唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

法執の所依を顕す。(3) (真如について)法性に約す

2013-09-30 21:12:32 | 心の構造について

 第二は、「法性に約す」と記されています。真如は「心言の路絶て」といわれますが、仮に有と施設して説かれます。六無為という、六つの方面から真如が仮に説かれます。迷いの言葉を以て真実を顕しています。

 何故ですね、法性に依って仮に虚空等の無為を説くのであるかという問いが提起されます。

 「二には、法性に依って、仮に有と施設せる」(『論』第二・六右)

 「述して曰く。此れは空等は真如に依って立つるを顕す。何者か是れ法性と云う。」(『述記』第二末・三十七左)

 無為法なんですが、何に依って説かれるのか、と云うと、法性に依って仮に有と施設して説かれるのである、と。

 「謂く、空無我に顕さ所たる真如の、有と無と倶と非との心言の路絶て、一切法と一・異等に非ざるなり。」(『論』)

 「述して曰く。此の空無我に顕され所る真如は、有に離れ・無に離れ・倶有無に離れ、心行処滅し言語道断にして、一切の法と一にも非ず、異にも非ず。等とは非即離等を等取す。此れ前に総じて法性の体を顕す。」(『述記』)

 「法性の体を顕す」。法性の体は何であるのか。真如である、と。二空所顕の諸法の真実の性であると云われています。「心言の路絶て」と言われていますように、言葉では顕せないものですね。ですから四句の否定を以て心言を離れていると述べているのです。

 有でもない・無でもない・亦有・亦無でもなく、有に非ず無に非ず、という四句を離れていると説明されています。

 一切法からはも否定されます。一切法と一と言うべきかというと、一に非ずです。では異なのかというと、異でもない、異に非ずです。

 此れが真如である、と。

 「是れ法が真理なり。故に法性と名づく。」(『論』)

 真如は差別がありません。平等なんですね。理とか性という表現をしています。真如が自性なんですね。自性は阿頼耶識である。阿頼耶の三相ということが説かれているのですが、相は相分、阿頼耶識の相分で見分の客観的内容ですね。それに三つの相がある、と。

 まあ、これはともかくとして、真如がどこに働いているのか、自性=阿頼耶識と。一人一人の阿頼耶識が自性として働いている。諸々の障礙を離れている、これを虚空というのだ、と。

 真実の理は、相を離れていますから、「法性」という。

 「述して曰く。法性と云う名を釈す。性とは体なり。諸法の真理なり。故に法性と名づく。如何ぞ此れ(真如・法性)に依って仮って空等と説く。」(『述記』)

 これは、私たち一人一人が、無始より来た、真如と共に歩みを続けているということです。自覚としては「如来大悲の恩徳」を感じ、手が合わさった姿でしょう。真如と共に歩みを続けてきていることに反逆してきた歴史が聞法を通じて慚愧心を生んでくるのでしょう。これが心言を離れた法性のあるべき相なのではないでしょうか。

 三が、依の義を顕す、として、六無為の一つ一つが説明されます。

 

 

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法執の所依を顕す。(2)

2013-09-29 12:30:18 | 心の構造について

 先に進むあまり、見落としてきたことがありました。前に戻って考えてみます。

 法執について述べられる前には、勝論・数論等の説、小乗諸部派の説を挙げ、その問題点を指摘し正義ではないと破斥しています。

 識変の無為を明らかにする、という一段を読み落としていました。「諸の無為が実有でないとすれば、何故経の中に虚空等の諸の無為が有ると説くのか。」という問いです。

 「然るに契経に虚空等の諸の無為法有りと説けるは、略して二種有り。」(『論』第二・五左)

 識所説の無為法に略して二種有る、その一つが、識変の無為である。

 「一に識変に依って、仮にして有と施設せる」(『論』)

 此れは本質のない識所変の無為を表しています。本来、無為は、為作・造作が無いもの、因縁所生のものではないものです。六無為ということが説かれます。今、此処に説かれる識所変の無為は真の無為ではなく、依他起によって仮に説かれたものであることを『経』は顕わしている、と。

 「謂く、曾って虚空等ありと説きし名を聞きて、随って分別し虚空等の相有りき。数数習せし力の故に心等の生ずる時に虚空等の無為に似る相現ず。此の所現の相は前後相似して変易有ること無し、仮に説いて常と為す。」(『論』)

 科文は、「識変に約す」と記されています。これは意識によって考えられた無為法です。如来とか、涅槃とか、本願とか、浄土とかですね、こういう言葉を聞いて何を想像していますでしょうか。その想像されたものが識変ということです。「随って分別し虚空等の相有り」と。どうなんでしょうか、聞法もですね。、聞くことを重ねていくことに於て、これが「数しば習せし力の故に」ということなのではないでしょうか。そうするとそこに「無為に似た相が現れる」、しかし、この相は常住不変で無為に似ているわけですが、識所変の相である。

