唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (11) 最終回

2012-05-06 00:24:02 | 『感の教学』 安田理深述

 「外から理論や知識を輸入してくるのではなく、与えられているものを見直してくるのである。われわれの課題はこれだけである。機と法と、感と応というのであるが、二つの課題があるのではなく、ただ感覚の機能を純化する一つの道である。自己の感覚を純化すれば一切の法はそこに応答してくるのである。このことのために、いろいろのことをくどくどしく述べてきましたが、曽我先生の教の意義の反省に帰らねばなりません。

 昨冬京都の相応学舎の報恩講は、先生を追憶する鸞音忌ということにしてつとめました。その際、若い学生の方々をはじめ皆に感想を語って頂きましたが、そこに共通して述べられたことは、先生のお言葉はよく理解出来ない、しかしそこにあるたしかな存在からは深い感動をうけた、ということであったかと思います。私はそこに今日述べましたところの感の教学というものが語られたのであると思うのです。理知的にはよく理解出来ない、或は全く理解出来ない。しかし感知という意義に於てはやはり知られたのである。

 先生の教学にもし前期、後期というようなことが言い得るとすると、前期は自覚自証ということが出来るかも知れません。救済と自証という書の題目がよくこれを語っていると思います。これに対して後期に於ては、感覚感情ということが特徴かと思うのですが、どんなものでしょう。勿論後期になって自覚の教学がなくなったのではない、自覚の教学ということは一貫しているのである。法蔵菩薩とか阿頼耶識とかいうことがくり返し述べられていますが、つまり神話的な法蔵菩薩を自覚的にみてくるということかと思います。欲生ということが非神話化を通して解明され、阿弥陀仏の救済というものを、欲生の自覚によって証明するという思想的事業であったかと考えられます。これは晩年まで一貫しているのでありますが、後期になると宿業とか本能とかいう問題が情熱的にとりあげられています。

 これがつまり感覚ということになるのではないかと思うのです。理知を否定して本能の感覚的能力というものを、明らかにして下されてあります。これによって自覚というものが、知的自覚というよりも感覚的自覚として明らかにされてきたということが出来ましょう。なおそれにつづいて感応道交というような意義が、本能から明らかにされてきています。感応といえば既に神通の世界ともいうべきものであって、先生の教学の円熟された境地でないかと思われます。欲生という概念がすでに感覚的自覚の原理の如き忌みをもっています。感性的な概念であります。

 先生のお言葉がよくわからぬということは、若い学生の方々のことではない。年をとればわかってくるというものではない。年を取れば却って感の能力が衰えるともいい得る。先生は出来上がったものには厳しい批判を加えられてことですが、しかし若い学生を非常に敬愛された、感覚の若々しさに対する敬愛でなかったかと思います。また厳しい批判も理知化・固定化への批判ではないかと思います。先生の教学といったものを、あれこれ論ずることは実は私の欲するところではありません。

 先生の教えられた思想内容を語るのでなく、その態度に教えられるものがある、それを明らかにしたいのであります。先生が感覚や本能という思想を語られたというより、先生の思索の道は本能的であったと思うのです。またその思惟そのものが対象的思惟ではなくして情熱的・欲願的であったと思います。宿業に苦悩する人間として、本能的に飽くことなく、執拗に思索された先生であった。ものがちがうのは本能や宿業の教理についての教学であるのでなくして、宿業の苦悩にあえぎながら、本能となって思惟された、そこに法蔵魂が生きている、この生きた思惟の現存が圧するが如き権威をもって迫るのであると思います。先生は徹底的に理知を批判されたのでありますが、これも先生にとって自己批判であった。先生の思惟の態度は理知との苦闘であった。先生にとっては自己の問題以外に何もなかったのである。一切は自己の問題であったと思うのであります。           (完)

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「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (10) 

2012-04-29 19:34:36 | 『感の教学』 安田理深述

 「法性というのみでは如であっても来ということは出来ない、純粋意欲こそ従如来生である。静止的なる一如の法性は初めて如来如去の動的な原理となる。意欲の存在論的意義は、単に静止的なる一如の真理と区別される動的原理ということである。意欲ははたらく真理である。そしてその用きの他に実在はないのである。宿業を通して衆生を目さまし、その衆生を契機として無生の法性を、衆生のそこに生れそこに死することを得る国土として具体化する、超世界的な用らきが欲生我国と言いあらわされているのである。欲生こそ意欲する意欲であり、本願する本願である。この用らきが方便といわれるのであって、衆生がその内なる自性清浄の法性をもちつつ、しかもそれに帰ることを得ずして外に出ていたのは、その内なる自性の門を開く方法が見つからなかったためである。法性を無くしていたためではない、無となるのは法性とも自性とも言い得ぬからである。無性或いは不生の法性に生の門を開く方法がなかった、衆生の側から見つけることが出来なかったのである。門は外から開くこと出来ないからである。ここに法性の無性は衆生の生を契機として、自らを方法として限定してきたのが欲生我国であったのである。欲生が衆生をして我国なる無生の故郷に目ざましめたのである。この無生の門たる欲生が宗教そのもののはたらきをなすのである。即ち衆生を宗教的自覚として成就するのである。実は自覚存在としての衆生は、欲生我国の用らきによって本願内存在となったのである。宿業の衆生それ自身で既に感覚という機能を与えられているといえるのであるが、本より与えられているものが欲生によって自覚的に成就するということが出来る。自覚ということ無かったものが有るようになることではなくして、忘却していたものが再確認されることである。

 めざめるのは夢からめざめるのである、死から目ざめるのではないであろう。宿業によって生きている実存が、自覚的実存になったのである。その時その自覚存在は、目ざめしめた本願の内なる存在となったということが出来る。呼びかける本願の呼びかけによって、呼びかける本願の内におかれたのである。欲生によって宿業の衆生は、自らを如来の内に見出したことになる。これが自覚的に成就するの意義である。純粋なる感覚的自覚というものは、本願の内にあって本願を感覚的に自覚するのである。本願を外感するのでない。況や理知的に表象するのではない。欲生我国の呼びかけは、即ち衆生を宗教的自覚として成就したのである。あくまでも機能の成就である。ここに宿業の完成、本能の純化ということが出来る。宿業本能が消えたのでもなく、またもとのままというわけでもない、純化され完成されたのである。自己の内面の用らきによって内面に目ざめる感覚的自覚として完成されたのである。衆生がなくなっったのではなくて、衆生が純粋なる衆生となったのである。別言すれば宗教的自覚たる新人となったのである。智慧となったのである。世界内存在といわれる実存が、如来内存在の覚存となったのである。これが実存の廃棄でなくしてその成就ということが出来ると思うのであります。

 感覚という機能を逆転すれば機感である。衆生を成就するという意義は、この点からいえば機を成就するということである。機とは能力である。感知するという能力である。そして感は応と結びつけられる概念である、感応という、機は感知し法は応ずるというわけである。今日の言葉では呼応というところかと思います。われら衆生には本より感ずる能力が本能として与えられている、いのちあってのものだねとはこの感の能力である。いかに迷いによって苦悩している衆生であっても、そこに感知の能力が賦与されている、それが迷いの苦悩を脱する唯一の通路となるのである。ただ問題はその機能を純粋化するということである。折角与えられている感覚が雑染されている、理知の固執によって汚染されているのである。論理の道でなくして内観の道とは、即ち感の機能を快復することである。  (つづく) 

