唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第七所依門 (2)

2016-11-24 22:27:46 | 第三能変 第七所依門
  

 ― 所依門 ・ 根本識に依止す ―
 「已に六識の心所相応することをば説きつ。云何が現起する分位をしるべき。
 頌に曰く、
 根本識に依止す 五識は縁に随って現ず
 或いは倶なり 或いは倶ならず 濤波の水に依るが如し
 意識は常に現起す 無想天に生るると
 及び無心の二定と 睡眠と悶絶とをば除く」(『論』第七九右)
 「根本識に依止す」と述べられています。依止とは所依のこと。杖託(じょうたく 一 杖の力に依る)の義にして所依を云う、といいます。
 根本識とは、染浄の識のために依となる第八阿陀那識を指します。これが前六識の所依なのです。
 この所依に二つあり、
 一つには種子の第八識に依る(種子頼耶)因縁依といわれます。転識が生じる為の因となります。
 二には現行の第八に依る(現行頼耶)増上縁依中の共依です。転識が生じる為の縁となります。
 阿陀那識は第八識の別名です。「或いは阿陀那と名く。種子と及び諸の色根とを執持して壊せざらしむが故に」(『論』巻三・八識別名)、阿陀那識の名の由来は『解深密経』によります。
 「阿陀那識は甚深細なり、一切の種子は暴流の如し」(『論』巻三・第三教証)。八識別名を立てるのは、第八識の特徴によって名前が変わるといわれています。“阿陀那識は生命を持続する、人格を持続していく、という角度から捉えたときに阿陀那識という。根本識というのは、私の人格や生命を持続していく角度から捉えたものなのです”(大田久紀氏)
 表層の前六識は何を根本として働くのかというと、阿陀那識から生じるものであるという見方ですね。「五識随現縁」といわれますように、心の働きは「倶或不倶」なのです。生じたり生じなかったりするわけです(有間断)。そして前五識の場合には「縁に随って現起す」といわれ、第六意識は「常に現起す」といわれています。
 「根本識に依止すとは、この句は下の第六識にも通ず。二は倶に第八識に依止するが故に。その共依を顕す。然るに依止に二あり。一に種子の第八識に依る。即ちこれ因縁の親しき依なり。阿毘達磨経の中の無始時来界なり。二に現行の第八に依る。即ちこれ増上縁依なり。即ち達磨経の中の一切法等依なり。六転識は、みな本識の種子と現行とに依って、現起することを得というなり。五十一に、阿頼耶識あるに由るが故に、五根を執受す。乃至、この識あるに由るが故に、末那あることを得。第六識はこれに依って転ず等と説くは是なり」(『述記』第七本・四十六右)
 所依門とは「根本識に依止す」の一句で、前六識は根本識である第八識を因として生じるということを表しているのですね。根本識から転変してきた心ということなのですね。前六識は転識といわれます。この転識されて認識が成り立っている世界が、私が認識している世界なのです。
 阿陀那の名の由来は『解深密経巻第一』の「心意識相品第三」に述べられています。唯識転変の由来を示して迷悟の文斎を明らかにしています。「此の識、身に於て随逐し、執持するが故なり。・・・阿陀那識を依止と為し、建立と為すが故に、六識身転ず。謂く、眼・耳・鼻・舌・身識と意識となり。・・・瀑流に似たる阿陀那識を依止と為し、・・・一切種子は瀑流の如し」と。(国訳大蔵・第八・p17)
 「無始時来界 一切法等依 由此有諸趣 及涅槃証得」は『摂大乗論』第一(大正31・382)に『大乗阿毘達磨経』の詩句の中で説いている、と述べられ、『論』」巻第三に第一教証として引用されています。(この心の領域は、始めのない過去以来、すべての存在の依りどころであり、これがあるからこそ、生命の六っの種類(六道)の差異があり、また涅槃を得るということもある。もろもろの存在は、アーラヤによって存在する。それは、一切の種子ともいうべき情報集積体であるがゆえに、アーラヤと名づける」)
 表層の前六識は阿陀那識を依止(所依)として働くのですが、この前六識は共通して第八識を所依となすのです。深層の一番深い所を依り所として前六識は働く。こういう意味で「共」というのです。「共と親との依」と云われていますから、全部共通ではないのですね。「種子の第八識に依る」、種子が直接的な依り所となって前六識が働きますので、それを「親」というのです。次の『論』の科段に詳しく説かれてきます。
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第三能変 第七所依門 (1)

