唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か?  (1)

2016-04-21 23:20:20 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 唯識を書き始めてから、認識は何処で成り立つのかについて「唯、識のみ有って境は無し」と伝えてきましたが、果たして三界(迷いの世界を構成しているのは)は唯心かという問いを立てて、改めて三界唯心・万法唯識をはっきりさせてくるのが第十七頌・十八頌・十九頌なんですね。
 初めに唯識に対する九つの疑問がだされます。その第一番目が「唯識所因難」なのですが、結びに『弁中辺論』に説かれています二頌がだされています。
 「虚妄分別は有り、此に於て二は都て無し。此の中には唯空のみ有り、彼に於ても亦此有り。故に一切の法は、空にも非ず不空にも非ずと説く。有と無と及び有との故に、是れ則ち中道に契えりと。」
 虚妄分別、、迷いですね、迷いはあるんだと、しかし迷いを成り立たせるものは何もないと云っているのです。では何故迷いは成り立っているのかと云いますと、二分なんですね。主観と客観を分けている。分別するもの(分別・主観・能取)と分別されるもの(所分別・客観・所取)とに二分化して認識をしているところから起こってくるもの、それが虚妄分別とよばれるもので、それは有るということになります。
 事実は分別されるようなものではないということです。つまり、三分の形で説明されてきたわけですが、識体が転(変化)して具体相として見分と相分に仮に分けられている。二つに分けられているけれども、それは識体の二つの側面であり、分けられるものではないということなのですね。
 識自体が変化して、分別する側と分別される側という二つの領域に分かれているわけです。
 ここを私たちは錯誤しているのです。分別するもの(認識主体・能取)と分別されるもの(客体・所取)に分けて、それによって認識が成り立っていると思い込んでいるのです。外界実在論は深いのです。私たちの迷いの深さを言い当てていると思います。
 明日より、第十七頌を手掛かりに、「虚妄分別は有り」の中身を探っていきたいと思います。

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