 お詫び、十回で配信する予定でしたが、来週が最終章になります。申し訳ありません。

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「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (9)

2012-04-22 17:18:23 | 『感の教学』 安田理深述

 宿業を運命的と考え、本能を盲目的と考える理性能力の否定である。否定されるのは自由を自負するところの理性である。自負は自我の固執に他ならない。主観の自由をもってどうすることも出来ない、というところに理性は現実というものに初めて触れるのである。

 理性にとって現実存在は不可知の壁であるのだが、しかしそれは絶望的結論というようなものではない、絶望的結論も一つの理知の判断であり、運命観的なる一つの解釈に他ならない。むしろそれはわれわれの生の方向を変革する一つの転機を与えるものである。思い上がった自由という思いが思い知らされることは、そこにそれを転機として思いのままにならぬ存在の深みに目ざめる自覚を開くという意義をもつのである。生の深みの内面に眼を開いてくる転回点という意義をもつのである。宿業を運命の偶然と思い、また本能を盲目的衝動と思うことそれ自身、理性を自我として固執する固執の主観的解釈であり、固執の影である。理性は自己の影によって自己の無能を知らされるという、自己矛盾に帰着せざるを得ぬ。理性は宿業本能にぶつかって、自らの妄想であることを承認せしめられるのである。かく理性が否定されるならば、従ってまた絶望的な宿業も盲目的な本能も同時に否定されて。そこに思いを突破した現実に目ざめるのである。宿業本能には、理性によって自己の脚下を忘れていたところの人間が、その現実の大地に帰らしめられるという重要な意義があるのである。本能の世界こそ思いならぬ人間の現実の大地であり、立脚地である。そこに身体をもち、また環境をもって生きているところの実存の大地がある。現実の大地は大地という観念ではなくして、一つの感覚である。即ちこれが凡夫的人間の自覚である。理性の自由をもって生きていると考えるところには凡夫はいない。宿業の因縁によって生きているのが凡夫という存在者のありかたである。その時その時の業縁によって、思い設けぬそれぞれの出来事に出会って生きているのである。世界の一点一点も思いで決めることの出来ない、論理的厳密性よりも厳密な存在の秩序に生かされているのが、凡夫的人間というものである。それは論理的厳密であるよりも実存的厳粛性である。宿業の自覚はこういうわけで、理知の立場を回転して理知よりも深く、理知よりも根本的な感覚の機能を回復せしめられ、また回復したことである。理性の固執によって閉ざされていた感覚の根本能力、一切衆生に本より廻向され賦与されていたところの、本質の機能の回復ということだと思います。

 さきにいった如く業道自然の自然というところに、意志をもってはどうすることも出来ぬという、意志を破った現実というものの感覚があるということが重要なことである。感覚にのみ現行の事実があるのである。それはいかに業道であっても、所謂依他起自性なる事実であって主観を破ったものである。これに反して理性の意志するところは、むしろ所謂遍計所執性の妄想に他ならない。感覚に於てわれわれは始めて現行の事実たる現実というものに触れるのである。自然は必然である、絶対的必然が宿業の自然である。しかも同時にこの絶対必然に於て、その宿業の内面にそれを貫いて流れている宿業の魂に触れるのである。宿業の内に宿業を超え、宿業を荷負しているところの願心に目ざめるのである。逆説的であるが、この荷負というところに絶対自由があるのである。宿業に反抗し宿業を拒否するところの理性に自由があるのでなく、逆に宿業の必然に随順し、必然に帰するところに、法爾自然なる絶対の自由があるのである。自然は必然であるが、そこにまた自然の自由があるのである。この法爾自然なる自由は、宿業からの自由であるよりも、宿業への自由として下降的意志の自由である。悲願的意志である。悲願は宿業をもって自身の内面的契機として、宿業に苦悩する衆生に呼びかけ、この呼びかけによって衆生は宿業の内面に流れる、この純粋なる祈りともいうべき悲願的意志の心に目ざめるのである。宿業の内面に触れて初めて真の意味の宿業の自覚ということが出来る。この宿業の自覚は、宿業の内面たる願心の呼びかけそのものである。呼びかけが目覚めである、めざめをたまわるのである。呼びかけとして衆生は自己をもったのである。宿業に荷負するところの自己をもったのである。宿業に動かされて生きていたことの超越的意味が初めて自覚されたのである。宿業に動かされるということは、理知よりも深い根底からの招喚であったのである。この自覚によって、宿業の必然によって苦悩せしめられていた衆生は、苦悩する理性的意志の固執を破られ、その理知の苦悩から解かれ、却って明るく宿業に順ずることの出来る衆生となったのである。本能に苦悩せしめられるのは理知であって、理知がその妄想に目ざめれば、本能は光をもつものである。それはどこ迄も宿業の内面に等流する悲願の意志の呼びかけに触れてのことである。宿業の内に流れているということの意味に於て、悲願はどこまでも内在的であるが、他面どこまでも宿業の雑染を超えて自性清浄である。即ち超越的なるその法爾自然の本質を失わぬのである。この二面の意義から悲願は超越的にして内在的、内在的にして超越的である。或は二重の超越といってよいかと思う、宿業からの超越と、宿業への超越である。前者の意義に於てこの清浄意欲は法爾意志である。また後者の意義に於てこの清浄意欲は下降意志である。下降意志として悲願というのであるが、しかしその悲しみと痛みは、人間的な感傷であるのでなく、むしろ人間を超えた意味の悲痛は却って無心というべきである。悲痛といっても平等一味ということの他にないのである。このような意義から純粋清浄なる意欲たる願は、法爾自然の法性と業道自然の衆生とを総合統一するところの、具体的実存であるということが出来る。最も具体的なる実在は意欲である。意欲こそ主体的実在である、われ意欲す、故にわれ存在す、の自覚的実在である。これがわれよりも近きわれである。如来という存在の意味がここに成立するといえる。  (つづく)

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「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (8)

2012-04-15 12:49:38 | 『感の教学』 安田理深述

 「この覚存という点から見直してくると、凡夫とは無価値を恐れず、有価値を望まざる現実的人間ということになり、それが人間の特殊の場合でなくして、本来的人間ということになる。眼横鼻直も結局本来的人間ということに帰するのではないか、それは勝れた人ということではなく、勝劣という価値の衣服をぬいだ裸の人間ということではないかと思います。勝は劣とともにコンプレックスである。

 裸の人間とはコンプレックスからの解放であるといわなければならぬ。人間が人間自身に安んずるを得る。それはしかし裸であるが故に無限に深く無限に豊かなる世界が開かれてくる。無限に深く無限に豊かに生きる人間、一たび内観の眼が開かれたならば、内観はその歩みを止めない。人間が自身に安んずるといえば純粋感情の世界であり、それゆえに却って安んずることなく内観の歩みを展開してゆくのは、純粋感覚の道というものであろうと思います。内観というようなこと、原始の事実の感覚というようなことは、理知の立場からは常に見逃されがちであります。内的の世界というものは、無価値として理知の脚下に忘却されているわけであります。しかし実は却ってそれに根元というものがある。理知の能力よりも先に、感覚の能力というものを根元にもっている。それは人間の本能という根本能力であり、原始の能力である。本能として感覚をもっているのである。