 よくお話の中で、「つかむ」と語られますが、「つかむ」ということが識所変の相で、真如法性ではないと云うことを教えているのですね。

 「問、此れ心の相なら体是れ有為なり、何が故に乃ち虚空無為と説くや」(『述記』)

 「此の所現の相は前後相似して変易有ること無し、仮に説いて常と為す。」(『論』)

 「所現の空相は前後相似して改易有ること無し、唯だ一類に豁(カチ)なる虚空等の相為るが故に。仮に説いて無為と為す。而も理は定んで実に本質有ること無し。」(『述記』)

 豁(カチ) - ひらける、ひらけ通じた谷という意味。虚空を喩えて云う。

 つかむと留まるわけですね。十地でいうと、七地の問題です。七地に沈むという問題で、聞法の課題でもあるわけです。ここをどうやって突破するのか、問われますね。この問いまでが竪超、ここから先が横超の問題でしょう。

 聖道門は竪超、浄土門は横超といいますが、初めからこういう問題はないわけでしょう。聞法の課題に触れた時に、初めて竪超・横超が問題とされるのではないでしょうか。

 壁にぶつかって、紙一重の問題に触れた時に、「光明無量・寿命無量」の誓願に頭が下がっていくのではないでしょうか。頭が下がった姿が、信心決定ですね。ですから信は心澄淨と教えられているのでしょう。

 第二が、法性に約す。離言の真如を言葉をもって示しています、六無為として、仮に六つの名をもって説かれているわけです。 

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法執の所依を顕す。(1)

2013-09-28 18:22:36 | 心の構造について

 今日から、法執の所依について学びます。

 法執の所依も、我執の所依とほぼ同じ内容です。これは執着の所依が同じだからです。影像相分を縁じているのは見分なのですが、相分が実の如く有るとする執ですね。これが妄執となって迷いを引き起こしてくるのだと教えられています。

 執の所依は第七識、所縁の境は第八識。第七識の相分は第八阿頼耶識の見分を、錯誤して自分であると認識し執しておるわけです。常・一・主・宰の我である、と。

 しかし、第八阿頼耶識は「恒に転ずること暴流の如し」と云われていますから、恒転なんです。常ではないわけですね。

 阿頼耶識の見分を常・一・主・宰の義がある自分だというわけです。自分が縁じてきた相を見て、それが我であり、それが自分であるという。自分の心です。心に映じたものを実の我・法とし、そこに執着するという構造です。

 第八阿頼耶識は、一瞬一瞬の恒相続です。現行・熏習・種子を繰り返しながら、命とともに任運に生じている。何等変わることなく生じていると思われるわけです。ですから、変わることのない自分は有るんだと錯誤している。何等執着はしていないと思っている、ここが問題ですね。問いがないわけです。ですから、私が悩んでいることの解決を物質に求めるのです。一番は経済です。世の中不況だから、景気を上昇させてくれという欲望です。その結果何が起きているのか、地球の財産である資源はこの一世紀に大半を枯渇させました。温暖化の問題は、ヒマラヤの氷河を溶解し、南北両極の氷河をも融解させてきています。気温は上昇し、海面も上昇し、生態系は破壊されつつあります。それでも人間の愚かさは、豊かな生活・豊かな国造りに奔走しています。未来に何が残せるのでしょうか。

 仏教は、本当の豊かさは何か。何が間違っているのかを伝えてきました。私たちは、知的財産としての仏教ではなく、生きて働いている仏教を学ばなくてはなりません。

 間違いの根っこにあるのが「執」なのです。我執・法執の問題です。親鸞聖人が教えられました二種深信も、「執」の問いに答えられたものだと思います。

 阿頼耶識は恒相続であり、第七末那識は常相続といいます。「恒転」と「常倶」で「恒転」が本質、「常倶」が影像ですね。本質と影像という問題が提起されてきますが、これはよく似ているわけです。「恒に本質に似る」或は「心・心所が起こる時、能縁の上に本質と同分の影像を顕現す」と云われています。本質が元ですね。影像は自分が描き出したものを自分が見ている、第七末那識の見分が第八阿頼耶識の見分に働きかけて、自心の上に相分を描き出しているということ。これが執の問題になるのです。影像ということで、現象的存在には実体がないことを示しているのですね。「幻の如くにして有り」(真実有ではない)。それと妄所執の我・法は、間違って考えられたもの(横計)であるから、これもまた真実有ではない、と『成唯識論』は説いています。

