唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第八倶転門 (5) 随縁現 (5)

2016-12-04 21:46:36 | 第三能変 第八倶転門
  

 起滅分位門を読み解くところですが、前段の「濤波(トウハ)の水に依るが如し」は、五識を喩ているわけです。「水」は第八識で、「五識」は濤波になります。濤も波も字義は「なみ」を表しますが、「波」はさざ波のように小さな波を表しし、「濤」は大きな波を表します。長く連なるという意味があるそうです。一浪が起こって、また次の二浪が起こってくるのですが、一浪の縁と二浪の縁とでは条件が違っているのですね。五識は第八識に依るのですが、現行は衆縁を待って起こってきますから、眼識は九つの生縁を必要とし、耳識は八つ、鼻識・舌識・身識は七つを生縁として起こってくるのです。
 意識は五つ、末那識・阿頼耶識は四つを生縁として起こってきます。
 そこで、大事なことは、末那識と阿頼耶識はいつでも、どこでも一緒に動いているということです。ですから、阿頼耶識は表面には出て来ないのです。こういう所で、蔵識の異名としての阿頼耶識を読み取っていければ「善悪のふたつそうじてもって存知せざるなり」という宗祖のお言葉も響いてきますね。
 条件が変われば、波の大きさも変わる。穏やかな海が悪魔のように牙をむく時があるわけです。地震という地殻変動が津波を引き起こしてくるのですが、一つのプレートを末那識だとすれば、もう一方のプレートが阿頼耶識でしょう。一方のプレートが動けば、自ずからもう一方のプレートは動くわけです。末那識と阿頼耶識の関係はこういうことだと思います。これは水面下の動きですから見えてきませんが、波を見て水面下の動きを察知していかなければならないと思いますね。
 ともかくも、五識が動くのは条件次第であるということになります。このことを『論』は「或は倶なり或は倶に起らず。外縁の合することは頓・漸有るが故に、水の濤波の縁に随って多少なるが如し。」と述べています。
 この外縁が問題です。能変の識でしょう。能変が転じて二分の所変を現わすわけです。そして所変の見分を能縁とし、所変の相分を所縁としている種子と有根身が外縁になるわけでしょう。つまり、身と倶にある有漏種子が問題であるわけです。外縁として、問題は外からやってくると思い込んでいるのが有漏の問題ですね。違うんですね。何も問題は無いのです、「これでいいんだ」という世界なんでしょう。が、ですわ。「が」がつきます。「たら」もつきます。みんな有漏なんです。有漏に気づけよという催促があるわけでしょうが、有漏に気づいたら、ここでも「たら」がついています。我執を支えている我執の深さでしょうね。「捨ててこそ」です。そうしますと、有漏そのものが無漏であったということなんでしょう。それが「生かされている命の感動」なのではないでしょうか。


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第三能変 第八倶転門 (4) 随縁現 (4)