 先生は宿業は本能であるといわれる。これは先生にとって新しい感得であったのである。宿業という古い概念に本能という新たなる意義を見出されたのである。われわれの行為を決定するものは知性的な理性ではなくして、実には感性的な本能の決定するところであるというのである。本能はとにかく理性とは対立的である、理性を固執する立場からいえば、対立は二律背反的であり対抗的である、人間は理性をもって一切を知り、またそれによって自己の行為を決定し得る能力と考えている。人間の人間たる所以は理性的存在というところにある。理性が人間の本質であるというのが、理性的人間の自己確信である。この点から考えると、本能をもって人間の実質とすることは人間観の逆転といわねばならない。むしろ人間を理性の底に超えた深みから人間存在を新しく見直してくることである。即ち新しい人間の誕生ともいい得る意義を有つのでないかと思う。しかしインスティンクト(instinct・本能)という概念も、勿論一つの心理学の概念としては一定の感覚的刺激によって喚起される反射運動といったものにすぎない。何等人間存在の、意識的自己反省の達するを得ぬ深みを意味するものではない、生得的能力である点で本能というのであるが、凡てそういう衝動としての本能の把握そのものが、己に理知の立場での把握に他ならぬのである。やはり凡夫をもって理性的価値の欠除体とするのと同様に、理知の立場からみれば盲目的な衝動と考えられるのである。それは理性的確信としては、理性によって克服すべきものと考えられるのであろうが、同時にまた理性をも逆に包越し、理性をおびやかすという面をもっているのである。即ち理性の確信を主観的妄想と思い知らせるという、逆転の意義をもっているのである。宿業は本能であるとともに、本能のいわば超越的意味を指示するものが宿業から与えられるのではないか、宿業は本能であるが本能は宿業である。単なる心理学的意義によってつくされ得ぬものが、宿業の概念によって象徴されるのではないか。

 宿業は業道自然ともいわれ、また業因縁、若しくは業感縁起といわれるように、われわれの知的主観によってはどうすることも出来ぬという、森厳なる実存的意義をもっているのである。思いをもって自由すべからざる、わがままな思いを思い知らせる厳粛な意味が業因縁にはあるのである。人間の生きている現存在には、人間の理知で考えるよりも深い超越的意味があるということをそこに暗示するもがあるのである。人間は人間が考える以上のものである。人間を人間の理知で対象的に限定するのは、いわば理知の越権ではないのか。人間存在を人間の理知が如何に解釈するかは勿論主観の自由であるが、しかしそうした理知を超えているのである。自由は思いの自由にすぎず、思っている存在はむしろ今ここに誰かとして投げ出されたる存在である。被投的存在、即ち宿業の異熟果であるのである。いかに思いはかろうとも、その思いはからっている事実は、思いならぬ業因縁の事実であるのである。そこに人間のエキジステンツ(実存)というものがある。エキジステンツは単なる客観的事実ではない。超越的事実である。そこに主観を突破した生存在の現実があるのである。肉体をもちまた環境をもった生存在の現実がある。わが存在ながらわれの計度分別(けたくふんべつ)を破っている現存在がある。その存在はその意味で心理的というよりもむしろ生理的であり、生物的ですらある。しかしその意味は却って生理学的生物学的につくされぬ存在論的な意味をもっている。即ち対象化し得ぬ存在の深みに触れる意味をもっているのである。宿業という古い概念の意味は古くないのである。本能が理知的に抽象された心理学的概念でなくして、実存的・超越的意味をもつ概念となってくる。存在の感覚的自覚の能力として新しく生きているのである。本能は存在感覚の能力である。人間は理性の自由なる能力によって生きていると考えているのであるが、宿業の本能は何よりもまず自由意志の否定であり、自我意志の否定である。  (つづく)

             ―      ・      ―

 「ヤスパースの包越者について」 - ヤスパースの「包越者」は、ヤスパースの世界観と関わりがある言葉です。その言葉は、人間の存在とも結び付いています。人間が、世界の中で、どのように存在するのかを考える時に、ヤスパースは「包越者」の言葉を使用します。
 ヤスパースは、主観と客観を考えることによって、人間と世界をとらえます。結局、主観側が人間であり、客観側は世界であるとヤスパースは考えるのです。主観と客観とは、基本的には対立しているのです。ヤスパースは、主観と客観とを、基本的には対立させる枠組みの中で、自分の世界観を形成します。人間の側が主観であり、世界の側にあるものが客観です。そして、「包越者」は、主観と客観とを、大きな観点から包括する存在です。主観と客観とが対立している状態では、小さな観点から物事をとらえている状態なのです。ヤスパースの世界観は、大きな世界観です。人間は、大きく生きるべきなのです。そのため、世界観も、大きなものを持たなければなりません。そこで、ヤスパースは「包越者」を考えるのです。「包越者」の概念によって、主観と客観との対立が克服されるのです。対立を克服すれば、大きな観点から、世界を眺めることができるようになります。そして、大きな世界観を人間は持つべきなのです。小さな世界の中よりも、大きな世界の中で生きる方が、人間には自由があります。大きな世界観の中には、大きな自由も存在しているのです。小さな世界観を、「包越者」の概念によって乗り越えることを、ヤスパースは考えます。小さく狭い世界から、大きく広い世界へと、ヤスパースは視野を拡大させるのです。

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「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (7)

2012-04-08 22:46:03 | 『感の教学』 安田理深述

Zou_2   今日は、お釈迦様のお誕生日ですね。花まつり、潅仏会といわれ多くの寺院で誕生仏に甘茶をかけて、有情の生まれた意義を明らかにされた仏陀を祝っています。親鸞聖人は「釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萠を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。」と讃嘆されておられます。

 「真如といわれるように感知されたものがまことのものである。考えたものは虚仮のものである。感知せられるものが真実である、実在である、というのが実は意識の世界というものである。感覚の作用も感情の作用も根本的には意識の作用である。意識作用を具体化しているのである。意識の世界に於ては作用が実在である。純粋感情といえば無形の感情であります。法性たる真如は無形無相であるといわれる。考えてみようがない、考えることを禁ずるという意味で空性といわれているのでありますが、考えるのでないといっても何もないというのではない、ないと決めるのも一つの考えである。考えられぬものは一層深い意識の自覚である。それを内観の事実としてみれば、無形無相の意識は純なる感情ではないか、それは何かあるものとして意識の背後に考えるならば虚妄なる実体である。この実体の考えを破って、純粋感情を具体化するところに象徴の世界というものがある。これが法性の形相としての諸法というものである。無形無相の形相であるからして、形相のままが無形無相である。象徴は法性の無限の意味を表現しているものとして荘厳といわれる。それが法性を具体化する唯一無二の方法であるという意義から、方便法身といわれるわけであります。内面的なる反省の世界にあっては、意味がはたらくのである。荘厳という大いなるはたらきの世界である。考えによって実体化された世界は外面的な世界、固定化された死んだ世界である。こういうような荘厳世界は、有形有相であるという意義で感覚ということが出来るでありましょう。しかしその有形有相は無形無相の象徴であるが故にそのまま無形無相である。この意義でその感覚は純粋である。純なる感情感覚の世界というものが、深広無涯底といわれるのではないか、内なる世界この無涯無底である。外なる世界はいかにその理性的価値がかがやかしくみえても有限狭少である。それだけのものか、といえる世界ではないかと思うのです。価値は比較があり得るのですが、象徴される意味は比較を絶しているのです。一一が無等にして平等なる、真に無限に深く無限に豊かなる世界ということが出来る。こういうわけで私は意味を価値概念から区別するのであります。価値の世界は論理的・倫理的、一言にしていえば理性的ですが、意味の世界は存在の世界であります。凡夫という人間のありかたは一般的には、理性的価値の欠除態として、つまりただびととして劣等視されているのですが、凡人でも悪人でもとにかく生きているのです。存在しているのです。しかも現実に存在しているのです。然る限りそこには存在している限りの意味がなければならぬ、それがなければ存在しないのと区別がないことになる。