 本文に入る前に、三分の構造で少し説明をしておきます。

 護法菩薩は、三分共に、依他起性であると説かれています。識体は能変、「転じて二分に似る」という見分・相分は所変で、三分共に縁より生じたものという解釈です。

 しかし、見分が相分をそのまま縁ずるわけではないのです。「自心の相を起こして、執して実法と為す」と云われています。執しているもの、妄執によって現じたものは遍計所執性であって無である。依他起性は縁生ですから有である。

 何故、執が起こるのかということですが、第七末那識の所依は第八阿頼耶識だといいましたが、第七末那識は「常に四煩悩と倶なり」といわれて、染汚識なのです。いうなれば純粋を汚し染めてしまう働きを持っている識ということですね。

 第八識が転じて見・相二分に変化して現れる。能変・所変の関係では本です。本質ですね。ここに第七識が関係を持つと本質を本質として見られないと云う構図が出来上がってくのです。染汚が働きます。染汚とは我見です。「我」が入ってきます。我が介在して、介在したものを識所変の相分として縁じてきます。識所変の相分と見分との関係は親しい関係にありますから、影像を親所縁といい、純粋性である本質を疎所縁といっています。

 次回から本文にはいります。

 

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分別起の法執について (4) 除断の位

2013-09-26 23:30:21 | 心の構造について

 余談になりますが、今朝、仕事場の階段で足を踏み外しまして肩と顔面を強打しました。病院にいき、CTとレントゲンを撮っていただき検査をしていただきましたが、打撲で、特に異常はないという診断でした。顔面右半面はチクチク痛みが走っていますが、明朝は紫色に変色しているのかもしれません。それはともかく、刹那刹那の行為は任運ですね。あらゆる条件が重なって、今、現に、此処に、身をいただいているということなのですね。

 「夜電光を見て即ち道を見ることを得るが如し」(『遺教経』)

          ー       ・      ―

 「此の二の法執は麤なるが故に断じ易し。初地に入る時に一切の法の法空真如を観じて、即ち能く除滅す。」(『論』第二・八右)

 分別起の法執は、見道通達位、初地不退に入って無分別智を得て、法空真如を観じて除滅されると云われていますが、見道初地に至るまで一大阿僧祇劫を要すと云われています。

 少し戻りまして、分別起の我執の項をもう一度読んでみます。

 (転載)

 「分別起の我執は、唯だ第六意識のみに存する有間断にして麤猛のものである、ということです。これは執の所在を明らかにしています。「間断なり、麤猛なり、故に此の執有り」と。(『述記』第一末・十五右)
そして第六意識以外の諸識は、浅であり、浅は前五識・第八識を指し、細(第七識)なり、及び相続(第八識)するから、横計(おうけ)という、間違って考えるという邪分別を起こすことは無い。邪分別は必ず間断し麤猛である。第八識は浅にして間ではない、前五識は間では有るが浅である。第七識は倶に無い、従って分別起この我執は第六意識のみに在る我執である。
「分別の我執は亦現在の外縁の力にも由るが故に、身と倶にしも非ず。要ず邪教と及び邪との分別を待って然して後に方に起こるが故に分別と名づく」分別の我執は、「亦」といわれていますように、虚妄熏習の内因力と、現在の外縁の力にも由るのである、と。内因力の種子と邪教等の外縁との二縁に由って生起するということなのです。分別は、邪教の分別と邪思分別(自分の考え)で、この二つが外縁力です。そして執の所在は第六識である。「間断なり麤猛なり」という。『述記』には「内縁には必ず籍る。兼ねては外縁にも籍る。故に外縁に於て亦の字を説く」と説明されています。内因とは、阿頼耶識の中の種子を内的な原因で内縁といい、それより他の外的な原因を外縁といいます。そして「内的な因(自の種子)と(現在の)外縁とより生じるが故に縁生と名づく」、因を縁起、果を縁生と分けられて説かれていますが、生まれるということは、自の業種子と父母を縁として生まれてきたということなのです。生まれながらにして外縁を待ってということが分別が起こるということは必然なのです。邪分別とは、まあ、自分が一番だという考え方ですね。なんでもかんでも、自分の都合によって利用していくという計らい。。これは無分別智を証していないから、邪教に騙されるわけです。その因は我執です。外に因があるわけではない。内に騙されるような因をもっておる。分別起の二種の我執について「此に亦二種あり。 一には邪教に説く所の蘊の相を縁じて、自心の相を起こし、分別し計度して、執して、実我と為す。 二には邪教に説く所の我の相を縁じて、自心の相を起こし、分別し計度して、執して実我と為す」と二種の分別起の我執が述べられています。一は、即蘊の我、五蘊そのものが我であると分別し、計度して実の我であると執着しているのです。この我執を見て、自心の相を起こす。五蘊は仮に和合して身体を構成しているのですが、仮に和合しているものを固定化し、実体化して虚像を描いています。存在が存在そのものとして存在しているという執着です。我が五蘊に即するというのであれば、五蘊と同じく常・一ではないであろう、と。我とは常・一の義といわれていますから、五蘊もまた常・一でなければならないのです。しかし、五蘊は積集の性(仮和合)と言われていますから、無常です。無常をもって常・一の我とはいえないということで、即蘊の我を破斥します。。二は、離蘊の我です。五蘊を離れて独立して我が有るとする説。考えられた我ですね。考えられたものとして有る、それが我の相です。我の相を認識して、自心の相を起こす、自心の相は前回も述べましたが、自心は縁起に依って起こってくるのですが、それを自分が考えた相であると錯覚して、実の我と執着を起こし、苦悩を起こしてくるといわれています。
 又、五蘊に即するのでもなく、離れるのでもなく、というのであれば、我とはいえない、例えば「瓶等の如く」である。瓶等とは仮法ですから、仮法をもって我とすることはできない。故に彼が所執の実我は成ぜず、と。成り立たないと説かれていましたが、そのような自心の相を起こして、分別し計度して実我と執しているのが分別起の我執なのです。計度は簡単にいいますと、自分の損得勘定ですね、自分にとって、損か得かの判断を刀として分別していることなのです。しかし、この分別起の我執の行相は麤である、麤とはあらいこと、細という、微細のような目にみえないものではなく、麤猛という荒々しいものですから、断じ易いといわれます。見道に於いてその種子を断ずることが出来るのであると説かれています。「此の二の我執は麤なるが故に断じ易し。初の見道の時に、一切の法の生空真如を観じて、即ち能く徐滅す」と説かれています。麤というのは面白いですね。煩悩の心所には小随煩悩・中随煩悩・大随煩悩と三種に分けられているのですが、大はあらあらしい煩悩です、これは目に見えますから激しいのですね。しかし、荒々しいものほど対治しやすいといわれているのです。普通の感覚とはちょっと違いますが、大・中・小を引き起こしてくる背景がある、それが問題だというわけです。
私が生をうけるということは、内因と外縁に依るといわれています。内因とは、阿頼耶識の中の種子を内的な原因で内縁といい、それより他の外的な原因を外縁といいます。そして「内的な因(自の種子)と(現在の)外縁とより生じるが故に縁生と名づく」、因を縁起、果を縁生と分けられて説かれていますが、生まれるということは、自の業種子と父母を縁として生まれてきたということなのです。生まれながらにして外縁を持っているということが分別が起こるという必然なのです。