2016-12-01 22:51:28 | 第三能変 第八倶転門
   


    ―  如濤波依水   ー 
 『頌』に「濤波の水に依るが如し」と。濤波(トウハ)とは、大波・波のうねりのことを指します。仕事で能登半島・羽咋によく訪れますが、海岸線を車で走れる千里浜(チリハマ)ロングビーチが日本海に面して広がっています。波打ち際を8kmもドライブできるのですね。波の高い時には進入規制が行われるそうですが、12月に入りますと、能登有料道路のドライブインから眺める日本海の荒々しい波しぶきは正に「濤波の水に依るが如し」を物語るものです。
 親鸞聖人は海に託して仏法を語られますが、聖人が流罪に遇われた新潟県居多ケ浜での日々が、海と共に生活をされる人々の中に「生きることの意味」をくみとっておられたのではないでしょうか。海辺に立って荒れくるう日本海の中に自身の心の動きを見ておいでになった、そう思います。
 「五識は第八識に依るが如し」
 「水の濤波、縁に随いて多少なるが如し」(『論』第七・九左)
 水が波うねる時には、縁に随って波立つように、外の縁の力に依って私の心が変化し、働くのです。起こるのは縁に依るわけです。ですから波がいつも起こっているわけではないし、またその縁は一つでもないことを表しています。
 「述曰。彼の解深密等に説く。広慧は大暴流水に、若し一浪の生ずる縁が現前することあれば、ただ一浪が転ず。乃至、若し多浪の生ずる縁が現前すれば、多浪が転ずることあるが如く、諸識もまた爾なり。暴流の如き阿陀那の故に、乃至、諸識は転ずることを得等といえり。これは五識を以て濤波に喩う。本識を暴水に喩う」(『述記』第七本・五十右)
 「彼の解深密等に説く」と述べられてあります『解深密経』の記述は巻第一・心意識相品第三に説かれます。
 「広慧、阿陀那識を依止と為し、建立と為すが故に、六識身転ず。謂く、眼・耳・鼻・舌・身識と意識となり。此の中識あり、眼及び色を縁と為して眼識を生ず、眼識と倶に随行し、同時同境に分別の意識ありて転ず。識有り、耳鼻舌身及び声香味触を縁と為して耳鼻舌身の識を生ず、耳鼻舌身の識と随行して、同時同境に分別の意識ありて転ず。
 広慧、若しその時に於て一の眼識転ずれば、即ち此の時に於て唯一の分別意識のみありて眼識と所行を同うして転ず。若しその時に於て、二三四五の諸識身転ずれば、即ち此の時に於て唯一の分別意識のみ有りて、五識身と所行を同うして転ず。
 広慧、譬へば大瀑水の流れの、若しは一浪の生ずる縁現前すること有れば、唯一浪のみ転じ、若しは二若しは多浪の生ずる縁現前すれば、多浪転ずること有り。然も此の瀑水の自類は恒に流れて、断ずることなく、盡くること無きが如く、又善浄の鏡面の、若し一影の生ずる縁現前すること有れば、唯一影のみ起こる、・・・是の如く広慧、瀑水に似たる阿陀那識を依止と為し、建立と為すに由るが故に、・・・」
    
    ― 一切の種子は瀑流の如し ― 
 『三十頌』 第四頌に 「恒に転ずること暴流の如し」と。 根本識に依止するということは、念念生滅の種子を縁とするということ。これが水に譬えられ、表層の意識の上に現れていることを濤波に譬えられているのです。縁に依って五識の多少が現起する。阿頼耶識は河の激しい流れのように常に変化して相続するもので、阿頼耶識の中の種子は生じた刹那に滅し、また次の刹那に新たな種子を生じるのですね。種子生種子といわれています。「一切種子は瀑流の如し」、なんという美しい表現なのでしょうか。
 「此れ等の法と喩とを広く説くことは経の如し」(『論第七・九左) 
 (意訳) 以上述べてきた法と喩は経(『解深密経』等)に広く説くところである。
 「述曰。解深密等に言うが如し。彼の経にはただ五識あり。この論もまた已に彼に例同し訖る。ただ喩の中に彼にさらに一あることあり。謂く善浄の鏡面の如し。一の影の生ずる縁が現前することあれば、ただ一の影が起る。乃至、多の影もまた然なりと知るべしといえり。
 故に此に(論)に等というは、かの鏡の喩えを等ずるなり。いま此れに、この法喩等というべし。法の中に等ずるものなきが故に。これは通じて説く。総じて等の言をいたす。前の七識はみな濤波に似るなり。独り五を説くことは、五と倶にして定めて第六七あって恒に生ずるが故に」(『述記』第七本・五十左)
 「阿頼耶識は激流の水が流れやまぬように、永遠に絶ゆることはない。その流れの上に私たちは分別の意識を起して、眼識とその対境との浪を起すところに、歴然たる現象世界を認識している。他の耳・鼻・舌・身の四感も同様である。それはまた鏡の面に影が映って、鏡面が影そのものの如くになるようなものである。それは鏡面が転変して影となるのではない。」
 • 鏡面の喩は、「鏡」は「鏡に依って像、現ずることあり」といわれますように、心の認識作用に喩えられます。
 「五識を以て濤波に喩う」と。五識は第六意識と第七末那識があって恒に生起するものであるり、これ等の識は本識を所依とするということで、暴水に喩えられているのです。第七識がキーポイントになります。第六意識が如何に善・浄に働いているとしても、その第六意識を根底から支えている、深奥の底によどみなく働き続けている我に対する執着が問題にされてきたのです。その識が第七末那識です。間断がないのです。恒審思量、自我を思量する、これが性であり、相でもあるといいます。意識の上で「悪いことをした」と反省をしたり、「一日一善」、善行を行いましょうといっても、その底に流れている自我執着性は意識の上に上ってこないのです。これが凡夫と言われる現実性なのでしょう。凡夫であってもですね、仏法を聞いて世のため・人のために尽力をします。大切な行為ですね。行為の上に行為を自覚するのです。「恒に審らかに所執の我相を思量す」るということ。そしてこの第七識は第八識を所縁とすることなのです。ここは倶有依と関係するところですが、『論』では四師(難陀・安慧・浄月・護法)の説を挙げて護法の正義を明らかにしています。五識は五色根・第六意識・第七末那識・第八阿頼耶識を倶有依として生起しているのです。第六意識は第七末那識・第八阿頼耶識を倶有依とし、第七識は第八阿頼耶識を倶有依として、第八識は第七末那識を倶有依とする相互の関係になります。
 前五識の倶有依として五色根を捉えて、その五識が、第六識・第七識・第八識と相互に関係をもって、私の身体が成り立っているという唯識の人間観は人間が生きて行く上で非常に示唆に富んだ指摘であると思います。
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第三能変 第八倶転門 (3) 随縁現 (3)