2016-11-23 21:30:38 | 第三能変 第七所依門


『成唯識論』巻第六に入ります。善・煩悩・随煩悩・不定と記されていきますが、大方の説明は前にしています(善については2009年10月12日の書き込みより、煩悩については2010年1月7日・随煩悩については2010年1月21日よりの書き込みになります。)ので、省略させていただいて、『唯識三十頌』第十五頌から学んでいきたいと思います。
 『唯識三十頌』 第十五頌
  依止根本識 五識随縁現
  或倶或不倶 如濤波依水
 (五識・意識は阿陀那識に依る。種子は因縁依・現行は増上依。五識は種子を内縁とし、作意・根・境等を外縁として生ず。或いは五識と倶なり。或いは一・二・三・四の識と倶ならず。濤波の水に依るが如く、五識は第八識に依るのである。)
 八識の依止と所依について大事なことを教えています。
 五識・意識 ― 阿陀那識に依止す。
 種子 ― 因縁依
 現行 ― 増上依
 
 第三能変 所依・倶転・起滅門を明かす。
 第三の能変を九門を以って分別(区別)していますが、初めの六門は論第五より此に至るまでに解説し終りました。今此の次の頌に三門を明かにします。第七所依門と第八六識倶転門と第九起滅分位門とであります。
「すでに六識の心所と相応することをば、云何が現起する分位を知るべきなり」(『論』第七九右)
 前段までに、六位五十一の心所法を述べてきました。次に第十五頌・第十六頌において、意識起滅の分位を明らかにしてきます。心所法の精密な分析が終って、三能変の識について、五識及び意識の現起の分位(起滅の分位)が説かれるのです。『論』には「云何が現起する分位をしるべし」といわれています。
 『述記』には「前の第五巻(十七・新導本p211)より已来は第三能変を解す。彼の第二の頌(論五、二十一、心所相応門・新導本p215)より已後、これに至る已前は、六位の心所と倶なることを明かし訖る。今は、第七門の六識の共依と、第八門の六識の倶転と、第九門の起滅の分位とを明かす。これに二頌あり。これは前を結んで後を生じ、問いに寄せて徴起す。次に正しく答し、後に本文を釈す」と、成上起下の義を明らかにしています。問いは「唯、現起の分位ありと雖も頌中の義に所依と倶転とあり、現起の相は顕なり。依と倶とは隠なるが故に」と、心が起きるのは何故か、ということを明らかにするのである、と云われています。
 「根本識に依止す 五識は縁に随って現ず或いは倶なり或いは倶ならず 涛波の水に依るが如し」(第十五頌)
 「意識は常に現起す 無想天に生るると 及び無心の二定と 睡眠とをば除く」(第十六頌)
 心が起きるのは、どのようにして起こるのか、という問いに答えて、心が起き、働くのは縁に依って起きるのである、ということを二頌で以て明らかにするところです。
 五識は縁に随って現じ、意識は常に現起するという。五識は縁に随って、ということですから、起きる時も有り、起きない時も有るということです。しかし意識は常に起きているといわれます。ただし生無想天・無心の二定・睡眠の時は除かれるといいます。ともかく、前五識と第六意識とを分けて現起の分位というものが説かれているわけです。
 「依止根本識」が第七所依門で、六識の所依は根本識に依ることが明らかにされています。
 「五識は縁に随って現じ、或いは倶なり。或いは倶ならず。濤波の水に依が如し」が第八倶転門になります。ここでは、五識が倶であるか、不倶であるかは縁に依ることが明らかにされ、
 意識の方は、生無想天・無心の二定・睡眠と悶絶を除いては常に起こっているを明らかにしています。これが第九起滅門になります。
 明日から、第七所依門について読んでいきたいと思います。
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