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分別起の法執について (3) 外道の執を解す

2013-09-25 22:56:25 | 心の構造について

 「二には邪教に説く所の自性等の相を縁じて、自心の相を起こして分別し計度す。執して実法を為す。」(『論』第二・八右)

 邪教に説く所の自性というのは、数論が説く勝れた性である、と。数論の場合は、精神原理としてのプルシャという純粋精神、それ自体は常住不変とし、その対極に有るのが物質原理としてのプラクリティ(根本原質)という、実体的二元論。それと勝論です。勝論の場合は多元論的世界観を説きます。六句義とか十句義ですね。そしてこれらは概念ではなく、実在するものであると考えられていました。

 そして多元論的世界観は、初期仏教の五蘊・十二処・十八界の一切法や、有部の「五位七十五法」、或は唯識の「五位百法」にも引き継がれています。これは分析的思考と範疇論的思考という古代インドの思考傾向を示しているものなのですね。

 仏教は縁起を説きます。実体的なものは何一つとして無い、すべては依他起性である、と。しかし依他起性として存在するとして、存在を固定化し実体化すると、仏教を学んでいても、質は外道と変わらないというわけです。ここに否定の論理が生きてくるわけです。

 外道の思想体系が作りだしたものを自性とする。これが真実なんだと執するわけです。執が問題なのです。執したものを自性として、自心の相を起こし、分別計度し、実法とする、これが迷妄の根本の問題である、と示しているのです。

 私たちも心しなければならない問題は、親鸞聖人の言葉を実体化することです。これは、指月の喩でも言われていますように、月を指す指がお言葉であって、指し示されているのは、月なんですね。指に執着を起こしますと退転します。

 依言真如とは離言真如ということを『大乗起信論』では説かれていますが、真如を表すのに、離言の真如を、言に依って表す、ここが大事なところではないでしょうか。

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分別起の法執について (2) 執の所在

2013-09-24 22:40:27 | 心の構造について

 「唯第六意識の中のみに有ること在り。」(『論』第二・七左)

 分別起の法執は、「唯第六意識の中のみに有ること在り」、その所在を明らかにしています。

 第七識は第八阿頼耶識を所依としていますから、邪教を受けたりはしないのです。また。、前五識は分別がありません、現量ですから、邪教を受けることは有りません。従って、邪教及び邪との分別を待って起るのは、第六意識のみである。