2016-11-30 21:29:36 | 第三能変 第八倶転門
  

 昨日の八識と生縁についての説明になります。どんな縁があれば起きるのかを説明するところです。
 「眼識の場合は九つの縁が必要なのです。「空」は空間です。「明」は明るさ。空間と明るさが無かったなら眼識は働きません。眼と対象の間にある一定の空間がないと見えません。また闇では見えませんか、明るさが必要です。「根」は眼根、「境」は見る対象。「作意」は見ようとする働き。見ようとする働きがないと見えません。「第六」は意識。眼でみるのは色彩だけです。判断力があるのが意識ですが、黒板に何か書いてあるのを認識するのは前五識です。書いてあることに分別を加えるのが意識です。五具の意識と呼ばれています。そして意識を支えているのが染汚性をもった第七末那識ですし、その底に第八識が動いています。
 第八識が具体的に意識を動かしてきます。ものの見方そのものが、過去の経験を踏み台にして動いてくるのです。そして現在の現行が種子として、未来の果を決定してきます。
 生きるって、ほんまに厳しいですね。油断が自分の人生を形成しているといっても過言ではないようです。
  
 「縁と云うは謂く作意と根と境との等きの縁ぞ」(『論』第七・九左)
 (意訳) 諸識が生起する縁とは作意と根と境とそれぞれの識生起の等きの縁に依るのである。眼識は九縁・耳識は八縁等という衆縁所生という。 
 
 その理由を述べるます。
 「謂く五識身は内には根本識に依り、外には作意と五根と境との等きの衆縁の和合するに随いて方に現前することを得。此れに由って或る時には倶なり或る時には倶起ならず。外縁の合することは頓・漸有るが故に」(『論』第七・九左)
  (意訳) 五識身は内には阿陀那識に依り、外には作意(能令心驚覚といわれ、遍行の一種・深層の阿頼耶識のなかに種子として眠っている心を驚かし喚起して目覚めさせ、目覚めた心を対象に向かわしめる心作用である)と五根と境との等きの衆縁の和合するに随って識は現前する。いろいろな条件が重なって動くときも有るが、動かない時も有る。五識は縁の具不具に由って現前することは多少有るのである。
 
 「述曰。五識は内には本識に託すと云う、即ち種子なり。外には衆縁に籍るに由る。方に現前することを得と云う。種子は恒なりと雖も、外縁の合するに頓漸あるを以て、五を起し、或いは四・三・二・一の識は生ずるが故に。或いは五より一に至って生ずること不定なり。故に或いは倶、或いは不倶なり。七十六の解深密に説く。広慧、阿陀那を依止と為す。建立と為すが故に。若し、その時に一の眼識の生ずる縁、現前することあれば、即ち此の時に於いて、一の眼識は転ず。乃至、五の縁が頓に現前すれば、即ちその時に於いて、五識身は転ず等と説けるが故に。五識は縁の具と不具とに由るが故に、生ずること多少あり。或いは倶なり、倶ならざることもあり」(『述記』第七本・四十九左)
 『論』に「内・外」と言われていますが、どのような意味があるのか、ということは、『演秘』に答えられています。
 「答。二釈あり。一に云く。十二処に約すして、本識は意処の所摂なるが故に、内と為す。作意は法処なり、故に外と名くるなり。 二は唯、第八識の若しは種、若しは現は生ずる根本なるが故に、独り名けて内と為す。所余の諸縁は根本に非ざるが故に皆、名けて外と為す。論は後に依って説く」(『演秘』第六末・二左)
 内には阿頼耶識を種子とし、外には縁をまって生ずる、ということですね。縁は多いのです。前にも説明していますが、眼識は九縁の和合によって現前します。私が今ここに存在しているという事は衆縁が和合して「今、ここに」というご縁をいただいて存在しているのです。私の意思だけでは動かないのですね。条件が変われば、どのようにでも変わるということです。私たちは外の出来事について批判を繰り返しますが、縁をいただいていないだけのことで、縁が整えば人を千人殺すことも可能なのです。ただ人がよくて殺すという行為に及ばないということではないのです。よく考えてみる必要があります。