 この意味の発見によって、生きる験(しる)しありの悔なき生を自覚することが出来るわけであります。凡夫というのはこの意味の発見によって自覚、即ちひとつの悟りを有つ、自覚として生きるという、自覚ということが存在の仕方となるところの存在者となるのであります。」 (つづく)

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「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (6)

2012-04-01 14:56:09 | 『感の教学』 安田理深述

 2月19日のメールアドレスが間違っていました。訂正します。お叱りは、

          anjali.tutomu@tune.ocn.ne.jp

 までお寄せ下さい。 前週につづき 『感の教学』 を配信します。

 「親鸞教学はわれわれに近すぎるものですから、却って禅師の場合に照らして非常にはっきりとすることが出来る。前後を裁断した源泉の湧出に、唯仏与仏の照応があるのだということが出来る。本来の面目というものが眼横鼻直という直接開示となっている。そこに遠くに思想されていた法性真如が、現前の事実として躍動しているのであるが、しかしそれは飽くまで純粋知性的である。純粋知性的ということは、決して思弁的ということではなく、寧ろ思弁を排除しているが故に純粋というのである。ただそれがあくまでも知的である。同じものでも親鸞の場合は感覚として表された、本来の面目を純粋知性の内容とせず純粋感覚として表すところに親鸞がある。感覚的事実としての本来の面目は宿業の凡夫である。先生を通して親鸞をみるとそういうことが出来るのでないか、こういうきわめて個性的な違いがどうして親鸞に出てくるか、それは親鸞の立場が、凡夫的人間であるという自覚に由来すると思います。凡夫は知的自覚ではなくして感覚的自覚である。宿業の凡夫というのは知性的立場でいっておる表現でない、感覚的自覚の立場に立っていうのである。

 人間の本質は凡夫であり、凡夫が本来の面目であるという人間観での表現である。親鸞の教学にも悟りということもあるのではないか。自覚的な知というものを証とか悟とかいうのであれば、凡夫にも悟りという一つの自覚はあるのではないか、というより一つの自覚として凡夫というのである。凡夫であっても凡夫という自覚は一つの悟りである。凡夫の悟りというと、悟ったら凡夫でないじゃないか、凡夫と悟りということは矛盾する概念のようであるが、必ずしもそうと限るわけにはいかない。凡夫も悟性的な分別によると却って凡夫の自覚を失うているのである。凡夫の悟りとはもとより凡夫である人間が自己に帰るのである。本来の自己に帰るのである。こういう人間の自覚としての凡夫の悟りというものは本能の感覚である。本能の感覚によってみると、知の立場で遠く求めて得られなかったものが脚下に見出されてくる。純粋の悟りというものは道元禅師の悟りと親鸞の悟りと、悟りそのものにいくつもあるものではないでしょう。悟りの本質は二人にあるがままが、二人を超えてそのまま一如だといわねばなりますまい。問題はこの悟りがあくまで公開的であることにあるかと思います。公開的とは表現となることであり、思想となることであります。悟りそのものは全く一つのものであっても、それが思想となる時には独自な個性というものをもつ、個性のないところに思想はないのである。知の教学は無個性ではない、純粋知性も純粋化感覚もそれぞれに個性的である。同一普遍性を個性的に表現しているところに思想というものがある。感覚の教学も感覚という固有性に於て、あくまでも普遍的・公開的であろうと欲するのである。悟りは誰かにある存在であるが、しかし誰かの所有であることは出来ない。特殊な誰かの所有ではなしに、誰かの特殊な差別に犯されずに、誰にも何時でも何所でも公開されてあるということです。つまり所謂自性唯心的な体験であっては、誰もそこに入ることも出来ないし、また誰のところに出て語り合うことも出来ない。こうした閉鎖性が破られてあること、悟りが孤独的でないことです。誰も私は駄目だと遠慮する必要はないし、同時にまたわれのみと自惚れることも出来ないものとなること、茲に純粋知性がその純粋性を失うことなくして、純粋感覚として悟入せしめる道の開示されることが要められるのでないか。純知というものに反対しそれを否定しようというのではない。 

 寧ろ逆にそれを具体にしようというのである。純粋知性を失うことなくしてしかも直接具体的なものとして、私に近づけることである。親鸞の教学はこれをどんな人間にも了解出来るものとしてきた。究極的にいえば凡夫もうなづくことの出来る感覚として明らかにして来た、凡夫の身になることによって、凡夫の身体的自覚、即ち感知されるものになった、親鸞も安養浄刹の覚悟という表現もあることですが、それは公開された覚悟でありましょう。浄土は真証というものでありましょう。

 純粋知性というものは仏教語では如来性であり、如来智でありましょう。その遠い如来性を変えることなく凡夫の身の上に近く開放してほしい、現実の生々しい人間、名もなき民衆に開放されたいというのが、親鸞の教学というより宗教本能そのものの欲求である。純知の立場では如来性への超越であるが、今いう開放は凡夫への超越であるのです。それが宗教的本能の欲求である。宗教的本能が凡夫の自覚として自分自身を成就したいのであります。道元禅師は眼横鼻直の自己を身心脱落、脱落身心というていられます。脱落は実存的超越である。それを凡夫の自覚としてみれば感覚である。最も遠いものは実は最も近いということを語っているのではないか。急がば回れということがある。方向転換である、禅師の所謂廻光返照の退歩である。如来に接せんならば、凡夫の自己に帰れである。如来性にうなづけんのは凡夫に帰れぬからである。凡夫の脚下に如来は既有なのである。当下認得とは凡夫の身に感覚することである、と思うのです。

 ところで感覚ということですが、感覚的という言葉は一面外感という意義であります。見聞覚知の印象です。外界の感覚である。心理学でいうところの感覚とはつまり外感である。意識経験の最初のものとして立てる心的要素である。実はそうしたものは最も抽象的な概念なので経験内容として確かめることは不可能なのですが、心理学の学問的要求として立てるのです。今ここでいう感覚は、その外感に対して内感といわなければなりません。