 「論。唯在第六意識中有 述曰。顯執所在。強思計度。間斷非恒。唯第六有。故非餘識。下二障中五識所知障亦初地斷。以無分別籌度惠性。不能起執。故此中無。」(『述記』第二末・四十九右。大正43・293c)

 籌度(チュウタク) - 思慮すること。「第八阿頼耶識は任運に縁じて分別するに、籌度することなきなり。」それに対し、「第六意識は瓶衣等を縁じて籌度の用を起こす、是を似現量と名づく」と云われています。

 (「述して曰く。執の所在を顕す。強く思し計度す。間断して恒に非ず。唯だ第六のみに有り。故に余識には非ず。下の二障の中に、五識の所知障をも亦初地に断ずと云えり。分別の籌度する慧の性無きを以て、執を起こすこと能わず。故に此れが中(五識)には無し。」) 

 分別起の法執に二種あることを解します(外縁二執を弁ず)。初めに、小乗を執を解し、後に外道の執を解す。

 「此れに亦二種あり。一には邪教に説く所の蘊・処・界の相を縁じて、自心の相を起こして分別し計度して執して実法と為す。」(『論』第二・八右)

 五蘊・十二処・十八界の三科は一切法を表わしているものですが、小乗部派は、法体恒有として実体的に有るとして執し、実法と為している。自心所変の相です、相分の上に、蘊・処・界の相が実体的に有るとし、それを執して分別し、計度している、その相を見分が実法であると、見ているわけです。蘊・処・界は仮和合なのですね、実法では無く、仮法であるわけですから、蘊・処・界を実となして執したら、それは分別起の法執になるわけです。これは、小乗等の所執になります。

 

 

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分別起の法執について (1)

2013-09-23 22:24:47 | 心の構造について

 分別起の法執も、分別起の我執と同じ文章ですね。我執が法執に置き換えられただけです。

 倶生起は「身と倶なり」と云われていましたが、分別起は「身と倶にしも非ず」と云われています。分別は何によって起こってくるのか、それは『論』に「要ず邪教と及び邪分別を待ちて、然して後に方に起る」と説かれています。

 邪教・邪分別が外縁になるわけです。邪分別は自分が起こすものですが、邪教は邪師に依って起こされるものです。蓬茨先生が、教化ということで、「人間は教化される存在である」ということを仰っていられました。教えによってはいかようにもなる、どんな色にも染まってしまう質を持った存在ということでしょう。

 「分別の法執は、亦た現在の外縁力にも由るが故に、身と倶にしも非ず。」(『論』第二・七左)

 「論。分別法執至非與身倶 述曰。顯由外縁。及自内種二因力起故言亦由。」(『述記』第二末・四十八左。大正43・293c)

 (「述して曰く。外縁と及び自の内種との二の因力に由って起こると云うことを顕す。故に亦た由と言う」)

先の分別起の我執の項を参照していただければと思いますが、転載し、今一度学んでみたいと思います。

 「分別の我執は亦現在の外縁の力にも由るが故に、身と倶にしも非ず。要ず邪教と及び邪との分別を待って然して後に方に起こるが故に分別と名づく」
分別の我執は、「亦」といわれていますように、虚妄熏習の内因力と、現在の外縁の力にも由るのである、と。内因力の種子と邪教等の外縁との二縁に由って生起するということなのです。『述記』には「内縁には必ず籍る。兼ねては外縁にも斥る。故に外縁の於に亦の字を説く」と説明されています。
内因とは、阿頼耶識の中の種子を内的な原因で内縁といい、それより他の外的な原因を外縁といいます。そして「内的な因(自の種子)と(現在の)外縁とより生じるが故に縁生と名づく」、因を縁起、果を縁生と分けられて説かれていますが、生まれるということは、自の業種子と父母を縁として生まれてきたということなのです。生まれながらにして外縁を待ってということが分別が起こるということは必然なのです。
 「要ず」以下は分別の義を顕しています。「分別」は、邪教の分別と邪思惟の分別という後天的な分別を待って起こる、これが分別起の我執である、と。

 「唯だ第六意識の中のみに有ること在り」と説かれています。
 分別起の我執は、唯だ第六意識のみに存する有間断にして麤猛のものである、ということです。これは執の所在を明らかにしています。「間断なり、麤猛なり、故に此の執有り」と。(『述記』第一末・十五右)

 そして第六意識以外の諸識は、浅であり、浅は前五識・第八識を指し、細(第七識)なり、及び相続(第八識)するから、横計(おうけ)という、間違って考えるという邪分別を起こすことは無い。邪分別は必ず間断し麤猛である。第八識は浅にして間ではない、前五識は間では有るが浅である。第七識は倶に無い、従って分別起この我執は第六意識のみに在る我執である。