 ブログを綴っていまして、一番学ばしていただいているのが僕自身なのですが、一番理解していないのも僕なんです。分かったつもりでいるのですが、わからんですね。
 第三能変で語られる前六識の所依は、根本識に依止(所依)しているのだと。その根本識とは阿頼耶識ではなく阿陀那識である。
 阿陀那は第八識の異名です。七つ挙げられていましたが、阿陀那は「種子と及び諸の色根とを執持して壊せざらしむるが故に。」このように説かれていました。
 アーダーナの音写ですね。意味は維持する、保持すること。第八識は種子と有色根とを保持し、維持している。つまり、命の相続の面から阿陀那識というのだと。
 そうしますと、前六識は、私の身体や人格を維持している働きに依止しているといえます。私の中で生き続けている種子を因縁依として、現行の第八識を増上縁依(倶有依)中の共依として起こっている、動いているわけです。
 眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの心は阿陀那識に依って、依り所をして動いている。そして、この六つの心は「根本識(阿陀那識)を以て共と親との依と為す。」共と親を依り所としている。
 共は共通、前六識は阿陀那識を共通の依り所としている。
 六識といえばですね、なにか当たり前のように、朝、目を覚ましますと働いて有るものだと簡単に思っていますが、目覚めは「覚める」という、眠りから覚めるということは、眠りの中に第八識が動いているということですね。第八識を依り所として前の六つの心は動いている、この点から「共」という言葉で押さえられている。
 私の意思を超えた世界の出来事の中で、命は支えられているのですね。
 そうして、眼を覚ました時に、いろんなことを見聞きします。僕でしたら、先ずスマホを見ます。テレビをつけます。コーヒ飲もうか、朝マックにしようかと悩みます。これらは自の種子から生み出されてくるのですね。経験値を踏み台にしてスマホを見たり、テレビを見たりしている。学びもそうです。
 今日も学びのお誘いがありましたが、月末ということもあってお断りをしました。これも経験なのです。断ったということが種子として熏習されます。また学びは学びとして熏習され、学びの深さにつながっていきます。
 つまり、種子が直接的な依り所をして六識が動いているのです。これを「親」という言葉で押さえられているのです。
 前六識でもって、私の生活全般を言い表しているのですが、私の生活そのものが、私の第八識を離れてはないということなんです。そして現在しているのは、自らの種子を依り所として現われているのです。
 なにか大事なことを教えているように思いますね。
 認識が起るということは、自の第八識から起こり、それが認識する、認識されるという時に、自の種子を依り所として世界が展開されていくのでしょうね。
 このことは、真宗的にいえば、回向の世界ですね。廻向の世界を、自分の世界に置き換えてしまうのが自力という執心ですね。唯識では遍計所執性と押さえているのです。
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第三能変 第八倶転門 (2) 随縁現 (2)  

2016-11-29 21:27:21 | 第三能変 第八倶転門
  

 「五識は縁に随って現ず」のところを読んでいます。
心の動くのは随縁現である、縁に随って動くということです。「衆縁(シュエン)の和合するに随って方に現前することを得」ということです。
衆縁は、さまざまな縁という、補助原因をいいます。また、「縁によって生ずる」、生縁(ショウエン)ともいわれます。ものごとが生ずる因の総称です。
「心心所法の起ること四の縁に籍る」わけです。
 四縁とは、因縁・増上縁・等無間縁・所縁縁の四つで、諸識が生起するには所依と生縁が不可欠なのです。
 所依は因縁依(種子依)・増上縁依(倶有依)・等無間縁依(開導依)の三種の依と説かれます。
 その理由は、「依」は広く四縁に通ずるけれども、「所依」と云う場合には、四義を具さなければならないといわれています。
 •(1) 決定の義ー或る時は依られ、或る時は依られない  という不定のものは所依とはいえない。
 •(2) 有境の義ー認識される対象をもっていること。
 •(3) 為主の義ーよく主となるものでないといけない。
 •(4) 心心所をして自ら所縁を認識するものでないといけない。
 の四つです。
 