 これは外界の印象ではなくして、われわれがわれわれ自身を反省する時に、自己そのものの自覚として成立するのが内的感覚というものである。これは何等表象的なるものではなくして、寧ろ表象を要せず当下認得という明証、エビデンツというものである。われ思う故にわれあり、という事実が事実を証明している自明性こそ正に茲にいう内観の明証であるのです。内観は内感であるのです。これを純粋感覚というのは、内感されるものが主観的表象でなくして原始的存在としての自己であるからである。自己は自己の観念ではなくして原始的事実である。いわば如が来となっているのです。自覚といい、反省という内観の途は勿論容易ではない。自覚というものが無限なのである。直感を無限に反省することに依って自覚が展開されてゆく、自覚が自覚に止まるならば、それは自覚の実体化である。自覚するということも自覚されなければならぬ。自覚は無限である。不覚ということも自覚によらなければ言えぬ。如来智は深広無涯底というのが自覚というものである。しかしそれが如何に無涯無底であっても、自己が消えたのではない。やはり自己の無涯無底でなければならない。無涯無底の世界を知るような自己が先づそこに見出されなければならない。内観の事実としての自己によって、いかに自己を超えた無涯無底の世界も、私に内観されるものとなるのである、如といい如来というのは、そういう理性的観念即ち理念ではない。それ故に法・法性といわれているのである。主観を破ってぶつかった存在である。しかし如何に主観的観念を破ってもやはり知られた内容でなければならぬ。単なる無ではないであろう。考えたものではないが、また知られぬものではない、考えるより更に明らかに知られたもの、明証でなければならない。根本的に知られたものである。考えるよりも明瞭に知られたものである、これを感覚というのである。 

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「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (5)

2012-03-25 19:41:08 | 『感の教学』 安田理深述

 衆生が疑を除いて信を獲るのでなくして、信心そのものが衆生の疑を除き証を獲しめるところの真理である。体験ではなくして真理であるのである。真理というのがむしろ純粋の事実である。衆生がいかに煩悩熾盛であり罪悪深重であっても、如来内存在である根本的な秩序を動かすを得ぬという確信であると思う。仏を仏性というのでなく、衆生そのものを仏性という存在論的な自覚があるのではないか、かく親鸞は涅槃経の経文を日本語の文法に従って国語としてよまれたのだが、漢語では発音通り悉有仏性、一切衆生ことごとく仏性あり、というよりことごとくあるのが仏性、「悉有は仏性なり」非常に鋭い受取り方である。諸法実相は諸法の実相でなくして、諸法即ち実相である、といった趣きであります。何か仏性というものは何所か誰かにある存在物だと思っておるのは、それは実体化された仏性である。それは法性ではなくして思弁である。形而上学である。悉有は仏性とはこの思弁を破っているのである。悉有の有といい、有時の有というのは今日哲学で問題となっているところの、存在論的存在というべきものかと思います。あらゆる存在を存在たらしめている存在そのもの、が哲学の問題となっている。いま悉有というのは別な表現では本有である。あらゆる存在だから悉有であるが、その存在を存在たらしめるが故に本有である。もとよりある。そのあるは無いに対してあるのでもないし、またないのでもない。有無を離れて端的にただある、ただそれのみがある。存在としての存在というようなことは、我々と無縁な学問上のことのようでもありますが、実は存在するものにとって存在が問われるということは、我々と無関係な問題ではなく、現実の自己の立っておる地盤が揺るぎ出してきたということである。自己の存在が問題になるということは、自己にとって最も現実的且つ根本的の問題である。宗教問題もここから考え直してこなくてはならぬ。

 自己とは何ぞや、問うまではわかったように思うていても、更めて問うと一番わからぬのが存在であるということが判ってくる。私はある存在者といっても人間である、男性である、といってもそれは幾らでもある、特に私に限るわけではない。どれだけ私という存在概念の内包を限定してみても、一あって二なき私は出て来ない。そうなると私は人間の一例に過ぎぬ、代用可能であるから一号二号という風に記号的な存在、取りかえることが出来る存在ということになる。しかし私の代りに死んでくれるといえるかというとそれは出来ない、死もやはり私の死を死ぬるのでなければならぬ。探すのは自分の外に自分を探すのではない、内観の方向に探求の方向を転ぜねばならぬ、根元に帰ることは同時に根元それ自らを語らしめることである。探されるものは向うの方から名乗っておる、近くをみよ、外に探してゆけばわからぬようになる。それは逆に却って遠ざかる方向である。本来の自己は探す以前にわれここに在りと名乗っている。方向のあやまりを自覚すれば、存在は既にあるものとして来ている。善導は既にこの道あり、必ず度るべしという、既有という、既にあるもの即ち道である。道は探す自己よりも近く既にある。道を忘れた思いが思い知らされて本のところに呼び返されるのである。新しい出発点はこういう根元的なものに帰るところにある、内観は根元へと出発するのである。

 話が少し抽象的になりますが、今日哲学で存在というような問題になると遠くアリストテレスに帰って考えてゆく、アリストテレスは哲学の古仏である。そこまで遡って明らかにしなければならぬ。つまり源を尋ねて出直すのである、遡ることが出来るというところに古典というものがある意味がある。それは現在に行詰ると既有の過去に聞く、帰って聞くところが古典である。古典は古仏の言葉である。教典である。現在に行詰るということは問題をもつことである。問題なくして古典に帰るといっても、古典は何も答えないが、古典のないところにはないのである。過去に帰るのは根元に帰るのは根元に呼び戻されるのであるが、根元が単に隠れた存在でなく、歴史となって根元を道として証明しておるのが古典である。教典である。ここに個人を超えたトラジションというものの深い意味がある。単なるオピニオン(主張)を超えた意味がある。先にいったアウトリテート(権威)というものがここにある。アウトリテートは歴史のそれである。存在が既有の歴史となっているところに、否定すべからざる威力というものがあるのである。歴史は人間の地盤を離れないが、それは存在の真理が人間を破り、人間に於て自己を開示しているところにある。その人は単なる人に非ずして無等等なる唯仏与仏である。アウトリテートをもつ歴史は唯仏与仏の歴史である。私がほんものだといい、ものがちがうという所以である。先生がほんものだというのは、先生がほんものに触れたということ、自己を破って存在の名乗りを聞かれたということである。先生のお言葉には歴史から生まれて歴史を創るという意義がある。教典を聞思されて、また教典となる意味があると思うのです。道元禅師も何か重要なことを語られる場合は、仏仏祖祖を持ち出される、非常に厳粛な態度がある。それはどこまでも禅師の言葉であるが、しかも禅師を超えているものがある。空手還郷、所以一毫無仏法(空手にして郷に還る。所以に一毫も仏法無し・『永平広録』巻一)という逆説的表現がそれを語っている。そういうところに道元禅師の前にも禅師はなく、後にも禅師はない、曹洞禅は道元禅師に始まって道元禅師に終わったという感銘を禁じ得ない。  (つづく)

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「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (4)

2012-03-18 19:47:55 | 『感の教学』 安田理深述

 「さて道元禅師の眼横鼻直は、あるものがあるものの如くある。ありのままを表されたものかと思う。今日の学問で問題としている存在である限りの存在そのもの、というものでありましょう。仏教の学問で法・法性といわれてきたものが、全く直簡明な眼横鼻直という個有の表現となっているように思います。眼横鼻直は法性真如の事実である。存在自らで自らを悟っている自覚は理知の分別に欺されない。此方から把握したのでなく、ものがもの自らで語っているのである。これは眼横鼻直だなと判断したのではない。分別によって定立したものはまた分別によって倒されるものである。他に瞞(まん)せれらぬというが、他といっても自己の内にある理知分別である。あれこれの分別に動かされぬのである。他の人にだまされんのでない。自己の分別にもだまされない。自分の分別にも動かされない。自分の主観を破った存在そのものの確実さがそこにある。曹洞禅は道元禅師に始まって道元禅師に終った。第二の道元禅師は出ないといった純粋なものがそこに生々と表れていて、我々を圧倒するような表現の力が感ぜられる。我々は同一のものを親鸞に於て、また清沢先生に於て、曽我先生に於て感ずるのである。単に類似しているというのではない、全く同一のものが動いている。存在は類概念ではないのである。真如は誰にあっても一如である。存在そのものが各自各自に於て自らを開示しているからである。ものがちがうと私はいうのである。

