器官ですが第六意識に左右されます・影響を受けますから六識には五つの心所が働くのです。この様に見ていきますと第六意識ですね。この作用がいかに大切なことかがはっきりと見えてくるわけです。欲を起こす、それはどの方向を向いているのか、優れた理解を以って確認をするわけです。方向を見極めるのです。そしてはっきりと記憶して忘れることがないのです。そして忘れることのない対象に精神を集中していく、そのことによって真実の智慧が獲得されるという流れになるわけですね。このような心の構造をしっかりと把握して聞法に励み、聞薫習することが大切な生き方ではないでしょうか。
 以上の別境の五(欲・勝解・念・定・慧)は第八識と相応しないということなのですが、その理由がですが、欲・勝解・念につきましては説明しましたので今日は定と慧について説明をします。
 先ず、定が第八識と相応しない理由です。
 「定は能く心をして一境に専注(センシュ)なら令む。此の識は任運にして刹那に別縁す。」(『論』第三・四左)
 この第八識は業に任せて任運に転じているので、定まった心ではないのですね、かといって散心でもありません。任運とは業に随って転ずることをいいますが、意志を用いないで自然に法爾に、縁に随って転じている、業縁存在と云われる所以です。
 『述記』には「定の行相は一々の刹那に深く取って専注して所縁に趣向す。此の識は浮疎にして行相爾らず、故に定と倶なるに非ず。」と。
 次に、慧が第八識と相応しない理由ですが、
 「慧は唯だ徳等の事を簡擇(ケンチャク)して転ず。此の識は微昧(ミマイ)にして簡擇すること能わず。」(『論』第三・四左) 
 「徳」はサンスクリット語ではグナguṇa。性質・特性・固有性と訳されます。また功徳とも訳されます。ものそのものの性質・特性・固有性を簡び分けるのが慧の心所です。この第八識は働きが弱い(微昧)ですから、簡び分けるということをしません。
 「故に此れは別境と相応せず。(『論』第三・五右)
 以上のような理由をもって、五別境の心所いずれとも相応しないのです。五別境と相応しないというところに、すごく深い意味があるように思います。これは無覆無記と関係してくるところなのでしょうが、私たちの心は業縁のままに分別を起こさない、分別を頼りとしないことを以て本質としているということなのでしょう。だから私たちは変わることができる。本来変わることの必要のない私に出遇うことが出来るのでしょう。

初能変 第四 五受分別門 第二釈不與余心所相応所以 (3)

2015-10-20 21:56:12 | 初能変 第四 五受分別門
 

 「勝解は決定の事を印持して転ず。此の識は瞢昧(ムマイ)にして印持(インジ)する所無し。」(『論』第三・四左) 勝解は、対象を確認し勝れた理解をする心の作用をいいます。「何事もひしと思ひ定むる心なり」(『法相二巻抄』)「ひしと」はしっかりと・思ひ定むるは決定的に理解する心と云う意味です。「決定の境に於いて印持するを以って性と為し。引転すべからざるを以って業と為す。」対象を決定的に理解していることを心に刻み込むことを以って本質とする心所です。それに対して、第八識の行相は、明らかならざること闇昧である。はっきりしていないということです。つまり、「決定の事を印持して転ず」という働きを持ちません。従って、この識には勝解は無いということなのです。
 瞢はボウと漢音では読み、呉音でムと読みますが、くらいという意味のことです。

 「念は唯だ曾習(ソジュウ)の事を明記して転ず。此の識は昧劣(マイレツ)にして明記すること能わず。」(『論』第三・四左)
 「念」という心所は「勝解」を受けるというかたちです。境(対象)に対し善悪を明確に(はっきりと)確認し、認識をして決定する。それに応じて、「念」は認識されたものを明らかにして(記憶して)忘れない。(明認不忘)ということになります。「曾習(ぞうじゅ)の境に於いて。心をして明記して不忘ならしむるを以って性と為し。定の依たるを以って業と為す。」といわれています。曾はかって・以前にということで、過去のことです。習は経験です。よって過去に経験したことを確認し認識をして忘れないことが性質であるということになります。ここに「念」という心がはたらくのですね。はたらくことが定の依り処になる。私の経験したことのすべてが今を生み出しているということですね。それを私は忘れてはいないことに心が定まるということです。そうしますとそこに私の行き先・方向が決まってくるということになります。業は行為ですから過去の経験のすべてを依り処として明日の行動が決まるということなのですね。ですから方向転換ということはものすごいエネルギーを要するのです。しかしね。今、決定(けつじょう)することが大事なのです。なぜならこの念は善悪のどちらにもはたらきますから、選びがないのです。今が未来を決定するのです。忘れてはなりませんね。『法相二巻抄』には「経て過にし事を心のうちに明に記して忘れざる心なり」(過去に経験した事を心の中に明らかに、はっきりと記憶して忘れない心を念という)とより具体的に述べられています。この念が定をおこす因となるということなのです。欲望のままにということになりますと欲念ということになりましょうし、怨みを抱いてということですと怨念ということになりますね。仏を念ずることは念仏ということになりましょう。問題は私は何処に向かって歩いているのかということです。生きる方向です。それがはっきりしているのかが問われている、こういう意味を持っているのが念の心所なのですが、この第八識は、昧劣にして明記することがありませんから、念のような働きは持ちません。従って相応しないということになります。
 「此の識は昧にして且つ劣、恒に任運に現在の境を縁ず。明に曾所受の境を記すること能わず。故に念有ること無し。」(『述記』)
 曾所受の境(曾習)は、過去に経験したことを云います。


 明日は、定と慧が第八識と相応しない理由を述べます。