 前六識は第八根本識の中の各自の種子を因縁依とし、現行の第八識を増上縁(倶有依)とする。
 ・ 前五識の倶有依  
 (A)不共依―同境依―五根を云う。五識と同じく現前の境を認識するから同境と名づく。 
 (B)分別依―第六識をいう。
 (C)染浄依ー第七末那識をいう。五識が有漏となるのは末那識が染汚であり、五識が無漏となるのは末那識が浄であるからであり、出世の末那といわれます。
 (D)根本依―第八識をいう。五識はこの根本識に依って生起するからである。
 (B)・(C)・(D)は共依と名づける。五識は皆、共に所依と為すからである。
 
 ・ 第六識の倶有依   
 (A)不共依―第七識をもって第六識の倶有依と為す。相順(そうじゅん=互いに一致していること。因と果の関係)と計度(けたく=分別すること。三世にわたる事柄を思考すること。第六識と第七識が計度分別を為し、前五識と第八識には計度分別は無い)の故に。
 (B)共依ー第八識をもって第六識の共依と為す。
 
 ・ 第七識の倶有依―根本依の第八識のみ
                      }
 ・ 第八識の倶有依―末那識のみ       
 この二つの識は常に間断なく任運にして一類である。(任運は分別に由って起こらないこと。 一類は無始以来変わることなく相続していること。)
 開導依(等無間縁依)とは、ある心が滅してそこに余地を開くことによって次の刹那の心が導かれて生じるから、一刹那前に滅した心を開導依という。「開導」は「開避引導」の略。前滅意をいう。諸の心心所は皆この依に託し、これを離れては生起しない。

 これは何を言い表しているのかといいますと、後念の心心所を引導して障りなく生起させる前滅の心なのですね。意根を指します。ですから開導依なくしては心心所は生起しないのです。 
 護法の正義 - 開導依の三義
 「開導依とは、謂く有縁の法たり、主たり、能く等無間縁と作る。これ後に生ずる心・心所法に於て、開避し引導するを開導依と名く」(『論』巻第四・新導本p169)
 •(1) 有縁の義 - 心心所に限定され、色・不相応・無為等を簡ぶ。
 •(2) 為主の義 - 心王に限られ、心心所法を簡ぶ。
 •(3) 等無間縁の義 - 異類と他識と倶時の心心所と及び、後時の心を前心に望むことを簡ぶ。
 と説明されます。また開導依は必ず等無間縁であるけれども、等無間縁は必ずしも開導依でないといわれます。この項については第二能変の所依門に詳細されています。
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第三能変 第八倶転門 (1) 随縁現 (1)  