 法執は上に述べています我執を根本的に成り立たせている執なのです。ですから我を法に置き換えて、根本我執と言う意味をもった執なのですね。

 「要ず邪教と及び邪分別を待ちて、然して後に方に起る」(『論』第二・七左)

 「論。要待邪教至故名分別 述曰。正顯外縁釋分別義。」(『述記』第二末・四十九右。大正43・293c)

 (「述して曰く。正しく外縁を顕して分別の義を釈す。」)

 分別は、自の内種と外縁とに由ることを顕しています。

 次に、分別起の法執の所在を明らかにしています。第六意識の中のみに有る、と。   (つづく)

 

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法執について (10) 

2013-09-22 19:54:04 | 心の構造について

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 「述して曰く。第六識の中の倶生の法執をば、其の十地に於いて道を数数に修して、地地に別に断ず。地を障ゆるを以ての故に。第七識の者は、十地の中に於て数数修し、要ず金剛に至って方に能く除断す。此れが中には若しは道、若しは断を合説せり。故に数数に方に能く除断すと言えり。此れは唯菩薩のみなり、二乗の者(ヒト)には非ず。若し数数に断ずることは習と種とを倶に然(シカ)ず。又除滅に二有り。一には伏、二には断なり。六識をば伏し亦断ず。第七をば伏のみにして断ぜず。故に皆数数と言えり。此れが中に細と言うは品を以て而も論ず。説いて断じ難しと為すことは、道に約して而も説く。勝道を以て方に除す。劣道に非ざるが故に。若し見道を以て云はば、三心の中おいて、品に由って中と名づけ、第三をば上と名づく。彼は難・易に約して(初の)断じ易きを細と名づく。(初の)麤品も亦細と名づけたり。下道を以て能く除く。品を以て道に従えて初を名づけて細と為す。道は下品なるが故に。
今は道を以て品に従へて断じ難きを細と名づけたるを以て亦相違せず。我執に説けるに准ずべし。又我執の断じ難きを修道に除すと言うことは、三乗に通ずるが故に。

 此に十地と言うは唯菩薩のみなるが故に。然るに初地の中に入と住と出と別なり。故に十地の中に皆修道に有り。勝れたる法空と言うは、法空観に於て遊観の心を簡び唯だ無間の法執を断ずる道を取ると云うことを顕す。

 此れが中は執を説くを以て五識をば言わず。若し所知障ならば五識も亦十地の中に通じて断ずるぞ。」)

 また、『了義燈』(第三・二十九右)には、

 「此二法執細故難斷。要集三解。一云六・七法執從無始來。與彼我見唯同種起。離我見外無別法執。彼説此正。云由此法執唯有一百二十八種。與煩惱同 今謂不爾。從無始來執法爲有。即執爲我。可如所説。涅槃見等雖執法有。不執作我。豈非法執。此等既法執。豈恒我執倶。又小無學我執已斷。豈不起法執。法執若起。許熏種不。若不熏種。何闕不能。若許熏種。可不生現。此既生現。豈與我執恒同種耶。雖説頭數百二十八。不説各各與惑同種。問斷第六識倶生法執。有於漸頓次及超不 答唯漸斷次第不超。無頓得果及超地故 若爾何故二乘斷惑障。先伏後成超。菩薩斷所知。後超先亦伏 答二乘得果易。先伏後成超。大乘證地難。無超可得伏 問大乘難得果。唯次不言超。飼虎及掩泥。如何説超劫答大乘無超地。據此不言超。由精進促生。何妨得超劫。」 

 (「『此の二の法執は細なるが故に断じ難し』とは、要集に三の解有り。

 一に云く、六・七の法執は無始従り来た彼の我見の與に唯、同種より起し、我見に離れて外に別の法執無し。彼(要集)此を説いて正として、此由って法執は唯、一百二十八種有って煩悩と同なりと云へり。

 今謂く爾らず。無始従り来、法を執して有と為し、即ち執して我と為る。所説の如くなる可し。涅槃の見等は法有と執すと雖も、執して我とは作さず。豈に法執なるに非ずや。此等既に法執なり。豈に恒に我執と倶ならむや。又、小乗の無学は我執已に断ぜり。豈に法執を起こさざらむや。法執若し起こらば種を熏ずと許や不や。若し種を熏ぜずんば何の闕くることあればか能はざる。若し種を熏ずと許さば(法執の)現を生ぜざる可きや。此れ既に現を生ぜば豈に我執と恒に同種ならむや。頭数は百二十八と説くと雖も、各々惑(我見)と同種なりとは説かず。