 先生は二人ある訳でない。比較してよりよい勝れておるというのでない。唯一無比、比較して我師を自慢しておるのでない。そこに純粋無雑の存在がある。福音書の言葉では 「このひとをみよ」 という。存在の真理が直ちに人となっているからである。彼は学者の如く語らなかった。彼は権威あるものの如く語ったという。存在の権威をもって存在を語っているのである。これがほんもんということである。ものがちがうのである。これは何故かというと我よりも我に近く我を内に超えた、存在の深みに源泉をもっているからである。正法眼蔵に有時というのがある。有時はある時であるが、併し禅師はそれを 「有は時なり」 という独自の読み方を示していられる。有時は眼蔵の中では最も哲学的な思想が語られている巻である。ある時ではなくして、あるは時である。存在は時間という形式の内に於てあるものではなくして、時間そのものが存在であり、存在は時間そのものであるというのです。ある時に対して、有は時であるという時は、その時その時の時をして時たらしめる根元時であるといえるのではないか。禅師の而今とは正に根元時である。存在は今の外にない、過去とか未来とかの時間経過は今に於てあるのである。今はいつまでも現在、現在に於て過去を立て未来を立てる、かかる而今が存在そのものである時である。眼蔵にはまた一切衆生悉有仏性について、一応は一切衆生に悉く仏性がある、一切衆生は悉く仏性を有つという一般的な読み方でなしに、 「悉有は仏性なり」 という独自な読み方が出ている。仏性は教行信証でも触れられていて、特に信の巻には信心仏性という、涅槃経の経文が注意されている。新人といっても単なる心理的体験といったものではなく、体験の主観性を破った仏性そのもの、信心即仏性といったものである。如来廻向の信心は衆生の体験として衆生に所有されることなく、信心即ち仏性として如来にかえるのである。 (つづく)

 以下

 ― 「自分さがしの仏教入門」 より引用させていただきました。 ―

「曹洞宗の本山である永平寺を開かれた道元禅師もまた、 人間とは何か、人生とは、どこから来てどこに在ってどこに向かっていくのかを 生涯をかけてお示し下さったお方であります。 禅師は24才のときに中国に留学され、如浄禅師に学ばれて一大事を悟ったといわれています。 そして28才で帰国されたとき仰有ったお言葉が
    「眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)です。
 経典や仏像などは持ち帰らずに、ただ一つ
    「目は横に、鼻は縦についていることがわかって、空手で帰ってきた」
 目は横に、鼻は縦についている 「あたりまえのこと」じゃないかとわたしたちは思います。 道元禅師のようなお方が命がけで宋にまで渡り4年もの間、法を求め修行をされて、わかったことが、眼横鼻直ただひとつだと・・・ それほど「あたりまえのこと」の有り難さを分からないのが私たちではないかとお示し下さったのがこの言葉です。
 源左さんという念仏者が「急な雨が降っても鼻を下に向けてつけておいてもらったいるので有り難い」と仰有ったという話を聞いても、同じように有り難いと思える方がどれほどおられるでしょうか?
 米沢先生が心臓の鼓動や呼吸の話をされて 「生かされて生きているのだ」と耳にタコができるほど繰り返されましたが、 私は、頭ではそのとおりだ・・と分かっても、心底有り難いなどとは思えませんでした。 そして信仰をもっている人は「あたりまえのことの有り難さ」がわかるのにちがいないと思ったものです。 それで、有り難く思おう、思わなければ、と努力しましたが、 やっぱり「あたりまえのこと」は「あたりまえのこと」でした。
そんな私にも、ひとつだけ気付かされたことがありました。 この「あたりまえのこと」だけは、私が何と思おうと、 どう考えようが決して動くことがないということです。 私が有り難がろうが、なかろうが、決して動きません。 そして、もし他の人が、それを「違う、鼻は横だ」といっても、私は疑うこともありません。 「そのとおりだ」と認めてくれた人がいるからといって喜ぶこともありません。 私の思いに関係なく「ありのまま そのままの事実」です。 それと同様に、その「ありのまま そのままの事実」を有り難いとも、不思議だとも思えない自分が「今ここにいる」というのも「ありのまま そのままの事実」です。
「ありのまま そのままの事実」に落ち着けたとき・・・ あたりまえのことの有り難さ」がわからないままに生かされていることの不思議さに気付かせしめられました。 その時初めて「眼横鼻直」のお言葉が心に落ちたようなような気がします。 それを教えて下さったのが安田先生の下のお言葉でした。 思いを超えた「ありのまま そのままの事実」に生かされて生きている私たちではないでしょうか?」
            ―         ・       ―
 
  •  「有時」 - 『正法眼蔵』有時の巻より。 「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり。有はみな時なり。丈六金身これ時なり。時なるがゆえに、時の荘厳光明あり。いまの十二時に習学すべし。三頭八臂これ時なり。時なるがゆえに、いまの十二時に一如なるべし。十二時の長遠短促、いまだ度量せずといへども、これを十二時といふ。…われを排列しおきて尽界とせり。この尽界の頭頭物物を時時なりとしょ見すべし。・・このゆえに同時発心あり、同心発時あり、および、修行成道も、かくのごとし。・・有時みな尽時なり。有草有象ともに時なり。時時の時に尽有尽界あるなり。・・いわゆる山をのぼり河をわたりし時にわれありき。われに時あるべし。われすでにあり、時さるべからず。」
  • 「悉有仏性」 - 『正法眼蔵』仏性の巻より。 「悉有の言は、衆生なり、群有也。すなはち悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ。 正当恁麼時(正にそのような時)は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。
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「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (3)

2012-03-11 22:04:41 | 『感の教学』 安田理深述

 「道元禅師であるけれども宋から帰られて、自分は禅宗といったセクト的なものを伝えるのでない、仏法そのものをそのまま伝えるのである。しかし仏法といっても固定した仏法というものがあるわけではない。正法そのものは対象的な何かとして固定化されたものではに。従ってそのままにといえば、伝えるということすら言い得ぬものであろう。先にいったように曽我教学は特殊なものではない。仏法そのものしかもそのままにというところに出ている。言葉を離れた存在がそのまま言葉となって出ている。道元禅師は宋から帰朝されて、始め京都の南の方の深草に脚を留められたのであるが、自分が宋の天童如浄先師との邂逅によって当下に認得したものは、それはどういうものかというと他事はない、眼は横にあり鼻は縦にある「ということがわかった。直載簡明、裏も表もない眼横鼻直、これだけは人がいかにそれは嘘だとか否定したからといってそれによって動かされず、また人がそれを肯定したからといってそれによって喜ばず、すべて人間の意見によって上下されない、これはだれかれの思いというものではない、あるがままの存在の事実である。これは道元禅師でないが有名な盤珪という禅匠、あちこち禅宗の和尚は、徒らに支那の禅者の言葉でないと禅は語られんと思うている、どうか教えてもらいたいというと、座禅してみよといって逃げる。そんな外国人の言葉は不要である。問うことも答えることも日常語で充分に仏法の用は達せられる。盤珪禅師は自分の仏法を不生禅という言葉で表現せられる。