2016-11-28 22:02:47 | 第三能変 第八倶転門
  

 有所依とは「所依を有していること。心が生じる依り所である感覚器官(根)を有していること」なのです。
 所依に三種有り(心が生じる三つの因)、と説かれていますが、(1) 因縁依(種子依)・末那識の依り所 (2)増上縁依(倶有依) (3) 等無間縁依(開導依)といい、自己はどう生きているのか、そしてどう生きなければならないのかと云う問題が、この「依」という問題なのですね。自己と関わりのないところで述べられているのではなく、主体的に自己存在の在り方を問うているのです。我執の問題です。阿頼耶識から末那識が生まれ、その末那識が阿頼耶識を対象として自分を汚していく。これが循環していくわけですね。これが所依の問題です。
 ここにまたですね。根本識に依るということがありますけれども、また五識が五根に依り、意識が意根に依るということもある。倶有依ということです。「依」に根本依として四依がいわれます。(1) 同境依 (2) 分別依 (3) 染浄依 (4) 根本依で、五識のいずれかが生じるための四つの所依である。 第六識は阿頼耶を根本依、末那識を染浄依としているのです。
  ―  第三能変 第八倶転門 (1)  ―
  ―  随縁現 (1)  ―
 「随縁現と云う言は、常に起こるものに非ずと云うことを顕す」(『論』第七・九左)
 (意訳)五識は縁に随って縁ず、ということは、常に現起するものではないということを顕しているのである。
 「五識は縁に随って方によく現起す。これは常に生ずるもにに非ずということを顕す。縁は恒にあらざる故に。第六意識もまた縁に随って方に現ずと雖も、時に縁は恒に具す。故に言わざるなり。・・・この五識は多く間断するに由るが故に問、何者を縁とするや」(『述記』第七本・四十八左)
 五識は常に起こらない、ということは、縁に随っていろいろなことが起こってくるということですね。縁がなければ起こらないが、縁が起きると様々なことが起こるということになります。いつも働いているというわけではないということです。「何者を縁とするや」と。どんな縁があれば起きるのか、という問が出されます。
 内に種子をもっているけれども、縁がなければ現起しない、種子だけで生ずるのではなく縁をまって生ず、と。
 『歎異抄』第十三条の親鸞聖人のお言葉が心に響きます。「故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき」(真聖p633)と。
 「縁」の問題は次の科段で述べられますが、ここは内に阿頼耶識を種子とし、外には縁を待つ。縁を待って生ずる、といわれています。
 「縁と云うは、謂く作意なり。根と境との等きの縁ぞ」(『論』第七・九左)
 「眼識は肉眼に依るは九の縁を具して生ず。謂く空と明と根と境と作意と五は小乗に同なり。若し根本の第八、染浄の第七、分別倶の六、能生の種子を加えるならば、九の依をもって生ず。若し天眼ならば、唯、明、空を除く。
 耳識は八に依る。明を除く、
 鼻舌等の三は七に依る。また空をも除く。至境を方に取るを以ての故に。第六識は五の縁に依って生ず。根は即ち第七なり。境は一切法なり。作意と及び根本の第八なり。能生は即ち種子なり。五の依を以て生ず。
 第七、八は四縁を以て生ず。一に即ち第八、七識なり。倶有依となる。根本依なし。即ち倶有依となすが故に。二に随って取るところを以て所縁と為す。三に作意、四に種子なるが故に、四縁あるなり。
 或いは説く。第八は四に依る。第七は三に依る。即ち所依を以て所縁と為すが故に。これは正義による。
 然るにもし等無間縁をとれば、即ち次の如く、十、九、八、六、五、四の縁を以て生ず。即ち所託の処をみな名づけて縁と為す。故にこの別あり。故に論に等という」(『述記』第七本・四十九右)
 『述記』の説明をまとめますと、次のようになります。
•眼識(九) 空・明・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
•耳識(八) 空・〇・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
•鼻識(七) 〇・〇・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
•舌識(七) 〇・〇・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
•身識(七) 〇・〇・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
•意識(五) 〇・〇・根・境・作意・ 〇・ 〇・ 第八・種子
•末那識(三)〇・〇・根・〇・作意・ 〇・ 〇・ 〇 ・種子
•阿頼耶識(四)〇・〇・根・境・作意・〇・ 〇・ 〇・種子
  深浦正文『唯識学研究』下・p336より引用
 前五識は縁がなければ起きない。縁あれば起こり、縁なければ起こらないということですね。条件が整わないと働かないのです。例えば眼識ですと、九つの条件が整わないと眼の働きは作用しないということです。条件が整えば、否応なしにはたらくのです。空とは空間です。明は明るさですし、根・境・識が和合してものを見るという動きが出てきます。そして、作意です、見ようとする心の働きです。それがなにものであるかを判断するのが第六意識です。その第六意識は深層の第七末那識を所依としていますし、第七末那識は第八阿頼耶識を所依・所縁としてわたしの意識構造が成り立っている。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  
 「虚仮はなれたるこころなり」
「虚仮」というのは、真実に対しての虚仮です。「真実の信心なり」という「真実」という言葉から「虚仮はなれたるこころなり」と。虚仮というのは何かといえば、ふたつならぶことであり、ふたつならべるこころなのでしょう。それを虚仮、と。その虚仮を離れたこころ、だからふたつならぶこともない。二人が並ぶということもないわけですね。一人で充分という意味になるわけです。
「『虚』は、むなしという。『仮』は、かりなりという」
「虚は、むなし」。先程申しましたように、むなしい。他の人と並べての一人はむなしいですね。多くの中の一人というのはむなしい、それから「仮は、かりなり」という、一人というその一人、一つというその一つは、二つ、三つと数えられるうちの一つのことですね。ですからそういう場合、相対的にいえば、一というのは二に対する一と。これは仮なのですね。その場合は仮という意味が、出てきます。絶対という意味では、一ということもいえないわけです。ですから一という時には、二、三、四に対する一ですから、仮という意味があるわけですね。二に対する一は仮なんです。二に対しない一、これが「実」なのですね。二に対しない一というのは、もはやそこに二、三、四、五というものはない。どこへいったのか。どこへもいきはしないまま、仮であった、と。二、三、四も仮であったということです。仮に立ててあったのだという時には実の中に皆おさまって、実と一つになってしまうわけですね。」(蓬茨祖運述)
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