 問。第六識の倶生の法執を断ずるに、漸と、頓と、次と、及び超と有りや不や。

 答。唯、漸断と次第なり。超には不ず。頓に得果し及び地を超えること無きが故に。

 若し爾らば何が故ぞ二乗の惑障を断ずるは、先(凡位)に伏し、後に(入見位)に超と成り、菩薩の所知を断ずるに後に超えんとして先ず亦伏するや。

 答。二乗の果を得ることは易きを以て先ず伏して後に超と成り、大乗の地を証することは難きを以て伏することを得可き無し。

 問。大乗は果を得ること難きを以て、唯だ次にして(十地に次第)に超と言はず。(『金光明経』捨身品第十七の説)虎を飼い及び掩泥に如何ぞ劫を超ゆと説く。

 答。大乗は地を超ゆること無し。此に據って超するとは言わず。精進に由って生を捉う。何ぞ劫を超ゆることを得んというに妨かあらむ。」)

 これまでに、生空観・法空観とでてきました。我執は生空観を修習して除断し、法執は法空観を修習して除滅し、無漏無分別智を得て菩薩道を行ずると説かれているわけですが、智慧ですね、般若の智慧に三種有ると説かれています。(『成唯識論』巻第九)生空無分別慧と法空無分別慧と倶空無分別慧なんです。十地と十勝行の中で説かれていることです。十地という名前なのですが、

  1.  極喜地、初めて聖性を得て具に二空を証し能く自他を益して大喜を生ぜるが故に。
  2.  離垢地、浄尸羅(ジョウシラ・戒め、浄を付して浄戒と訳す)を具して能く微細の毀犯を起す煩悩の垢を遠離せるが故に。
  3.  発光地、勝定と大法の総持とを成就して能く無辺の妙慧の光を発するが故に。
  4.  焔慧地、最勝の菩提分法に安住して、煩悩の薪を焼く慧の焔増せるが故に。
  5.  極難勝地、真と俗と両の智の行相の互に違せるを合して相応せしむること極めて難勝なるが故に。
  6.  現前地、縁起に住せる智。無分別の最勝の般若を引て現前せしむるが故に。
  7.  遠行地、無相住の功用の後辺に至って、世間と二乗との道を出過せるが故に。
  8.  不道地、無分別智は任運に相続して相と用と煩悩とに動ぜざること能はざるが故に。
  9.  善慧地、微妙の四無礙解を成就して能く十方に遍して善く法を説くが故に。
  10.  法雲地、大法智の雲、衆徳の水を含んで、空の如くなる麤重を蔽い法身に充満せしむるが故に。

 是の如く十地は総じて有為・無為の功徳を摂して以て自性と為す。所修の行の與に勝れたる依持と為って生長することを得しむるが故に名づけて地と為す。」 と『成唯識論』巻第九に説明されています。その次にですね、十勝行が説かれます。十波羅蜜多のことですね。施・戒・忍・精進・静慮・般若の三種と方便・願・力・智の二種、これが勝行になります。 

 この中の般若の三種が、生空無分別慧・法空無分別慧・倶空無分別慧なんですね。倶空は生空と法空の二つを兼ね備えた無分別慧と云われています。法執を破っていく智慧です。求道というものが、階位を経て純粋になっていく、その中の通達位を経て、修習位において無分別智を修習していくのです。煩悩の垢がそぎ落とされ、無分別智が任運に相続する位が第八不動地なのです。本当の意味の求道が始まっていく、ここから始まるわけです。聞法生活もここから始まるといっていいのでしょう。信を獲れば、獲た信がいよいよ求める、ということなのではないでしょうか。ここに立場の逆転が生じるのでしょう。転依と云われます。根拠が転換する、今まで自分自分とばかり思って計らってきたが、信を獲た、獲得された信が根拠に転換される、そこから逆に私自身が「汝」と語られるくる。得た智が我となり、得た我がかえって汝となる、妙用ですね。そういう意味で、智慧というものが本当ににんげんを解放させる、独立させる。人間に信の意味の独立を与えるのが智慧の働きですね、智慧を得た時に、はじめて人間が人間として独立するわけでしょう。又、時とはそういう問題を孕んでいるのではないでしょうか。

 横道にそれましたが、明日からは、分別起の法執について考えます。

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法執について (9) 倶生起の法執の断滅

2013-09-20 23:11:09 | 心の構造について

 二の法執(倶生起の第七識の法執と第六識の法執)の断滅の位。 

 「此の二の法執は、細なるが故に断じ難し。後の十地の中に数数(シバシバ)勝れたる法空観を修習して方に能く除滅す。」(『論』第二・七左)

 この二の法執(第七識の常相続の法執と、第六識の有間断の法執)は、微細に働く執ですから、断じ難いと云われています。ではどのようにしたら除滅されるのか、次にでてまいりますが、

 「後の十地の中に数数勝れたる法空観を修習して方に能く除滅す」と。

倶生起の法執は、細である、こまやかに起こる、いうなれば気づかれることのないように水面下で働いている執着なんですね。ですから、自分で執とは思っていないわけですが、執している、そのことによって断ずることができない。できるのは、仏の智慧をいただいて、その智慧に照らされて法空観を修習することができ、三大阿僧祇劫の修行の中で能く法執を除滅することができる、と教えています。