 その一例として、皆さんは今日私の話を聞きに来られた、ところで来てみるとゆくりなくも雀の鳴いている声が聞えた。雀の声を聞こうと思って来たのではなく仏法を聞こうとして来たのだが、その内はからずも雀の声が聞こえた。それを犬の声だと誰がいっても、それだけは人に欺されん。眼は見るし鼻は嗅ぐこれは根本無分別智というもの、誰にも本来回向されている根本能力、眼で音を聞くことはない、眼でものをみておるという当たり前のこと、それが不思議、教理が不思議だというのでない、現に与えられている存在の事実が不思議だ、不思議を対象的に向こうにおいたならば不思議にならぬ。向こうにおけば不思議を思議したことになる。不思議は何所迄も此方になければならん。これはこれはということでなければならね。自分で自分にうなづくということでなければならぬ。向こうにおいたならば不思議という思いに他ならぬ。不思議とは主観の表象を突破して存在の事実そのものにふれて事実的自己となったことである。存在が自己の思いを破って自己となったのであって、自己の思いにいよって存在をとらえたのではないのである。仏法の事実というもの、自己でも世界でも、仏法の自己、仏法の世界を一語にいえば不可思議です。不生といっても考えて音を聞くのでない、考えるに先立つ不生のところで、そこを一歩も動かずしてものをみておる、そういうことは何かの努力の結果到達するのでなく、実はそれが根本なのである。この本を忘れて人間が自分自ら自分を不純粋にしているのだが、純粋な知性というものがもとよりある。それは必ずしも理性的ということでなく、むしろその逆である。純粋という言葉はそれぞれの立場で使う用語で、純粋理性とか純粋意識とかいう概念も哲学にある。仏教には自性清浄とか、離垢清浄という表現もある、清浄ということを現代的にいえば純粋といい得るであろう。これは理知の分別の雑わらないという意味で、純粋経験というようなのがそれが一番近い。理知の分別以前、或は主観の分別以前、それが純なる事実というもの、これは私よりも私に近い、私があってそういう純粋経験をするのでない。私をまたずして純粋経験それ自身に自覚的統一をもっている。即ちそれによって私が成り立つのである。禅で父母出生以前の我という、我よりもわれに近いそういうものを原始の自己という、曾っての時代によく読まれた原人論という華厳の書がありましたが、人間の根源ということを原(たず)ねたのである。

 内容は起信論などの思想を出ないもので独自的な思想はないようですが、原人論という題目が面白いと今思い出すのです。原始的人間ということは、これは自己本来の面目は何かということでもありましょう。理知的分別以前の自己が原始的人間、法蔵菩薩というのは原始的人間である。現代の人は、病気でないものも現代という病気をしている、健康な人間が病気に患っている。現代に生きるには病気しなければ生きられんが、それを自覚しておらぬ。現代で人間であらんがためには理知的な中途の解決では間に合わぬ。理知は中途というよりも前進の道であるが、今日は進歩よりもむしろが求められるのである。自分はこれからどうしてゆくかというよりも、自分は何によって自分となっているのか、自ら自己の脚下に帰らねば出発が出来ぬのである。その帰るところが途中であってはならんのである、原始の自己に帰らねばならぬ。途中に帰ったのでは帰ったといっても、依然内在的な立場にぐるぐるめぐりをしているのである。

 釈尊に帰れとか、親鸞に帰れというのはやはり途中である、もっともっと根元へ遡らなければならぬ。根源に帰る、過去に帰るのでなく自己の根源に帰らなければならぬ。自己の原始性を恢復しなければならぬ。わが親鸞教学に如来の本願といい因位の願という、それこそ自己の根源、ウルシュプリングというものだと思う。如来の本願は真の意味の自己の根源、われわれは自己の宗教的本能としてそれをもっているのだと思うのです。いろいろいうのも、結局それによって原始となるものを明らかにするにあるのです。われわれが理性をもって無限に限定してみても、というより、逆に存在の向うより自己限定してくるもの、無限に生産的であり湧出的であり、どこまでもウルシュプリングリッヒであるのが原始、そういう原始性を恢復するということが、それが今日の教学の根本課題である。繊弱なものでは現代の病気は救われない。現代の病気は複合ということにあるのである。思考の精密は却って益々病気を増す所以でもあるわけ、先へ進めというのでない。単純なる原始の本に帰る、願というものは未来の原理であり、すべてのものは未来から生産されるが純粋未来の根を願に見出してくる、未来の願を逆にわれわれの過去に見出すのである。願といえば未来の結果を追い求めるようだが、却ってそれを原因に見出してくる。それが動機というものである。往生というような思慕的な立場を転じ、それを内面化して却って現在を生産するような弦を、自己の根底に見出してくるのが願生というものです。浄土は永遠の未来であるとしても、その浄土の根は脚下の現実農地にある。向うにゆけばゆく程、向うのものは逃げてしまう。むしろ永遠に不生なのが純粋未来というものであろう。内観の道は浄土の影を追いかけるのでなく方向転換である。浄土の影ならぬ浄土の根は自己の脚下にある。そこに不生の始まる願生がある。方向転換が道元禅師の所謂回光返照の退歩である。それが現在の教学の方向でなければならぬ。教学といっても観念論的のそれでは線が弱いと思うのです。それでは我々を根底から動かす感動というものにならぬ。観念の根底を破っていない観念は如何に美しくとも腹がふくれないのである。しかし逆に現実主義というものも、現代の宗教とか教学とかいっているものを考えてみれば、宗教までが商業化しておるのではないか。現代という世界に宗教に生きるということはどういうことになるのか大きな問題がある。現代は宗教なんか容れる場所がないのではないか。資本主義の世界では世界はマーケットである。そこでは寺院や境界を訪う時間などは与えられない、目前の現実的要求が一切である。それが一大事、世界は市場でその中で聞法ということを認める会社や国家はない、念仏申すことが出来たといっても学士も博士も与えられない、念仏は掃いて捨てる程あると思っておる。

 こういうことで、そこに願生心、宗教的本能というものは、理性の創造した現代ではそれが脚下に蹂躙されておる。我々は公害を受けたと抗議しておるのだが、最も公害を受けておるのは、宗教的本能たる法蔵菩薩それ自身ではないのか。念仏の教えも二束三文、文化の脚下に蹂躙されておる、よく文化の力によって宗教を現代に生かそうという。しかしそういうことは出来ない。人間の力では生かされなければならぬような宗教は人間を生かすことは出来ない。生かされているのは自分である。自分の蹂躙しているものこそ却って自分を生かしているものではないのか。それが本当の傷ましい現実というものである。人間は理性によって創造したものに眩惑されて、根源を忘却しているのだが忘却こそ最も深い蹂躙である。そういう根源の自覚に帰るというのは容易なことではない。五体投地して驕れる事故に死ななければ自己の根源に帰ることは出来ない。本来の面目といっても、五体投地の懺悔をくぐって初めてそれに帰る。廻心のないところに本来の面目などありはしないのである。   (つづく)

          ―      ・     ―

 語句説明

  • 『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)に、「所以に須らく言を尋ね語を迷うの解行を休すべし。須らく回光返照の退歩を学すべし。身心自然に脱落し、本来の面目を現前せん。」と。(それゆえに、書物などの言葉を研究し理解しようとするような自己の外に向かっての行はやめるべきであり、自らの内に向かって光を当て悟りを照らし出す行をするべきである。そのとき、身心も自然に意識から脱落して、自らの本来の面目が現前するであろう。そうした悟りを得ようと思うなら、さっそくそのことつまり座禅に務めるがよい。)
  • ウルシュプリング(Ursprung ) -根源
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「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (2)

2012-03-04 12:28:30 | 『感の教学』 安田理深述

 「さて曽我先生のことですが、先生は勿論私の先生にちがいありませんが、しかしそれは私することの出来ぬ人類の教師であると思うのです。曽我教学という何か自分の特殊な教理を主張するという意味での教学ではなく、却って自分をこえてた法の本来的な秩序を判明にするという意味の教学、あくまでも親鸞教学、われわれの存在も存在の意味の自覚も、すべて本願の回向成就として、本願のロゴスたるみ名にたまわるという、その仏法をそのまま何ものも付け加えることなく裸で触れられたのが先生であったと思う。親鸞教学は実は親鸞を超えている。親鸞は裸でそれに触れた。先生もその親鸞を通してこの本来的に超越的な存在に触れられたのである。むしろその何ものも付加することのないということが、尊くすばらしいことであると思うのです。本願という自己を内に超えたものを自分の外に対象化して概念的に捉えるのではなく、逆に本願によって本願の内に自分というものを見出してくる。そしてそれを生命としてそれに生きるという仕方でそれを知るためには、人間は一切の理知の分別から裸にならねばならぬ。裸になって知るのが感覚である。ところで常に先生に近く接しているということは、必ずしも先生を深く知っているということではない訳です。先生の亡くなったことによって一つの距離が与えられた。それを機縁として更めて教えられたことの意義というものを反省してみる。先生の生きておいでになった時は、外感的に近かったことが障碍となって普遍的な意義にふれることが出来なかった。先生の亡くなった現在、今更のようにその解逅によって教えをたまわったことの責任が痛感されてくつのであります。いま漸くそれが理解されたというのではなく、理解していなかったことが理解されてくるのであります。このように何ものも付加することなく裸になる所に、かえって真の思想というものが実は生まれてくるのではないか。真の思想といったものは頭で考えたものではない。われわれが裸になることによって存在が自ら自らを開示してくる。却ってそこに身で受け止めた真の思想というものがある。こちらで考えた特殊な教理というものに思想があるのではなく、自己を空うして存在の言葉を聞くところに、自分でもどうすることも許されない、独自の思想があると思うのであります。普遍的なものは独自性の生命である。こういうわけで親鸞教学の独自のものの存在が、道元禅師の場合を通して、間接的な距離を通して照応的に明らかになるということも出来る。間接的ということは非常に重要な意義があるのではないか。

 願生彼国という言葉がある。これはわれわれを超えた本願の、われわれへの成就を教えられた教主釈尊の教言でありますが、本願の方は極めて直接的に欲生我国、我国に生まれんと欲へ、国という言葉は荘厳浄土の本願を説く無量寿経のことですから繰り返し幾度も出てくるのですが、我国という言葉は十方衆生を呼びかける三願に於てのみ、ただ一回表れる重要な言葉です。本願は一切衆生の本国である、故郷である存在の呼びかけの声である。われの根元からわれわれに呼びかける、われの根元というより根元のわれである。それはむしろわれわれよりもわれわれに近くある、この最直接的な叫びに汝として呼びさまされるということは、容易なことではないのです。そのために欲生我国の本願は自己自身を限定して教言の願生彼国となったのである。他に説いて教えるということは、同時に他の言葉を聞いて覚るということを予想する、本願が自己を限定するということは即ち説き聞く、という教え教えられる関係に自己を限定するということである。願生彼国は教主の教言であるとともに、また衆生の理解でもあるわけです。天親菩薩はこの教言を通して願言に触れた新人の理解を願生安楽国と表明していられる所以であります。こうして天親の信心の表白の内容でもあるわけであります。いわばわれわれを底に超越せる本能としての欲生の本願は、いまやわれわれ衆生の自覚として願生の信心となったのである。願生彼国は欲生我国の成就である。本能的であったものが自覚的となったのが成就である。欲生は大地の内面を流れている地下水の響きである。その沈黙のささやきの如き叫びは雑音の世界のわれわれには、雑音に障えられて容易に聞こえないのでありますが、しかし如何に幽かであってもそれは存在の真理の声である。雑音はいかにやかましくても結局夢の中の音響にすぎない。量的に大きくても質的には之に打勝つことは出来ない。だから容易でないというのであって、必ずしも不可能というのではない。難値難獲は不可能ということでなくして容易でないということであろうと思います。

 容易でないというのは個人的ではなくして歴史的ということである。原理的なる欲生我国は、願生彼国として歴史的現実となったのである。内面に深くかくれていた欲生はその内面的な深みを失うことなく、しかも歴史的に公開されたものとなった。これが教え教えられるということの意義であり、間接的ということのもつ意義であり、言葉というものの意義である。言葉となることは公開的なものとなることである。彼国は我国の叫びを間接的な言葉に表現しているのである。その「彼」の一語に教の相というものが立てられ、教学の独自もこの「生」の一語に象徴されるのである。感の教学ということであるのですが、欲生とか願生とかの表現即ち単に無生の理でなくして願生というところに、感の教学体系を成立せしめる原理があるということが出来る。感覚も感情も願の意欲に綜合されるのである。

 生を感覚の内容とすれば、無生は感情の内容でる。感覚の衆生を内に目ざまして無生の感情を開くところに、願生の意欲というものがあるということが出来るかと思うのであります。とにかく願生とは欲生とかは純粋感覚の教学の原理を表現しているものであって、純粋知性の教学にはこれをみることが出来ないのである。こういうことも照応的に明らかにされてくることであります。

 道元禅師に照応するというのは、此国の仏教古典の中で極めて難解な表現のあるのは道元禅師とわが親鸞、仏教の古典はいろいろあるが、道元禅師の言葉と親鸞の言葉というものは極めて独自な表現といわれておる。そこに他の追従を許さぬ表現がある。口真似を許さぬ表現がある。借りてきた言葉でなしに親鸞には親鸞でなければ言えないもの、存在が親鸞を通して、また道元禅師によって思想となって自らを表現しているのである。思想となった存在こそ真の表現というもの、真言実語というものである。そこにほんものがあるというわけです。私の話も題がなくて話しているのですが、題がないと何所へゆくやらわからんから 「ものがちがう」 ということにしましょう。どれだけ言っても観念的に虚妄の言では腹がふくれぬ。ここに真にして実、真仮を判明にするところの批判ということが大切である。 「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」 という、親鸞のきびしいお言葉がある。またそれをうけて、 「真なるものは甚だ以て難く、実なるものは甚だ以て稀に、偽なるものは甚だ以て多く、虚なるものは甚だ以て滋し」 という悲歎が述べられている。同じ浄土の教学でも親鸞以前は浄土に就いて真仮の区別がない、浄土といっても方便化土と真実報土の区別がない。他力といっても主観的の信心と、主観を突破した回向の信心との区別がない。それは何故かというと信仰批判がない、信心の自己批判がない、批判が徹底的でない。親鸞の教学のもつきびしさというものは、信心が信心自身を反省してきた、信心が信心自身を批判してきた、そしてその批判を通して真の信心というものを基礎づけてきたというところにある。」  次回は3月11日に掲載します。 

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