 大乗菩薩道は、「法空観」とは、法は空であると観ずることなのですが、「数数勝れたる法空観を修習して方に能く除滅す」し仏果を得る。その段階が菩薩道といわれているのです。菩薩の段階は、法空観を修習しているのですが、法執が完全に払拭されてはいないのですね。極微の法執が残っているものですから無上道ではなく、菩薩道なのです。

 大乗菩薩道の代表者は、常不軽菩薩ですね。

 「我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べしと」

 そして従果向因の法蔵菩薩ですね。その願は「不取正覚」と結ばれています。

 一切衆生済度という願いと、成仏すべし、という法執です。ここに止まる訳です。倶生起の法執は法空観のところで転換があるのですね。

 「論。此二法執至方能除滅 述曰。第六識中倶生法執。於其十地道數數備。地地別斷。以障地故。第七識者。於十地中道數數備。要至金剛方能除斷。此中合説若道・若斷。故言數數方能除斷。此唯菩薩。非二乘者。若數數斷。習・種倶然。又除滅有二。一伏。二斷。六識伏亦斷。第七伏不斷故。皆言數數。此中言細以品而論。説爲難斷約道而説。勝道方除。非劣道故。若以見道。三心之中。中中名中。第三名上。彼約難易易斷名細。麁品亦名細。下道能除。以品從道初名爲細。道下品故。今以道從品難斷名細。亦不相違。准我執説。又我執難斷言修道除。通三乘故。此言十地唯菩薩故。然初地中入・住・出別。故十地中皆有修4道。言勝法空。顯法空觀簡遊觀心。唯取無間斷法執道。此中説執不言五識。若所知障五識亦通十地中斷。」(『述記』第二末・四十七左。大正43・293b)

 『述記』の釈は、明日読みます。   

 

 

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法執について (8) 倶生起の法執の断滅

2013-09-19 23:01:03 | 心の構造について

 倶生の我執・法執は「恒に身と倶なり」といわれています。身と倶に起こってくるのが倶生の問題になります。出生と同時に持っているものなんです。考えられたものではないのです。非常に深い問題を宿しているわけですが、聞法もですね、身を聞く、考えられてあるものを聞くんじゃなく、もっと深い問題、思考を成り立たせている身と倶に有る問題ですね。ここを聞いていかなければならないということでしょうね。

 昨日は難波別院で「蠟扇忌」が営まれた云うことですが、清沢先生の「自己とは何ぞや」という問いもですね、身を問うということですね。「仏願の生起本末を聞く」ということと同質の問いだと思います。「現前の境遇に落在す」ということは阿頼耶識の本質に触れた言葉でしょう。分別を超えているわけです。本質に触れて分別が破られる、分別のところでいくら聞いても分別は破られないですね。親所縁を相分としている所は、影像を見ている、自分が描いた世界を自分が見ている、見ている世界は自分が描き出した世界であって、これが展転し、我執が刹那刹那に我執を生み出して自分を固めてくると教えられています。ここを突破する、これを紙一重の問題として押さえられているのでしょう。

 身をいただくということが大切なことではないかと思います。「安楽解脱身」と。安楽である解脱の身をいただく、「落在」は、「安楽解脱身」といただくことの他にはないのでしょう。

 親鸞聖人は、高僧和讃・天親章に、『浄土論』・不虚作住持功徳に

    本願力にあいぬれば
      むなしくすぐるひとぞなき
      功徳の宝海みちみちて
      煩悩の濁水へだてなし

と讃えられ、人として生をうけたならば、虚しく過ぎ行くことのない人生に出遇うことの他にはない。「身と倶」というところに本願は働き、光を当てている。「身と倶」は「無始の時より来た、虚妄に熏習せし内因力の故に、恒に身と倶なり」と説かれています。身と倶にあるもの、それは倶生起の我執であり、法執であるわけです。この執からの解放が、安楽・解脱・落在の身なのでしょう。迷いの因は自己の内因に依ることを聞く、これが本質に触れることにつながっていくのでしょう、その為に聞熏習が大切であると教えられ、それが多聞熏習することを求められているのです。

 唯識というと、心の問題と勘違いするわけですが、心の構造を解明するということには違いないのですが、身と倶にある問題ですね、執は恒に身と倶なわけです。心は幽体します。心ここに在らず、身は深いですね。身の上に乗っかってあるのが心。身は倶生の問題、心は分別の問題と言い切ってもいいのではと思います。

 今日は横道にそれてしまいました。明日は、倶生起の二の法執はどのようにすれば断滅出来るのかを考えてみます。

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